それから、二人はコンクリートで固められた堤防の上を、海を眺めたり話に弾ませたりしながら歩いていったが、少し行ったところで海から外れて河口沿いへと道が続いていたので、どうしようか、ということになった。幸いなことに橋は今いる場所から見えて、そこを通ってまた海沿いを目指せば、また堤防の上を歩けそうだった。しかし、慣れない土地である上に時間も時間だった。あまり遠くには行けない。だから、田上とタキオンは話し合って、タキオンの海に沈む夕日を見たいという願いを聞き入れると、今来た道を後戻りして、海に突きだしている堤防の方へと向かった。
堤防には、釣りに来ている人が一人居た。五十代かそこらの顔に皺の刻まれた中年の男性だった。この男を見ていると、田上も若々しい男性のように見える。ただの少しだけ髭が濃い男だ。そして、その顔にあった疲れも今は少し消し飛んでいた。タキオンとじゃれつくことで少し疲れが癒されたのかもしれない。
その中年の男性は、堤防の先端の方ではなく、半ばの所で釣りをしていたから、田上たちは有難く先端の方へと向かわせてもらった。その男の人の後ろを通る時、タキオンは田上の方を見て少し笑いかけた。田上もその顔を見ていたのだが、特に何を想う事もなく、タキオンの顔を見つめ続けて、先端に着くと、夕日の見える方に腰を下ろした。もう、陽は傾いていた。水面に薄赤い光を煌めかせ、ゆらゆらと田上たちを誘っていた。秋の夕日程赤くはない。赤くはないが、二人で肩を寄せて見るには十分綺麗だった。
暫くの間、二人は黙って夕日とその光によって煌めく水面を見ていた。おじさんの方もずっと黙って釣りをしていた。しかも、中々竿を上げないので、魚が餌に食い付いてはくれていないようだった。ただ、田上たちはそんなおじさんには興味がないので、目もくれなかった。
不意に、タキオンが田上に言った。
「君もキスが好きだろ?」
「ん?」と、田上も聞こえはしていたが、誤魔化すためにそう言った。しかし、聞き返したところで質問というのは誤魔化し切れないものだから、例え誤魔化す意図が分かっていたとしてもタキオンはもう一度聞いただろう。ただ、今のタキオンはそんなこと気が付かずにもう一度聞いた。
「君もキスが好きだろう?」
それで、田上はもう誤魔化しが効かないのを悟って、今度は、答えようか答えまいか迷う所に入った。しかし、わざわざ「答えたくない」と本気で言う程の質問でもないので、田上は迷った後に答えた。
「……嫌いじゃない」
「…でも、田上少年は好きそうな顔をしてた」
田上は、自分がからかわれているのかとも思ったが、口調としてはからかっている口調でなかったため、再びどう答えようか迷った。タキオンは、そうやって話している間も田上の肩に寄りかかっているだけだった。だから、田上も夕日を見つめながら言った。
「田上少年?」
「…そう。今日の君、走っている時も私にキスをしてほしい時も少年のような顔をしてた。君もあんな顔をできるんだね…。私、少年の時の君を見てみたい…」
「…少年?…アルバムは、…多分、家の方に置いてきたな。…小学生の時が一番楽しかったな…」
「私は、今が一番楽しい」とタキオンが主張するように言うと、田上も少し苦笑して言った。
「俺もお前と居る時が楽しいけど、小学生の時は…、何と言うか…、楽だった。公園でひたすら遊んで、ちょっとの宿題をしておけば、何にも気にしなくてよかった。大人になるのは怖かったけど、…それも遠い遠い事だと思ってた。…それが、いつの間にか、仕事して、タキオンと付き合ってる。…あんまり分からん」
「…何が?」
