ファミレスからまた海の方へと戻ってきた。本当に、今日の予定は海に来ることしかなかったため、もう座っていることに飽きた田上は、早く帰りたそうにしていたが、それをなんとかかんとか説得してタキオンは田上を海へと連れ戻した。連れ戻された田上は、なんだか悲しげだったが、先程からのぼんやりとした心地からは抜け出せたらしく、面倒臭そうに「何するの?」と聞いてきた。その態度の豹変ぶりが、これまたタキオンの癪に触ったが、それは抑えて、先程思ったことを田上に告げるため、まずは田上に呼び掛けた。
「圭一君」
今度は、タキオンがサンダルを置いた砂浜辺りで話すことにしたので、そこら辺に座りながら、田上に声をかけた。田上は、海を見ると再びぼんやりとした心地が戻ってきたのか、遠くの水平線を見ようとし始めたので、タキオンは慌てて海に田上を持っていかれまいと、話し出した。
「私、少し思うのだけれど…」
ここで、もう田上は海を遠く眺めていたから、タキオンが「こっちを見てくれ」と言って、田上の顔を両手で掴んで強引に自分の方を見させた。田上は、それで現実へと引き戻されたようで、迷惑そうにタキオンの方を見た。しかし、タキオンの顔が不安で少し強張っているのを見てとると、迷惑そうな顔を改めて、タキオンを安心させるように「何?」と聞いた。タキオンはそれでも安心できなかったのか、田上の顔をぎゅっと押し潰さんばかりに掴んだまま言った。
「君、さっきからぼーっとし過ぎなんだよ。このお出掛けは君が物思いに耽るために企画したものじゃないんだからね?私が君と楽しみたいから企画したものなんだ。それを忘れてもらっちゃ困るよ」
「うん」と田上が頷くと、すぐさまタキオンが捲し立てた。
「君と私は、誰がなんと言おうと恋人同士なんだから、もう少し彼女の心を労ってくれないと困るよ。君の彼女も自分を見てくれないと不安になるんだよ?それを分かっているんだろうね?もう君は君だけの物じゃないんだ。私と共にあるものなんだ。だから、しっかりと私を不安にさせないように見てておくれよ」
そして、タキオンが次の言葉に迷った瞬間に、田上が真っ当な反論をした。
「それができないから、今、俺も悩んでるんだよ。急いだって結果なんて変わらないよ。それが嫌なら俺を捨てればいいだけの話だろ。俺を追いかけることに嫌気が差したなら、もう俺を捨てて構わない」
「なら、君が私を捨てろよ」
「嫌だよ。なんで俺がお前を捨てないといけないんだよ」
「だって、君、話すときはいつも自分が捨てられる前提じゃないか。それなら、私が捨てられたっていいだろ?君も私の事が好きなんだから」
「いや、…それは、日本語がおかしい。なんで好きな人を捨てないといけないんだよ」
「それはこっちの台詞だよ!私だって君を捨てたいなんて思わない。それなのに君は私の気持ちを考えもしないで、悩んだ次には――俺を捨てろ、だよ。そりゃあ、こっちも嫌になってくるさ。嫌になるけど、君を捨てる事はしない」
「いや、でも、それはお前を苦しめるだけになるから…」
「でも、例え不幸になったとしても君について行くって言ったじゃないか。まさか、それまで忘れてしまった訳じゃないだろうね?」
「…忘れてない。…けど」
「…けど、なんだい?」
田上の顔を挟んでいたタキオンの両手は、いつの間にか力が緩められていて、その髭のチクチクする顎を時折、赤ん坊の頬を撫でるように動かしていた。
「……けど、お前は守るべき存在であって、…。…大切にしたいものだ」
「でも、愛すべき人だろ?二人で生きようって言ったろ?」
そこで、田上は俯こうとしたが、それは、頬に添えられたタキオンの手に阻まれ、俯こうとした顔を上げられて、こう言われた。
「私を見てくれ。案外、ただの女子高生だ。矛盾を持って生きている。今は、私には矛盾の解決の仕方が分からない。だから、君を頼っている憐れな女だ。もし、君が私を憐れだと思うことができるのならば、どうかその目を私に注いで、どうかその体で私を抱きしめてほしい。愛してほしい。私の目を見てほしい。…嘘でもいい。演技でも何でもいいから、ずっとずっと私の体を抱きしめていてほしい」
ぽたぽたとタキオンの目から涙が流れ始めた。
「君が居なければ、私の居場所はない。今まで散々偉そうなことを言ってきたけど、私もただのバカだ。精神病を偽って生きる事のできたバカだ。君に、何かを言える立場じゃない。でも、君の所にしか私の居場所がないから、…君が私のモルモットになれる覚悟を示してくれた時、私は、本当に安心したんだ。やっと頼れる人ができたんだと。だから、あんまり文句も言わないで、私の傍から離れるなんて言わないで、傍に居てくれたら嬉しいんだ。……嬉しいから、君を引き止めたかった。……私ってバカだなぁ…」
