この小説の主人公の名前は、漢字だと『田上圭一』と読まれますが、これに読み仮名をつけるのを忘れていたので、もしかしたら、個人によって読み方が違うかもしれません。大変申し訳ございません。読み方は『たのうえけいいち』です。今まで呼んでいた認識と差異があって、少し気持ち悪くなるかもしれませんが、一応、言っておかなければとなりました。。現在は、一話に読み仮名があるはずです。
四、父の家へ
田上は、黒色の生地に蛍光色の黄色で『K』と書かれた帽子を被って、寮の外で待っていた。もう九時になったところだった。一向にタキオンが出てくる気配がないので、田上は少し心配になって、ウマ娘寮のガラス扉を見た。奥の方で数人が動いているのが見える。田上は、そこには入れなかった。ルールがあるからだ。トレーナーはウマ娘寮には入ってはいけない。何のためにあるのかは分からないルールだった。ウマ娘は人間より力が強いのはこの世界の真実だ。だから、もし男性トレーナーが寮に乗り込んだとしても返り討ちにあうのが関の山だろう。…まあ、大方の理由は分かる。保健室でさえ不純なことをする輩がいるのだ。寮なんかに入れたら何をするのか分かったものではないのだろう。だからと言って、絶対に入ったらダメというわけでもなかったのだが、いつもあるルールを目の前にすると田上は怖気づいた。もうタキオンを呼んで出かけなければいけなかったのだが、――どうしようか。田上が、そう考えていると、寮の中から数人の女子生徒が出てきたので、その子達に頼んでみようと考えた。
田上は、地面に置いていた大きめのバッグを片手に持つと、その子たちのそばにより声をかけた。
「ねぇねぇ、君たち」
どう声をかけるかも散々悩んだが、結局、不審者も通行人も紙一重なので、とりあえず言葉をかけた。その言葉は、出会いの言葉としては大したものではなかった。
「はい」と三人のうち一人が答えた。寮からは三人出てきたが、一人は知り合いでもなんでもなかったようだ。二人を置いて、別の場所へと消えた。
「あの…、タキオンを見なかった?」
「タキオン?あのタキオンさん?」
「ああ、アグネスタキオンなんだけど、…今日出かける予定だってこと忘れてないかな?」
田上にそう話しかけられて、その女の子は苦笑いしながら言った。
「私にはちょっと…分かりませんね」
そう言った後もう一人の方を向いて、その子が聞いた。
「みーちゃんは知ってる?」
みーちゃんと呼ばれたもう一人の女の子はこう答えた。
「ああ、私、同室のデジタルちゃんなら知っているけどね。デジタルちゃんだったら、さっきトイレのところですれ違わなかったっけ?」
みーちゃんは、もう片方に聞いたが、その子はまた苦笑した。
「私、その時いなかったから分かんないよ」
「…確か、いたと思うんだけどなぁ、デジタルちゃん。…今もいるんじゃない?呼んでこようか?」
田上は、欲しかった言葉を言ってもらえて嬉しそうにうなずいた。
「そうしてくれると助かるよ!」
田上がそう言うと、今度は二人とも苦笑いして、「じゃ、デジタルちゃんに聞いてみますね」と言って寮の方に戻っていってくれた。田上は、ほっと一息ついた。あんまり人と話すのが得意じゃなくて、怖さもあったが、なんとか押し通ることができた。
しばらくすると、二人が戻ってきて言った。
「デジタルちゃんが起こしてきてくれるそうです。ひゃ~~って変な声上げてましたよ」
二人が笑っていたので、田上も笑ったが、心の中ではあまり笑えていなかった。時間は刻一刻と迫っていた。この時間を逃してしまうと、田舎の方に電車で行くので、本数も段々と減っていって、最悪の場合、一時間待ちだった。田上は、祈った。なるだけ早く来てくれるように。
幸いなことにその五分後には、タキオンが寮からキャリーケースを持って出てきた。顔には、まだ少し眠気が残っていたが、意識はあったようだ。
