早朝、タキオンと田上は同時刻に起きた。田上は、約束事を忘れるのはクレープ屋での出来事で懲り懲りだったし、タキオンもその危険性があるのは重々承知だったので午後に二人で、スマホに同時刻の目覚ましを設定していた。それでも、田上は中々眠たくて、もう一度眠りに就きかけた。そこで、不図タキオンの顔が頭の中に浮かんできて慌てて飛び起きることができたのは幸いだった。そして、その起きた直後にタキオンからも電話がかかってきた。念の為のモーニングコールだそうだ。そのモーニングコールの声色が嬉しそうな声色だったから、田上の眠気も少し飛んで、電話口で朝の挨拶をした。
着替えて出て行くと、寮の前にはタキオンがもうすでにいた。お洒落をするとまだレース場近くのホテルの方に居た時に言っていたのを覚えていたから、どんなものかと思って出て行ってみたら、見えたのは白い長いワンピースだった。今日は、若干霧がかっていたのもあって、少し背景に溶け込んでいたのが面白かったが、それでも十二分に白のワンピースはタキオンに似合っていたので、田上は、タキオンと再び朝の挨拶をした後言った。
「良いワンピースだな」
そう言うと、タキオンは待ってましたとばかりに得意気な顔をして言葉を返した。
「そうだろう?今は若干季節に合わないような気もするけど、この服はあんまり着る機会がなかったからここで着れて良かったよ。可愛いだろ?」
その問いに田上は微かに顔に笑みを浮かべた。
「ああ、可愛いよ」
すると、タキオンは満面の笑みを作って「ありがとう」と礼を言った。
それから、二人は手を繋いで歩きだした。田上の服装は、お洒落をしたものではなく、ただの普段着を着てきただけだったが、タキオンがそれに何か文句をつけることはなかった。本当に、ただ自分がお洒落をしてきたかったようだ。そのタキオンの服装が、あまりに軽く春の初めの早朝はまだ寒そうに見えたが、そこはウマ娘だった。手を繋いだ時に、自分の手より暖かいタキオンの手を感じて田上はそれを実感した。
それからは、ほとんど何事もなく駅へと辿り着いた。しかし、駅についてみれば、思いの外人が居て、その目が田上は気になった。皆が皆ではないが、しっかりと服を着た人が多い中、タキオンは悪く言えばカーテンを羽織ったような格好であるし、季節外れにも腕の露出が多い。大衆から見れば、少し奇抜な格好かもしれない。そんな田上の心配も露知らず、タキオンは田上の横を楽しそうに歩きながら、ついでに二人分の切符も買ってきてくれた。それで、田上が何だか神妙な顔をしているとタキオンが言った。
「何か心配事でもあるのかい?」
田上は、少しの間タキオンの顔を見て、自分の思った事を言うか言うまいか悩んだが、今日は素直な心地だったので言った。
「お前の肌の露出が多いから…」
「私のかい?…ん~、普段のあのオフショルダーになってしまった紫の服よりかは露出は少ないと思うけどね?」
「いや、…別に大したことじゃないけど…」
そこで田上が言葉を切ると、タキオンが続きを聞いてきた。
「けど?どうなんだい?」
「……別に言う程の事じゃないんだよ」
田上は、少し面倒臭そうに言った。
「私であれば、言っても良いものだと思うけどね。恥ずかしい事だって聞いて大丈夫だけど」
田上は、また、少しの間タキオンの顔を見つめてから言った。
「…あんまり整理がつかない。…電車に乗ろう?」
それで、タキオンは少し不満そうだったが、海へと向かう電車に田上と一緒に乗った。電車の中には朝日が差し込んでくる。途中、数分の間、電車が海岸線を走る事があった。朝日が、海の上に浮かび、水面がキラキラと眩く輝いていた。とろとろと揺らめく白い光の道ができ、その眼前の電車内では佇む人々が黒く映された。田上は、それをぼうっとしながら見つめていて、脳裏には綺麗という言葉しか浮かんでこなかった。タキオンは、朝日というよりも田上の事を気にしていた。朝日に見とれてぴくりとも動かない左に座っている田上をチラチラと見つめて、ここで声をかけてみようかどうしようか迷いはしたのだが、初めから声なんてかけるような気もなかったように思う。なぜなら、こうやって朝日を判然としない面持ちで眺めている田上を眺めている方が、タキオンにとっては、とっても面白くて愛おしいものだったからだ。この田上の顔を見ているだけで三時間は過ごして行ける自信がある。なんのちょっかいも出さずにだ。ただ、田上は不図した拍子に集中が切れてしまったらしく、右隣から自分の顔を覗き込んでくるタキオンの顔を見つけて、じろりと見てから「何?」と聞いた。タキオンは、満足そうに頷いてから、「何にも」と答えた。