「どういう風に俺が大人になっていったのか。…本当に、いつの間にかここに来たような気がする。子供の頃の俺には、恋人と夕日を見るなんて、夢のまた夢のような気がした。タキオンなんて人は全く知らない。お前が生まれていない時に、俺はもう小学一年生だ。小学一年生と赤ちゃんなんておままごと遊びしていてもおかしくない。そういう人が恋人になるわけだ。…人生って、…掴みどころがない。あの時、分岐点があるかと思えば、違う時のような気もするし、今がその分岐点なのかもしれない。でも、その分岐点を曲がったが最後、それは分岐点じゃなくて、ただの道になる。何をどう言い訳しようとも、この道を通った人は自分一人しかいなくて、後戻りしたくても、絶対にそれはできない。…お前と居れて良かったよ。…お前のモルモットとしてトレーナーになるって言った日は、人生で一番の分かれ道だったのかもしれない。けど、トレーナー、モルモットとしてお前の傍に居る事ができたのは、物凄い幸運だった。あの時の俺は、こうなるだなんて事想像すらしていなかった。ただ、お前の走りを支えるって決めただけだった。……後先考えなくても、なんとかなるもんなんだな…」
その長い話が終わると、今度は、タキオンが反論した。
「ただ、…君の人生はこれからも存在するからね。私が、急に病気で死ぬかもしれないし、事故で死ぬかもしれない。何か、酷い事が次々と起こるかもしれない。…そんな事は、考えてないといけない。今は、君とキスできているだけで幸せだけど、いつか何かがあって永遠に分かれなくちゃいけないとなった時に…」
タキオンがそう言っている最中にその話を遮って田上が「タキオン」と呼び掛けた。そして、タキオンが田上の肩から寄り掛かっていた体勢をやめ、田上の顔を不思議そうに見やると、田上は緊張しながらもその唇にキスをした。タキオンは、なんでキスをされたのか分からずに、でも少し嬉しそうにしながら、田上のキスを数秒受け入れた。それから、田上が唇を離すとその顔を見つめて、本人が話し出すのを待った。しかし、田上はタキオンの顔を見つめて固まったまま何も話しだそうとしないから、タキオンが可笑しそうに口角を少し上げて、田上の頬をつつきながら言った。
「何か用かい?」
その言葉を数秒かけて飲み込んでから、田上はゆっくりと言った。
「……女の口はキスで塞げって…」
「キス?」と尚の事可笑しそうに口角を上げなら、タキオンが聞き返した。それに、微かに頷いて、恥ずかしそうに口を歪めながら田上が言った。
「ハードボイルドだろ?」
それを聞いた途端にタキオンがクスクスと笑い出して、隣で釣りをしていたおじさんがチラリとこちらを見てきた。その人と一瞬タキオン越しに目が合ってしまったから、田上は恥ずかしかったが、幸いおじさんは何も言わずに何もせずにまた釣り竿へと向かっていった。相変わらず、魚の掛かっていそうな気配はなかった。
タキオンはクスクスと笑いながら言った。
「ハードボイルド?…随分とハードボイルドな男がいたものだね。女の子にキスをねだるような可愛い男がハードボイルド?ふふふ、ハードボイルドなものだろうね。…私の口を塞ぎたくなったのかい?」
「……あんまり真面な話はしないでほしかったから…。…お前も自分の事をバカって言ってただろ?だから、考えるだけ無駄なもしもの話はしないでほしい…」
田上がそう言うと、タキオンも一瞬目を逸らしたが、その後に田上と目を合わせると言った。
「なら、もっと私のバカな口を塞いでくれないか?どうやら、君が塞いでくれないと、自分の心配な事をぺらぺらと話続けてしまうような癖が私にはあるみたいだから」
田上は、難しそうな顔をしてタキオンの顔を見つめたが、次には「いいよ」と優しく言って、体を寄せた。そして、タキオンの目が閉じられるのを確認すると、ゆっくりと顔を近づけ、また数秒の間キスをした。それから、唇をそっと離すと、田上はもう終わるつもりだったのだけれど、タキオンは目を瞑ったまま「もっと…」と呟いた。だから、田上ももう一度キスをしてやった。今度は、先程より長くキスをしてやった。それで、離してみると、タキオンも満足がいったようだ。口元に微かに笑みを浮かべながら、田上の顔をじっと見つめていた。だから、田上が言った。
「満足か?」
「満足だとも。君が私の恋人でよかったと心底思うくらいには満足さ」
