ケロイド   作:石花漱一

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二十一、海岸線、白く染まる⑧

 暫く、大人しく唇を重ねていると、不意に首に絡ませていていた腕が解かれて、唇が離れた。タキオンは、何が可笑しいのか知らないが、ニコニコニコニコしながら田上に「ありがとう」と言った。田上は、それを少々不機嫌そうに睨むだけだったので、タキオンはそう言ったすぐ後に泉記者の方を向いて、「どんな具合だい?」と聞いた。

 これで自分は用済みだろうと思ったので、田上はさっきから妙に重い体を砂浜へどさりと音を立てて下ろした。今にも寝転がりたい気分だったが、寝転がってしまえば、他の立っている二人が気になる。せめて、泉記者が帰って、タキオンと二人きりにならなければ、田上としては落ち着けそうにない。

 そんなところに、間の悪い二人組がやって来た。田上たちの隣という程ではないが、あまり遠くない波打ち際に腰を下ろした。そして、大きな声で話して笑っている。話の内容はあまり分からないが、それでも、耳に入ってくるくらいの大きな声だった。これでは、例え寝転がれたとしてもあまり寛げそうではない。そんな事を思っていると、タキオンの方から声をかけられた。「君のスマホにも写真は転送しておくかい?」との事だったが、田上は「タキオンのスマホに残るならそれでいい」と答えた。それよりもなんだか体が怠い。しかし、まだ話はあった。当然のことながらキスの写真は記事には載せないでほしいのだが、他に載せないでほしい写真を選べとタキオンに言われた。田上はもう、どうでも良かったのだけれど、一つ気掛かりな自分が全力疾走をしている写真があったので、それはやめてほしいと頼んだ。その後暫く、田上が海を眺めている後ろで話している、二人の会話に耳を澄ませた。どうやら、何もかも終わったようだった。タキオンと泉記者が終わりの言葉をいくつか話していたかと思うと、唐突に田上の方も叩かれて、泉記者に満面の笑みで「では、自分はこれでお暇させていただきます。本当に急なお声かけすみませんでした。今後のご活躍を心からお祈り申し上げます」と言い、それから「それでは、さようなら」と告げて砂浜に足跡を残して立ち去って行った。田上は、その後ろ姿を暫く見つめた後、不意に顔の向きを変えタキオンを目を合わせると、疲れたようなため息を一つ吐いて、砂浜にゴロリと力なく横たわった。そうすると、タキオンが近くに寄ってきて言った。

「あの人、大分切れた人だったね」

「…ああ、……やばい人だった……」

 あまりに力のない声にタキオンは、少し口角を上げたが、その後に田上を労わるように言った。

「今日は疲れたかい?」

「……あぁ、…疲れた…。なんか…、…もう、やる気なくなったよ…」

「もう一度私とキスしてみる?」

「…して…」

 田上が、生気のない顔をしながらそう言うと、田上の横に座っていたタキオンが屈みこんで、田上の唇にチュとキスをした。それから、タキオンが田上を見つめながら言った。

「やっぱり、君に苦労を掛け過ぎたかな…」

「…泣いたり、怒ったり、悩んだり……。俺はもう、……何が何だか分からなくなった」

「…私のせい?」

「…いや、…別に、お前のせいじゃない。…ただ、悩む事に疲れて、…そう思ったら、お前も大変で…。キスして、キスされて、お前が女子高生なのか何なのか分からなくなって、お前の事を想えば想う程疲れてくる…」

「…じゃあ、やっぱり私のせい?」

「…いや、…お前のせいじゃない。……ただ、…俺は、…人と人の間に壁を作る事に疲れたんだ。お前との間にも厚い壁があった。…結婚するには、それを除かなきゃならない。…今日、海に来て、お前とキスをしてそれを除くことができた。…ただただ、…詰まらない生き方をしてきた。もっと…もっと、…お前に心の底から預けるのを初めからしておけばよかった…」