タキオンは、そう言うと、田上との距離をぐっと詰め、泣きながらその唇に自分の唇を重ね合わせた。タキオンは、目を瞑って自分にキスしてくる。田上はどんな顔をすればいいの変わらなかった。ただ、タキオンの荒い息遣いが自分に触れてくるのを感じ、必死に自分の唇を田上と重ねているのを感じた。――撫でてやればいいのだろうか?そんな事を考えているうちに、キスをしたまま田上の体は押されていき、砂浜へと押し倒された。暖かい砂が、肌のある場所に触れたが、未だ田上が大きく感じているのはタキオンの存在で、タキオンは、田上を押し倒した後も泣きながら田上とキスをし続けた。しかし、それも長くは続かず、にわかにタキオンが唇を離したかと思うと、今度は田上の首を抱きしめて耳元で大声を上げて泣き始めた。うるさい事にはうるさかったが、それ以上に頭がごちゃごちゃしてきた。タキオンは、惜しげもなく田上の耳元で大声で泣いている。時折、思い出したかのように、田上にキスをしては、また泣き始める。自分の頬を田上の剃っている髭に擦りつける。田上は、自分が何をしているのか全く分からなかった。タキオンを励ましているのだろうか?勇気づけているのだろうか?否、そのどちらでもない。田上は、ただ砂浜寝転んでタキオンが抱き着いてくるのを受け止めているだけだった。
まるで幼子のようにしがみ付いてくる女子高生を、田上はどう扱えばいいのか分からない。言葉をかけてやればいいのか?――違うだろう。田上には、どんな言葉を掛ければ、タキオンが元気になるのか分からないし、そもそもこれが元気じゃないのかも分からなかった。泣いているという事は、元気が無いという事かもしれないが、タキオンは、ただ泣いているという事ではなく、人の耳元でこれでもかとばかりに大声を上げて泣いているのだ。見方によれば、元気という見方もできるだろう。それでは、田上はタキオンに何をしてやればいいのだろうか?頭を撫でて、その有り余る元気を落ち着かせてやればいいのだろうか?しかし、生憎、田上は首から上をタキオンに掴まれているので、その頭の方には手が届かないし、かと言って背中をぽんぽんと叩くとなれば、なんだか億劫で仕方がなかった。
田上は、先程の鬱屈とした心地から抜け出しこそしていたが、その代わりに、現実感が消えた。耳に大声が直接入ってくるのは変わらないし、タキオンの全体重が田上の上にあるのも変わらないが、考えだけは、どこかに分離されていて、タキオンが居る世界とは別の所で物を考えていた。田上が、もうタキオンの処理を諦めて、成すがままにし、考えていたことは、――なぜ自分がトレーナーになったのか、だった。トレーナーになりたいと思った動機は、以前の話である通り、テレビであるトレーナーとその担当のウマ娘の特集を見たからだった。しかし、トレーナーになってからの生活はどうだろう?確かに、トレーナーには幾千もの道があって、誰もが同じ道を辿るわけではないと承知の上だったが、この状況を見るに、なぜ自分がトレーナーになったのか、について思いを巡らさざるを得なかった。
自分にとって一体トレーナーとは何だったのだろうか?優しくて、強くて、無欲な男が成るものだったのだろうか?いや、違うだろう。必ずしもそれに当てはまらないというのは、番組の特集を見て知っていたはずだ。あの番組に出ていたトレーナーは、担当していたウマ娘を勝たせてやることができなかった。強くはない。強くはないが、自分にはその人がどうしても強く見えた。鬱屈とした感情に弄ばれながらも、最後までやり遂げたあの人に自分は成りたかった。思えば、それが動機なのかもしれない。うだつの上がらない、ただのゲームが好きな高校生から卒業し、優しくて、強くて、無欲な男になりたい。理想の自分になりたい。ああすれば、自分も何もかもから認められるようになるだろう。右の人、左の人、電車に乗っている人、その人が担いでいる赤ん坊、その赤ん坊が持っている古びたクマのぬいぐるみ、錆びた缶コーヒー、いつもの日常、数々の栄光。それが、今はどうだろう?女子高生を泣かせて、自分にしがみ付かせているだけだ。これが、自分のやりたかった事なのだろうか?何か、何かあると信じたかった。何かになれる。自分でも何か成し遂げられる。
――俺は、皆の憧れの存在になるんだ!