やがて、電車が高い金属音を立てて海辺の町へ止まった。時刻は七時四十五分を長針が追い越した頃だった。田上とタキオンが降りた後ろで、電車のドアがぷしゅうと音を立てて閉まり、また次の駅へと走っていった。二人の他にも幾人か人が降りていたが、大部分はまだ次への町へと行くようだ。この朝早くからご苦労な事だ。降りた人も次の駅へ向かう人も皆皆朝日を楽しもうというような気概は感じられなかった。普段から見慣れているからかもしれない。もう存分に朝日の良さは堪能していて、むしろ飽き飽きしているからかもしれない。タキオンは、その人たちの事を少し可哀想だとも思ったが、今はそんな人たちの事を気にしている場合ではない。田上と海へ来たのだ。春の海へ。残念ながら電車に乗っているうちに陽はあの時よりかは高い方へと昇ってしまったが、それでも念願の海へとやって来た。タキオンのワクワクは止まりそうになかったが、とりあえず、駅のホームのベンチに落ち着いた。特に、これといった理由はなく、田上が「ここに座ろう」と言ったから座っただけだ。強いて言うなら、ホームの出入り口の所で人がごたごたしていたから、それを避けるためかもしれないが、それは田上にしか分からなかった。
田上は、「ここに座ろう」と言った切り一言も話さなかった。まだ、電車の中での気分が抜けていないのかもしれない。電車の中には、人が普通に居るので、普通に話すのでは憚られる。こっちの会話の内容は、電車の中の人に筒抜けだからだ。そんな中で話す気には、タキオンでもなれない。だから、ずっと黙って風景などを眺めていたのだが、…今はどうだろう?タキオンには、田上の考えていることがあまり分からなかった。田上は、今はひたすら前の方のみを見つめている。前と言っても線路の方だ。線路周りには草が生えているからそれを見ているのかもしれない。タキオンは、その頬を突いて気を引いてみる気にはなれなかった。どちらかと言えば、まだそのぼーっとしている可愛い顔を眺めていたい気持ちもあったのだかが、さすがにここまでくるとタキオンも不安になってくる気持ちもあった。そのせめぎ合いの中でタキオンは、田上に言った。少々小さい声だった。
「いつまでこうしているんだい?」
自分がそう言っても、果たして田上に聞こえたものかどうかは分からなかった。田上は、相変わらずピクリともしない。その内に、タキオンの中では、本当に自分が声を発することができたのかどうかも怪しくなってきたが、その頃になって田上が静かに口を開いた。
「……行こう」
ただ一言だけだったが、タキオンの目はしっかりと見て物を言ってくれた。だから、タキオンは少し安心して立ち上がった。横で同時に田上も立ち上がり、それから、どちらが先に手を取るともなく、二人は手を繋いだ。
田上たちが駅舎を出るころには、二つ目や三つ目の電車も来ていたが、人混みに紛れることなく、自分たちの歩む速さを保ちながら海へと目指して行った。
砂浜へと着いた。残念ながら多少陽は昇って、タキオンの思い描いていた通りの景色は見れない。しかし、波が寄せては返す音が耳に心地よく響き、海から吹く風にタキオンは深呼吸をすることができた。それでも、田上はぼーっとしたままだった。朝日を見た時から、何かがおかしい。田上の心の中で何が起きているのか、タキオンにも分からないので、海風を吸い込んで元気を取り戻したタキオンは田上に陽気に言った。
「何を湿気た面をしているんだい?海に来たんだよ?空気がおいしいじゃないか!」
「…ああ」
田上は、顔はあまり動かさないで目だけを動かしてタキオンを見たが、その様がタキオンには何か迷っているように見えた。見えたといっても、確かなものではない。だから、タキオンは、自分の気を落ち着かせて田上と同じような調子にしてから聞いた。
