トレセンの門まで来る頃には外はすっかり日が暮れていた。そこで、タキオンが最後にもう一度キスを…、とせがんできたのだけれど、さすがにここは街中だ。幾ら物陰でやろうとしたって、人の目はちらほらある。その上に、ここは、トレセン学園の真ん前だ。そこでキスをしているようなウマ娘がいれば、否が応でも、トレセン学園の生徒と結び付くだろう。そして、その人がタキオンの事を知っていれば、後は、噂になるでも写真を撮られるでもしてお終いだ。
その事を説明すると、元々タキオンもあまり期待はしていなかったようで、「分かっているよ」と軽く答えると、二人でトレセン学園の敷地内へと入った。
学園内の道を照らす明かりが妙に眩しいように感じられた。田上は、もっと暗い所に身を潜めていたかった。しかし、タキオンと手を繋いでいるのでどうしようもなく、その手を少し強く握ってタキオンに呼び掛けた。
「なぁ、タキオン」
「何だい?圭一君」
「…お前って、……本当に俺と結婚したいの?」
「…そりゃあ、したいさ」
「…もしも、お前の横に俺よりももっとかっこいい人間が現れて、俺よりももっと頼れる人間が現れて、その人に全幅の信頼を置け、全体重を預けられる、お前を素直に撫でてくれるような人が現れても?」
「……それは…、あまりにも空想的過ぎやしないかい?」
「…いや、…俺は、…ただ、お前に頼りすぎると、ふっと消えた時に物凄い後悔をするんだろうな…」
田上の話には、前の言葉を締めるための結びの言葉があったのだが、その事を話してしまうと結びの言葉は続いて出てなかった。タキオンもその田上の言葉に少なからず動揺していたようだったが、あまり変わらない口調で口を開いた。
「でも、私たちは、お互いが無くては生きてはいけない。少なくとも私は…」
「…それだよ。お前に代わりの人ができてしまったら、俺なんてただのゴミだよ」
「でも、私は、君の事を見捨てはしないよ!」
タキオンが、少し焦った調子でそう言ったが、田上は相変わらず、ぼんやりとした調子で言った。
「そうだと良いけど、…もし、それでも、俺の事をお前が好きじゃなくなったら…」
また、言葉が続かなかった。タキオンもその言葉の続きを待ったが、田上がもう話せなさそうだと分かると、タキオンが口を開いた。
「私は、君の事をずっと好きでいられる自信があるよ?」
「…俺は、……どうしたらいいんだろう…」
「…君、疲れてるんだよ。一日中私が連れ回してしまったからね。今日は、早くに寝た方が良いと思うよ?」
「…そうしとく」と田上は陰気に答えると、それからは、自分から話すことはなかった。寮までの道すがら、タキオンが話しかけてくれば、答える事には答えたが、返事は短く憂鬱だったのでタキオンを心配させた。ただ、タキオンがその事を口にすれば、田上もタキオンの目を見て答えてあげたので、タキオンももっと何かを言うに言えなかった。
けれども、寮の前に着くと、タキオンもキスをせがんだ。辺りには、見回した限りでは人は居ないかった。だから、田上はキスをしても良かったが、ただ、人が居ないからキスをするというのではなかった。人が居なくても別の場面であれば、キスをするのは面倒臭くて断っていたかもしれない。しかし、今の田上の頭は、ふわふわとしていて碌に考えることができなかった。タキオンの魅力的な目で見つめられながら、そんな事を頼まれると田上も悪い気がしなかった。ただ、街灯の下、寮の目の前でキスをするのはさすがに気が引けたから、タキオンを暗がりへ連れて行くとそこで二人でキスをした。街灯の下からは、タキオンの白いワンピースが暗闇の中に微かに揺れるのが見えるが、それを見ている人は誰も居なかった。
二人は、暫く黙ってキスをしていたが、やがて、タキオンの方から唇を離すと、二人は目を開けて見つめ合った。それから、タキオンが手を引いて田上と街灯の下へ行こうとしたが、田上がその手をさっと引いてタキオンが掴めないようにすると、「ばいばい」と微かに口元に笑みを浮かべて言った。別れていく悲しさを押し殺した笑みだったが、タキオンはそれに気が付かず、ただ自分も笑みを浮かべて「ばいばい」と言うと、少し小走りになって街灯の下へ行き、寮のドアの前まで行った。そして、また、田上の方を向いた。田上は、自分の心が揺れていて、暗がりから動けないでいるのを悟られまいと手を振った。タキオンは、田上の事が見えづらかったのか、少し目を細めてから、再び「ばいばい」と言って手を振り、寮の中へと消えていった。
