ケロイド   作:石花漱一

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二十一、海岸線、白く染まる⑤

 タキオンが、田上の傍にやって来たときには、田上は体育座りのまま俯いて、膝と膝の間から下の地面を見ていた。だから、タキオンが来たのは、砂を踏みしめるザッザッザッという足音が聞こえたから分かった。だが、田上はタキオンが来たからと言って、顔を上げることはしなかった。その顔を上げたのは、タキオンに肩を叩かれ、「圭一君」と呼び掛けられてからだった。田上が顔を上げてタキオンと目を合わせると、タキオンのにこりと笑う顔が見える。次いで、「頑張ったね」という声が聞こえた。その声を聞くと、田上は涙が出てきそうになったが、それをグッと飲み込んで、「頑張った」と言った。しかし、自分の声が誤魔化しようもなく震えているのが分かった。タキオンもそれに気が付いて、笑顔をその顔に少し残したまま心配そうな目を田上に向けた。田上は、気丈なふりをしてタキオンを見ていたが、瞬きをしないでいたからなのかは分からないが、目頭が熱くなってくるような気がする。だから、田上はそれを誤魔化すために顔を背けて瞬きを何度かした。涙は落ちてこない。ただ、今にも落ちてきそうな気配は残っているから油断ならなかった。

 タキオンは、少し泣きそうになっている田上にどんな言葉をかけてやればいいのか分からずに、田上を見つめたまま頭の中で答えを探していた。しかし、あんまりしっくりとする答えは見つからない。「泣きたいのかい?」と田上に言ったとしてその心が楽になるだろうか?それとも、何も言わずに抱き締めてやればいいのだろうか?それでも、タキオンには今の田上の扱いが分からずに、やがて、目を背けた田上をじっと見つめたまま、横に体育座りで座り込んだ。まだまだ、午前中であるにしても、陽は妙に暖かく照らしてくるし、砂浜にはまばらに人がいる。田上が全力疾走で通り過ぎた所にも、一組の男女がいる。恐らく、恋人同士なのだろうという事は、二人の距離の近さから分かった。その二人組は、波打ち際で足を浸して話していたりした。遠目からでは二人がしっかりと上手くいっている恋人同士なのかは分からない。その内に、タキオンから目を逸らした田上もその二人組を見始めた。田上は、あの二人組がどんな関係なんだろうと考えた。

――さすがに、トレーナーと教え子なんてことはないだろうな…。

 女の人の方は、帽子を被っていたし、尻尾の方も見えづらくなっていたので、果たして、ウマ娘かどうかは分からない。

――じゃあ、何かな…。…大学の同級生とかかな?

 年齢的にはそこら辺が近そうだったが、大学生なのか社会人なのかは分かりそうにない。

――じゃあ、…タキオンがあそこに居たらどうだろう?

 田上の発想は飛躍した。今横に居るタキオンの事なんて考えもしないで、あの二人組の女の人をタキオンに照らし合わせていた。あの男の人は、実に好青年のようだった。髪型もしっかりと整えて、お洒落もして、髭も濃くなく、隣の女の人と明るく喋っている。あんな人の隣にタキオンが居ればどうだろうか?案外、想像しにくかった。タキオンが、あんな好青年と楽しく笑い合う姿にするには、これまでのタキオンを捨てて、大学生のギャグで満面の笑みになるタキオンにしなければならない。そんなのがタキオンであるとは、田上には言い難かった。それでも、好青年の方が自分よりもよっぽどマシで良い男に見える。良い男に見えるが、タキオンに似合うようには見えない。すると、田上は次に――タキオンに似合うような男って誰だ?という疑問に至った。タキオンに似合うという男であれば、まず、話し上手という以前にタキオンの我儘を全て受け入れる、度量のある男でなければならないと思った。

――そんな男は中々いないだろう。

 田上は、自分の事は棚の上に置いておいて、真剣に考え始めた。初めは、芸能人の中にそういう男がいないか考えたが、田上の芸能人の知識が乏しいのと、やっぱり芸能人はテレビの前では嘘を吐かなければならないから、田上にはその芸能人の本性が分からなかった。だから、次にマンガやアニメや小説の中のキャラクターで考えた。しかし、あんまりパッとしたのが見つかる前に、考えが逸れて行き、田上は――タキオンの相手は木下一抹ならいいんじゃないかと考え始めた。確かに確かに、考えてみれば、木下一抹こそタキオンにふさわしいような気がしてきた。第一に、木下にはしっかりとした度量がある。今は、奥さんがいるのでタキオンにくれてやる事はできないが、木下一抹のような度量を持った人間がタキオンには必要だ。そして、第二に、木下は自分の考えをしっかりと持っているが、それを押し付けたりはしない。これは、一つ目と意味は被るが、彼の歌を聞けば、悩みに悩んで辿り着いた答えを持っていることは分かるし、また、それをぐりぐりと押し付けたりもしない人間だという事は分かるだろう。タキオンの隣には、聡明な人間が必要だ。

