夢の中に入るうちに、タキオンは、眠りには就いていたようだ。その眠りが終わりへと近づいて、浅くなっているうちに自分の頬を撫でる手の感触を感じると、タキオンは、驚いたように顔を上げ、その時目の前に見えた田上の顔に向かって言った。
「ここは?」
先程、田上が起きた状況と酷似していたので、田上もタキオンを騙してみようかとも思ったのだが、さすがに、まさか自分たちが結婚しているとタキオンに言う度胸はなかったため、「俺の部屋だよ」と素直に言った。すると、タキオンは、驚きのあまり入れていた力を抜いて、ふふふと笑った。
「…夢を見たよ」とタキオンが田上に報告した。
「夢?」
「そう。…私と君と、私の父さんとで話している夢だった」
それを聞くと、田上の眉が少し寄った。だから、タキオンは少し苦笑しながら言った。
「そう怖がらないでくれ。…まず、君がお弁当を作っていたんだよ」
「ああ」
「それで、私は、その背中を眺めていた。そうすると、君が――できた!と無邪気な笑顔で言い、私がそれを摘まんだ。それから、…君と私で、リビングに向かい合って座る。…で、確か、その後に、私と君とで何か話すと、君が急に機嫌が悪くなってリビングの隣の部屋に行った」
その話で、田上は少し申し訳なくなって、口元を緊張させた。それは、微かな表情の動きだったが、タキオンはその事をしっかりと察して安心させるように言った。
「別に君が悪いんじゃないよ。君が大変だったことは、私もよく知っている。その事が、夢に出てきただけさ」
「でも、俺が夢に出るまで迷惑をかけたから、そうなったんだろ?」
「まあまあ、最後まで私の話を聞いてくれ。これは、重要だよ?…それで、…君が隣の部屋まで行った事は話した。そうすると、私の父が現れたんだよ。君とは違う方向、まぁ、玄関の方だね。…言い忘れてた。場所は、私の父さんと母さんの家だ。それで、父さんが現れると、さっきまで君が座っていた場所に父さんが座った。私の真ん前だね。そして、言った。――彼が好きなのか?――一緒に過ごす覚悟はあるのか?――お前を愛してくれるかな?……私はここで、迷ってしまった。……勿論、君が私の事を好きなのは分かっている。分かっているが私も迷っているのだろう。それで、父さんが、――迷っているなら見に行きなさい、って言ったから、私は、君の下へ向かった。君は、丸まって寝ていたから、それを起こして聞いた。…――私と一緒に生きてくれるか?って。君は、いつもみたいなしかめっ面をしたけど、私と一緒に生きてくれると言った。だから、私たちは、二人で父さんの元へと戻った。そしたら、父さんは、――頑張れ、って言うと、どこかに行った。…それで、夢が終わった。……すると、私思うのだけど…」
そうタキオンが、田上の目を見つめながら言ってきたから、田上も「何が?」と聞き返した。
「今度のゴールデンウィークに一緒に私の家に帰らないかい?この前の正月は君の家に行った事だし、今度は、私が招待するよ」
「ええ?……でも、俺とお前とだと、…今度は少し意味が違うぞ?」
「意味って?」
「…そりゃ、…付き合ってる人の家に俺が乗り込むわけだから、それ相応の覚悟を決めないといけないし、お前のお母さんたちも俺たちがこういう関係だって事は知っているわけだから、ただじゃ済まない」
「そりゃあ、そうさ。私、それをしに行きたいんだ。一緒に私の父さんと母さんに報告しに行こう?私たち、晴れて結婚の約束までしました、って」
タキオンの言葉に、一瞬田上は目を逸らしたが、すぐにタキオンの目を見て言った。
「今じゃないと駄目か?」
「今、しない理由はないだろう?それとも何かあるかい?」
「……少しだけ」と田上は悲しそうな顔をしながら、タキオンに言った。タキオンは、その言葉の真意を測りかねて、疑問を顔に浮かべながら聞いた。
「少し?…何かな?」
田上は、言いにくそうに言いにくそうに目を逸らしながら、でも、最後にはタキオンにチラチラと目を合わせて、答えた。
「…まだ、少しだけ不安。…この先、何が起きるのかも分からないのに、お前の父さんと母さんに言うのは」
「…そうか。…どうしたらいいんだろうね?君の不安を取り除くには。…私は、君の事が好きだけど、君はそれが絶対ではないと思っているんだろう?」
「…そうだ」
「すると、…君の言う『絶対』って一体何だい?籍を入れたら絶対になるかな?もしそうであれば、今からでも、私の両親の許可を取って、役所に婚姻届けを提出しに行こう。…それが『絶対』だと君には言えるかな?」