そこで、ようやく田上にも一息吐けたが、それによって安心ができたというよりかは、疲れが己の体をどっと襲ってきて大変だった。今すぐにでも地面に座り込んで、そのまま眠ってしまいたい気持ちになった。明日の朝に風邪をひいても何でもいいので、ここで寝て、また目覚めたかった。しかし、そんな事をすれば、タキオンから心配されるだろう。「君には愛する妻がいるのだからその体を労わって…」とか何とか言うだろう。そんな心配はさせたくなかったが、それは、タキオンのためを想ってと言うより、自分の面倒臭さを解消するためだった。しかし、田上はその事は自覚しておらず、ただ、タキオンを心配させまいと寮の部屋に戻った。
部屋に戻る事に成功はしたのだが、夕食なんて食べる気も起らず、シャワーをする事すらも忘れて、まるで、力尽きて死んでしまう人の様にベッドに倒れ伏した。
次の日の朝、田上は、高熱に浮かされながら目を覚ました。もう、何をする気も起きないが、喉が渇いたので、水だけは飲みに行った。それから、誰かに連絡をしなくてはならない、今日の予定を伝えなくてはならない、と思ったが、マテリアルに連絡しようにもする気が起きなかった。代わりに、なぜだかタキオンにこうメッセージをスマホで送った。
『熱出た。死にそう。』
そして、そのメッセージを送ると、そのまま、また眠りに就いた。
どんどん、どんどんと扉を叩く音が聞こえて、田上は目を覚ました。部屋の外で誰かが呼んでいる。――出なくては、と思って、田上は朦朧とした意識の中、部屋の方へと向かった。途中で時間を確認しようとしたのだが、あまりに意識が朦朧とし過ぎていて、時計を見たのに何を見ようとしていたのか忘れてしまった。だから、また、扉の方へ向かうと、その扉を開けた。開けると、まず、目の前にタキオンが居て、その後ろに、霧島やら国近やらが居て、そして、またその後ろに知らない人が何事かと田上の方を見てきていた。田上は、顔からさっと血の気が引いたような気がしたが、引いても熱で熱くなっているので、どうしようもなかった。すると、廊下の奥の方から寮長の柊さんが心配そうな顔をしてやってくるのが見えた。しかし、その前にタキオンの怒っている顔が見えた。
怒っているタキオンはこう言った。
「君!熱が出たんならもっと私に頼って、鍵くらい開けておいてくれよ!熱出た。死にそう、じゃないんだよ!それだけじゃ私も心配するじゃないか!」
そして、タキオンが不意に後ろにいる人たちの存在に気が付くと、その人たちにも八つ当たりするように言った。
「何見ているんだい!これは見世物じゃないんだよ!私のトレーナーが熱出したんだから、君たちはどこかに行きたまえ!」
そう言ってから、霧島と国近に向き直ると、タキオンは素直に「協力してくれてありがとう。もう、ここからは私が世話をするよ」と言い、田上を少し押しながら、一緒に部屋に入って扉を閉めた。田上は、勿論、熱でぼんやりしていたから、タキオンが入ってくるのを止める事もできずにそのまま受け入れた。そして、ぼんやりと玄関で突っ立ったまま、タキオンを見つめていると、タキオンが田上に向かって言った。
「君は、ベッドで寝てていいよ。後は私がするから」
田上は、その言葉にそのまま従って、ベッドに腰かけ、それから、ゆっくりと寝転がった。タキオンが、「タオルはどこだろう?」とか「何か冷蔵庫にあるかな?」とか言いながら、部屋の中を動き回っているのが分かったが、それを気にする余裕はなかった。脳を溶かす様な熱が、田上を苦しめた。頭痛もあるのだが、熱と混ざり合ってそれが自身をどう苦しめているのかが分からない。ただ、人の声が幾らか聞こえるようになったので、ほんの少しだけ安心することができた。けれど、やっぱりほんの少しだ。もっと、何かが欲しくて、田上は朦朧とした意識の中でタキオンの名を呼んだ。タキオンは、「何かあるかい?