 今出た田上の頭の中での研究結果をタキオンに報告しようと思って、田上は口を開けて「タキオン」と呼び掛けたが、その後に、自分が今まで何でタキオンと話していなかったのかを思い出して、心の中で不味いと思った。しかし、それを取り消すこともできないので、タキオンが「ん?」と返事をした数秒後にこう言った。

「お前の俺より良い相手を見つけた…」

「見つけた…?誰だい?」

「木下一抹。あの人、頭良いだろうし、多分俺より適任だ」

「木下ぁ?でも、あの人、いつもサングラスかけてるし、前衛的な髪型してるし、私の好みではないよ?」

「でも、俺より適任だろうと思う。あの人のインタビューとかラジオとか聞いてると優しい人だって事は分かるし」

「ええ?…でも、あの人既婚だし、もう四十とかそこらじゃなかったかい?」

「まぁ、既婚なのは既婚だけど、お前が付き合うんだったらああいう人がいいんじゃないかと思って…」

「ええ?…でも、私、君の事が好きなんだけど」

「俺じゃあ、お前を幸せにできそうにないもん」

 田上が、そう言うとすぐさまタキオンが切り返してきた。

「じゃあ、聞くけど、君はこの先どう生きるつもりなんだい?このまま私を強引に振ることができたとして、その先は?また、別の恋人を見つけてその人と結婚しようと言うのかな?それとも、結婚せずに、ただ怠惰に生きてそのまま死を迎えようと?」

 その質問に田上が、どうすればいいのかとぼんやりした頭で考えていると、タキオンが次の言葉を言った。

「私は、君にとっても私にとっても、今のうちに結婚しておいた方がいいと思うけどね。こんな出会いなんて、一生に一度あるかないかだよ?それで、私が君に振られてしまったら、大概の男は碌でもなく見えるだろう。少なくとも、君よりも良い男なんて今後現れないはずだ」

「なんで?」と田上が聞くと、タキオンが当然のように言った。

「君だって、私の事が好きだからだよ。私たちが相思相愛に成れたのは非常に好都合だ。なにせ、仲は良いと言っても、君と私の前にはまずトレーナーとウマ娘という関係性の壁があったからね。その壁に悩みながらも、君は私の事を好きだと言ってくれたじゃないか」

 この言葉に、田上は再びむっつりと黙り込んだ。タキオンの言った事は尤もだった。ここで今、自分でタキオンを振ったとしても、今後、タキオンより良い女が現れそうにはなかった。タキオンの言ったように、大概の女は碌でもなく見えるかもしれない。今の田上としては、タキオンに惚れていることは間違いがなかったので、そう考えると、自分にとってタキオンと一緒に居れることは都合の良い事しかなかった。そして、その考えによって段々と田上もタキオンと居る事を拒む必要がどこにある?という考えになっていった。けれども、やっぱり、自分の中の良心のようでどこか違う、理想を体現するための心が現れ出てきて、田上を悩ませた。その心にはどうにも抗いにくかった。その心はこう言っていた。