「ごめんごめん」と言いながら目を擦って、タキオンは田上の前に立った。田上は、慌てながら言った。
「タキオン、もう時間が余裕ないぞ。忘れ物はないな?着替えは持ったか?パジャマも必要だぞ。それに、家にはタキオンが暇を潰せそうなものがないから、本の一冊や二冊持っていくんだぞ。…後何かあったか?」
タキオンは、ちょっとの間、キャリーケースを眺めた後、のんびり言った。
「あ、下着を忘れていたよ」
「早くとってこい!」
噛みつくように田上は言った。
「もう先に行ってるからな。お前のキャリーケース貸して!俺先に行ってるから、走ってこい。駅だぞ!駅!」
「はいはい、分かったよ」とタキオンが言うと、普通にのんびり歩いて寮に向かって言った。田上は、それをじれったく思って、急かすように大声を出したかったが、自分が走った方がいいことを思い出してすぐに走り出した。タキオンのキャリーケースが妙に重くて、大変だった。
田上が、やっとの思いで駅に辿り着くと、そのすぐ後にタキオンが駆け足でニコニコしながらやってきた。手には下着を持っていた。田上は、顔をしかめたが何も言うことはせずタキオンが来るのを待った。タキオンは、「いや~」と言って話始めようとしたが、田上はそれを遮って急かした。
「話は後!電車が出る!」
キャリーケースに下着を入れる間も惜しかったので、田上はタキオンのキャリーケースを持ったまま歩いたが、タキオンの下着が大衆の目にさらされないように、少し自分の体で隠しながら歩いた。
そして、ようやく乗りこめた時、田上は大きくため息をついた。隣では、タキオンがせっせと自分のキャリーケースに自分の下着を詰めていた。人がたくさん見ているような気がしたが、もう田上にはどうすることもできなかった。冬なのに暑いんだか、寒いんだか分からなかった。田上は、窓のそばの長いシートに座ると、一目ははばかりつつも最大限、力を抜けるようぐでっとした。
タキオンはそれを見るとクスクス笑った。そうなると田上も少し怒った。
「お前が遅かったからこうなったんだぞ!」
できるだけ小さな声で大きな怒りを込めて田上はそう言った。すると、タキオンは驚いたように眉を上げた。
「おや!私かい!?…まぁ、私だろう。すまないね、私の目覚ましが動いていなかったんだよ」
田上は、「本当なのかぁ?」と怪しむような目つきでタキオンを見た。
「そんな顔しないでおくれよ。結局辿り着くことはできたんじゃないか。結果良ければ全て良し、だよ。…それにしても、楽しみだねぇ。君のお父さんはどんな人なんだい?」
「…普通の人だよ」
田上は、そう言った後にまた大きなため息をついた。その様子を見ると遂にはタキオンも、申し訳なさそうな顔をした。
「すまないね、君にこんなに走らせて。私は案外余裕かと思っていたんだけど…」
「…そうだな!俺もお前に時間のことを詳細に伝えておくべきだった」
田上は、少し怒ったように言った。そして、その後に最後にもう一度ため息をつくと、ぐでらせた体を椅子に座る体勢に戻し言った。
「はー、疲れた」
そして、その後は、自分の手を見つめて考え事をした。タキオンは、暫くそれを見ていたが、やがて、自分のキャリーケースから本を取り出すとそれを読み耽り始めた。
これには、少し田上も参ったようだ。乗り換え時にタキオンが、本から目を離そうとしないものだから、田上が手を引いて歩かねばならなかった。ただでさえ、タキオンと触れ合うだけでも動悸がするというのに、混んでいる駅のホームではぐれないようにしないといけないのだ。緊張で手から滲み出る汗が気になって仕方がなかった。
電車を二回ほど乗り継いだ頃、タキオンは呼んでいた本に飽きて、田上にしゃべりかけ始めた。向かい合った四人用の座席に一人ずつ座っていた。
「トレーナー君、外を見てごらん」