水?水とかほしくないかい?」と聞いてきたが、田上には、何も聞こえてなかった。意識がある事にはあるのだが、何も感じることができない、という状態に近しいかもしれない。タキオンの声を聞きながらも田上は、タキオンタキオンと呼び続けて、タキオンを少し困らせた。しかし、タキオンには、田上が熱に浮かされながらも自分を呼んでくれることが、嬉しくもあったので、少し顔に笑みを浮かべながら「私はここに居るよ」と言って、先程見つけたタオルで田上の額の汗を拭ってやった。それでも、田上は落ち着かなかった。捨てられた子犬の様にタキオンタキオンと呼び続けて、その内に、目の端から涙を滴らせ始めた。こうなるとタキオンも自分の名前を呼んでくれる喜びよりも、田上が可哀想で堪らなくなってきた。なぜ、こんなにも自分の名前を呼んでくれるんだろう?タキオンは、疑問に思いながらも懸命に、田上の額の上に浮いてくる汗を拭ってやった。田上は、それでもタキオンタキオンと呼んでくる。キスでもしてやれば落ち着くんじゃないだろうかとも思ったが、ここでキスをして静めてやるのはなんだか場違いなように思えたし、無理矢理な事のようにも思えた。
では、キスが無理矢理なら何をしてあげればいいのだろうか?こんなにも悲痛に自分の名前を呼ばれると、タキオンも早く何とかしてあげたくなる。しかし、方法が分からない。だから、とりあえず、田上の額の汗や流れてくる涙を拭いてあげながら、「私だよ。ここに居るよ」と呼び掛け、方法を考えた。すると、段々と田上の声は途切れ途切れになっていって、その後には、寝息が聞こえ始めた。あまりに呆気なく田上は寝てしまったので、タキオンは少し呆然としてその顔を見ていた。田上の顔は、いつか見た時と同じように難しそうに眉間に皺を寄せていた。その顔を見ていると、タキオンも少しムカついてしまったが、それでも、田上が愛おしいので暫く黙って見つめていた。
時計の音がチッチッチッと秒を刻むのが聞こえてくる。その音を聞いているうちに、タキオンも我に返り、慌てて立ち上がった。立ち上がりこそしたが、またすぐに、慌てた所で何もする事はないのだと思って、田上のベッドの端に座った。そして、再び田上の顔を見ると、つい出来心が湧きあがった。だから、その心の通りにタキオンはニヤニヤ笑いを堪えるような変な顔を作ると、田上と一緒の布団の中に入った。
出来心とはこれの事だった。田上と一緒の布団に入って共に過ごす。生憎、田上は熱で苦しんではいるのだが、今まで以上にもっともっと田上の傍に居たいタキオンにとって、この場面は好都合だった。一緒の布団で寝たのは、お正月に田上の父の家へ行った時以来だったが、あの時のようにはいかなかった。田上がこっちを向いてタキオンを包んでくれない上に、話すこともできないので、タキオンは隣に田上の事を感じながらも天井を見上げて、物思いに耽るか、少し頬擦りしてみるしかなかった。
田上の服装が、昨日のままである事が気に掛かったが、まさか、ここで田上を裸にしてお湯を含ませたタオルで体を拭いて、また、別の服に着替えさせてあげるわけにもいかないのでタキオンは悶々としていた。しかし、やはり、田上の布団の中は何だか心地が良かった。田上と毎晩を共にしているシーツや掛布団に包まれていると、タキオンも田上に包まれているような感覚になる。嗅覚が嗅ごうとせずとも田上の匂いを感じ取ってくれるので、タキオンは嬉しくて少し顔に笑みを浮かべてしまった。けれども、それじゃいけないと思って、タキオンは、これから、今日一日をどうしようかと考えた。田上が使い物にならないのではしょうがないし、タキオンも熱を出して寝込んでいる田上を一人放っておいて、遊びに行くなんて事もできない。できるだけ、傍に傍に居てやりたい。タキオンと呼ばれたら直ぐに駆けつけてやりたいし、安心できるように、優しい言葉もかけてやりたい。
すると、タキオンは、田上がなぜこんなにも自分の事を呼んだのだろう?という疑問を頭の中に浮かばせた。いくら好きな人だからと言って、熱に浮かされてる時にこんなに呼んでくれるものだろうか?幾ら熱を出したからと言って、こんなにも不安な心地になるのだろうか?