「…言えない、かもしれない」
「ふむ。…すると、君の言う『絶対』は私との間に子供を儲ける事かな?」
これも田上は、言いにくそうにしながらも「違うかもしれない」と慎重に答えた。
「ふむふむ。そうすると、君は、私と結婚したとしても、子供を作ったとしても、不安を感じるわけだ。…それじゃあ、君は何をしたら安心感を得られるんだい?」
これには、田上も大いに悩んだが、最後にはしっかりと答えた。
「……お前と、傍に居ることができれば」
「ふむ。…ふむ。そうなると、私を抱き締めていれば、とか、私とキスをしていれば、という事も含まれるのかな?」
田上は、ゆっくりと考えながら、頷いた。
「ふむ。では、これらをまとめると、君は、例え、私と結婚したとしてもそこに安心感は見い出せず、子供ができたとしても、そこに安心感が見いだせない。唯一、安心感を見い出すことができるとすれば、それは、今この時のような、私と傍に居て、一緒に語らうことができる時間である。これに間違いは無いかな?あったら訂正してくれ」
田上が、再び頷いたのを見ると、タキオンは話を続けた。
「つまり、君は、結婚という言葉そのものに安心感を感じず、私が傍に居るという言葉に安心感を感じるわけだ。離婚というのは当たり前にあるからね。そういう事になってもおかしくない。結婚しても二人の間が縛られるという事はなく、そこには、『離婚する自由』というものがあるわけだ。勿論、暴力なんかを振るわれるんなら離婚はするでいいが、今は、自由という価値観にある種縛られている。その鎖に縛られた人類は、互いの相反する価値観が働いた時、その力の反発の物理法則に任せて、別れる事を選ぶ。これでは、個々は孤立していくばかりだ。君が不安なのはその事だろう。相反する価値観にどう抗って、私たちの間が繋がっていくのかが分からない。違うかな?暫く考えてみてもいいけど」
タキオンがそう言ったので、田上は暫く考えみる事にした。たまに、「もう一回言ってみて?」とか「この意味は?」など、しっかりと頭の中で理解できるようにタキオンに聞いた。それに、タキオンは、真摯に答えて、田上の脳内処理の補助をした。
その甲斐あって、田上はぼんやりとだが、その考えの輪郭を掴むことができ、タキオンに「分かった」と言えた。そして、またタキオンが話し始めた。
「それでは、君は、自分がこの考えに当てはまると思うかい?個々の自由という価値観が不安で不安でしょうがない」
「多分、そうだと思う」
「すると、その考えを解消するのには、大変な労力を伴う事にはなりそうだけど、私が居るから心配ないよ。私たち二人、心底、お互いを好きな者同士で巡り合えたんだ。繋がりは私たちの中にある。私は君と離れないし、君は私とは離れない。私たちの価値観は、世間では逆風が吹くかもしれないけど、その逆風の中を進まなきゃならないんだよ。私たちの繋がりは、皆が追い求めて追い求めて止まないものだ。だから、君の心を理解してくれる人は、私以外にもきっとどこかに居るよ。大丈夫。君は一人ぼっちなんかじゃなくて、私と共にこの大きな丸くて青い球の表面で、人類という数多くの仲間たちと暮らしている。私が居なくても、きっと、君の味方をしてくれる人はいるよ」
タキオンがそう言い切ると、田上は顔に微かに笑みを作って言った。
「…ありがとう。…世話になってばかりだな。…本当に、なんで俺がお前に好きになってもらえたのか分からないよ」
「そればっかりは、運命と言ってもいいだろうね。数々の道の分岐点が私たちをここへと導いたんだ。君が君のような人間でなければ、私は君を好きにならなかっただろうし、そもそも、君自体、私のトレーナーにはなっていないかもしれない。君が私の走りに惚れ、もっと言えば、生徒会長のご慧眼に預かったから、私たちはこうして共に過ごすことができている。いずれ、生徒会長にも挨拶をしなくてはならない」
「…でも、確か、生徒会長は今年で卒業だろ?もう、学園にもいないんじゃないか?」
「そうか。そうだったね。…確か、あの人とフジ君は仲が良かったよね?」
「…俺に聞かれても困るよ。知らないよ」
「…確か、そうだった。…それに、生徒会長は辞めても走る事はやめていないんじゃないかい?まだ、私と同じトゥインクル・シリーズに居るかもしれない」
「それは調べればわかるかもしれないけど、確か、あの人は、GⅢを勝てるか勝てないかの人じゃなかったか?」