タキオンがそう言うと、向こうの方でおじさんが少々響く声で「おっ!」と声を上げたから、田上もタキオンもそちらの方を見た。どうやら、魚が釣れた様だった。先の方が海へと引っ張られている竿を持って、その糸をきりきりと引っ張っていた。中々に大物のような迫真の釣り芸だったから、田上たちは真剣な顔でそのおじさんの様子を見ていたのだが、するすると海の中から出てきたのは、水がたっぷりと溜まった大きな大きな長靴だった。それを見ると、タキオンも田上も顔を見合わせた。笑っていもいいものか、それとも、悔しがればいいものか迷ったからだ。迷ったけれども、またおじさんの事が気になって、二人は目を合わせた後すぐにおじさんの方を見た。おじさんは、田上たちが見ている事に気が付いているのかいないのかは分からなかったが、大きな長靴を自分の方へ手繰り寄せると、暫く呆然としてそれを眺めた後に、溜まっていた水を堤防の上にじゃばーっとひっくり返し、次いで、鬱憤を晴らすようにその長靴を大きく弧を描かせて海へとリリースさせた。そして、また、持参していた椅子に腰を落ち着けると、ここで初めて田上たちの方を見た。一瞬だけ目が合ったので、田上とタキオンは慌ててバッと目を逸らして、顔を見合わせた。それから、何が何だか分からずにもう一度キスをしておいた。二人の心情と共にその様子を見ていれば、その様は少し滑稽かにも思えたが、外から見れば、二人はただ夕日の光を浴びてキスをしているただの仲睦まじく、若々しい恋人同士だった。それを見て、おじさんは小バカにするようにふんと鼻を鳴らした後、自分の釣り竿に魚が掛かってこないか、海に浸っている糸で揺れる水面をぼーっと見つめた。
田上たちは、お互いの唇を離した後に再びおじさんの方を見たが、今度は目が合わなかったので、少しほっとした。それで、次に夕日をちらりと見やって、一心地ついた後に田上が口を開いた。
「もうそろそろ帰らないといけないな」
「えー、…もう少し君と一緒に居たい。もう少しで陽が沈むだろ?それまで待てないかい?」
「沈むまで?さすがに、無理じゃないか?今でも少しやばい時間なのに」
「なら、キスしよう。最後にキスしてから帰ろう」
そう言われると、田上も仕方ないのでキスをしてやる他になかった。ここまで立て続けにすれば、少しは飽きそうなものだけれど、田上がキスしようと決断するころには、タキオンはもうすでに田上の方に顔を向けて、目を瞑って、キスを待っている状態に入っていた。田上も――こいつはキスに飽きがないのか?と思いつつも、自分も飽きる様子はないのでタキオンにキスをしてやった。すると、タキオンに首の後ろに腕を回されて拘束されたので、動けなくなった。後は、タキオンの思うがまま、なすがままで、暫くの間、唇を重ねられた後、満足そうなタキオンに「さぁ、帰ろう!」と言われた。
田上とタキオンは、それぞれ、田上が自分の右手を、タキオンが自分の左手を繋いで、駅へと向かった。この時点で、例え門限までに向こうの駅に着いたとしてもトレセン学園に着くまでにまた時間がかかるので、遅れる事は確定だった。だから、先に寮長たちに一報を入れておくことにしたのだが、タキオンが自分の分までしろと言うのだから困った。タキオンの栗東寮の寮長はフジキセキだ。面識があるにはあるのだが、如何せんほとんど関係がないので田上が電話をする必要がなかった。しかし、タキオンがしろと言うのだから仕方がない。先に自分のトレーナー寮の寮長の柊さんに一報を入れてから、フジキセキの方にも入れることにした。
まず、田上は柊さんの方に電話をした。勿論、タキオンと手を繋いで歩きながらだったたので、やりづらい事にはやりづらかったのだが、タキオンはその横で平然そうに辺りを見渡しながら歩いていたので、田上も手を放すことはしなかった。
