トレーナー室に着くと、田上は待っていたリリックと契約云々の話を始めた。リリックは、それを半分理解して、半分混乱しながらも聞いた。だから、田上は分かるまで優しく何回も何回も繰り返し説明したが、その事はタキオンには関係もないし興味もない事だったので、田上たちが話している間に暇ができた。なので、折角ならその暇を利用してやろうと、タキオンは明日行く海のことを調べ始めた。なるだけ人気のないところが良かった。人気があると、田上も嫌うだろうし、なにより二人で遊びに行く海としては雰囲気がない。タキオンとしても人気のない方が良かったが、それは決して人混みがなんちゃらという話ではなく、自分の恋人と一緒に人気のない海を眺めたかったからだ。特に、朝日を眺めたかった。誰にも邪魔されずに、二人で朝日を静かに眺める。それがタキオンの理想の姿だった。
――案外、自分はロマンチストかもしれない。
タキオンは、そう思ったが、そう思ったところでこの事が楽しみで楽しみで仕方がないから、ふんふんと鼻歌を歌いながら、どこに行こうか調べていた。それを調べるのに使っているのは、トレーナー室に置いてある田上のパソコンだ。タキオンは、田上の机に座りながら、海の事を調べていた。別に、スマホでも良かったのだが、田上の机に座ったからにはそのパソコンを使いたかった。そうすると、田上が、嫌そうだが断れもしない妙な顔でこちらを見るので、それが面白かった。それであれば、田上の机に座らなければいいという話になるが、ソファーの方は、田上とリリックが話すために使っている。だから、タキオンは仕方なしにこちらへ追い込まれたというわけだ。
そのうちに、マテリアルがやって来た。マテリアルが来ると、部屋の中にいる人たちはそれぞれ挨拶を交わした。その後に、マテリアルが座る場所を探したのだが、田上のソファーの横かリリックのソファーの横しかない。これは、大変手狭になってきた頃だが、今すぐ部屋を変えられるというわけではない。それなので、マテリアルは、田上をソファーの横に詰めさせて、その隣に入り込んだ。これには、少しタキオンも気になった。自分の恋人のすぐ隣に飛び切りの美人が座っているのだ。いくら田上がそれに動じないと言っても、タキオンの心に少し嫉妬心が湧かないわけにはいかなかった。だから、それとなくパソコンを眺めながらチラチラとマテリアルの方を見ると、すぐにニヤニヤしているマテリアルと目が合った。田上は、未だにリリックと真剣に話をしているので、タキオンの視線に気が付いているのはマテリアルだけだ。そのマテリアルと目が合うと、タキオンもチラチラと視線を送る事を止めて、正面から堂々とその目を見やった。恋人の隣に座っている女に文句をつける目付きだ。しかし、マテリアルと言えば、少しだけニヤニヤ笑いを引っ込めたのみで依然としてあまり変わることのないニヤニヤ笑いをタキオンに向けてきた。少しだけニヤニヤ笑いを引っ込めたのが、逆に鬱陶しいくらいだ。そんなわけで、タキオンの方も変わらずにマテリアルを睨みつけていると、あちらの方が口をぱくぱくさせてタキオンに何か伝えようとしてきた。しかし、生憎の事、タキオンは読唇術を心得ていなかったので何も分からないかったし、例え読唇術を心得ていたとしても分かりたいとは思わなかっただろう。あのニヤニヤ笑いから察するに、どうせ大したことではないだろう。そう思うと、タキオンもマテリアルを睨みつけるのがバカらしくなって、調べている海の方に目をやった。大方の目星はついた頃だった。少し遠くはなるし、朝早くに起きなければいけなくもなるが、タキオンの理想の場所だった。多少田舎で、人も少ないし、夏でもないのでさらに人が少ない。そして、それに加えて平日の朝でもあるのでもっと人は少なくなるだろう。ここで、一つ問題なのが朝の電車の混雑だったが、田上が居るならそのくらいの苦痛などすぐに楽に変わるだろう。タキオンは、パソコンを見つめて口角を上げた。そうすると、左から肩を叩かれた。何だと思って見てみたら、マテリアルだったのでしかめっ面をした。その顔を見て、マテリアルはクスクス笑いながら言った。