「まぁ、それは、分かってるけど、同じシリーズに居れば、また、競技場なんかで会う機会もあるかもしれないだろ?けど、私は、機会を作ってあの人に会いたいね。あの人には、測り知れない恩があるから」
「俺もそう思うよ。会長さんには、本当にお礼を言いたい。俺とお前を繋ぎ合わせてくれた一番の立役者だからな」
「そうとも。他にも様々な分岐点は在れど、あの人が居なければ、私たちは確実に出会う事はなかった。もし、私たちが、トレセン学園ですれ違っても気が付かない様な関係だったら、…何と言うか、…少し怖いね」
「…怖いな。俺が居なかったらお前は今頃どんな暮らしをしているんだろう」
「…まず、ここには居ないだろうね。この君の部屋にもトレセン学園にも。すると、私は海外に居るかもしれない。あの頃は、そんな事も考えていた。拠点を海外に移せば問題ないと。…だけど、拠点が君の隣で良かった。おかげで私は、君に頼って暮らせている。…私が重荷だったりはしないかい?」
「しないよ。俺もお前がいなきゃここにはいない。もしかしたら、もう死んでるかもしれない。生き地獄に嫌気が差して」
そう言って、田上が目を伏せ、悲しげな顔をしたので、タキオンは、黙って田上の頬に手を伸ばし、その頬を優しく撫でた。すると、田上はまた目を上げて、タキオンを見ると言った。
「でも、お前と生きて、色々教えてもらって、これからもお前の傍で生きて行こうと思ったから、俺は今日も生きている。お前が、決して俺を見捨てなかったから、俺は今日も生きている。…なんか、涙が出てきそうになってきた…」
田上が目の端を手で擦りながらそう言うと、タキオンは顔に微笑みを浮かべた。
「私も本当に君と居れて良かった。辛い事や大変な事がたくさんあったけど、それらすらも今に繋がっているんだと思うと、私のやってきたことは無駄じゃなかったんだと思える。…次のゴールデンウィーク、私と一緒に来てくれるかい?」
これを聞くと、田上は少し目を逸らして考えたが、その後に聞いた。
「具体的に何をすればいいのかな?」
「具体的に?…私の家に行くだろ?それで、私がいつも帰る時は、父さんと母さんが布団敷いて寝てる横に荷物を置いたりはするが、…今回は、仏間で寝る事になるかもね。だから、そこに荷物を置くだろ?……それで、…どうするんだ?」
「…初めっから、お前の父さんと母さんに挨拶した方がいいのかな?」
「娘さんを僕に下さい、って?」
「…まぁ、事によれば、そう言うかもしれない」
「それに関しては、父さんも母さんも、――どうぞどうぞ、私の娘を貰いたいならご自由に上げます。みたいな姿勢だとは思うから、そういう展開にはならないと思うよ?」
「でも、いくら上げますって言っても、まさか、自分の大事な娘を誰それに上げるわけじゃないだろ?」
「勿論そうだよ。君なら、どうぞどうぞという姿勢だね。これが、もし、私が訳の分からない男を連れてきたなら、父さんも待ったを掛けるだろうね。そこで、――娘さんを僕に下さい!の出番だ」
「だとすると、俺も訳の分からない男にはならないか?大阪杯を見に来てくれた時、俺もまだ曖昧な姿勢だったから、悪く映る事があるんじゃないか?」
「あれは、私との交際を真剣に考えてくれてた、って事は向こうも分かると思うよ。私との関係を真剣に考えてくれていたからこその迷いだという事は、私の父さんも分かるはずだ」
「でも、あれは、俺は、どちらかと言うと、逃げようとしていた、って印象だと思う。…実際そうだった。…あんまり良い印象じゃないよ」
「まぁ、その時はまた説明すればいいさ。何しろ、どんなトレーナーにもなびかなかったこの私が、ぞっこんなんだ。今更、どうにかこうにか言って、私が君から離れないのは向こうも分かると思う。その時は、父さんも諦めるさ」
「…でも」と田上が言うと、タキオンは「君も心配性だなぁ」と少し笑ったが、それには構わず、田上は話を続けた。
「でも、恨まれるんじゃないか?何しろ、こっちは、悪い印象のある甲斐性無しの娘を安心して送り出せそうにないトレーナーだぞ」
「向こうは、鼻から私を安心して送り出せるとは思っていないさ。恐らく、例え迷っていたとしてもトレーナーとして私に尽くしてくれた君なら十分に安心して送り出せると思っていると思うよ。向こうは、そもそも私の嫁の引き取り手が居ないものだとばかり思っているようだから」
「そんな事はないだろ。お前、仮にもウマ娘だぞ」