田上は、考え事もせず自分が前に持っているバッグの紐を眺めていたところだった。タキオンの声に田上は、目覚めたかのように顔を上げ、タキオンの方を見た。タキオンを見ると目が合った。そして、タキオンはふっと微笑み、顎で窓の外を指した。それから、一言言った。
「…田舎だ」
窓の外には枯れた田園が広がっていた。皆、枯草の色をしていてそれ以外の色はなく、遠くの方にぽつりぽつりと赤い屋根の家が見える程度だった。田上にとっては見慣れた景色だった。
――帰ってきたのか。
田上は、遠くの家を見るともなく見ながらそう思った。そして、タキオンの顔を見た。なんだか感慨深かった。ここに来ることはないであろうと思っていた人と、今まさにここにいる。その事実が、今、田上の胸に突き刺さった。
窓際で頬杖をついて外を見ていたタキオンが、ふとこちらを見た。そして、言った。
「何か用かい?」
田上は、小刻みに首を横に振って、そして、言葉を探すように下を見て、それからタキオンの顔を見た。言葉は、数瞬後に出てきた。
「……いや、……やっぱりお前と来ても良かったのかなって」
田上は、そう言うとタキオンはまた微笑んだ。
「そうだろう?なんでそう思ったのかは知らないけど、私もちょうどそう思ったところだ。…田舎って物寂しいところだけど、都会に比べると、……こう、何と言うか、言葉にならない何かがある。都会育ちの私が言うんだ。間違いないよ」
そう言って、再び窓の外を見た。すると、アナウンスが流れてきた。
『次は、竜之憩(りゅうのいこい)~。竜之憩~。お降りになられます方は、お忘れ物のございませんようご注意ください』
まだ、田上はここでは下りない。後いくらかの数を数えたところが、田上たちの終点だ。そして、始まりの地だ。消えることのない電光掲示板が次の駅を告げる。もう後三十分ほどすれば、到着するだろう。田上の胸は、期待とも不安ともつかない胸の高鳴りに苛まれ始めた。それを微かに触れるタキオンの脚が邪魔をした。田上が、タキオンを見ると、タキオンはやっぱり微笑んで、それから足を引っ込めた。
胸の高鳴りは、期待の方が優勢かもしれない。タキオンの顔を見て、そう思った。けれど、田上は何も話さない。タキオンの顔を見つめ続ける悠久ともいえる時間を過ごした。タキオンもまた、田上の瞳を見つめ続けた。小さな黒い目が、自分に注がれているそのこそばゆさを胸の奥に感じながら。
暫く電車の規則的な波に揺られていると、やがて、アナウンスが鳴り、そして、止まった。ここは、『竜之終(りゅうのお)』という町だった。名前の由来としては、元々ここら辺には竜伝説があり、各地を漂った竜が最後の地をここに選んだというので、ここが『竜之終』と呼ばれることとなった。
その地にタキオンと田上は、降り立った。
「これからどこに行くんだい?」
タキオンがそう聞いた。
「家だよ」
「どの道を通って?」
タキオンは、ホームから見える駅舎の奥の方を見た。竜之憩の駅よりかは賑やかな駅だった。およそ、まだ人の住んでいる田舎の町だ。車通りも少なくはなかった。
「ここから左の方に行って、いくつか信号を渡る。そして、……二十分三十分歩けば、ボロアパートがあるからそこの二階だな。道は詳しく教えるつもりはない」
田上が、そう言うと、タキオンが苦笑して「ありがとう」と言った。そして、その後に前の方を向くと「三十分か…」と呟いた。
「私だったら十五分で着くけどね」
タキオンが、田上に向かってそう言った。
「じゃあ、先に行ってみな。俺の方が早く着く」
タキオンは、ハハハと笑った。
「そりゃあ、そうだろう。君しか道を知らないんだから君に合わせるしかないんだよ。ただ、私は人に歩くペースを合わせるのが苦手だからね。普通に歩くより余計に体力を使う」
「じゃあ、普通に歩いていいから、気がついたら立ち止まって待てば?」