「何か思う所でもあるのかい?」
また、田上は目だけを動かしてタキオンの方を見る。今度は、長かった。答えるまで長くかかったから、その間に二人は、砂浜の脇にある松林まで来た。そして、そこにある枝や葉っぱだらけのベンチに座ると、田上が言った。
「……タキオン」
「ん?なんだい?」
「…お前、誕生日プレゼントに欲しい物とかあるのか?」
唐突な質問だったが、タキオンは冗談交じりにこう答えた。
「ん~、指輪かな」
「指輪?」
今までタキオンの顔を見ずに話していた田上が、驚きと疑念の入り混じった声タキオンの顔を見て聞いてきた。それに、タキオンはふふふと笑って「冗談だよ」と答えると、田上はまたタキオンを見るのをやめて、目の前にある松の木をぼんやりと見つめながら言った。
「指輪…。…お前欲しいの?」
「君がくれるって言うんなら欲しいよ」
「あげないって言ったら?」
「そりゃあ、貰わないまでさ。それが別の女にくれてやるって言うんなら、さすがに私も待ったをかけるけどね」
「…指輪ってどんくらい高いんだろう?」
「ん~、…指輪には私もあんまり興味がないからなぁ。…まぁ、千差万別あるだろ。別に、百均のをくれたって…、いや、百均はさすがに喜べないな。…三千円?そこらへんが線の引き所かな?三千円あれば、多少キラキラしたガラス玉の付いた指輪は買えるんじゃないか?」
田上は、う~んと唸って言った。
「…指輪、欲しいの?」
「結婚するときにくれるんならいいけど、別に今年の誕生日はくれなくてもいいよ」
そこで少し間が空いてから、田上が言った。
「……お前、本当に俺と結婚するつもりなのか?」
「当たり前だろう?それ以外に何の選択肢があるって言うんだ」
「…今までのは、全部嘘だったり…」
「嘘吐いて私に何の得があるんだい。君に嘘を吐くくらいなら、私はコロンブスの卵を立たせない研究をする方が、まだ性に合ってるね」
タキオンの絶妙な冗談に、田上は苦笑とも何ともつかない笑みを浮かべてから、言った。
「あんまり良く分からん。…思う所があるのかい?ってお前、さっき心配してくれてたけど、なぁんにも分からん。…走ろう!タキオン、タッチ!」
田上は、突然そう言って、立ったかと思うと、タキオンの肩を一瞬触ってスタコラサッサと松林から海の方へ走り出した。タキオンは、驚きのあまり一瞬程反応できずにいたが、田上が鬼ごっこを仕掛けてきたという状況が飲み込めてくると、ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと歩きながら、ゆっくりと数を数えた。十から零まで数えたら、田上を全力で追いかけるつもりだった。しかし、自分が今日履いてきたサンダルは走るのに適さない事に気が付いたので、松林を過ぎてから裸足になって追いかけようと思った。それでも、田上を存分に脅かすために大きな声を上げて、零まで数字を数えた。タキオンの予想した通り、十を数える間に自分が松林を抜けきる事はできなかったので、まずは軽い駆け足で松林から出ることにした。その過程で田上を探しながら、砂浜の方に出ると、遠くに全力で走っていく少年、または成人男性のような姿が見えた。ただ、あれだけ必死になって走っているのだから、成人男性が少年でも変わりはないだろう。顔を見てみれば、少年が必死になっている顔も成人男性が必死になっている顔もあまり変わらないはずだ。それで、タキオンが――圭一君の顔はどんなになっているんだろう、と考えて、必死な形相を思い浮かべてクスクス笑いながら、自分のサンダルを脱いで砂浜へと置いた。それから、おーいと田上に声をかけた。田上は、暫く走った後、立ち止まるとタキオンの方を振り返った。すると、そこに手を振っている白いワンピースを着た栗毛のウマ娘を見つけたのだが、敢えてそれを無視するとまた砂浜の奥の方へと走って行った。タキオンは、その様子を見てまたクスクス笑うと、軽く足を上げたり下げたりしてストレッチをしながら進んだ。田上は、最初から最後まで射程圏内だ。どう追い詰めようと調理しようとタキオンの勝手である。――どう追いかけるのが一番面白いか…。タキオンは、その事を考えた。