「今の顔、田上トレーナーにそっくりでした」
その後に、マテリアルは田上の方を見たのだが、田上も自分の名前が呼ばれたと思ってタキオンたちの方を見てきた。マテリアルがクスクス笑っているので、バカにされていると思ったのか少々しかめっ面だ。その顔を見ると、マテリアルはさらにクスクス笑って、今度は「ほら」と田上の顔に指を差してきたので、田上ももっと怪訝な顔をすると、マテリアルも「何にもないですよ」と言って、田上を自分のすべき事へと戻らせた。田上は、リリックとまた会話を始めたが、マテリアルとタキオンの会話が気になってあんまり集中はできなかった。だから、時々言葉がひっちゃかめっちゃかになってリリックに「え?」と聞き返される始末になった。
マテリアルは、田上をリリックとの会話に戻らせると、ニヤニヤ笑いを止めてパソコンに向かっているタキオンに向かって声を落として聞いた。
「私の事を睨んできてましたけど、何か用ですか?」
「ん?別に何の用もないけど」
タキオンは、パソコンから軽く顔を背けてそう言った。すると、マテリアルは「そうですか」と返したのだが、その後すぐにこう聞いた。
「田上トレーナーと話すことはできましたか?決着は?」
そう聞かれると、タキオンも答えづらそうにしたが、これを隠す程マテリアルとの仲が悪いわけでもないので結局は言った。
「決着は…ついたよ。圭一君と私は仲良しって事で」
これでは、言葉を躊躇いすぎて意味が分からなくなっていた。仲良しという言葉では、友達で決着がついたのか、はたまた、恋人で決着がついたのか全く分からない。当然、マテリアルは、次の質問をした。
「仲良しっていうのは…、そのぉ…、付き合うって事ですか?」
「まぁ、そうだね」
タキオンがそう言うと、すぐさまマテリアルは顔を輝かせて言った。
「じゃあ、いいじゃないですか!なんでそんなに言いにくそうにするんですか!田上トレーナー、度胸見せましたね。タキオンさんと付き合うって、中々できない事ですよ」
マテリアルが田上に呼び掛けると、田上は「ははは…」と愛想笑いをそれに返した。あまりに嫌そうだったことは見え透いていたが、リリックの方はそんなことよりも好奇心の方が勝って田上に言った。
「え!田上トレーナー、タキオンさんと付き合うんですか!」
そして、リリックは、タキオンと田上を交互に見た。田上は、妙な顔つきをしながら頷き、タキオンは、ゆっくりと確信を持って頷いていたので、話しやすそうなタキオンにリリックは言った。
「じゃあ、タキオンさんの恋は実ったんですね?」
またも、タキオンは頷いたが、その後に言った。
「口を慎みたまえ。人の恋にあんまり首を突っ込むんじゃないよ。圭一君だって、そんな事は嫌がるはずだ。…ねぇ?」
最後の問いは、田上に呼び掛けたものだったが、田上が頷くか何か反応を示す前に興奮して目をキラキラさせたリリックが言った。
「圭一君ですか!確か、大阪杯に行く前はトレーナー君って呼んでましたよね!大阪杯で何があったんですか?」
今度のタキオンは、少し眉を寄せて頷いてから答えた。
「そりゃあ、付き合ってるんだから名前で呼ぶのは当然だろ」
そこで、田上の方を見ると居心地が悪そうに固く唇を結んでいるのが分かった。だから、その後にタキオンは田上を庇うつもりでこう言った。
「もう、私に色々聞くのはやめろよ。圭一君もデリケートなんだから私の事が嫌いになってしまうかもしれない」
これを聞いた田上は、自尊心を傷つけられた心地がして、なんだか嫌な気持ちになった。だからと言って、自分を庇ってくれた相手に反論することもできないので、心の中のもやもやを抱えたままで黙っていると、タキオンが言ってきた。