その二人の姿は、なんだか奇妙に見えた。電話口で情けない顔をしてぺこぺこと謝っている髭の濃い男性と、その男性とのほほんとして手を繋いでいる白くて長いワンピース着ている年の若いウマ娘。まるで、父親と娘ともとれるようだったが、その二人の関係は確実に恋人だ。時折、ウマ娘の方が愛おしそうに隣の男性を見つめるのが分かる。こんな二人組はあまり見たことがなかった。まだ、親子なら分かりそうなものだが、その様はやっぱり恋人同士だ。奇特とも言えることができそうだが、言えばウマ娘の方は「そんな事はない」と断言するだろう。これが、何だか妙だった。外から見れば、確かに奇特、しかし、本人、少なくともウマ娘の方は一粒たりとも自分たちの関係に疑念を持っていない。好きならそれでいいじゃないか、と言うのが彼女だ。自分の好意に一切の疑念を持たない。その揺ぎの無い愛が、隣の情けなくも難しい顔のしている男性の心を溶かすことができたのかもしれない。
田上は、柊さんがそんなに怒ってもおらず、田上を責める言葉の一つも吐いていない、むしろ、遅れる事を快く受け入れたというのに、何回も何回も「すみませんすみません。本当にすみません」と謝りながら電話をしていた。それから、柊さんとの電話を切って一息つけそうかと思うと、今度は、タキオンの寮長の方に電話だった事を思い出した。けれども、田上は、タキオンに面倒臭そうな顔をして言った。
「お前、フジさんと仲が良いだろ?自分でかけろよ」
「えー、…自分でかけるんじゃ面倒臭いじゃないか」
「でも、俺はフジさんの番号も知らないし、面識もそんなにない。俺がかけたら、向こうの方が驚くだろ」
「フジ君の方は驚いても構わないさ。あの人だったら、そんな事は気にしないと思うし、気にしたとしても説明すれば大概の事は聞いてくれる」
「なら、説明はどうするんだ?…普通にお前が自分でかければ良いと思うんだけど」
そう田上が苦言を呈すると、タキオンも少し表情を変えて、迷ったような顔をした後に言った。
「あの人をからかってみようじゃないか。君も聞いた事があるんじゃないか?あの人、いつも私を超高速のプリンセスだとか何とか、雑誌で呼ばれてた二つ名を引き合いに出して、からかってきてたじゃないか」
「うん」と田上が合いの手を入れると、タキオンが続けた。
「だから、その仕返しにあの人を驚かせてみよう。戸惑わせてみようという作戦だよ」
「…でも、俺が電話をかけるだけでからかいになるのか?むしろ、俺の方がからかわれそうな気がするんだけど」
「…でも、からかわれると言ってもそれは本当の事じゃないか。――タキオンとデートをしているのかな?とあの面倒臭い口調で聞かれれば、――はい、そうです、と答えればいいだけじゃないか。それで、門限に遅れる事を伝えれば、君のミッションは終了だ」
「…でも、それだけじゃあ、済まないだろ?…多分、タキオンとデートしている事を伝えて、その上に門限から遅れるという事を伝えれば、何か言われるだろ?――お姫様とお遊びになるのがそんなに楽しかったのかな?って」
「それは、私も一緒だ。私がかけたところで、トレーナー君と一緒に出掛けていると伝えれば、やっぱりそんな風に言われる。となると、君が生贄になってくれた方が私も助かる」
「いや、…でも、俺たちの関係をフジさんに言うの?質問されて困るのであれば、俺の方がダメージはでかい。面識がないからぞんざいに扱えない。そうすると、お前がかけて、からかわれたら適当にあしらう方が、ダメージは少ないような気がするんだけど」
「…でも、…。言っちゃ駄目かな?」
「付き合ってるって事?…俺は、そんなに広めたくはない。…フジさんに言えば、広まったりしないのか?」
「…まぁ、口止めしておけば、広まる事はないと思うよ。あの人、口は堅いからね。…でも、結局、電話はかけないといけないんだし、君がかけておくれよ。言いたくないなら、別に言わなくていいから。私、あの人苦手なんだよ。…ね?お調子者と私の肌は合わないのは、分かるだろ?あの人の相手は面倒臭いんだ。相手をしなくていいなら、私はしたくない。…してくれるかい?」
タキオンが、少しあざとく困ったような顔をしたから、田上も仕方がなかった。元来、タキオンには弱い男だった。例え、好きじゃない期間、出会ったばかりの頃だったとしても、こういう事をされれば弱い男だったので、仕方なくタキオンのスマホを受け取ると、そのスマホからフジキセキの方に電話を掛けた。
ぷるるると二三回鳴ってから、フジキセキが電話に出た。