『お前は、優しい人なんだから、お前が言うべき言葉はタキオンを突き放す言葉だろ?そうでないと、タキオンが不幸になってしまう』

 どうにも抗い辛い。こういう心の声には反論しにくい。だから、田上は苦し紛れにタキオンにこう言った。

「タキオン。……お前は、本当に俺と一緒に居たいと思ってくれているのか?」

「ああ、勿論だとも。君以外の人はありえない。一生君だけを愛す」

「…それは、俺がもしお前を不幸にしたとしても?もしかしたら、結婚してみれば、俺はただのDV野郎になるかもしれない。それでも、お前は俺についてきてくれるのか?」

「君が呼ぶならどこへでもついていくし、呼ばなくてもついていく」

「……でも、傷付いたお前は見たくない…。……これは、…なんなんだろう?…もう少し、自分を労わるべきなのかな?」

 再び、田上の飛躍が起こったが、これは発想と言うよりも言葉の飛躍だった。だから、タキオンもあんまり意味が分からずにこう聞いた。

「…つまり、どういう事だい?」

「……俺は、…もう少し我儘に生きてもいいのかな?って。…傷付いたお前を見たくない俺は、お前と結婚することを拒んでいる俺で、俺自身としてはお前の事が好き…だ。だから、今の俺は二分されている状態で、お前と一緒に居たい俺とお前と一緒に居たくない俺が戦っている。お前と一緒に居たくない俺には、理由があって、その理由が…」

「私を不幸にしたくない」

 そこでタキオンが口を挟んできたので、田上は驚いてタキオンの方を見た。タキオンは、田上と目が合うと一歩近寄って、自分の肩を田上の肩に寄せた。そして、「邪魔してすまない。続けていいよ」と言った。田上の頭は、タキオンが自分の話に割って入って来たことにより多少の混乱を起こしていたが、しっかりと頭の整理をしつつ、話を続けた。

「そういう事なんだけど、お前は不幸になっても俺についてきてくれるって言った。……情けないな」

 田上の口から思わず、自分の考えに対する感想が漏れ出た。それに、タキオンは反応をし、聞いた。

「何が情けないんだい?」

「……俺が、お前に頼ろうとしていることが。…成人済みの社会人として、たかが一人の女子高生に頼るのは、…なんと言うか…、情けないだろ?」

「でも、君は私に頼ろうとしているんだろ?私だって君を頼るよ?そうやって、今まで君と一緒に生きてきた。走ってきた。君が居なかったら、私は菊花賞を走り切る事は成し得なかった。それに、今、こうして君と話しながら肩を寄せる事もできなかっただろう。私は、今、とても幸せだよ。君と共に居れる。君と共に生きれる。その未来が、目の前に広がっていると思うと、私は生きていて良かったと思う」

 中々に臭い台詞だったので田上は苦笑したが、それでも、タキオンがそう言ってくれたのは嬉しくて、少し口角を上げながら言った。

「お前は、そんなに俺の事が好きなのか?」

「勿論だとも。当然、結婚も視野に入れているんだ。今すぐに同棲を始めたって、私は構わないよ」

「同棲…?……どうするんだろう?」

 田上が、タキオンとの同棲の内容があんまり想像できずにそう呟いた。言い方が曖昧だったのは、まだ自分の中にタキオンと一緒に居る事を認め難い心があったからだった。タキオンは、その心には気が付かなかったし、気が付いていたとしてもあまり頓着はしなかっただろうから、普通に田上に言った。

「同棲は、…トレセンの家族寮に住むのかな?君は、私と結婚しても仕事は辞めないつもりだろう?卒業後すぐに結婚するのであれば、まだリリー君を担当している頃だろうしねぇ。…それとも、戸建ての夢でもあるのかい?」

「戸建ての夢はないけど…」と田上が言う事に詰まると、タキオンがおもむろに口を開いた。

「ないけど…、なんだい?まだ、何かあるのかな?」

「……お前の…お前と同棲って、あんまり頭に浮かんでこないんだよ」

「そりゃあ、何って同棲すれば、君と私は晴れて夫婦になったも同然だけどね。順番がどうなるのかは分からないが。君の仕事の関係で何かあるとしたら、同棲が先で籍を入れるのが後になるかもしれない。逆に、私が今年いっぱいで現役を辞めてすぐに籍を入れるのであれば、籍を入れることが先になって、同棲が後になるかもしれない。その時は、もう同棲とは言わないだろう。恋人じゃないんだから、同棲という言葉は使わずに、当たり前のように君を暮らすわけだ。夫婦が一緒に暮らすのに何か特別な言葉は要らないだろう。君が気になっているのはそこじゃないのかい?同棲って言うより、私と夫婦になるという事の方が想像しにくいんじゃないのかい?」

「まぁ、…そうだね」

 田上は、考えが頭の中で整理できないまま、タキオンの話に返事をした。その後に、またタキオンは話を続けた。田上とは裏腹に、調子は頗る上々のようだったから、饒舌だった。

「じゃあ、少し考えてみようよ。君と私が結婚したらどうなるのかを。まず、どうかな?私は、主婦かな?特にこれと言ってしてみたい仕事はないからね。でも、研究は趣味としてとっておきたい気持ちもあるね。あ、君に言っていなかったよね?私、研究を再開しようと思うんだ」