「君も根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だろ?」
「嫌だよ」
案外、自分の声がはっきりしていて安心した。自分の動揺が声に現れ出るものかと思ったが、そうでもなかったようだ。ただ、そうすると、何を思ったのかタキオンが独り言のように話しながら田上に言った。
「君の隣に座って明日の事を調べようかな?」
それはもう決定事項のようだった。タキオンが、言葉を発している時には、もうパソコンの電源を消す準備をしていて、それが終わると田上の反応も待たずに立ち上がった。そして、田上の座っているソファーの前まで来た時、初めて不満そうな田上の顔を見た。その顔を見ると、タキオンは「いいだろ?」と軽く首を傾げて聞いた。田上も断る事はしないで、タキオンの問いに頷いた。それから、またリリックの話に戻った。リリックは、好奇の視線をタキオンに向けていたが、しっかりと聞くべきところは聞いて田上と会話をした。タキオンが田上の横に座ると、マテリアルはリリックの横に座った。大して広いわけでもないソファー二つに総じて四人が座っている。この上に、田上はあともう二人スカウトをする予定なのだから、これでは狭苦しいにも程があるだろう。今でさえ、田上とマテリアルとリリックは狭苦しそうにしている。(田上のはタキオンに触れたくない一心でソファーに縮こまっているせいもあるだろう。)しかし、タキオンはそんな事はお構いなしに田上に寄り添ってくるので、大変面倒だった。いくらタキオンの事を好きと言っても、公衆の面前で二人は恋人ですよ、という事はしたくなかった。特に、見知った人が近くにいるのなら猶更だ。タキオンもリリックとマテリアルの手前、田上の手で遊ぶなどの行為を控えはしたのだが、それでも田上にとっては配慮が足りなかったようだ。
そして、話が終わるという段になった。リリックが、時を見計らって話し出そうとしている所である。田上は、そんなところだろうと思って内心嫌な気持ちでいたのだが、話が終わってリリックが話し出すという前に、タキオンがスマホを田上にかざして言った。
「明日、ここに行きたいのだけれど、どう思う?」
田上は、一瞬だけタキオンに救われた心地になったのだが、察しの良いリリックは田上を救ってはくれなかったようだ。田上が、タキオンに「どう?ん~、…いいんじゃない?」と言い終わるのを待って、こう聞いた。
「明日、どこかに行くんですか?映画館?二人で行くんですか?私もついて行っていいですか?」
矢継ぎ早に聞くものだから田上も困ったが、初めから答えるつもりはなかったので隣に居るタキオンの方を向いた。それで、田上と目が合うと、タキオンも――私が返答をするのかい?という面倒臭そうな目つきをしたのだが、リリックに向き直って言った。
「君は絶対に連れてはいかないよ。二人で行くんだから」
「じゃあ、デートですね?」
リリックは目をキラキラさせていて、それと反対に、タキオンは眉を寄せてリリックを見ている。そして、タキオンが言った。
「デートにはデートだが、これは君の見せ物じゃないよ。私たちは、デートに行くといったら勝手に行くし、行かないといったら勝手に行かないんだ。一々、君に言うつもりはないんだから、君も色々言うのはよせ。面倒臭い事この上ない」
「でも、勝手に出かけるのはダメですよ。何してるのか気になるじゃないですか」
「じゃあ、気にするのをやめたまえ。私たち二人が居なくなる時は、大抵デートの時だと思えばいいし、何かあるのならその時に電話を掛ければいい。出るとは限らないが」
そう言うと、タキオンはまたスマホを田上に見せて言った。
「ここに、明日の早朝に行きたいんだ。できればで良いんだけど、どうだい?」
「早朝?何時から?」
「明日の六時十数分の電車に乗って、一時間四十分くらいすれば向こうに着く」