ただのバカだった。うだつの上がらない、ただのゲームが好きな高校生は、年を取ってトレーナーになっても、うだつの上がらない、ただのゲームが好きな二十五歳でした。女の子の悩み一つ聞いてやることができません。女の子ただ一人すらも、救ってあげることができません。僕は、うだつの上がらない、ただのゲームが好きな二十五歳です。森羅万象の理など、全く持って知りません。明星が地に落ちる事を、何故と説明できる奴ではありません。僕は、女の子一人に手をこまねいている、バカな人間の一人にすぎません。
その時、タキオンがまた田上にキスをして、にわかに田上は現実の世界へと連れ戻された。タキオンは、一度うんうんと泣きながら田上と唇を重ねた後は、また暫く田上の耳元で大声を出す事に注力した。田上は、未だにどうすればいいの分からずに、空を見上げていた。本日は、快晴により陽が暖かく降り注いでいたが、午前中の時に東の空の方に見えた太陽は、今はもう西側へと舵を切って、沈む方へと向かっていた。陽の心地良い暑さが、田上を混乱させたのかは分からないが、段々とタキオンの泣き声が心地良く聞こえ始めた。これには、自分でも少し驚いたが、心地良くなってきたからと言って、何かするという事はなかった。相変わらず、田上にはどうすればいいのか分からない。
――いつまで泣くつもりんだろう?
その疑問が、脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。まるで、泡のようだった。ぽわぽわと水面に浮かんでは消えてゆく。それとも、波を連想してもいいのかもしれない。寄せては返す白波。白く見えるのは、泡が立っては消えてゆくからだ。今生揺らめく波の泡と少年の頃の記憶を思い返しながら、田上は、泡になりたいと思った。泡の人生は、短くて儚げだ。たったの一瞬しかこの世に生きることは許されない。だが、そう考えた後に、田上は自分で自分の考えに反論した。地球の歴史を考えれば、自分も泡のような物だ。四十五億年かそこらの地球に比べれば、人間の一生など四十五億分の百だ。いや、百も生きれる人の方が少ないだろう。昔の時代で言えば、病や飢えや災害などにより五十生きれる人も少なかったはずだ。だから、この世に生を残すことに寿命など関係がない。五十も百も、昔の人も今の人も、そこら辺の爺さんもイヤホンを着けて歩いている若人も、地球が何歳であろうと関係なく、この世に存在しているのだから。それが、明日死んだって存在していたことに変わりはない。タキオンだって、いつか車に轢かれて呆気なく死んでしまうかもしれない。こんなに華奢な体で一生懸命にしがみ付いてくるタキオンも、明日には死んでしまうだろう。そう考えると、田上もタキオンがなんだか可哀想になった。けれども、何をしてあげるわけでもない。相変わらず、タキオンの声を聞き続ける。
そして、また初めの疑問に戻った。
――いつまでこいつは泣き続けるんだろう?