『もしもし?タキオンかい?何かあったのかな?』
「…いえ、タキオンじゃないのですが…」と田上が言うと、フジキセキは少し神妙な声色を出しながら、『タキオンのトレーナーさんかい?』と聞いてきた。
それに、なぜか田上は少しほっとして、「ええ、そうです。タキオンのトレーナーの田上です」と答えた。
すると、フジキセキが、今度は少し明るい声色でこう聞いた。
『確か、一緒にお出かけをしているんだったね?タキオンが出ないのには何か理由があるのかな?』
「いえ、別に、そんな理由はなくて、タキオンがただ僕の方に連絡をさせたいらしくて」
『ふむ。…まず、用件を聞こう。何か用があってかけてきたんだろう?』
「ああ、あの、今から帰るところで、電車で帰る予定なんですが、多分、門限までに間に合いそうになくて、それで門限から十分二十分遅れるかなー?という所なんです」
『ああ、そういう事だね。門限だったら構わないよ。連絡さえくれて、所在が分かれば、こっちも全然大丈夫だから。…今から、電車に乗るところかい?』
「…えー、…今、駅に向かって歩いてるところです」
『隣にタキオンは居るのかい?』
「……居る事には居ます」と田上はタキオンの顔を見ながら答えた。その田上を見つめ返しながら、タキオンは嬉しそうに微笑んだ。
『じゃあ、タキオンに少しばかりタキオンに伝えてくれるかな?王子様と遊ぶのは楽しかったかな?と』と当の王子様に向かって、フジキセキが伝言を伝えてきたから、田上も困った。困りながらもフジキセキの言うとおりに、隣のタキオンにそう伝えた。すると、タキオンが言った。
「バカ、と一言フジ君の方に言っといてくれ」
田上は、それをそのまま言うのは忍びなかったのだが、もう一度電話の方に意識を集中すると、フジキセキが大笑いしているのが聞こえた。どうやら、タキオンの言葉が、田上を介さずともそのままフジキセキの方に伝わっていたようだ。それだから、田上も言う必要がなくなったので、フジキセキが笑い終わるのを待っていると、案外簡単に笑い終わった後に、愉快だ愉快だと言わんばかりに陽気な調子でこう言った。
『それじゃあ、トレーナーさんはタキオンと一緒に楽しく遊んできたのかな?』
「ええ、…まぁ、それなりに遊んできました」
『どんなことをしたのかな?』
「……海で…走ったり話したり…」
そう言うと、隣でタキオンが「あんまり相手にしない方がいいよ」と呟くのが聞こえたが、田上は、未だに電話の切り所が分からずに、フジキセキの喋る調子に合わせて、こちらも話していた。電話をしながらも駅に向かう事には向かっていたので、問題はなかったが、それでも、タキオンが少しつまらなさそうにし始めたのが田上には分かった。けれども、まだ、タキオンも強くは言ってきていないので、田上はフジキセキと話を続けた。
『じゃあ、トレーナーさんは、タキオンと海に行きたかったんだ。…ちなみに、今回のお出かけに誘ったのはどっちなんだい?タキオンの大阪杯の気分転換がてらに、トレーナーさんが誘ったのかな?…あと、言いそびれていたけど、大阪杯優勝おめでとうございます』
「ありがとうございます。…誘ったのは、…タキオンです」
『へぇ、あのタキオンが?どういう風の吹き回しかな?あの子と言ったら、研究・実験・薬・薬だったような気がするけど、もしかするとそれかな?』
それについては、田上もあんまりよく分からなかったから、電話の内容を聞いていると思って、タキオンの方に視線で助け舟を求めたのだが、丁度その時、タキオンは、通り過ぎていった家の庭に置いてあった大きめの陶器の小人に興味をそそられたようだった。田上に手を引かれながらも、その人形をしげしげと見つめていた。だから、田上は、タキオンから助け舟を得る事はできないと悟って、フジキセキにこう返した。
「どうしてかは、あんまり分かりませんが、確か、僕が前に――海に行きたいと言ったのを覚えていたからじゃなかったかと思います」
『おやおや…。すると、…タキオンは、君を喜ばせるために君を海へと誘ったというわけだね?』