ただ、適当に走って田上の背中に追いついてみせるのじゃあまり面白くない。どうせだったら、田上が必死にこちらへと走ってくる様を見たかった。しかし、そうも言ってられないから、裸足の駆け足で田上の背中をぼんやりと追っていると、段々と田上の足取りがもつれてきて、そして、前の方に滑るようにして転んだ。それから、遠目から見た限りではピクリとも動かなくなった。まさか、転んだ先に尖った岩があって、それが胸に刺さって死んだから、ピクリとも動かないわけでもないだろうから、タキオンは、変わらずの軽い駆け足で田上の方へと向かっていたが、それでもその胸の内はちょっぴり心配を滲ませていた。
田上は、砂浜の反対の方へ行く半分の所を少し過ぎたあたりで、力尽きて倒れていた。タキオンも大分後には行ったのだが、その時でもぜいぜいと肩を動かして息をしているのが見てとれた。その傍らに寄って行くと、タキオンも田上が大丈夫そうだという事が分かったので、その全力で息をしている方に触れて「タッチ」と言った。これで、鬼が田上に移り変わった。それで、タキオンが終わりだろうと思って砂浜に座ると、驚くべきことに田上はまだ走る体力があったようだ。タキオンの足首を掴んで「タッチ!!」と全力で叫ぶと、また先の方へと走って行った。タキオンは、可笑しそうにその背中を眺めた。もう、先程のような元気さは無くなっていたが、それでもそれでも全力で走ろうとしている。何だか面白い。これがずっと続くのならば、面白いのでする価値がある。タキオンは、また軽い駆け足で田上の後ろを追いかけて走って行った。今度は、田上は先程の半分も走れずに地面に倒れ伏していた。だから、タキオンもそのすぐ後について田上の背中を軽く触ると「タッチ」と半ば笑いながら言った。すると、途端に、田上がタキオンの足首へと手を伸ばしてきた。タキオンは、ひょいひょいと小刻みに足を上げてそれを避けた。そして、田上の手の届かない所まで飛びすさるとハハハと笑い声を上げて言った。
「私を捕まえようなんざ、百年早いね!」
田上は、息を切らしながらもタキオンの顔を睨んだ。それから、少し息を整えた後、タキオンに言った。
「タキオン、来て。良い事教えてあげる」
「良い事?」
タキオンがそう聞くと、オウム返しに田上が「良い事」と言った。これでは、タキオンを誘き寄せて捕まえようとしているのが見え見えだ。それだから、タキオンはもう一度聞いた。
「良い事の内容はなんだい?」
「良い事だよ。何でもいいから、こっちに来て。…付き合ってるだろ?」
「おや!そうだ。そうだよ。私たち付き合ってる。今すぐ君の所へ行ってやろう」
こうやって素直にタキオンが来てくれると、騙そうとしていた田上も何だかやりづらくなった。タキオンは、田上の寝転がってる傍らにしゃがみこんでその顔を見ながら、「良い事って何だい?」と聞いた。タキオンは、当然田上が騙そうとしていることは分かっていたが、自分が鬼に代わるなら代わるで面白いから、田上が触ってくれば素直に触られて鬼になるつもりでいた。ただ、田上の方は、素直に捕まえづらい。だから、田上は、タキオンに「少し触って良い?」と断ると、タキオンの指先を捕まえた。だが、これは、鬼の移るタッチではない。それは、タキオンに断っておいた。だから、これは、ただ田上がタキオンの手を触っているだけだ。
春の陽気が、二人の頭上で輝いている。真夏の暑さでない、心地良く汗ばむ様な暑さだとしても、今全力疾走をしたばかりの田上は汗だくになって砂浜に横たわっていた。砂浜を松林と反対の方に抜ければ、そこには草がまばらに生えた地帯があって、その先にコンクリートで作られた堤防がある。田上は、せめてそこまで目指したかったが、未だ草地にすら辿り着いていない。田上は、次走る機会の為に砂浜と太陽の暑さを感じながら、必死で息を整えた。その間に、田上はタキオンの手を見つめていた。細くて小さくて綺麗な手だ。だから、田上はそのままその感想を言った。
「…お前の手、…綺麗だな」
唐突に褒められたタキオンは、嬉しそうに「ありがとう」と言った。タキオンの方は、横たわっている田上の顔を見つめていた。時折、田上がタキオンの手から目を離してタキオンの顔の方を向くと、タキオンがにこりと笑いかけた。すると、また田上はタキオンの手の方に目を戻した。