 ここで田上が怪訝な顔をして「再開?」と聞き返したのだが、タキオンが、ここで話が逸れちゃいけないと思って「軽く実験を繰り返すだけだよ。前のような頻度じゃない」と言うと話を続けた。

「それで、家族寮に住むにしても何にしても、私は家で君の帰りを待ってるよ。その内に、子供ができるだろうねぇ」

 すると、田上が「子供…」と呟いたから、タキオンが反応した。

「子供ができるよ。果たして私たちの子がウマ娘になるかな?私の家は、偶然か必然か祖母の時からずっとウマ娘で生まれてきたけど、そうそう上手くもいかないだろうね。それに、祖母の頃から受け継がれてきて、アグネスという冠名に期待が乗っかってきたけど、自分の子にそれを背負わせるのもなんだか可哀想な気もするね。特に、私がクラシック三冠を逃した立場だ。もし、私の子が走れる子だったら、それはもう期待の大きなものになるだろうね。…どうだろう?」

 タキオンの声色が神妙な物へと変化していき、最終的には田上に聞いてきた。ここで、田上はタキオンの心の一端に触れたが、それに気付けるはずもなく、自分の頭の中を占めていたのは、タキオンとの子供がどういう風に作られるかという事だった。

 田上は、タキオンの問いかけをぼんやりとしながら聞いていたが、頭にはしっかりと入っていて、こう答えた。しかし、あんまり的を得たものではなかった。

「………子供も…作るのか?」

「作る…だろう?…作らないつもりなのかい?」

「…いや、そんなつもりじゃないけど、…なんか、…子供?」

 田上は、自分の考えの整理がつかないままに話しているので、言葉が途切れ途切れになった。

「私と子供を作るのが怖いのかな?でも、夫婦になるなら避けては通れない道だと思うけどね」

「…んん…」

 田上は、曖昧に返事をした。やっぱり考えの整理がつかないので、タキオンの話を半分に聞きながら、もう半分で何かまとまらない事を考えていた。

 それをタキオンも薄々勘付いていたので、田上の考えの整理の一助となるように話を続ける。

「想像してごらんよ。私と結婚した君を。どうなるのかな?一年経っても二年経っても三年たっても、十年経っても一緒に居る。その内に私は三十歳となり、四十になるだろうね。その頃には、子供ももう成人しているか、もうすぐ成人か、という所かもしれない。どうなるのかは分からないけど。でも、もし君と一緒に居れるのであれば、もう死ぬまで君と一緒だと思うよ。今まであった君と私の生活の境目はなくなって、どんなときにも一緒に居る。ただ、子供を作るだけじゃないよ。お風呂にだって一緒に入るだろう」

 そこで、田上が言った。

「…それは、……俺でいいのか?」

 やっぱり曖昧なので、タキオンが「ん?」と聞いて、続きの言葉を催促した。

「……なんか、そういう生活って、あんまり俺に似合わないような気がする。…似合わないっていう言葉があっているのかは分からないけど…。…でも、俺ってそういう生活ができるのかな?今は、暇があるときにはゲームしたりして、それなりにだらだらとした生活を送ってるけど、なんか、結婚してるっていう言葉が俺には似合わないような気がして」

「ふむ…。じゃあ、君が目指す私との生活を教えてくれよ。一体、どんな生活を目指すんだい?」

 そう言われると、田上は黙って考え込んだ。遠くには、まだ波打ち際に座って話している知らない男女が見える。彼女の方は、妙に大きい帽子を被っていたので、田上はその帽子を引っぺがしてやりたい気持ちになった。少し苛々したからだ。お洒落をして、自分たちより上手くいっているように、楽し気に笑っている二人に。その二人を見ているうちに、男の方の顔面も殴りたくなってきた。前歯の二三本でも折って、鼻を変形させてやれば、面食いでステレオタイプに服従してそうな彼女もイケメンじゃなくなった彼氏に愛想を尽かすだろう。二人の間には、愛は無いのだ。それをどうにかして証明してやりたかったが、今の田上では到底そのような度胸はなかった。その内に、田上は自分の考えていることを忘れてぼんやりと海を見てしまっていた。

 