「恐らく」と田上が答えると、顔を見ていなくても分かる悦に入った声で、フジキセキが言った。
『ふむふむ。それじゃあ、それじゃあというわけだ。…トレーナーさんは、タキオンの事をどう思っているんだい?』
これも答えに困る。なので、田上は横のタキオンを見たが、今度は、電線の上に留まっている小鳥たちをしげしげと見つめていたから、田上も諦めてこう言った。
「それが本当なら、良い奴なのかもしれませんね」
『おやおや、タキオンが良い奴だなんてことは、トレーナーさんは最初から知っているんじゃないのかな?そんな事じゃなくて、もっとタキオンを可愛い女の子としてどう思っているかだよ』
フジキセキがそう言うと、田上は横から肩をツンツンとつつかれた。隣を見てみると、タキオンが少し不機嫌そうな表情をして、手の平をこちらに向けて――そのスマホをくれ、という仕草をしていた。どうやら、田上が見ていたすぐ後に、聞こえのいいウマ耳で二人の会話に耳を傾けていたようだ。だから、田上もこれ以上のフジキセキの相手は面倒臭くなってきていたので、素直にタキオンにスマホを手渡した。すると、タキオンがそのスマホに向かって、怒り気味に言った。
「うちの圭一君をあんまりからかうんじゃないよ。彼は、君のおもちゃじゃないんだ」
そう言ったが、ある事に気が付いたフジキセキはタキオンの様子なんて何のそので、こう聞いた。
『圭一君?…確か、君のトレーナーさんの下の名前だったよね?…いつ呼び方を変えたのかな?…前は、トレーナー君だったよね?』
「呼び方なんてどうでもいいよ」
『いやいや、どうでも良いなんて事はないだろう?あの、他人の事なんて全く意に介さないような、ただ一人孤独なまま先頭を走る超高速のお姫様が、その隣に立っているトレーナーというたった一人の相棒の呼び名を変えたんだ。これ以上の事件はないよ。…確か、君は、ウイニングライブで何か様子が変だったよね?』
そこで、タキオンが反論しようと口を開いたのだが、先にフジキセキが口を開いた。
『ちょっと待った。私に話させてくれ。で、私は覚えてるよ。ニュースでも紹介されていたからね。――生きてくれ、トレーナー君?…これで辻褄が合った。君のトレーナーさん、落ち込んでいたりしたんだね?それで、君がトレーナーさんが以前行きたいと言っていた海に行こうと提案した。…前のタキオンから考えると、中々に情が深くなったと思うけど、これは、好きになるまで一歩手前という状態なのかな?』
「お好きに考えたまえ、名探偵君。どっちにしろ、君の想像なんて私に及ぶまでもないのだから」
『おや、じゃあ、お好きに考えさせてもらうと、…もうトレーナーさんの事好きだったりするのかな?ふふふ、あんまり君たちの所は見には行かないけど、相変わらず、仲は良いんだろうね。すると、もう告白までしてしまったとか?いやぁ、まさか、あのタキオンがあのトレーナーさんに告白をするのかな?どうなのかな?…してないのなら、告白をしてみればいいよ。人生は、一度きりだ。後悔の無いように生きなくちゃね』
すると、タキオンも少し心が調子に乗ってしまって、フジキセキにこう言った。
「果たして、あの堅物そうな男に告白したとして、オーケーが貰えるかな?とてもじゃないが、学生と付き合うだなんてことはしなさそうだ」
これは、田上にも聞こえている。田上には、話の完全な内容までは掴めていないが、自分の事が話されているという事は分かったので、タキオンの顔を見つめた。タキオンもまた、そう言いながら田上の顔を見つめていた。それから、また、電話に向かってタキオンが言った。
「キスも知らないような男かもしれない」
『ええ?隣にトレーナーさんが居るんじゃないのかい?大丈夫かい?そんな事言って』とさすがのフジキセキも心配そうな声を出したが、タキオンはまだまだ調子に乗ったまま言った。
「言うくらいなら訳ないさ。私のトレーナーは、堅物だが、話の分からない男じゃない。どんなに分からなくたって、私の話をしっかりと聞いてくれる奴だから」
『んん?それは、べた惚れという事で間違いはないのかい?今の言葉を聞いてるとそういう風に思うけど』