暫くして田上の息が大分整ってきたときに、田上がタキオンに言った。
「…もう堤防まで走る元気がなくなった…」
「そりゃあ、普段運動していない奴があれだけ全力で走ればそうなるだろう」
「……もう動きたくないんだけど、…どうすれば堤防まで走って行けるかな…」
「堤防?…君は堤防まで走って行きたいのかい?」
「…ああ。…このままお前と歩いて行くのは、なんだか癪だ」
すると、タキオンがふふふと笑った。
「私と歩いてくのはダメなのかい?」
「…ダメだ。…お前とじゃ、…少しつまらない。別に、お前がつまらないっていうわけじゃないんだけど、俺は、堤防まで行ってお前に手を振りたい」
「ふむ…。…じゃあ、私はどうすればいいんだい?」
「…ここで俺が手を振るのを待っててくれれば…」
「でも、君は走る元気がないんだろ?それじゃあ、堤防までは行けないよ?」
「……それが問題だ。…もう、足を上げる気力もない」
そう言うと、田上は今まで握っていたタキオンの手を放して、自分の手をポトリと砂浜へと落とした。タキオンは、その手を拾うと、今度は自分で田上の手を握って言った。
「足なんて上げなくてもいいけど、その格好じゃ一生足なんて上がらないよ。せめて、仰向けに寝転がったらどうだい?それじゃあ、息もしづらいだろう?」
「じゃあ、仰向けにさせて」
「仰向けにぃ?」とタキオンは少しだけ面倒臭そうな口調で言ったが、面倒臭いのは口調だけだったようで、体の方は素直に田上の要望に沿う為に田上の手を放して、田上の身の上の方に跨った。そして、「よいしょ」と掛け声を出すと田上の無抵抗無気力の体を仰向けへと変えさせた。田上の眼前には、栗毛の髪を垂らしたタキオンがあった。その向こうには、青空が広がっていたが、今はそれよりもタキオンの方が田上にとっては魅力的だった。しかし、タキオンは田上を仰向けにした後は、すぐに傍らによけようとしたから慌てて田上が言った。
「行かないで」
どこかで聞いたような言葉だった。あれから、まだ一週間も経っていない。タキオンが、田上にキスしてしまった時の言葉だった。だから、タキオンは驚いて一瞬神経を尖らせたが、すぐに落ち着かせると田上の顔を上から覗き込んで「行かないで?」とオウム返しに聞いた。
それに、田上は躊躇いながら言った。
「…いや、……行かないでほしくて」
「行かないって、私はここまで来て君の傍以外どこに行けばいいんだい」
「…そりゃ、そうだけど…、……いいよ。行けば?」
「どこに?」
少し怒ったような口調になった田上だったが、タキオンは相変わらず田上の顔を覗き込みながら言った。すると、田上は、こう答えた。
「どこかに行けば?」
「なんで君の傍を離れなくちゃいけないんだ」
「……俺は、……つまんない奴だから」
「つまらない?…君は、自分の事をそう考えているのかい?だとしたら、私はその説が間違いだと提唱しよう。別に、君はつまらない奴なんかじゃないもの」
「……でも、…言いたい事も言えない奴だ」
「言いたい事って?」
「…………何て言えばいい?」
「何?…う~ん、…私の事が好き、とか?」
「……そんなんじゃない…。もっと、…言いにくい。……俺を…」
「俺を?」
田上が、言葉に詰まるとタキオンがその先を催促したが、田上はそれきり燃え尽きたような目でタキオンを睨むだけだった。だから、タキオンが勝手にこんなことを言った。
「う~ん、大方、俺を…抱き締めてほしいとかそこら辺だろう。君は、甘えん坊な所があるからな。…さて、どうやって君に抱き着いてやろうかな。寝転がったままでいいかい?」