そこで、タキオンは、不意に正月に田上の父の家へ行った時の動機を思い出した。田上は、母を想って泣いていた。それを、赤坂先生から聞いたから、タキオンは田上の父の家へ行こうと思ったのだ。
タキオンは、体勢を変えて、寝転がりながら左手で頬杖を突いて、左隣に居る田上の顔を上から見つめた。相変わらず、眉根を寄せて苦しそうな顔をしていた。すると、タキオンはこの場面でならキスをしてもいいんじゃないかと思った。理由は分からない。ただ、田上の顔を見つめて可哀想可哀想と思っていると、自然とその唇にキスをしてやりたくなったのだ。だから、タキオンは、掛け布団をずらして床に落とそうとしながら、田上の上に覆いかぶさった。田上は、それでも起きそうにない。タキオンは、そのまま、田上とキスをした。そして、自分の満足の行くまでキスをすると、タキオンは唇を離した。田上の表情は、晴れやかとは言えなかった。――そんなに上手くもいかないだろうね、とタキオンは思いながら、床に落ちそうな掛け布団を整えて、また田上と一緒の布団に潜った。今は、まだ朝で、覚醒してから二三時間くらいしか経っていないので、そうして布団に潜ってもタキオンに眠気はやってこず、落ち着かずに田上の顔を見つめたり、天井を見つめたり、田上の汗を拭ってやったり、湿ったタオルを額に置いてやったりと、そわそわしながら過ごしていた。
すると、ここで、マテリアルから連絡がメッセージで田上のスマホに来た。
『今日のご予定は?』との事だったので、タキオンは田上のスマホを取ると、熱で動けない田上の代わりにこう返した。
『圭一君は、熱で寝てる。私が、今、それを看病している。だから、今日は無理。』
そして、その後に、自分が送っていると分かるように『タキオン』と付け加えた。それを送信すると、突然に電話がかかってきた。マテリアルからだ。タキオンは、その電話に出てもいいものか少し迷ってしまったが、隣で寝ている田上を起こしてはいけないと思って、そのうるさい着信音を消して、マテリアルを無下にしないためにもその電話に出た。
「もしもし、何の用かい?」と少し声量を落としながら、タキオンがマテリアルに言った。すると、マテリアルが、電話の向こうからでも怪訝そうな顔をしているんだろうな、と分かる口調でこう言った。
『タキオンさん…?…なんで、タキオンさんが田上トレーナーの電話に出るんですか?』
「連絡があったからだよ。私が、朝起きて少しのんびりしていたら、スマホの方に――熱が出た。死にそう、って。だから、慌てて私が圭一君の部屋へと押しかけたわけだよ。それで、圭一君が今寝てるから、起こさないためにも用件は端的に言いたまえ」
『えー…。…待ってください。……まぁ、いいです。あなたたちの事なんて私の知った事ではありません。疲れでもたまってたんでしょうか?』
「その可能性はあるね。少し私が引っ張り回しすぎてしまったかもしれない。これからは、もう少し彼の体調も考慮して引っ張り回すとするよ。…用件は終わりかな?」
『いえ、ちょっと待ってください。……タキオンさんは、今、田上トレーナーの寮にいるわけですよね?』
「そうだが?」
『規則は知っていますよね?』
「勿論さ。でも、確か、この寮の寮長だったような人を見かけたけど、何も言わなかったし、他にも大勢見られてたけど何も言われなかったよ?」
『…まぁ、いいです。どうしようもありません。…お体の具合は?』
「まぁ、悪い所は熱だけで、後はそんなに、咳も鼻水もなさそうだね」
『そうですか。じゃあ、また後で、田上トレーナーが起きた時に連絡しておいてください。明日のご予定など。リリーちゃんもトレーニングに慣れさせておかないといけないでしょうから』
その後に、マテリアルが『それでは』と言うと、タキオンも「はい、さようなら」と言って、電話が切れた。そうすると、タキオンは田上のスマホを元あったところに置いて、次に、田上の顔を見た。相変わらず、眉は寄せていて苦しそうだった。ただ、もう、キスはする気にはなれなかったので、タキオンは、そのまま田上の横にうずくまりながら、布団に頭ごと潜り込んだ。ただ、少しだけウマ耳の先が出てはいた。
暖かい布団の中に居るとタキオンも心地が良くなったが、少し経つとその暖かさが息苦しくなって、新鮮な空気を吸いに布団から顔を覗かせた。ひんやりとした空気がタキオンの顔に当たって、少し気持ちが良くなった。けれども、まだ、苦しそうにしている田上の横顔を見ると、タキオンも少し考えなければならなかった。