 すると、タキオンが言った。

「でも、初めからは無理だったんじゃないか?…私も初めは君を利用しようと思ったわけだ。君も、初めは私の事をただの脚の速い狂人のようなウマ娘だと思ったはずだ」

 その言葉を聞くと、田上がふふふと先程よりかは力有りげに笑った。

「…的を得てる。…タキオン…」

「なんだい?」

「俺を……心の底から委ねさせて…。俺を許して…。俺は、…お前の事が、好きで好きで堪らない。…だから、…俺はお前と違って大人だけど、身も心もお前に包んでほしい。…疲れたんだ。生きていくのに…。でも、生きてなきゃいけないんだ…。…俺を、…俺を好きになって…。俺を、愛して…。時には、少し我儘になるかもしれないけど、辛くなったら膝で寝かせて…。俺は、今まで…、大変だったんだ。お前の事を想ってやれない程。…だから、辛くなったら休ませて…。休める場所が、俺にはないんだ。…家に帰っても、もう休めない。次には、仕事がある。友達と遊ぶ時だって休めない。…お前と一緒に居たい。…お前が好きだから、…傍に居てくれると安らげる…。気持ちが、ふっと和らぐ。…愛してくれてありがとう」

「…私もだよ。ほとんど君と同じことを想ってる。私とずっと一緒に居てね。健やかなる時も病める時も一緒に居れると誓える?」

「誓える…」

 そう言って、田上は寝転がったまま左手を上げて、タキオンの髪そっと撫ぜた。

 それから、二人は黙って海を見たり、お互いの顔を見たりして過ごしたが、ある時、唐突に田上が言った。

「今なら、ありありと想像する事ができる」

「…なにがだい?」

「…結婚した時。…多分、俺は疲れて帰って来る。お前は、それを出迎える。エプロンをつけてる。夕飯の匂いがする。お前が、満面の笑みで――今日の夕飯はカレーだよ!って言ってくれる。その後に、俺がスーツを脱ぐのを手伝ってくれる。風呂も沸かしてくれているかもしれない。リビングに行けば小さな子供がいる。…パパって呼ぶのかな?」

「…どうだろう?私たち二人の親の呼び方は、どっちも父さん母さんだろ?すると、君がもしパパって呼ばせたいなら、帰って来るたんびに――パパだよー、って言って抱っこしないといけないんじゃないか?」

「…名前はどうするかな?…一つ、男の子だったら候補があるんだけど」

「なんだい?」

「…高松信夫の『沢下り』に出てくるお父さんの名前」

「…分からないよ?読んだことないから」

「…燈太郎」

「とう?…漢字は?」

「燈篭のとうに太郎で燈太郎」

「ふむ、いいんじゃないかい?その名前」

「…タキオンは?…何かないの?」

「私はねぇ、…あんまり考えたことはないね…」

「…まぁ、子供ができるのは、まだ大分後だな…。まだ、十八にもなっていないお前はダメだ」

 田上がそう言うと、タキオンがにやりと笑った。

「おやぁ?後十日程もすれば私の誕生日になるが、その心はどうかな?」

「…引退までは、当分無理だな。…別に、お前が今すぐ引退して、俺と暮らしたいっていうのなら、結婚してもいいけど…」

 すると、次にタキオンの顔は急に険しくなった。田上を見つめていた目をふっと逸らして、宙を見つめた。だから、田上はタキオンを落ち着かせるために言った。

「…いいんだよ。お前の居場所もちゃんとあるから、自由に走るも生きるもしてくれ。…今までごめんな。お前の肩に重荷を大分背負わせた。…俺の命がお前にかかっていたようなものだったからな…」