「ウマ娘だよ?」とタキオンがニヤニヤしながら言い返すと、田上も嵌められもしていないのに、――嵌められたと思った。これは完全に田上の身から出た錆だったが、タキオンもその錆にすぐに気が付いて利用してきたので、田上がとっさに嵌められたと思うのも無理はなかった。タキオンが、田上の錆びを利用した理由は、今なら、田上から「可愛い」という言葉が引き出せそうだったからだ。先程も引き出せる事には成功していたのだが、田上が「可愛い」と言うのなら何度でもそう言われたかった。それは、タキオンの嬉しい事だからでもあったし、恥ずかしがりながらも「可愛い」と言う田上が好きだからでもあった。
田上もこれには終わりがなさそうだという事には気が付いていたが、自分で蒔いた種なので今回は仕方なく回収しに行くことにした。
「お前は、…可愛いんだよ?」
「私は可愛いね。…それで?」
「…そりゃあ…、放っておく奴はいないだろ?」
「そう思うのは君だけさ。案外、君が思うより、私は危険人物認定されているんだよ?無闇矢鱈に体を実験に使われたら堪らないだろ?」
「でも、その実験で死んだことはない」
「死んだことは無くても体に何らかの影響を与えるだろ?例えば、光ったり、筋肉痛だったり。それが、君以外の男性諸君は嫌なのさ」
「いや…、でも、…絶対、お前、競走者としても優秀なんだから、それだけでもモテてたはずだ。現に、お前は、俺以外のトレーナーは断ったって言わなかったか?」
すると、タキオンはニヤリと笑みを浮かべた。
「そうとも。私の嫁の当てがないと私の親が思う理由はそこにある。私は、君以外の男だったら選り好みするからね。君なら良いが、それ以外の男はダメだ。特に、伴侶として選ぶなら君しか居ない」
その言葉で田上は少し恥ずかしそうに顔を歪めたが、次にこう言った。
「それは、嬉しいけど、やっぱり、俺は他の人から見たら、とんでもない甲斐性なしだと思うぞ。それに、将来の安定感もない。まだ、お前を担当しただけの頼りない実績しかないんだから、それに娘を預けるのは不安しかないだろ?」
「何言っているんだい?あの人たちだって、私たちの姿を見てきたはずだ。しかも、他の人じゃ見れない控室での姿も。なら、答えは、一つしかないと思うけどね。…君に娘を預けよう。それが最善の策だ。あちらの方から見れば、私も甲斐性なしの一員だ。君は不安定なイメージを持たれているかもしれないけど、私は、これを決めたら頑として受け付けないという確固たる、子供の頃から育まれてきたイメージを持たれているんだ。そして、実際そうなんだ。これで、結婚をしないという話になれば、親にとっては不安定な人間も全く動かない大仏も同じさ。親にとっては、私は、誰か安心できる人に託せればそれでいいんだよ」
それを聞くと、田上がまた言った。
「でも、俺は安心できる人間じゃないと思うんだけどなぁ…」
これでは、堂々巡りになってしまう。それに気が付いたタキオンは、話の方向性を変えることにした。
「じゃあ、分かった。こうしよう。君が安心できる人間かそうじゃないかはこの際、どうでもいい。私がこうする、と言ったら、あの家でどうこうできる問題ではないから。…だから、君はどうしたい?という質問にしよう。どっち道、結婚する上であの人たちに報告する事は避けられないんだ。それならば、もう、君の意思を問うしかない。君は、私と結婚するかしないか。例え、私の父と母に反対されたって私と結婚する意志があるのか。それが重要だ。どうなんだい?」
「俺は、結婚するよ。…でも、円満に結婚出来れば、それが一番いいだろ?」
「それが良いに越した事はない。しかし、これ以上、ああだこうだ言うのなら、その口をハードボイルドに塞ぐぞ」
すると、田上が「塞いでみろよ」と挑発したから、タキオンもその気になった。ふふふと口から笑い声を漏らしながら、タキオンは掛け布団をぐちゃぐちゃにして、田上の上に覆い被さった。田上も腕を突っ張ったりして抵抗をしたが、それは本気の抵抗ではなく、二十五歳と十八歳の付き合い立ての恋人同士らしい、愛のあるじゃれあいだった。
暫く二人で手と手を絡ませ合った後、田上の手の網を潜り抜けたタキオンが、田上の口をハードボイルドに塞いだ。田上もそうされると、大人しく塞がれたが、段々段々と可笑しさに笑いが込み上げてきて、ふふふと鼻から息を漏らしてタキオンの前髪を揺らした。すると、タキオンも田上と同じ気持であったようだ。こちらも、ふふふと鼻から息を漏らすと、遂には笑い、田上の唇から自分の唇を離し、ニコニコしながら言った。