フジキセキは、混乱していた。そこにタキオンが拍車をかけさせた。
「果たしてどうかな?べた惚れという言葉に間違いは無いかもしれないけど、そんな事圭一君の横で言うなら、私だって恥ずかしくてしょうがない」
『…現に言っているじゃないか』
「そうとも。しかし、私は恥ずかしくない。私は、圭一君にべた惚れだよ?でも、ここまではっきり言っても私は恥ずかしくない。…それじゃあ、もうそろそろ駅だから、電話を切るね。さようなら」
そう言い残して電話を切ると、まだ、混乱の解けていないフジキセキをそのまま残して、タキオンはにやにやと田上に笑いかけて言った。
「やっと、あの、面倒臭い女に仕返しをしてやったぞ」
「どうだったの?」
「フジ君、私たちが、まだ、付き合っていないものだと思っているから、電話越しでも分かるくらいに混乱していた」
それから、タキオンはくすくすと笑って、田上の手を握り直してから言った。
「いい気味だよ。これまで、散々仲の良い私たちをからかってきたからね。たまには、あの人も懲らしめられなくちゃいけない」
「でも、あんな言い方だと広まるんじゃないか?フジさんが、友達に聞いたりして…」
田上が心配そうに言うと、タキオンも少し目を泳がせた。
「…まぁ、あの人も察しが悪い方じゃないからね。さすがに、私たちの恋愛事を他人にあれこれ聞きはしないと思うけど。…どうだろう?」
「…まぁ、噂の分にはいいんじゃない?それよりも、危なそうなのはあの記者の記事の方だけどね。俺たち二人で海に来ていたって方が噂が立ちそうだ」
「そうだね。…まぁ、いいだろう。いずれ、君と私も結婚する時が来るんだ。結婚するとなれば、仲良くなくちゃいけない。仲が良いのであれば、それを隠すのも大分至難の業だよ。私が次のレースで勝った時に、思わず君の下に走って行ってキスをしてしまうかもしれない」
その言葉に顔をしかめて、田上が返した。
「公衆の面前でそれだけは止めてくれ。写真でも撮られたらどうするんだ」
「分かった。君をお姫様抱っこするだけに止めておくよ」
それで、また田上が反論しようとしたのだけれど、その前にタキオンが口を開いた。
「あ、そうだ。君、あの写真を見ていなかったよね?私たちがキスしてる写真。見るかい?」
「え?…キスの写真?最後の?」
「ああ、それだよ」と言いながらタキオンは、田上の返答も聞かないで自分のスマホをいじって写真を画面に出そうとしていた。だから、それを見た田上も返事をする事は諦めて、タキオンが自分に写真を見せてくるのを黙って見つめながら待った。タキオンは、少し顔に笑みを浮かべながらその写真を探していたが、すぐに「あった!」と言って田上に見せてきた。中々に、幻想的に撮れていた。まるで、自分の不細工が嘘みたいに消え、むしろ、映画のような美しさでタキオンとキスをしていた。
「どうだい?いい写真だろう?良く撮れてるよ。伊達にごついカメラを持っているんじゃないんだね、あの人は」
「…んん。良い写真だな…。…だけど、…これ俺か?」
「君だろう?私は君以外の人とキスをした覚えはないけど」
「…ふ~ん。…もういいよ」
確かに、良い写真だとは思ったが、それ以上の感想が田上にはなかったのでそう言うと、タキオンがこう返した。
「もういいのかい?もっと、眺めなくていいかい?愛する妻と君がキスをしている写真だよ?」
「別にいいよ。なんか、…あんまり良く分からん」
「分からない?何が?」
「……なんか、……俺には理解できない」
「…うん。…何が理解できないのかな?」
タキオンがもう一度そう聞くと、田上は、隣のタキオンの顔を見つめた。それから、呟くようにこう言った。
「お前の事が…」
それで、一瞬二人の間は静かになったが、次にタキオンが「行こう」と言うと、二人は、再び歩き出して駅舎へと着いた。
駅舎に着くと、ほどなくして電車が来た。二人はそれに乗った。先程、少し沈黙が二人の間に流れた事で、気まずくなったりはしていなかった。浜辺で話していたように軽く微笑みながら話して、肩を寄せて、二人は帰路へついた。