 それでも、タキオンの顔の強張りは取れない。だから、今度は、田上は体を起こして、タキオンに言った。

「宝塚記念…、どうする?」

 タキオンは、緊張した顔で田上の目を見て、すぐに逸らした。

「お前、怖いのか?」と田上が再び聞いた。すると、タキオンが重い口を開いて言った。

「怖い…かもしれないけど、ギリギリまで考えるのはやめさせてくれ。前にも言っただろ?今は、そんなに考えたくない。…ギリギリでも間に合うことには間に合うだろ?」

 田上は、そう言っているタキオンを不思議に思いながら見つめていたが、その話が終わるとこう言った。

「そうだな…。走るにしても走らないにしても、一緒に居る事に変わりはないからな。…タキオン、…来て」

 最後の言葉は、砂の上に寝転がりながら言った事だった。だから、タキオンはおずおずと腕を伸ばし、地面に突いて体の支えにすると、田上の上に覆い被さった。それから、広げている田上の両腕に包まれて、ゆっくりとその上に体を下ろした。途端に、体の強張りが解けて力が入らなくなった。それとも、入らせなかった、と言った方が正しいだろうか?ともかく、タキオンは田上の上で少し変な体勢ながらも安らぎを感じることができて、ゆっくりと深い息を吐いた。

 その後に、田上がぽつりと言った。

「……疲れたな…」

 体の上でタキオンを抱いていると、これまで以上に疲れそうだった。しかし、同時にその身の温かさも感じることができて、田上は少し混乱した。次いで、タキオンの髪から、体から心地良い匂いを感じた。田上は、ため息を吐くともなく吐いて、タキオンの背を落ち着かせるようにぽんぽんと叩いた。

 波の音が、子守歌となって二人の頭に響いた。先程の騒々しい大きな声も今は聞こえない。海を見るのに飽きて、どこかに行ってしまったのかもしれないし、波の音がそれをかき消してくれたのかもしれない。ざざん、ざざんと寄せては返す波が頭の中に浮かんでいた。いつしか、二人の脳裏は海となって、安らかな眠りに就いた。朝日が遠くに見える。その光が、太陽の来訪を告げる。水平線が白く染まる。その白く輝く波は、いつしか田上とタキオンの下まで伸びて、海岸線を白く染めた。

 

 田上が、目を開けると白が目に映るのは言うまでもない。しかし、一番初めに目に映るのは、栗毛の頭で、次いで、空、その次に、白いワンピースだった。風に吹かれてぱたぱたと揺らめいている。田上は、それを見て自分が眠り込んでしまったのだと気が付いた。タキオンを上に乗せていたので、体が重苦しかったが、タキオンも寝ている事を確認すると、どうしたものかと考え込んだ。タキオンをもう少し寝かせてあげたかったが、トレセン学園の門限には間に合わなければいけない。ここは、心を鬼にしてタキオンを起こしてあげる他なかった。だから、田上はタキオンを本当に起こしたいのかと思う程、微かに揺すった。当然、そんな微弱な揺れではタキオンも起きるはずがない。しかし、田上もタキオンを起こさないといけないので、微弱な揺れを長く続けて、タキオンがそれに気が付くまで待った。タキオンもそこまでされれば、その揺れに気が付いて、目を覚ました。体の上に乗っていたタキオンは、田上とは反対の方に顔を向けて寝ていたので、どんな具合で寝ていたのか分からなかったが、目を覚まして顔を上げたタキオンを見ると、涎を垂らしながら寝ていたことが一目で分かった。だから、田上が「涎が出てるよ」と微笑みながら言うと、まだ寝ぼけているタキオンが自分の腕でその涎を拭った。そして、再び元の姿勢になって眠ろうとしたかと思うと、にわかに顔を上げて田上にキスをしてから、また元の姿勢に戻って寝ようとし始めた。その様子に思わず田上は苦笑してしまったが、やっぱり起こさなきゃいけないので、タキオンの小さな肩をそっと叩いて、「もうそろそろ帰らないといけないんじゃないか?」と囁いた。タキオンは、返事のような唸り声を上げて数秒した後、寝ぼけ眼の顔を上げて田上に言った。