やはり、本日の予定だ。どうにも、話し相手も居ないのに田上の部屋で、田上が起きるまで待つのはタキオンにとって苦痛であった。いくら隣に田上が居るといっても話せないのではタキオンも暇すぎる。
そこで、タキオンは、布団の中からむくりと体を起こした。何をしようというわけではないが、少しでも暇を紛らわすために体を起こした。その後に田上の顔を、少しの間見つめるが、こちらも何をしようもないので、暇だ。ただ、そこで、タキオンは――額のタオルをまた湿らせてあげよう、と思って、立ち上がる事にした。一瞬だけ暇ではないことができたが、ただタオルを湿らせて田上の額の上に置くだけなので、直ぐに暇になる。それだから、今度は、タキオンは、本を持ってこよう、と思いついた。タキオンの頭の中には、熱で苦しんでいる田上を放っておくという選択肢が毛頭無かったため、本を持って、この部屋で読むのは当然至極の事だった。しかし、今度のタキオンの頭には、規則という面倒臭いものが存在していたため、田上の寮の部屋を出て、廊下を通り、自分の寮まで行って、また戻ってくる時には、できるだけ存在感を出し過ぎないように忍び足でそそくさと田上の部屋に戻った。それでも、田上の友達の田中とは目が合ったから、その人には睨み返すことで、何も話しかけられないようにしながら、横を通り過ぎて行った。
タキオンは、自分の部屋にあった本を読みながら、たまに、田上の頭のタオルを湿らせ直してやったりして、田上との空間を共に過ごした。田上の寝息やたまに苦しそうに唸る声が聞こえるばかりだったので、タキオンにとって本を読みやすい事この上なかった。
本を読み始めて、一時間か二時間か経った頃、田上がまた涙を流してタキオンタキオンと呼び始めた。こればかりは、タキオンも本を読んではいられなかった。
また、「私はここに居るよ」と言いながら、田上の頬を撫でたり、手を触ってあげたりした。すると、田上がとろとろと眠たそうに、微かに瞼を上げた。田上は、横向きに寝転がっていて、タキオンがその顔をベッドの脇に膝をついて覗き込んでいる所だったので、田上が目を開けると二人の目はピタリと合った。しかし、田上は初め、タキオンが誰なのか判別がつかなかったようだ。タキオンが、「私だよ?」と呼び掛けても、頭に入ってこなかったようで、少ーしずつ少ーしずつ頭を覚醒させたのちに、寝ぼけた声で「タキオン?」と聞いた。それにまた、タキオンは「私だよ」と答えた。
そして、再び静かになった後、田上が言った。
「なんでここに居るの?」
「なんで?…そりゃあ、私たち結婚しているから当然じゃないか。家族が君の看病してたら何か、君の都合に障るかい?」
タキオンは、悪戯心を起こして、田上の家族になっているふりをしようとすると、田上も眉を寄せた。まだ、少し寝ぼけが残っている頭が、これが夢か現なのか判別しようと頑張っているのだ。タキオンは、その様子がおかしくておかしくて、今にも笑い出しそうになったが、顔に微笑みを浮かべたままでいるのは成功することができた。
田上は、暫く考えていたが、唐突にタキオンに言った。
「今何歳?」
「私?今、…二十八だね」
「結婚して何年目?」
「十年目」
「…子供は?」
「今は、小学校に行ってるから居ないね。下の子は、今、隣の部屋で寝てるよ」
「隣の部屋?」と聞きながら、田上がニヤリと笑みを浮かべた。
「隣の部屋なんてあったか?」
「隣の部屋は…、然るべき場所にあるよ。ここは、実は、君の寮の部屋ではないんだよ?似せて作ってあるというだけで、歴とした私たちのマイホームさ」
タキオンが、まだ田上を騙そうと話していると、田上がふふふと笑って言った。
「変な事を俺もしたんだなぁ。一軒家を建てて、その上、自分の元住んでいた部屋に似せて作ろうとしたのか。…つまり、この部屋を出ると、俺たちの家に繋がっているわけだ」
「そうとも言えるが、そうとも言えないかもしれないね」
そこで、タキオンも跪いている体勢が面倒臭くなって、置いてある椅子に腰かけようとしたのだが、田上の手を放したときに田上が寂しそうに、残念そうに自分の顔を見つめてきたので、タキオンは嬉しそうに顔に笑みを浮かべながらまた、跪く体勢に戻って言った。
「どうしたんだい?そんなに寂しそうな顔をして。手を繋いでいてほしいなら、そう言いたまえよ」
「…繋いで」
そう田上が言う前に、タキオンは田上と手を繋ぐ気満々だったので、「分かった」と言いながら、掛布団の中にある田上の手をまさぐって、その手を掴んだ。
暫く、二人は微笑みながら見つめ合ったが、田上が口を開いた。