「うーん…、まあ、別に君の隣に居続けることができないわけじゃないから、君の隣にいることにするよ。あんまり、こうごちゃごちゃするのも面倒くさい。…さぁ行こう!私はお腹が減ったよ」
そう言うと、タキオンは歩き出した。切符は、回収していた駅のおじさんに渡した。六十,七十くらいのおじさんは、お爺さんとも言えるかもしれないが、顔にはまだまだ生気が残っていた。その顔をニコニコさせてタキオンたちを見ていた。
タキオンに続いて、田上がおじさんに切符を渡したとき、おじさんが話しかけてきた。
「どちらへ行かれるんですか?」
人の良さそうな感じのいいお爺さんらしい声だった。田上は、急に話しかけられて驚いたが、おじさんのニコニコした顔を見ると思わず話し出した。
「うちの教え子と帰省しに来たんですよ」
「教え子…?」
おじさんの顔が、怪訝そうに田上を睨んだので、慌てて言葉を続けた。
「ちゃんとした帰省ですよ。あの子がついてきたいって言うもんだから」
ちょうどそこでタキオンが、通路の角から顔を出してきたので助かった。
「トレーナー君!何しているんだい?早く行くよ」
そのタキオンの様子を見ると、おじさんも納得したようだ。
「お気をつけて」とにっこり笑って言うと、田上を見送った。
田上は、タキオンの所に駆け寄り、それからおじさんから十分離れたことを確認して言った。
「そういえばさ、お前は、ちゃんと両親に許可を取ったのか?」
これは、おじさんの訝しんだ顔を見た時に思い出したことだった。タキオンは、不思議そうに聞き返した。
「両親に?」
「そうだよ。さすがに、お前のお父さんとお母さんに何も言わないで連れていくってことはできないだろ?」
こうは言ったものの、タキオンの最初の反応で田上は不安になっていた。そして、その不安は的中した。
「両親に…何も言っていないね」
さすがにタキオンもまずいと思ったのか、その後にこう続けた。
「まあ、あの人たちがダメと言うことはないと思うけど、一応、念のため電話をしておくよ。そっちの方が誤解なんかも少なくて済むだろうしね」
そう言うと、タキオンは「トイレにも行きたいからベンチに座って待っておいてくれ」と言った。田上もトイレに行きたかったのでそれは断った。
しばらくすると、田上がトイレから出てきた後にタキオンもトイレから出てきて、そして、電話をかけるのが始まった。どうやら、スマホはキャリーケースの奥の方にしまっていたらしく、ベンチに座ると屈みこんで中をごそごそ漁り始めた。そして、スマホを見つけるとまた席を立った。どうやら、電話の内容は聞かれたくないらしい。田上から、四、五メートル程距離を取った場所で、話し始めた。
田上は、ベンチに座っていると影になっていて寒かったので、日の光の当たる場所へ出た。そのことに警戒したのか、遠くの方でタキオンが一歩後ずさったのが見えて、苦笑した。ただ、会話の内容が完全に分からなくとも、タキオンとその父か母は、軽口を叩き合っているようだった。タキオンの方をチラと見ると、ムッとしたり、鼻で笑ったりしているのが見えた。
田上には聞こえなかったが、タキオンとその電話に出ていた母親はこんな話をしていた。
まず初めに、タキオンの「もしもし」という言葉から始まる。
「もしもし、母さん?」
『はーい、母です。何か用ですか?年末?帰ってくるの?』
よく口の回る母だった。
「いや、年末はね。トレーナー君と一緒に居ようと思って」
その途端に母の声の高さが一段上がった。
『トレーナー君!?あの、田上さん?』
「ああ、トレーナー君が実家に帰るって言うから、私もついて行こうと思って」
すると、またもう一つ母の声の高さが上がった。
『実家!?…飲み込めない。どういうこと?挨拶?』
「挨拶?」
タキオンはオウム返しにそう聞いた。
『挨拶じゃないの?……えっと…、付き合ってる?』
そこでタキオンは、ああと納得した。