「君、……あれ?…君とキスをしたのは夢じゃないよね?」

「どのキスの事?」

「…いや、…君と一緒に居たくて…」とタキオンは、言葉を詰まらせたから、次に田上が言った。

「多分、夢じゃないよ。今日で、もう一生分のキスをしたといえるくらいには、キスをしたよ」

「…私は、まだ一生分じゃ足りない。君の二生分も三生分もキスは私の物だ。誰にも渡さない」

「誰にも?…じゃあ、俺たちの子供にも渡さないと?」

「君は、自分の子供にキスをするのかい?」

 タキオンが、田上の体の上で怪訝そうに顔を歪めて聞いた。すると、それに田上が答えた。

「小さい頃なんかは、ほっぺにちゅーぐらいはするだろ?」

「ああ、ほっぺだね?それなら、構わない。ほっぺにチューくらいならぜひ子供の方にも分け与えてあげよう。…でも、君が赤ちゃんを抱いて、それにチューするなんてあんまり想像できないな」

「だろ?俺もつい午前中まではそれが想像できなかったから、どうすればいいのか分からなかった…」

「それで?君はどういう風に想像できるようになったんだい?」

 タキオンがそう聞くと、田上は少し苦笑してから言った。

「そりゃあ、お前が、傍に居てほしいとか、愛してほしいとか、言うから、…こう、…俺もお前の気持ちに応えて、一緒に居てやらなきゃな、っていう気持ちになったんだよ。だから、お前が俺にしがみ付く様にキスをしている間に必死に考えて、考えて考えて、お前の夫として横に立ってやろう、その生涯を支えてやろう、と、そう思ったけど、…これは少し格好つけてるかな?」

「まぁ、君にしちゃ、いつになく傑作小説の主人公のようだけど、それは本心の事なんだろう?」

 田上は、首を縦に振ってそれに答えた。

「なら、私はそれにあやかろう。…前にホテルで言った事があるだろ?…幸せはあっと驚くような冒険をして手に入れるものだと。君は、今、私という心の底からの幸せを手に入れることができたね」

「そうだろうな」と田上が微かに口角を上げると、タキオンが唐突にその顔を動かして、田上とキスをした。だから、田上が再び苦笑しながら言った。

「お前は、相当なキス魔だな。酒なんか飲ませたらもっとすごい事になるんじゃないか?」

「キス魔と言えばキス魔だけど、酒なんか飲んだって視界まで酒に支配されない限りは君にしかキスはしないよ。私が虜にしたいのは君なんだから」

「虜にしたいから俺にキスをするの?」

「…まぁ、…聞こえは悪いけど、そんな事で私を嫌いになったりしないよね?」

「しない事にはしないけど…、虜……。虜にはなったな。…思惑通り?」

「思惑…って程本気で虜にしたいとも思ってないよ。…ただ、…さっきも言ったろ?尽くしてくれているのを感じたいし、愛してくれているのを感じたくて、……嫌いにならないで…。君が嫌だって言うんならやめるけど…」

「別にやめなくてもいい。お前が不安になるようなら、俺も何でもするし、俺の居場所はお前でもあるんだ。もう、今更離れる事もできない。キスをしたいなら、何時間だって離してくれなくたって結構。俺もそれが嬉しい。…お前が、…俺を好きでいてくれるのが嬉しい」

 最後は、少し恥じらいが出てしまって、タキオンはその田上の様子を見つめながら、ふふふと笑って言った。

「やっぱり、私が好きになったのが君でよかった。ここまで、正直な人間もそうそういない。バカと言うべき正直かもしれないけど、私はそれくらいが好きだ」

 それから、恥ずかしそうに顔を歪めている田上と嬉しそうにニコニコしているタキオンが、暫く見つめ合った後、やっぱりタキオンが唐突に田上にキスをした。田上もそれを予期していたからあんまり動揺もせずにそれを受け入れて、言った。