「六時?…朝は鍵が開いてないだろ?」
「鍵くらい内側からなら自分でも開けれるから無いのと一緒だし、フジ君に聞けば簡単に許してくれると思うよ?それに、外出届も出すんだから大丈夫な事は大丈夫だろう?」
タキオンにそう言われて、田上は少しう~んと悩んだが、その時にまたリリックが口を挟んできた。
「どこに行くんですか?」
それに、タキオンは迷惑そうに眉を寄せたが、言った方が簡単なので「海」と簡潔に答えた。しかし、例え『海』一つだけでも話は広がるもので、タキオンの思った通りにはいかず、リリックがまた聞いた。
「どこの海ですか?」
「小山の海だよ」
ここまで話して、その次を断ち切るのは面倒臭いので、タキオンはもうリリックの相手をすることにした。
当然、リリックは話を続けて聞いてきた。
「小山の海?…どこですか?」
「神奈川の方にあるビーチだよ。人が少ないらしいからそこにした」
「へ~、そこに行って何するんですか?」
「散歩とかそこらへんだよ。私が行きたいから圭一君についてきてもらうんだ」
そこで、リリックの標的がタキオンから田上に移った。
「田上トレーナーは、人と付き合った事はあるんですか?」
唐突な上に不躾な質問だったから、田上はムッとした顔になって言った。
「なんで、自分の恋愛事情をわざわざ人に教えないといけないんだ」
「えー、気になりますよ。タキオンさんも気になりますよね?」
「ええ?私かい?…気にならないことはないが、君、キスも初めてだと言っていたし、以前に…」
ここで、タキオンの油断が出た。リリックは、その油断を見逃さずに慌ててこう聞いた。
「え!?待って、タキオンさん。キスもしたんですか?田上トレーナーと?」
ここまでで一番面倒臭そうな状況になった。これは、タキオンにも照れが残る。年下に自分の恋愛事情、ましてや接吻事情など明かす必要もないのだ。それでも、自分の口から溢してしまった以上は自分に責任がある。タキオンは、大人しく観念して言った。
「したよ」
「ええ!?三日?四日ですよね?その間にどれだけ事が進展したんですか?田上トレーナーもタキオンさんとキスをする程の度胸があるとは思いませんでした!」
それに、田上は顔をしかめて、タキオンは言い返した。
「圭一君も苦心して私とキスをしてくれたんだよ。軽々しく口を挟まないでくれ」
「すいません」とリリックは謝ったが、その口調に反省の色はなく、その両の眼に好奇と感心を宿らせて、じっくりと田上を見ていた。
その後のリリックは、田上にもタキオンにも質問することはなく自由に話をさせてくれたが、自分は自分でマテリアルと一緒にタキオンと田上の話をしていて、タキオンたちは話しづらくて仕様がなかった。それで、注意をしてみても、少しの間ヒソヒソ声で話すばかりで一度注意をされたことを忘れて話してしまうと、あとはもう遠慮会釈なくタキオンたちの事を話し合った。「タキオンさんずっと田上トレーナーの事が好きでしたからね」「タキオンさんが大阪杯に行く前に私に言ったんですよ」
田上とタキオンが、付き合う付き合わないで揉めていたときに、田上を非難していたマテリアルまでもがそう言うのだから堪らなかった。しかも、話の内容は主にタキオンがどういう風に田上を思っているのか、または、思っていたのか、であったためタキオンはもっとやりきれなかった。その話を聞いて、顔を赤くさせているタキオンを見ると、田上もできるだけその話は聞かないように意識の外へ追いやっておいた。