そう言うと、驚くべきことに田上が腕を広げて、抱き締めてほしいという姿勢をとった。タキオンもまさかそっくりそのまま自分の思った通りだとは思わなかったので、途端にニヤニヤと顔に笑みを浮かべてしまった。それだけども勘違いはされたくなかったので「バカにしてるんじゃないからな。君が、私の思ったより何倍も面白い奴だったからニヤニヤしてるんだ」と言った。それが、果たして田上に効果があったのかどうかは分からないが、恐らく恥ずかしがり屋の田上の事だから、この言葉が少しの後押しになったのかもしれないと思う。無事、田上とタキオンは砂浜の上で寝転がりながら抱き合うことができた。タキオンが上で、田上が下だ。それでも、田上は終始無言のまま、遂には自分の顔をタキオンに見せないため手で覆い始めた。今までこんな距離幾度もあったので、タキオンには田上が何を恥ずかしがっているか分からなかった。だから、自分は平気そうに、田上の顔を覆っている手を「おーい」と言って突いてみたり、「君の恋人が待っているよぉ?」とからかってみたりしてみたが、田上は一向にその手を退けそうになかった。そうなると、次は天岩戸作戦だ。田上とは関係なしに楽しそうな事をしてみればいい。そうすれば、天岩戸、もとい、田上の顔を覆っている両掌は自然と開いてくるはずだ。しかし、肝心の『楽しい事』がタキオンには難題だった。具体的に楽しそうな事とは何をすればいいのか分からない。その事について、少し悩んでいると、天岩戸が少しだけ開いて田上の目が覗いた。タキオンは、それにすぐに気が付くと「圭一君?」とニコニコしながら呼び掛けたが、すると、また天岩戸はぴたりとその隙間を閉ざしてしまった。しかし、タキオンにはもうそんな事は関係なく、天岩戸作戦も放り投げて田上に先程よりも積極的に仕掛け始めた。「私、君の事大好きだからこの手を退けておくれよ」だったり、「また可愛い君の顔を見せてほしいな~」だったり、「ああ、君がそうして手で顔を隠せば隠す程、可愛く見えてくるよ」だったりと、それはそれは聞いていて恥ずかしい事を言ってきて、仕舞いには「おや?君の耳が真っ赤だ。可愛いね」と言ってきたので田上は顔を手で隠しながらくぐもった声で「恥ずかしい!」と半ば強めに言った。それに、タキオンはこう返した。
「恥ずかしいだろう?君が、その手を開けたらもっと恥ずかしくなるよ」
これでは、田上の手を退けたいのか分からない口調だったが、それはとりあえず置いておいて、田上は暫く考えるために黙った後「何?」と再びくぐもった声で聞いた。
「恥ずかしい事さ。恋人の君にする恥ずかしい事だからね。このくらいの事はしてやらなきゃ」
すると、田上の岩戸が少し隙間を広げた。また、田上の目が覗いた。タキオンがどんな恥ずかしい事をしているのか興味を持ったようだったが、タキオンが前に戸を開けた時と変わらなく、自分をからかっただけだと分かると、また田上の岩戸を閉ざした。それでも、先程より心地が変わったのか、閉ざした後にこう言った。
「俺は、お前より八年も長く生きてるんだ。そんなおっさんを恋人にしたいなんて、お前の頭はイカレてるよ」
「おっさん?二十五で自分をおっさんだと思っているのかい?今時のおっさんと言ったら、四十かそこいら、三十でも若々しい人は若々しいからね」
「でも、俺は、四十に見えるってマテリアルさんに言われた。十分おっさんだ」
「まだ、その事を引きずっているのかい?それに、あれはマテリアル君が言ったんじゃなくて、実の所、リリー君が言ったものだったんだよ?」
「…ん?…んん?…お前が、――マテリアル君が言った、って言わなかったっけ?」
「え~…、私だね。だって、あそこで――リリー君が言った、って言ってもしょうがないじゃないか。それだと、私がリリー君に罪を擦り付けているように見えるし、リリー君もそこで話を振られると対処は難しいだろ?だから、マテリアル君にするしかなかったんだ。…私だって、自分が言ったわけではないし、自分が言われたとも思われたくない」
タキオンがそう言い切ると、田上が天岩戸を開いて言った。ただ、その岩戸はまだすぐに閉じれるように顔の横に設置されていた。
「タチが悪いな」
「私の事かい?」
「お前もそうだけど、リリーさんが言ったとなると、猶更タチが悪い。マテリアルさんの方が、まだお喋りな女の人としてイメージが湧くけど、リリーさんだと、もう完全に悪口の様にしか聞こえない」
そこで、タキオンは少しだけ笑ってから言った。