 春の太陽が、緩やかな暖かさをタキオンたちに放ちながら、夏の太陽程高くない位置に行き、正午になろうとしていた。タキオンは、自分が質問したっきり何も話さない田上を、少しの間気にしていたが、やがて、自分の話を忘れて海を見ているんだろうという事を察すると、答えを催促をしないで、田上の肩に本格的に寄り掛かって、自分も海を眺めた。

 正午近くになると、波打ち際で話していた男女もどこかへと立ち去ってしまっていたが、それでも田上は何も言おうとも動こうともしなかった。それだから、さすがのタキオンも朝から何も食べていないのもあって、田上に言った。

「圭一君、もうお昼になるよ…」

 返事はなかった。隣を見れば、確かに目は開いているし、息もしている。寝ても死んでもいなさそうだった。ただ、タキオンの言葉が頭に入っていないだけだろう。タキオンはそう考えて、もう一度、「お昼だよ」と誰に言うともなく呟いたが、当然の如く、ぼんやりとしている田上は返事をしなかった。すると、この冴えない顔で海を見ている愛する人をどうしてやろうかと、タキオンは体勢を整えて田上の顔をまじまじと見た。隣で、タキオンが身動きをしたというのに、田上はまだ気が付く様子もない。その間抜けさが、なんだかタキオンには愛おしく思えて、少し意地悪をしてみたくなってきた。この人の耳に息を吹きかけてみれば、ウマ娘と同様田上も嫌がる素振りを見せるだろう。その様子を見てみたいとも思ったが、その後のタキオンを見る怒ったような目つきを思い出すと、もう別にいいやと言う気持ちになった。けれども、田上に話すばかりでは埒が明かなさそうなので、タキオンは田上の頬を突いて「圭一君」と呼び掛けた。すると、田上は反応を示したのだが、その表情はタキオンが先程想像した、耳を吹いた時の怒った顔と同じだった。どうやら、指で突かれるのも嫌だったらしい。しかし、すぐに中空に目を泳がせると、怒った表情を消して「何?」とタキオンを見よう見まいとしながら聞いた。その表情も何だか愛おしい。タキオンは、今すぐにでも田上の頬を撫でてやりたい気持ちになったが、その気持ちは抑えて平静に言った。

「もうお昼だけど、さっきの答えはどうだい?私との生活に想像はついたかな?」

 そう言われると、先程までの話をすっかり忘れていた田上は、少し慌てた。ただ、ここで嘘を吐いても仕様がないので、正直に告白した。

「あー…、忘れてた。あの砂浜の上に居た人たちの事を考えてて、そのまま忘れた」

「まぁ、そんな所だろうと思ったよ。海は綺麗だったかい?」

 タキオンは最後に若干の皮肉を言ったのだが、田上はそれに「分からない」と答えた。その答えが、今度は、何だかタキオンの癪に障った。表面上には、平然たる顔をしていたが、今すぐにでも田上の顔を怒りながらつつきたい気分だった。この様子は、詳しく観察していれば田上にもすぐに分かったかもしれない。ただ、田上も今日はぼんやりし通しで、頭が上手く回っていなかった。だから、タキオンのわだかまりも解いてやることができずに、そのままお昼を食べることになった。

 

 お昼は、近くのファミレスに行って食べることになった。タキオンとしては、元々この予定だったのだが、想像以上に朝を食べていなかった事が響いて、お腹がぐうぐう鳴ってしまった。それが、少し恥ずかしくもあったが、二人でファミレスに入れば、ウマ娘盛りのカレーを頼んで大喜びでそれにありついた。しかし、田上は、海に居た時からずっと変わらない無表情、もしくは、暗い顔をしていた。笑ったのは、タキオンが田上にカレーを食べた大いなる喜びを伝えた時の愛想笑いくらいで、それより後は、無言で自分のカレーをスプーンで掬っては食べ、掬っては食べていた。その時に、タキオンは悲しくなって、今すぐにでも自分の想いを伝えたい気持ちに駆られたが、生憎、今はファミレスで、人でがやがやとしていたから話すわけにはいかなかった。だから、また海に戻ったときに、今度こそぼんやりとした田上に置いて行かれずに話をしてやろうと思って、田上の様子を眺めた。田上は、子供みたいにぼんやりとカレーを食べていて、時々、スプーンの上からカレーが落ちていた。それにも、田上はこれと言った反応を示さなかったので、もしかすると、カレーすら視界には入っていないかもしれない。――難航しそうだ…、とタキオンは思った。

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