そうしながら、タキオンと田上の話は続いて、最終的には当初のタキオンの予定通り早朝に出掛けることとなった。特に、朝の門限というのはあってないようなものだったので、そこで落ち着いた。そうすると、話すこともないけれど、特に話したくない訳じゃない、話題を探す妙な時間になった。時計の針は、三時四十五分を指していた。今後の予定も特にない。話すことも特にない。となると、田上の頭には『帰る』という選択肢が出てき始めた。ただ、帰るには、女三人が行く手を阻んでいそうだった。タキオンは勿論にして、リリックもマテリアルも田上が帰るとなったらなんじゃかんじゃと文句をつけてきそうだった。タキオンは、今は田上の横でマテリアルとリリックの話をぼんやりとしながら聞いている。何を考えているのかは分からない。それでも、タキオンはしっかりと田上に寄り添って過ごしているので、田上が少しでももぞもぞとしだしたらすぐに気が付くだろう。だからと言っても、田上はここに居ては相当暇だ。リリックとマテリアルは、もうタキオンたちの話はしておらず、別の話題で持ちきりだった。ドラマか何かの話だろう。田上には、全く興味がない。寮の自分の部屋に戻って、ゲームでも何でもして過ごしたい気分だった。少なくとも、ここに居るのは嫌だった。だから、暫く様子を見て、良い頃合いになると田上は言った。
「リリーさんもこれで晴れて俺が担当することになるので、…上手くやっていこうね」
「はい」とリリックは言って、田上に軽く頭を下げたから田上も下げ返した。そして、そのまま必要な書類を持ってソファーを立とうとしたら、案の定、まずタキオンがその動きに気がついて言ってきた。
「どこに行くんだい?」
「ん?…事務室にこれを出して、寮の部屋に帰る」
すると、それを聞いたマテリアルが口を挟んできた。
「ええ!もう帰るんですか?もっと話しましょうよ」
「今まで俺に話しかける素振りもなかっただろ」と田上が突っ込むと、今度はリリックが言った。
「じゃあ、質問があります」
「なんだ?」
田上は、少し睨みながらつっけんどんに聞いた。
「えっと、…初めてのキスってどうでした?」
リリックは、不味い質問をしていると自覚しながらもその質問をやめられず、タキオンを横目でチラチラ見ながら田上にそう聞いた。当然、田上もタキオンも同じようなしかめっ面をしてリリックを睨んだ。それでも、リリックも負けじと田上の目を見つめ返していると、田上ははぁとため息を吐いて言った。
「二十五歳のファーストキスの事を聞いてもしょうがないだろ。…そんなに幸せな物でもないし…。じゃあ、俺は行くので、さようなら」
そう言うと、田上はソファーを立ってトレーナー室からスタスタと歩いて行った。引き止める間もなかったので、慌ててその後をタキオンは「待ってくれ」と追いかけていった。
残されたリリックとマテリアルは、どうしようかと思って顔を見合わせたが、どうにも話すような雰囲気ではなかったので、マテリアルが「じゃあ、私たちも帰りましょうか」と提案するとリリックはそれを承った。その提案の後にマテリアルは、「トレーニングでも良いですよ?」ともう一つ提案していたのだが、それについてはリリックは承らなかった。
そうして、トレーナー室には誰も居なくなった。
タキオンと田上は、事務室に向かって廊下を歩いていた。当たり前のことではあるが、無事タキオンは田上に追い付くことができたようだ。田上は、ドアを開ければすぐそこにしたし、なんならタキオンの呼び掛けに反応して後ろを振り返えって少し待っていた。そのお陰もあってか、タキオンは走って追いかけず済んだ。
後ろに追いつくと田上と手を繋ごうとしながらタキオンが言った。
「中々、君と二人で話せるような機会がないね」
田上は、自分の手に纏わりついてくるタキオンの手を振り払いながら、その顔をじろりと見つめた。すると、またタキオンが言った。
「私とのキスは幸せじゃなかったのかい?」
「…幸せなわけはないだろ。何にも分かってないんだ。何にも認めてないんだ。それで、あんまり良く分からない子供とキスをして幸せで居れるんだったら、余っ程幸せな頭をしてるよ」
田上の捻くれた物言いにタキオンはふふふと笑って言った。
「君は私の事は分からないのかい?」