「そんなもんじゃないよ。ちょっとトレーナー君の家に遊びに行くだけさ」
そうなると、電話の向こうから「えー」という、怪しむような驚いたような声が聞こえた。
「うるさいな」
タキオンが面倒くさそうに言った。すると、母は「ごめんごめん」と言って後を続けた。
『で、何日ぐらい、どこにいるの?』
「えっと…、今日から一月五日までだから…、八日かな?大内県の竜之終って言うところにいるよ」
『へー、私も行っていい?』
「やめてくれ」
『…えっと、じゃあ…、今日からってことは、もう今から出発するところ?』
「もう着いた。駅の前でトレーナー君といる」
『えっ、横にいらっしゃるの?』
「いないよ」
そう言うと、母は喜んで言った。
『じゃあさ、言ってみるけどさ。タキオンも田上さんと付き合ってみたらどう?』
「嫌だね」
タキオンは、つっけんどんに言った。
「そんなこと言うんだったら、もう電話切るけど」
『ああ!待って待って!…最近調子はどう?次のレースは?』
「一度に何個も質問をしないでくれ」
『じゃあ、調子はどう?研究とか上手くいってる?』
「もちろんさ。上々だね、研究も調子も」
『それは良かった。私、泣いちゃったもんね。あの京都三千メートルを一着で走り切ったとき』
「それは何回も聞いたよ。…それで、父さんとかはどうなんだい?元気にしているかい?」
『上々だよ。トレーナー業は、私と走り切ったと同時に疲れ切ってやめちゃったけど、ウマ娘関係の仕事はやってて楽しいってね。最近は、タキオンのグッズの売れ行きが上がってきて嬉しいってさ』
「それは良かった」
そう言って、タキオンはニコニコ笑った。
『それと…、犬を飼い始めたよ』
「犬?どうしてまた、急に…?」
『桜花が飼いたい飼いたい言ってたからさ。世話ちゃんとするの?って聞いたら、するって言って、…で知り合いからちょうど犬を引き取ってほしいって話があったから、飼ったんだよ』
タキオンは、「へー」と頷いた。桜花というのはタキオンの妹である。それはそれは可愛い奴でタキオンは、家に帰るたびにその子を溺愛していた。
桜花は、ウマ娘ではない。タキオンと年が十も離れたウマ耳のないの女の子だ。六月十二日生まれである。生まれたのは、タキオンが小4の時で、タキオンは今でもその時の様子をありありと思い浮かべられる。母が苦痛に顔を歪めて叫んでいた。小学四年生だったタキオンは、現場の有様に絶句した。父親が、母親を応援している声が聞こえたが、タキオンは何も言えなかった。ただただ目の前で起こっている壮絶な戦いに畏怖の念をもって見つめていただけだった。自分のちっぽけさが身に染みた。父親も母親も自分には目もくれず、ひたすら戦っているのだから、自分は蚊帳の外の様な気がして、自分の存在がとても頼りなかった。けれども、当然の如くその場では、頼るものなどない。ただただ、両親二人が戦っている姿を後ろから眺めていた。
「桜花は、確か小学生だったかな?」
タキオンは、自分の頭に浮かんできたあの日の光景を、薄く引き延ばして見えなくするように母に言った。
『もう小学一年生だね。…時間って言うのは、止まることを知らないよ。だって、桜花がこの前生まれて、タキオンもこの前生まれたのに、もう小学生。そして、皐月賞、菊花賞ウマ娘。しかも、自分の足の脆さを自分で克服して、勝つんだもん。泣くよ』
タキオンは、鼻をフンと鳴らした。それから、言った。
「桜花はもう冬休みに入っているのかい?」
『ああ、いるよ。呼ぼうか?電話する?』
「…しよう」
それから、少しの間、暇ができたのでスマホを顔から離すと、タキオンは田上の方に向かって言った。
「すまない、もう少しだけかかるよ」
遠くで腕を振って体操をしている田上から、「あーい」という適当な返事が返ってきた。そして、スマホを耳に着けるとちょうど桜花が出てきたところだった。