「リリー君は、まだ中学一年生だし、女の子だからねぇ。女ってのは、くだらない事を言って笑ったりするもんだよ。人の顔をバカにしてみたり、人の悪い所の噂話をしてみたり。詰まる所、情報交換の広場みたいなものさ。女の子の話の輪の中ってのは。そんな中で、交換されるのはやっぱりくだらないものだったりするから、女の子の話はあんまり真に受けない方がいいよ。君は、私から見れば、好青年に…は見えないな。いい男に見えるから。そもそも、結婚するにしたって、絶対に同世代で若くてかっこいい男じゃないといけないというルールはないからね。私が君を好きだといえば、君は私の好きな人なんだよ」
その話の中で、段々と田上の天岩戸は閉じていって、再び顔は手で覆い隠された。出てくることに関しては、天照大御神よりも数段チョロい事に間違いはなかったが、再び岩戸の中に引きこもっていくことに関しては、タキオンは無理矢理な事はしたくなかったため、閉じていく岩戸を見守る事しかできなかった。そして、また閉じた岩戸の中から田上が言った。
「未だに、お前が俺を好きな事に納得がいかない。俺は、大した奴じゃない。かっこよくもないし、性格の良い奴じゃないし…」
ここで、タキオンがそれを遮って言った。
「君の性格は良いだろ。少なくとも、君は、世間一般のかっこいいじゃないにしても、性格だけは世間一般から認められてもいいくらいには大丈夫だよ」
「…でも、…大した奴じゃない。お前にだって苦労しか掛けてない。そんな中で、なんでお前は俺の事を好きになるんだ。傍から見れば、こんな暗い男好きになる方が難しい」
「君が、暗い男というのは大きな間違いだね。今さっきだって見てごらんよ。あんなに少年みたく全力で走ってた。あれを、大きな少年と言わずして何と言えばいいのかな?本当に暗い男であれば、こんな砂浜で人目もはばからず全力疾走なんてしないよ」
「あれは、……海に来て少しはしゃいだだけだ」
「はしゃぐならはしゃぐでいいじゃないか。どこに暗い男と言うような要素があるんだい?君は、自分が暗い男という事に劣等感を持っているようだけど、別に君はそこまで暗い男でもないし、言うなれば、暗い男が他より劣っているという事もない。別に、鬱病者だって生きているということは他の人と変わらないし、女だって男だって、日本人だってインド人だって、君と私だって、等しく生きてる。精神病者が、生きているという点において他の人より劣っていますか?話すという点において他の人より劣っていますか?と問われれば、例え、話すことができなくとも劣っているとは言えない。気が狂って自分の頭で考える事ができなくなった人も劣っているとは言えない。確かに、もう自分の頭で考えられなくなることは残念だが、その存在として、圧倒的に低いかと言われればそうじゃない。皆、等しく存在している。そこにある砂だって、ダイヤモンドより価値が低くはない。ダイヤモンドの価値は人間が決めたものだ。どこの海や山や炭素の塊の中を探したって、ダイヤモンドの価値は一億円ですよ、とは書かれていない。どれもこれも、勝手に人間が価値を決めたもの。それに対して、私たちが来たこの小山の砂浜は人間に価値が決められたものではない。確かに、人間が流動的に動くことによって、人の行き来が少なくなったり多くなったりするが、この海が無料で開放されている時点で決まった価値のあるものではない。この海は、万物より勝り、万物に劣るものだ。そして、万物と平等にある。君だって同じだ。君は無料であり、決まった価値は定められていない。時と場合によって、その価値は上下したりもするが、それは時と場合によって上下されるのみで、君によっては左右されない。等しく、この世に存在するだけだ。暗い男、つまり物静かでクールな男が皆に持て囃される世の中になれば、君は私含め、どこそこの女性からモテモテになるわけだ。――見て見て、あそこのアグネスタキオンを連れてるトレーナーさんを見てみてよ。ああ、あんな人と結婚できるなんて羨ましいわね~。…と、こんな具合だ。そして、精神病者が持て囃される時代になればどうだろう?――あの気が狂ったようなロックンロール!精神病者こそが、芸術家になれる時代だわ!…こんな具合だろう」
そこで、田上が岩戸の隙間からふふふと笑い声を漏らした。だから、タキオンが「なんだい?」と問うと、田上がこう返した。
「精神病者が音楽をするのか?」