「分からん」
「私は君の事をもっと知りたいよ。どんなゲームが好きなのか、とか、どんな風に私を愛してくれるのか、とか、私とのこれからはどういう未来を描いているのか、とか。……私、大阪杯に行く前に夢の話をしただろ?覚えてるかい?」
田上は、ぱっと頭の中にタキオンが言った、思い描く夢の話を思い出した。結婚して、子供たちに囲まれて死にたいと言っていた。この『結婚』というのが田上の言葉を躊躇わさせた。タキオンが一月頃には田上の事を好きだった、という事を田上は覚えていたから、確実にその時にはすでに田上と結婚することを夢見ていたという事だろう。その事が、田上の頭の中では処理ができなかった。田上も頭の中で理解はしていた事だが、それでも心のどこかでは、タキオンが自分の事を好きだという事が信じられなかったのかもしれない。それが、今思いがけないところで、タキオンによって想いを伝えられていたという所だから、田上の頭の理解の範疇を越えた。それだから、田上は少し考え込むような間を取った後、「覚えてない」と答えた。タキオンは、またもふふふと笑って言った。
「まぁ、覚えてなくてもいいけどね。君と結婚して、子供に囲まれて死ぬのが夢なんだよ」
「死ぬのが夢なのは悪趣味だな」
田上は、わざわざ意地悪な事を言ったが、相変わらずタキオンはニコニコしている。
「別に死ぬのが夢なんじゃないよ。子供に囲まれた幸せな家庭が良いっていう事だよ」
「じゃあ、俺じゃダメなんじゃないか?もっと気さくで優しい男を探した方が」
「いやいや、君だって充分気さくで優しい男じゃないか。桜花に接する態度を見れば分かるよ。君は、子煩悩になれるよ」
「なりたくてもなれないのが、残念ながら俺だ。度胸がないのが俺だ」
「君に度胸がないというのは随分な偏見だと思うけど。リリー君だって、大阪杯に行く前の君しか見ていないからそう言ったんじゃないか。今の君を見れば誰だって」
そこで、田上はタキオンの話を聞くのをやめた。事務室の窓口に着いたからだ。幸い、待つことはなかったから、そのまま窓口の人と会話をした。その間中、タキオンが田上に無視された腹いせに会話を邪魔しようとしてきたが、それすらも悉く田上が無視をしたので、窓口の人はその二人の様子を見ながら苦笑していた。
これで、ようやくリリックが田上のチームの仲間になった。チームを作る際に、チーム名が必要になった。昨今は、星の名前をチーム名にするのが流行っているらしいが田上はそんな事は気にせずにこう付けた。
『TRUTH』
カフェが、自分のお友達に付けた名前と一緒だった。だから、タキオンは窓口でのやり取りが終わると、ぷんぷん腹を立てながらも聞いた。
「なんでカフェの変な幽霊と同じ名前を付けたんだい?」
そう言うと、廊下に置いてあった近くの消火器がガタンと揺れた。あまりに妙な揺れだったので、タキオンも田上も何かに勘付いて顔を見合わせた。そして、タキオンが少し怪訝で神妙な顔つきをしながら言った。
「トゥルース君…かな?」
「さあ?…ここに居るのかな?」
田上が、消火器を見つめながら答えた。消火器は、一度妙な動きをした以外は普通の消火器と変わりなかった。誰が居るのか居ないのか分からない。すると、タキオンも気味が悪くなって田上の手を引く「行こう」と呼び掛けた。田上は、元よりこの先に行くつもりだったから、タキオンと一緒に廊下を進んだが、角を曲がるときになってやっぱり消火器の事が気になって、もう一度見てみた。消火器は、いつものようにそこに佇んでいた。
その日は、それ以上の事はなかった。一度、タキオンに部屋に帰らずに自分と話そうと誘われたばかりで、その後はタキオンとぽつりぽつりと話したり話さなかったりした。場所は、午前中に話していたベンチだったりそれぞれの部屋だったりした。このそれぞれの部屋というのは、電話をしたという事だ。もう門限の時間になればさすがのタキオンも帰らなければいけないので、田上に促されて大人しく自室に戻った。戻りはしたが、田上と寝る前に電話をするという約束付きだった。夕食を食べて、風呂に入る前に電話を掛けると、田上が