「…今何時くらいか分かる?」

「えっと…」とタキオンが、自分の持っていた小さな手持ちバッグの中から紺色のスマホを取り出すと、その電源をつけて時間を調べた。午後四時三十七分頃だった。寝始めたのが、恐らく四時前頃と推測できるから、ざっと計算すると四十分近くは寝ていたわけだ。その事に考えが至ると、先程から田上の上に乗って過ごしているタキオンの重みが殊更に重く感じれるようになって、「タキオン、少し降りて」と声をかけた。タキオンもそこまで融通の利かない我儘っ子ではなく、さすがに人が一人自分の上に四十分も乗っていたら体も疲れるだろうという事は分かっていたので、素直にそれに「ああ、分かった」と返事をして、今度は大の字に寝ている田上の腕の上に頭だけを乗っけた。その様子を田上は物言いたげにじっと見ていたが、タキオンが「なんだい?」と口元に笑みを湛えながら言うと、田上はお道化るように口角を上げて「何にもない」と言った。そして、大きく息を吸い込んだ。タキオンの重みによって圧迫されていた肺に新鮮な空気を送り込む。それから、空気を入れ替えて、大きく息を吐いた。右腕に乗っているタキオンの頭がごろりと仰向けなって、空を見上げるのを感じた。二人で一時空を見たが、さすがにもう眠りに就くこともなく、田上も幾分理性が働いていたので、不意にヨッと起き上がると隣に寝ているタキオンに言った。

「何時に帰るんだ?もうそろそろ帰ってもいい頃だと思うけど。…少なくとも、あと十分二十分後くらいまでには電車に乗らないと、門限に間に合わない」

「じゃあ、その時に帰ろう。あっちに帰れば、二人きりの時間なんてそんなにないんだから…」

 そう言って、空を見ているタキオンを見つめながら、田上はタキオンへの反論を考えた。しかし、十秒後くらいに反論する必要が無いと分かると、田上もタキオンと同じように寝転がった。そして、タキオンの頭をまた自分の右腕の上に乗せると、今度はタキオンがむくりと体を動かし、田上の視界を塞ぐように覆いかぶさりながら言った。

「歩こう。このまま寝てるのはつまらない。ちょっと堤防沿いに海を歩こうよ」

 田上は、その顔をじっと見つめたまま、黙って何も答えなかった。タキオンも田上の顔をじっと見つめたまま何も言わない。二人共何も言わない。十数秒の沈黙が流れた。その後、田上が少し目を逸らし気味にこう口を開いた。

「……キスは?…しないの?」

「キス?」

 タキオンは、あたかも田上がそう言い出す事を分かっていたと言うように口角をニヤリと上げて聞いた。すると、田上も迷惑そうに恥ずかしそうに眉を寄せて、口を歪ませながら答えた。

「キス。………したそうな顔をしてる」

「私は今はしたいだなんて思ってないよ?それよりも君の方が幾分したそうな顔をしてるよ。…してほしいのかい?」

 タキオンが、からかうように言うと、田上は本格的に眉を寄せて、悩ましそうな顔をした。その頭の中で考えている事が、タキオンには手に取るようにわかって面白かった。

――タキオンにキスをせがもうか?でも、それだと、男として情けない。恥ずかしい。でも、少しくらいだったらいいんじゃないか。もう、将来を誓った仲だ。でもでも、やっぱり情けない。大の大人が、女子高生にせがむような事じゃない。これじゃあ、まるでバカップルだ。男は男として毅然としなくちゃいけない。でもでもでも、キスをしてくれたら嬉しい。タキオンだってせがめば、なんの躊躇いもなくしてくれるだろう。してくれるだろうが、せがむのが恥ずかしい恥ずかしい。

 こんな具合に田上が考えているのが、その表情から読み取れた。それでも、依然としてタキオンが田上の顔を見つめていると、とうとう田上も堪え切れなくなったのか、こう言った。