田上には、タキオンに声をかけてやる度量もないし、元気もない。ただ、しがみ付かれているだけだ。女子高生が、自分を頼ってくれているからと言って、元気が湧いてくるわけでもない。抜け殻でも何でも構わない。誰か、別の人と自分を入れ替えてほしい。でも、そうすると、タキオンは誰にも頼ることができなくなってしまうだろう。先程のタキオンの言い分ではそうだし、田上も薄々それには勘付いていたような気がした。タキオンには、不安定な部分があるというのは、本人が前々、と言っても大阪杯の頃だが、前々から言っていた事だ。それを、やっと今正面切って田上に打ち明けることができたのだろう。ただ、薄々勘付いていたと言っても、まさか、タキオンがこんなに溜めこんでいるとは思っていなかった。そのガス抜きをしてやれなかったのは自分のせいだろうか?…そうかもしれない。何て言ったって、自分はうだつの上がらない、ただのゲーム好きの二十五歳なのだから。
すると、田上の頭に次の疑問が浮かんだ。
――タキオンはどうだろうか?
ただの……何なのだろうか?田上には、あまりピンとこない。――研究好きの女子高生?十七歳?午前中には、研究を再開すると言われたばかりだが、それでも、一度嫌気が差して辞めたわけだから根っからの研究好きというわけでもないだろう。それでは、一体何なのだろうか?タキオン自身が考えている自分とは一体何なのだろうか?田上には、それが気になった。その時に、またタキオンがキスしてきたので、自分の考えに耽っていた田上は案外動揺してしまって、キスをされながら口の中で「んん」という声が出てしまった。すると、これまでのキスされるままの田上が違う反応を示したことに驚いたのか、タキオンが一度泣き止んで、涙でぐしゃぐしゃの顔で田上の顔を見つめた。それに、田上が見つめ返し、二人は暫くの間見つめ合ったが、唐突にタキオンが田上に唇を重ねると、再びスイッチが入ったのかタキオンが泣き始めた。田上の表情は、あまり変わらなかったが、話したいことができたので、静かな声で「タキオン」と呼び掛けた。あまりに静かな声で、タキオンの泣き声にかき消されでもするのじゃないかと、田上は自分で思ったが、そんな事はなく、むしろ拍子抜けするくらいにタキオンはすぐさま反応した。すぐにタキオンは泣き止んで、田上の顔を見つめた。それから、少し萎びた声で「なに?」と聞いた。田上は、それが少し可笑しくもあったが、自分の目的は忘れず、にこりともしないでこう言った。
「お前は、どんな人なんだ?」
「私…?」
相変わらず、萎びた声でタキオンは不思議そうにそう答えた。
「お前。…どんな人なんだ?」
それ以外、田上には言う事がなかった。ここで、「お前は研究者なのか?」と正体を提案するような質問をしても上手くはいかないような気がしたからだ。
タキオンは、暫くぼんやりと田上の顔を見ていて、田上には、それが考えている顔なのかどうなのかは分からなかった。しかし、律儀に待つことはしていて、ある時、唐突にタキオンが再び田上にキスをすると言った。
「私は、…ただ、君が好きなだけだ。君を好きになってしまっただけで、他には走る事しか取り柄のない、ただの女だ。だけど、君が好きな女だ。…傍に居てくれ…」
「傍に居るってどうすればいいんだ?ただ、傍に居るだけじゃダメなんだろ?」
「私をしっかりと見てほしい。私だけを見てほしい。私の我儘をこれまで以上に聞いてほしい。私の我儘に何も言わないでほしい。ただ、素直に――分かったと言って、私がキスしてくれと頼んだら、キスをしてほしい。…でも」とタキオンが話を続けようとしたのだが、その前に田上が話し出した。
「キス…。キスが好きなのか?」
「好き…、…好き。君が嫌がっているのなら、尚の事好きだ」
「なんで?」
「…そっちの方が、君が私に尽くしてくれているという事が分かる。…キスしてくれ」
「…今?」
「今。君からしてくれ」