「今何時?」
それを聞くと、タキオンは田上のパソコンのある机の時計を見るために、振り返った。
「今、十二時ちょっと前だね。何か食べたいものとかあるかい?冷蔵庫には、そんなに物がなかったけど、要るなら私が購買で買ってこようか?」
「なら、おにぎりで」と田上は言ったのだが、いざタキオンが立とうとすると、田上はタキオンの手を掴んで離さなかったので、タキオンも苦笑した。
「君も来たいのかい?」
田上は、言いにくそうに暫くタキオンの顔を見た後、一度目を伏せてからまたタキオンを見て言った。
「…行かないで」
「おやおや、随分と甘え上手になったね。じゃあ、お昼はどうするんだい?」
「後で。…ここに居て」
「ふむ、それじゃあ、君退いてくれよ。私もその布団に入ろう?どうだい?熱の具合は」
「少し良くなったけど、まだ怠い」
「成程。昨日君を連れ回してしまったからね。私にも相応の責任がある。私が、熱で寝込むくらいにはなんでも申し付けていいよ」
「申し付け?…ここに居てくれれば」
その会話の内に、タキオンと田上は、一緒の布団に潜りこんで二人で向かい合った。けれども、そうすると、急に恥ずかしくなってきたのか、田上が空中に目を泳がせ始めた。その様子が可笑しくて、タキオンは口元に笑みを浮かべながら言った。
「妻と一緒の布団に入るのが恥ずかしいかい?」
「恥ずかしい?…そりゃあ、自分より八つも年下のウマ娘が妻なんて恥ずかしいだろ」
「おや?その言い分だと、私が、妻として恥ずかしい女という捉え方もできるが?」
その言葉に、田上は少し面倒臭そうにしながらも答えた。
「恥ずかしいのは俺だ。…こんな、…こんな恋愛事をするとは思わなかった」
「どんな恋愛事をするんだと思っていたんだい?」
「それは、俺の理想の恋愛事を聞きたいって事?」
「聞かせてもらおう。熱で少し頭が回っていないんだからさ。酒に酔ったと思って、私に話してごらんよ」
そう言うと、田上とタキオンは、二人共挑戦するような目付きで見つめ合った。それで、やっぱりあんまり頭の回っていない田上は、後で後悔しそうな自分の理想の恋愛事をタキオンに吐露した。
「俺は、…もう少し同年代の人と付き合うと思ってた。年が離れてても、五歳差くらい?」
「そうすると、二十からが君の守備範囲なのかな?」
「二十…。いや、もう少し上かな。三歳差?そこら辺が、子供の頃の話だったりも合うよね?」
「…まぁ、重なる事には重なるんじゃないか?アニメ映画とか音楽とか特撮なんかは分かるだろうね」
「それで、職場なんかで知り合って、そのまま、結婚でもするんじゃないかと思ってた」
「でも、そこに、私が現れた」とタキオンが口を挟むと、田上が「今俺が話してるところだから」と言って、話を続けた。
「俺の恋愛って、…もっとシンプルだった。映画一緒に見たりするんだろうな。水族館に行くんだろうな。遊園地はジェットコースターが怖いから嫌だな」
すると、また、タキオンが口を挟んだ。
「君、ジェットコースター苦手なのかい?」
「苦手だよ。あんな、高くて落ちそうな物、乗れる奴らの気が知れないわ。あんなのを楽しんで乗れる人間は、頭のネジがどっかおかしい。一本取れてる」
ジェットコースターで相当怖い思いをしたのか、田上が早口でそう捲し立てると、苦笑しながらタキオンが「分かった。次のデートには、遊園地はやめておくことにするよ」と言った。すると、話が脱線していくにも関わらず、田上が聞いた。
「次もデートするのか?」
「君の体調次第だけどね。一日中連れ回して、疲れが溜まって、寝込んでしまうのであれば、君に無理のないスケジュールで連れ回さなくてはならない。遊園地なんかは、基本一日中遊ぶようなものだから、そういう意味でもやめておいた方がいいかもね」
「行くとしたらどこに行くんだ?」
「う~ん…、あんまり定まってはいないけどね。多分、その前にマテリアル君と赤坂君と私たちとで遊ぶ予定が入ってくる」
「…なんで?」
「マテリアル君が友達が居ないって言うから、私が、赤坂君と仲介してあげようと思って」
「…で、なんで俺がそこに居るの?」
「君だって知り合いだろ?そして、そこに私が居るだろ?なら、君もついてきていいんじゃないかい?」
「…俺が?…一番楽しくないのは俺じゃないの?」
「いやぁ、君かもしれないけど、一緒についてきてくれよ。私一人だけで、あの二人を仲介するのは大変だろ?」
「でも、お見合いじゃないんだから、俺たちが一生懸命世話してないであの人たちでウマが合うか合わないか決めればいいだろ?]