「精神病者だって音楽をするだろう。あの人、…あの『大きな蛇』の…」
「木下一抹?」
名前が出てこなかったタキオンに田上は助け舟を出した。それで、タキオンは「それだ!」と声を出して言った。
「あの木下とかいう人は鬱病になったんだろう。だから、『ハロー鬱病』なんて曲を作ったんだ。果たして精神科に受診したのかどうかは知らないが、鬱になってどうすればいいのか分からなくなったからあの歌を書いたんじゃないか?」
「…そんなところだろうな…。…なぁ、タキオン」
田上は、そう呼びかけると、遂に天岩戸を全開放し、すぐに閉めれるように顔の横に手を添える事も止めた。それから、そのまま続けて言った。
「俺、堤防まで走る。…少し元気が出てきた」
「いいよ」とタキオンが言って、田上の体から降りた。そして、そこで体育座りをすると、体を起こしている最中の田上に「頑張って」と言った。田上は、「んん」と曖昧な返事をした後に立ち上がった。遠くに見える堤防は、田上が思っていたより大分遠かった。もう少し走れば行けるものだと思っていたが、今の自分の全力の全力を出し切らなければ行けないもののように思えた。それだけれども、今の田上は走ると決めてしまったので、引き返してまた砂浜に横たわる事が頭の中に浮かんできても、それを採択する事はできなかった。
田上は、覚悟を決めると、唾を一つ飲んでタキオンを見た。タキオンは、どうぞ行ってらっしゃいと言うような目付きで田上を見つめ返した。すると、また田上は堤防の方を望んだ。遠い。遠いが、行けない距離ではない。体が重い。体が重いが、動かせない事はない。途中で力尽きそうだ。その時は、またタキオンと話して休憩すればいい。田上は、そう考えて、足を一歩二歩と進めて、走り始めた。体が重かったが、案外、自分の思ったより速度が出た。だから、その速度のまま走っていこうかとも思ったが、すぐに体の重さに足を引っ張られ始めた。初めの速さは、ただ単に疲れをほんの少し忘れていただけだった。――やっぱりタキオンの所に居れば良かった…、という後悔の念が田上の頭の中に浮かんできた。その後悔に足をとられ、田上は少し走ったばかりの所でタキオンを振り返ってみた。何か一言でも声をかけてほしかったが、タキオンの方と言えば、ただ口角を上げたまま田上を見つめるばかりだった。だから、田上は、行く事を迷うように、もう行きたくないとタキオンに示すように、一度、堤防とタキオンを交互に見た。それでも、タキオンは体育座りのまま何も言おうとしないので、遂に田上はタキオンにすがる事を諦めて堤防を再び望んだ。体は、まだ重い。この先に走っていったって何の得になる気もしない。それでも、走らなければならないという思いがある。いつしか、田上はその思いに板挟みになって、砂浜に突っ立ったたまま足がすくんだ。だから、最後にもう一度すがるようにタキオンを振り返った。今度は、タキオンも言葉を発した。
「なにかあるのかい?」という非常に淡白なものだった。田上は、タキオンであれば自分の気持ちを察して何か優しい言葉をかけてくれそうなものだと思っていたが、そう上手くもいかないようだった。投げ掛けられた言葉と言えば、別に前に進む活力を与えてくれるものではなかったし、かと言って、田上を落ち込ませるものでもなかった。だから、田上は再び前を向くと、仕方がなさそうに怠そうに歩を進め始めた。非常にノロノロとして遅々として進まず、このまま倒れ伏しても問題ないような気がした。しかし、ノロノロとしながらも堤防の下にある波消しブロックの所までやって来ることはできた。特に達成感もないまま田上はタキオンの方を振り返った。遠くにタキオンが見えるが、それはもう体育座りで待ってはおらず、田上が堤防に辿り着いたと見えて、それを追いかけるためにスタスタと歩いてきていた。特に何の言葉もなく田上はそれを見ていたが、やがて、疲れに体が耐えきれなくなってくると、今度は田上がその場にしゃがみこみ、体育座りをしてからタキオンを待った。タキオンは、特に急ぐ素振りもなく田上の下へとやって来た。田上にはその時間が途方もなく長く感じられて、悠長にやって来たタキオンが少し恨めしくも思った。