『もしもし~、お姉ちゃん~。今年は帰ってくるの~?』
タキオンは、桜花の声を聴いてフフフと笑った。
「いや、今年は帰ってこないんだ」
タキオンがそう言うと、電話の向こうから「えー」と聞こえてきた。
『帰ってこないの~?つまんないよ~。お年玉もらえないよ~?』
「お年玉は…なくてもいいかな。…調子はどうだい?順調かい?」
『まあまあ。お姉ちゃんが帰ってきたら、もっと良くなるんだけどな~』
「だから、帰ってこれないと言っているじゃないか」
タキオンが困ったように言うと、また、電話の向こうで「えー」と言うのが聞こえた。
『やだやだ。帰ってきてよ~。お姉ちゃんの薬でお父さん光らせてよ~』
すると、電話の遠くの方で母が「あんまりお姉ちゃんを困らすんじゃないよ」と言っているのが聞こえた。
『ケチ!』
母かタキオンかどちらに言ったのかわからかったが、タキオンはとりあえず謝った。
「すまないね。……次のレースは大阪杯だから、四月頃にまた会えると思うよ。見に来てくれるかい?」
「行く!」と電話の向こうから聞こえてきた。その後で、母親に言ったのだろう。大きな声で「次のレース大阪杯だって~」と叫ぶのが聞こえた。電話の向こうの向こうで母が「は~い」と返した。
「それじゃあ、私はもう行かないといけないからお母さんに代わってくれ」
『…誰かを待たせてるの?』
桜花はまだ話が続けたいようで、そう聞いてきた。
「ああ、トレーナー君をね。ちょっと一緒に出かけてるんだ」
すると、電話の向こうから母によく似た桜花の甲高い声が聞こえた。
『あ、それデートって言うんでしょ。お姉ちゃん、トレーナーさんとデートしてるんだ~』
タキオンは、ニヤリと笑った。
「おや、ドラマか何かでも見たのかな?」
『ううん、違うよ。友達が言ってたの。大人は水族館でデートするって。そしたら、私が、デートって何?って聞いたら、その子が、両想いっていう好きな人と好きな人が一緒にお出かけをすることだよって言ってた。お姉ちゃん今デートしてるの?』
タキオンは、桜花を少しからかうつもりで「ああ、そうだよ」と言った。すると、桜花が母の方に向かって「お姉ちゃんが今トレーナーとデートしてるって~」と叫んだから焦った。慌てて、「冗談だよ冗談!」と繰り返した。
『なんだ~、冗談か~』
電話の向こうで桜花がそう言うのが聞こえた。
『でも、あのトレーナーさんとお姉ちゃんが結婚したら、お兄ちゃんになるんでしょ。私、お兄ちゃん欲しい~』
「おや、結婚すれば兄になるということまで知っているのかい?また、友達が教えてくれたのかい?」
「うん」というのが聞こえた。そして、「これは別の友達が言っていたやつだけどね」と言った。
『結婚するときに、大好きって誓いのキスをするんでしょ?その時に赤ちゃんが生まれるって聞いたよ。私、赤ちゃん育ててみたい』
桜花がそう言うと、タキオンがハハハと笑った。
「おやぁ?最近の小学一年生は、教育が進んでいるのかな?そんなことまで知っているなんて驚きだ。…しかし、残念ながら私とトレーナー君はそんな仲じゃないんだ。…もう話は終わっただろう?お母さんに代わってくれ」
今度は、素直に頷いた。そして、最後にこう言った。
『お姉ちゃん、トレーナーさんとのデート頑張ってね』
声に微かな笑いが混じっていたので、からかい目的だということがタキオンにははっきり分かった。「この…」と何か軽く怒る言葉を言おうとしたが、その頃にはもう電話は母に渡されていた。
『どうだった?』
母がそう聞いてきた。だから、タキオンは正直に言った。
「順調に生意気だね」
母が笑う声が聞こえた。それから、話を変えてきた。
『次のレースは大阪杯だって?』
「ああ、そのつもりだ」
『それより前には帰ってこないつもり?』
「おそらく」
『…分かった。大阪杯楽しみにしてるね。足の方も異変はない?』
「絶好調さ」