「そりゃあ、そうだけどね?…さすがに、二人を引き合わせて、それじゃあ私はこれで、って帰るわけにはいかないだろ?なら、君も居てくれれば助かる。悪いようにはしないよ。ちゃんと君と手は繋いいてであげるから」
案外、真剣な顔でタキオンがそう言うと、田上も少し困惑してしまったが、嫌そうな表情は変えないで、聞いた。
「どこに行くの?」
「分からない。あの二人次第ではあるんだけど、ショッピングモールに行って色々眺めるというのが、無難な気はするんだよね。それに、赤坂君にはまだ連絡も取っていないから、果たして、赤坂君が誘いを受けてくれるのかも分からない」
そこで、田上が「マテリアルさんの写真を見せてみれば?」と口を挟むと、タキオンが「何故だい?」と聞き返した。
「マテリアルさんは、普通に良い顔してるだろ?ここらでもそうそう見ない良い顔だよ。いくら、同性と言っても、赤坂先生も――この人凄い美人、みたいに食い付きそうじゃないか?」
「まぁ、食い付くことには食い付くだろうね?ここらじゃそうそう見ない美人だ。…私はどうだい?前にこんな質問をしたような気がするけど、私の事はどう思う?可愛い?美人?」
「タキオン?」とこれまた嫌そうに田上が顔をしかめた。
「タキオンの事は好きなんだから…、それなりに思ってるよ。それなりに。…綺麗だ、って言った事もあるだろ?」
「それは、嬉しいけどね。今言ってみてごらんよ。私の事どう思う?可愛いかい?」
「…まぁ、可愛くない事はないよ。…なんで言わなきゃいけないの?」
「君の恋人だからさ。甘い言葉を囁いてみれくれよ」
「…囁かれたいの?」
少し意地悪な調子で田上が言うと、タキオンは真面目な顔になって「囁かれたい」と言ったから、田上も申し訳なくなった。だからと言って、囁くのは田上にとって恥ずかしい事だったのであまり言いたくはなかったのだが、タキオンが「お願い」ともう一声かけると、田上も渋々言った。
「……お前は、…凄く可愛い。可愛いし、…良い奴。俺の、好きな人。…これでいい?」
「もう少し」とタキオンが言ったので、また田上は言葉を探しながら言った。
「…お前を好きでよかった。本当に。…案外、優しい所も好き。俺を退屈させないために手を繋いであげようっていう提案は嫌いじゃない」
「お気に召したのかな?」
「…良い提案だと思った。手を繋いでれば、俺を無下にはしてくれなさそう」
「じゃあ、これから、君とお出かけに行くたびに手を繋いで上げないといけないし、複数人でのお出かけなら尚の事手を繋いであげないといけないわけだね?」
「そうしてくれるとありがたい。…そんなところが好きだ」
そう言うと、タキオンは少し驚いたような顔をし、次いで、顔を赤らめてにやにやさせながら言った。
「君も酔狂だよ。とんでもなく優しい奴だよ。…いつもありがとう。私の我儘に付き合ってくれて」
「お前の我儘に付き合うのが俺の仕事だからな」
「仕事?…仕事で私に付き合っているのかい?」
「…そんな事はないけど」
タキオンの言葉で一瞬ふらついた雰囲気に田上は動揺したが、それは自分でも気が付かない程微かな動揺で、タキオンに言葉を返すと、それもあんまり無くなってしまった。けれども、それ以降、二人の会話は途絶えて、いつしか田上も重たい瞼に促されて、再び眠りに就いてしまった。
その顔を見つめながら、タキオンもうつらうつらと微睡みの中に入って行きそうになったが、目は開いていた。目は開いて田上を見たまま、タキオンは夢を見た。ただの空想と言っても良いかもしれないが、空想にしては少し微睡みに入りすぎて、現実との区別はつかなくなっていた。