そうすると、田上は少し考えてから、今、自分の体の上に乗っかって、自分を見下ろしているタキオンに言った。
「なら、体勢を変えよう。俺からするのに、この体勢じゃ不味い」
「ああ」と半ば嬉しそうに、半ば信じられないようにタキオンが頷いた。
今の田上は、頗る冷静だった。タキオンを愛する心は在ったし、その心に真摯に向き合って、その言葉を告げた。キスも不思議と恐ろしくはなかった。阪神レース場から帰った日にタキオンにキスをしたのは、タキオンを助けたい一心で、必死のあまりにした事だった。それと今からするキスは違う。そのキスは、それをした瞬間からタキオンに身も心も捧げることを誓う、今生のキスだ。それをすれば、田上はもうタキオンに尽くすだけ尽くさなければならなくなるだろう。これは、タキオンが研究をしていた時の自分の態度のようでもあったが、今は関係が違う。このキスは、タキオンに身も心も捧げるキスだが、同時に、田上自身がタキオンを心の底から愛する覚悟を決めるキスでもある。タキオンは、もう覚悟は決めている。その覚悟は、正面切って伝えてくれた。ならば、今度は田上がそれに応える番だ。
タキオンと共に体を動かすと、田上が上になりタキオンが下となる体勢となった。田上は、タキオンを見下ろし、その顔を眺めた。泣き疲れたような顔をしているが、今から起こる事を楽しみにしているように口角も上げていた。その顔を見、その赤い瞳を見つめながら、田上は覚悟を決めた。
「目を閉じて」と呟くように言った。タキオンは、深呼吸をしてから目を閉じた。その顔を見ると、田上は眼鏡を外して砂浜へと置いた。それから、ゆっくりとタキオンの顔に近づいて行き、その唇にキスをした。暫く二人は白昼堂々キスをしていたが、その内に、タキオンが田上の首の後ろに手を回し、体の距離を近づけさせた。ウマ娘の力だったので、田上はそれに抗うことができず、頭の中で苦笑しながらもタキオンの上に乗り、キスを続けてやった。
田上も目を閉じていたので、時の流れが分からないままにタキオンがキスしていると、段々とタキオンの鼻息が荒くなっていることに気が付いて、目を開けた。タキオンの目を瞑っている顔が、視界に広がっていたが、その目の端から再び涙が漏れ出ているのに気が付いた。その涙は、タキオンの頬を伝って砂浜へと滴っていた。その事に気が付いて、田上がタキオンの上で身を起こそうと身じろぎをすると、田上を抱き止めていた腕がより一層力を増して、田上を抱き止めた。どうやら、どこにも行かないでほしいという事らしい。かと言って、こうも口を塞がれていると話が進まない。田上は、そのままタキオンを放っておくこともできないから、どうしたものかと考えを巡らせたが、田上の力でウマ娘の力に敵うわけがないので、そのままタキオンがキスをしてくるのを受け入れた。しかし、どうしてもどうしても、タキオンの荒い鼻息が苦しそうに田上に吹きつけてくる。タキオンと何とか話をしてやりたい。してやりたいと思うのだけれど、タキオンは田上をがっちりと抱き止めて離そうとはしない。身動きをすれば、尚の事、力は強くなるばかりだ。田上の頭には、段々と恥ずかしさも込み上げてきたが、恥ずかしさでタキオンと唇を離すわけにはいかない。受け入れる事には、受け入れる。しかし、気になる気になる。どうにも腹の奥がもぞもぞする心地に襲われる。このまま、タキオンとキスをしていていいものか、と疑問が頭に浮かぶ。しかし、それは受け入れる。田上は、タキオンを受け入れる。ただ、ここから脱出しなければならない。しなければならないのだ。そうすると、押してダメなら引いてみろ、という言葉が田上の頭に浮かんできたから、田上はその言葉を参考にして、何かをしてみることにした。
まず、手始めに、体勢をちょっと変えた。それに、タキオンは反応して、田上を逃がすまいと力を込めたのだが、田上は逃げる気など毛頭ないので、体勢を変える事はできた。変えると言っても、少しばかりだったが、そうすることによって、力の入れ具合が変わって少しタキオンとキスをし続けるのが楽になった。