「…キスをしてほしいけど、…してほしいけど、あんまりからかわないで。そりゃあ、俺だって一人の人間だよ。お前とキスもしたいよ。したいから、あんまりからかわないでくれ。……キスを…して」

 嫌そうに言う田上をタキオンは微笑みながら見つめた後、「じゃあ、行くよ」と言うと、田上の唇に軽くキスをした。タキオンも田上がそれで満足しただろうと思って、顔を上げて田上の顔を見ると、田上はまだ少し物足りた無いというような表情で自分の唇をもぞもぞ動かしていた。それで、また田上が何か言いだすのかと思って、タキオンはその顔を見つめたまま待っていたのだが、一向に話そうとしないし、話さないなら話さないで動こうともしない。ただ、タキオンから目を逸らしたまま、自分の唇をもぞもぞと動かしているだけだった。だから、タキオンも、これはタキオンの方から話しかけてほしいのだという事を察して、こう呼びかけた。

「まだ、キスをしてほしいのかい?」

 その呼びかけで田上が数秒固まった後、チラリとタキオンと目を合わせて言った。

「……もう少し長く…」

 そして、またすぐにタキオンから目を逸らしたが、こう目を逸らされるとタキオンも話しづらいので、田上のほっぺを突きながら言った。

「もう少しってどのくらいだい?十秒?二十秒?三十秒?一分?」

「……タキオンの思うくらいで…」

 田上は躊躇いがちに言うが、タキオンはそれを気にしていたら何も始まらないので、次にこう言った。

「私?私の思うくらいであれば、五秒でも問題ないかな?」

 そう言うと、田上も言葉に詰まったが、キスをしてほしい事にはしてほしいので躊躇いながらも言った。

「……できれば、もう少し長く…」

「十秒?」とタキオンが聞くと、田上が「…それよりもしてくれても…」と恥ずかしそうに言った。それから、タキオンが「分かった」と言うと、田上の顔に自分の顔をゆっくりと近付けていった。それで、目を逸らしていた田上もタキオンのキスを受け入れるように目を閉じて、タキオンを待った。

 

 そのまま二人は三十秒、四十秒ほどキスをした。田上は、具体的な数字は言わなかったけれど、それくらいに長いキスをしてあげれば田上も満足したようで、恥ずかしそうに顔を歪めながらも先程よりかはすっきりとした顔をして、タキオンに「ありがとう」と言った。

 そして、二人は立ち上がった。まず、タキオンが「行こう」と言って立ち上がり、次に田上の手を引いて起こしてあげた。田上は、まだ少し恥ずかしそうだったが、タキオンと手を繋ぐことに躊躇いはなく、タキオンの行きたいと言った方向に手を繋いで行ってやることにした。

 タキオンが行きたいと言った方向は、松林と反対、つまり、田上たちが居る方向と反対の方の堤防だったが、田上が先程行きたがっていた海の方に突き出た堤防というよりは、海に沿って続いている長い堤防の方だった。勿論、その過程で海に突き出た堤防の横を通ることには間違いがないのだが、その突き出た堤防を歩くという事ではなかった。

 二人は、砂浜の上をざくざくと音を立てながら、この砂浜の入口の方へと向かった。入口の方からでないと、堤防を歩けないからだ。その入り口に向かいながら、二人は砂浜の様子を眺めた。午前の時は、まだ何人か人は居た。あのカップルと思わしき二人は勿論の事、それ以外にも少しばかりの人がそこに居た。しかし、今は人っ子一人居なかった。砂浜は、静かな波の音に満ちていて、ここを今去ってしまうのが、少し惜しいくらいだった。そこで、田上たちは入り口に行く手前にある階段を登り、砂浜よりも二三メートル高い場所に立って、今来た砂浜を見下ろした。その場所は、どの砂浜とも変わらないただただ平凡な砂浜ではあったが、また再びここへ訪れたいと思う、二人の思い出の場所でもあった。

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