「もう寝るのか?」と少し驚いた調子で聞いてきた。タキオンは、それを面白がりながらまだ風呂にも入っていない事を伝えると、田上が面倒臭そうな声を出して「寝る前にかけろよ」と言った。そこで、勝手に電話を切らないのが田上の優しさである。タキオンは、その優しさに感謝しながら二言三言君と話せて嬉しい旨を伝え、電話を切った。
それから、夜は更けていった。寝る前の電話の時は、田上も少しそわそわしていて、タキオンと同じかそれ以上にはそわそわしていた。それだから、タキオンはふふふと笑って「君は可愛い奴だなぁ」と言うと、田上は少し黙った後言った。
「俺よりも可愛い奴なんてこの世にはざらに居るよ」
その後は、わちゃわちゃと可愛い可愛くない問答が始まったが、タキオンと同室のデジタルからするとそれはご褒美のようなものだった。デジタルは、タキオンが明日に備えて早く寝たため部屋の電気を消されたが、自分はすることがあったため机の明かりをつけて作業に向かっていた。そこで、自身の尊敬と憧れの対象であるアグネスタキオンさんがタキオンしゃんのトレーナーであり恋人でもある田上圭一トレーナーとイチャイチャしながら話をしているのだ。これ以上に良い作業のお供もそうそうないだろう。少なくとも、アグネスデジタル自身においては。昨日のタキオンと田上の電話は少し内容が重かったから、聞くに忍びなかったが、今日の電話は今の所はイチャイチャしているだけのようだ。デジタルにとっては、至福の一時だった。
そのうちに良い頃合いになって二人共電話を切ったようだ。実に平和な電話だった。そして、それが終わると一気に部屋が静かになった。今はもうデジタル自身が紙に絵を描いている鉛筆の音しか聞こえない。カリカリカリカリという音を頭の中に響かせながら、同時に先程のタキオンたちの電話を回想していた。やはり、至福の時である。思い出すだけで顔がにやけて、涎が出てきそうになった。それでは、紙が汚れてしまうからいけないと思って、デジタルは慌てて自分の気を確かに持った。鉛筆の音が妙に心地良く頭の中に響く。すると、タキオンの寝息が微かに聞こえてきて、鉛筆の動きを止めた。それから、耳を澄ましそれが本当にタキオンの寝息なのかを確かめた。シンと静まった部屋の中に安らかな寝息が聞こえる。やはり、タキオンの寝息である。それを確認すると、再び顔がにやけてきたが、今度はニヤニヤというよりもニヤリの一つで終わった。タキオンの寝息が聞こえるという喜びよりも安心の方が勝ってしまったからだ。昨日の夜にタキオンが眠りながら息を荒げているのは驚いた。何が自分に知らせたのかは分からないが、タキオンが苦しみ出してから比較的すぐに起きることができたと思う。これはただの推測でしかないが、それでも早めに起こす事はできたと思う。その後の電話での田上の論争を鑑みても、結局の所は田上と仲直りはしたようだし、良かったのじゃないかと思う。総じて、タキオンさんを元気付けてやれる事のできた昨日の自分は誇るべき存在だ。ちなみに、タキオンたちの昨日に電話していたの時は夢現の中に聞いていたので、今日のタキオンと話す機会があった時にそれとなく聞いて確かめた所、夢現の通り紆余曲折あったようだ。
そんなことを思っていると、また自然と口角が上がってくる。今度は、もう上がるのも下がるのもなるままに任せた。そして、自分の鉛筆の音に頭の中を支配させる。自分が何を考えて、絵を描いているのかは分からないが、その音が小気味良く自分の脳をくすぐっているのを感じて、デジタルはさらに集中の極致へと達した。その内に、眠る事も忘れてしまっていて、気が付いた時には二時になろうとしていた。