『うん、良かった。…じゃあ、田上さんに迷惑はかけないでね。ゆっくり過ごしてらっしゃい。田上さんのご両親にもしっかりとお礼を言うのよ』
「オッケー。そこらへんの礼儀は弁えてるよ」
『じゃあ…、もう何も言うことはないわね。行ってらっしゃい』
「行ってきます」
タキオンが、最後にそう言うと、電話は切れた。その後に、味気ない無機質なスマホの画面を見た。『母さん』という文字が、画面の中に映し出されている。タキオンは、それをしばらく眺めていたが、やがて、ため息とも深呼吸ともつかない息を吐き出すと、スマホの画面を消した。そして、自身のトレーナーの方に駆け寄っていった。
田上は、一人で体を温めようと体操なんかをして待っていた。特に手と足が冷たかったから、入念に体操をした。それでも、タキオンは戻ってこなかったから、何をしようかと考えていた矢先、タキオンが「すまない」と言って戻ってきた。
「いや~、案外長くかかってしまったよ。待たせてすまないね」
そう言うと、タキオンはベンチに置いてあった荷物の方に行って、自分のキャリーケースを掴んだので、田上もベンチの方に歩いた。そして、自分の大きめのバッグを背負った。
バッグを背中に負うと、田上は聞いた。
「随分と話が弾んでたみたいだけど、お母さんと話をしてたのか?」
「ああ、私の母と妹だね。…あの人たちは、ごちゃごちゃとうるさいよ。……まぁ、話せてよかったとは思っているがね」
そう言うと、タキオンは田上を少し見た後歩き出した。
「ああ!思ったよりも時間を食ってしまった。時間なんて食ったって何の腹の足しにもならないのに。…さぁ、早く行こう、トレーナー君。お昼が私たちを待っている」
田上は、タキオンの後ろを黙って歩き出した。さっきまで温めていた手足は、冬の寒さに負けて凍るようになっていた。
雲が出てきて、太陽を覆った。すると、尚のこと寒さが身に染みた。少し前を歩いていたタキオンが、田上の遅れがちな足に気が付いて、心配そうに隣に並んだ。
「調子でも悪いのかい?」
タキオンはそう聞いたが、田上は言葉を発することはせず、横に首を振っただけだった。
長い間二人は黙って歩いた。途中から、太陽を覆っていた雲は雪雲となった。細かい雪がぽつぽつと降ってきた。
「雪だ…」
タキオンは、そう呟いたが、田上は顔を一度上げたばかりであとは何も言わなかった。今になって、緊張がぶり返してきた。昨日、「もう後には戻れない」と啖呵を切ったはいいが、できる事ならその日に戻りたい気持ちの悪さがあった。
田上が、うつむいていると、隣にいたタキオンと手が触れあった。冬に強いウマ娘の暖かい手が田上に触れた。すると、その手が田上の手を握ってきたから、田上は驚いてタキオンの方を見た。タキオンもまた田上を見ていた。
「なんだい?」
タキオンが聞いた。田上は、言葉のないままタキオンの顔を見つめた。その前髪にほろりと雪が舞い降りた。そして、消えた。まだ、言葉は出なかった。そうなると、タキオンもやがては顔を背けて前の方を見つめた。田上もタキオンの方ばかり見ていられなかった。前を見て歩かねば、街路樹に当たってしまう。しかし、握られた手を振り払うことはしなかった。
その代わりに、慎重に確かめるようにゆっくりと、タキオンの手を握り返した。隣でタキオンが、ふっと笑うのが聞こえた。田上は、突然、何かを言ってみようかと思ったが、その言葉は中々でなかった。そして、古びたアパートが見えた時、ようやく二人は手を放し、田上はタキオンにこう言うことができた。
「ありがとう」
そして、数瞬後、再び言った。
「暖かかった」
田上が、そう言うと、タキオンは困ったように笑って言った。
「こちらこそ」
アパートの父の部屋の前には人影が見えた。うずくまって寝ているようだった。身動き一つ取らなかった。そこに田上たちは、慎重に近づいて行った。