次に、どうしてみようかと考え、田上はタキオンの脇を少しくすぐってみた。すると、タキオンが少し怒ったように「ん」と言い、腕の力を強めた。田上は、その反応がなんだか可笑しくて、少し鼻から息を出して笑ったが、息が続かずちょっと苦しくなった。
その次に田上は、またどうしてみようかと考えた。押してダメなら引いてみろという言葉通りに実行するのであれば、自分はタキオンとこれ以上に深いキスをしろという事になる。それは、少し不味いから田上はもっと考える。すると、この考えに至った。
――そもそも、自分たちは両想いの恋人通しであるのに、押してダメなら引いてみろ、という恋人じゃない人がする駆け引きの言葉を参考にするのがおかしい。
それで、また振り出しに戻った。どうしようもなくタキオンは、田上を引き留め続ける。喋るすきも与えたくないらしい。それは、もっともだ。これまで、田上がタキオンにした仕打ちの事を考えれば、こうなったタキオンが田上にしゃべらせたくないと思うのは、至極もっともなことだ。それまでに自分が酷い事をしてきたのかと思うと、段々と、今度は自分の方が涙が出てきた。こんなか弱い女の子を不安にさせるだけ不安にさせて、自分も苦しんで。一体、自分の人生はなんだったのだろう?という疑問が頭の片隅に浮かんできたが、それよりも強く思い浮かんだことは、もうタキオンを不安にはさせないという強固な意志だった。それでも、涙は数滴垂れて、タキオンの顔に滴った。すると、タキオンが微睡みから覚めた様に目を開けて、田上を見た。赤い瞳が、涙でゆらゆらと揺らめいている。その時に田上は目を閉じていたから、タキオンが目を開けたことには気が付かなかった。タキオンは、田上の顔をじっと眺めた。この人もまた、自分と同様に目の端から涙を垂らして泣いている。
――何故泣いているのだろう?
タキオンはそう思った。また、自分を責めて落ち込んでいるのかもしれない、とも思ったのだが、その様な表情ではなかった。むしろ、何かを悔やんでいるような、叩いているような表情だった。もしかすると、自分を責めていることに変わりはないのかもしれない。
それから、タキオンは田上を抑えていた腕をそっと解いた。もう、気が済んだような心地だった。だが、田上はタキオンが腕を解いてもタキオンから離れようとはしない。必死にタキオンと唇を重ね続けている。それが、タキオンには嬉しくて嬉しくて、田上がしてくれているのだから、自分もそれに身を委ねた。
田上が、不意に身を動かして、自分を縛るものが何もないと気が付いた時に初めて唇が離れた。タキオンは、名残惜しげではあったが、目を開けて田上を見た。田上も不思議そうな表情をしてタキオンを見た。それから、言った。
「もう終わりでいいのか?」
「君が続けたいのなら、いくらでもしていいよ」
自分の声が、思ったよりしわがれていて、タキオンは恥ずかしくなった。しかし、田上はそれには構わず、緊張の糸が切れたかのように息を大きく吐くと、タキオンの右へと大の字に仰向けになった。西へと進む太陽が目に焼き付いて、田上は一瞬自分の目を守るために目を瞑った。それから、左のタキオンの方に首だけを動かすと、言った。
「まだ、やりたいなら続けてもいいよ」
左に居たタキオンは、田上と同じように砂の上に大の字になり、その口角を上げていた。その間、暫く話さなかったが、唐突に口を開いて言った。
「…もう気が済んだ。…さすがの私も、こう連日長いキスを繰り返していると疲れてきたよ」
その後に、「ありがとう」とタキオンが呟くように言ったから、田上が「どうも」と答えた。二人は揃って同じような顔で空を眺めた。二人の目の端には、涙が少し滲んでいた。太陽がそれをキラキラと光らせる。すると、次には田上の大きなため息が聞こえてきた。余程疲れたらしい。そのため息にタキオンが苦笑しながら「大丈夫?」と聞いた。田上は、それに「大丈夫」と答えた。