田上が、自分の為に一生懸命になってお弁当を作ってくれている夢だった。場所は、タキオンの父と母が住んでいる家の台所だった。そこで、田上が台所に立ち、自分はリビングに座って後ろ姿を眺めている。田上はせっせと働いている。タキオンの方を見ておくそぶりもないが、タキオンもわざわざ呼んで振り返らせようとはしなかった。
そして、暫く経った頃、田上が「できた!」と言って、子供のような笑顔でタキオンにお弁当を見せてきた。タキオンは、それを受け取ると、一つ摘まんで口に運び「美味しい!」と言った。田上は、「ありがとう」と言って、リビングの机に座った。お弁当は、机の端に置かれた。
田上とタキオンは、向かい合って座ったが、その内に田上が目を逸らして、リビングにあるガラスの引き戸から外を見始めた。暖かい日差しに照らされた庭が陽光を反射させて、きらきらと眩いばかりに輝いているのが見える。タキオンもそれを見つめたが、そうすると、田上が言った。
「タキオン、外に行ったらどう?」
タキオンは、首を横に振って、嫌だと伝えた。すると、今まで陽光の反射によって明るくなっていた田上の顔が、急に険しく暗くなった。
そして、俯いて言った。
「俺はもう疲れたよ」
タキオンは、何かをしてあげたかったが、何をする事もできなかった。ただ、真向いの椅子に座って田上の事を見つめていた。その次に、田上は、急に立ち上がると、リビングの外へ出て行こうとしたから、タキオンが呼び止めた。呼び止めると、田上は立ち止まりこそしたが、ただ黙って首を横に振ったばかりで、また、歩き始めて、リビングを出てタキオンからは見えなくなった。
リビングから出た部屋は、何もない畳の部屋だった。たった一つあるのは、窓ばかり、と言ったところで、田上は寝転がった。そして、深く息を吸い込むと、うずくまって胎児の格好をとった。タキオンは、未だにリビングから動けずにいる。果たして、田上を追いかけていいものかと迷っている。と、そこで、タキオンの父が現れた。顔は似ていなくとも、田上と父の二人の雰囲気は似ていた。二人共、寡黙な様子だ。父は、歩いてタキオンの横を通り過ぎると、今まで田上の座っていた席に座って言った。
「彼が好きなのか?」
タキオンは、頷いた。
すると、また父が言った。
「一緒に過ごす覚悟はあるのか?」
タキオンが頷く。
そして、また父が言う。
「お前を愛してくれるかな?」
これにはタキオンも少し迷った。すると、その様子を見た父が言った。
「迷うなら見に行きなさい」
だから、タキオンは立ち上がって、田上がリビングから出て行った方に向かった。丁度角で見えなかったところから、隣の方を覗くと、田上が体を丸めてすうすうと寝息を立てながら眠っていた。それを見ると、タキオンは少し顔を綻ばせて、田上の所へと歩いて行った。
そして、とんとんと田上の肩を叩いて、田上を起こした。一度目は起きず、二度目も起きず、三度目のとんとんで田上は寝ぼけた顔でタキオンの方を見た。タキオンは、にっこりと笑って言った。
「君、私と生涯を共にしてくれるかい?」
田上は、寝ぼけ顔から急激に眉間に皺を寄せたが、こう言った。
「俺は、ついて行くよ。お前の傍から離れるつもりはない」
「なら、私と一緒に来てくれ」
そう言ってからタキオンは田上が起きるのを手助けしようと、手を伸ばした。田上は、その手を取って起き上がると、そのまま、手を繋いだまま、リビングに居るタキオンの父の下へと向かった。二人は、それぞれタキオンが左、田上が右に座り、父親と対峙した。父は、寡黙でありながらも田上とはどこか違う、穏やかな目つきで二人を見つめ、それから、ゆっくりと口を開いた。
「頑張れ」
そう言うと、父は、席を立って、タキオンの横を通り過ぎ、見えなくなった。
そこで夢が終わった。