「あんまりハードボイルドじゃなかったな。君みたいな独特の雰囲気を醸し出さないと」
「独特?…あの時、独特の雰囲気を出してた?」
「まぁ、夕日のおかげもあって、大分、かっこよかったよ。君」
それで、田上は少し恥ずかしそうに眉を寄せて目を逸らしたが、それには構わずにタキオンが言った。
「君、熱はどうだい?今は、あんまり感じなかったけど」
「…まだ、少しぼんやりするくらい」
「風邪かな?」とタキオンが聞くと、田上は首を傾げながら「分からない」と答えた。それでも、タキオンはこう言った。
「一先ず、熱が収まったのなら、お風呂にでも行ってきたらどうだい?君、昨日の服のままだぞ。…それに、もしかして、君、昨日の夕食も食っていないんじゃないかい?」
その答えを言わずに田上が黙ったままで目を逸らしていると、タキオンが、まるで母親の様に田上の視界に入ろうとしながら言った。
「君、夕食くらいは食わないと。いくら、熱でしんどかった…。…昨日から?熱は昨日からだった?」
「いや、…昨日は、何か、頭が働かないくらいだった」
「そうか。…私が気が付くべきだったな。そうすれば、君のための夕食を運ぶなり、なんなりはできたはずだ」
「無理だったんじゃないか?」
田上が反論すると、タキオンは睨むに睨めない様な顔つきで田上を見て、言った。
「なら、君も少しは私に報告してくれ。頭が働かないなら働かないってね。そうすれば、私も君の動きに何らかの反応をしやすくなる」
「でも、それは、俺にも無理だよ。そんなに逐一報告するのは面倒臭い」
「…それもそうだが、…あんまり無理はしないで…、とも言いたいが、無理をさせているのは私だな。…まぁ、あの、…我儘で申し訳ないが、私の事と君の健康を大事にしてくれれば、私はそれが良い」
「分かった」
そう田上が答えると、タキオンは、田上の上から降りて、掛け布団を直しながらまた寝転がろうとした。その合間に、タキオンはもう一度こう聞いた。
「君は、私と一緒にゴールデンウィークには来てくれるのかい?」
「…何日間になるんだ?」
「君の休みの取り方にもよるけど、大体、三日間から五日間という話になるんじゃないだろうか?」
「まぁ、詳細は後でいいけど…。…行くよ。俺は行く。…俺の態度に依れば、一日と持たずして放り出される可能性もあるんだろ?」
「その可能性もあるが、そんなに構えなくても良いと思うよ。私の父さんは、物分かりが良いんだ。君くらい頼れる人なら、父さんも快く認めてくれるさ。私たちの関係を」
そして、完全に寝転がって田上の方を向くと、こう続けた。
「母さんも悪い人じゃない。君の好物を伝えておけば、美味しい料理を作って待っててくれているはずだよ」
「桜花ちゃんは?」
「桜花?…桜花は、私たちの周りをうろちょろして返答に困る事を一杯言うと思うよ」
その話を聞くと、田上は苦笑した。
「それは嫌だなぁ」
そして、その後、唐突に「起きよう」と言うと、タキオンが折角綺麗に整えた掛け布団を乱して、起き上がった。タキオンは、まだ寝転がったままで、体を起こした田上を見つめていた。その後に「もういいのかい?」と聞いて、田上が「もういいよ」と答えると、自分もゆっくりと起き上った。
それから、二人が暫く、何をしようかと迷っている時間があった。この部屋に居ても何もする事はないが、これと言って外に出る用事もない。または、外に出たくはない。二人きりのままが心地いい。それだから、二人は、キョロキョロと辺りを見るともなく見回した後、やっぱり、お互いとお互いの顔に目が合って、見つめ合った。
その後に、タキオンが言った。
「何するんだい?」
「…何しよう?…何かある?」
「何もない」
それで、田上も困ってしまって、一瞬だけ目を逸らしたが、その次に言った。
「じゃあ、寝るか」
「そうするか」
そして、また二人は寝転がった。特に何もする事がないので、田上は、タキオンと会話をするために、こう話しかけた。
「タキオンは、…よく、俺の事を好きになれたな」
「またそれかい?」とタキオンは苦笑しながら言い、その後に続けた。
「だって、私は、君の事が好きなんだから、それに理由なんてないだろ?まぁ、強いて言うなら、君が私の好みの男だったって事だ」
「それが、……あんまり良く分からん。だって、俺はこの一生で一度も女性に好かれた事はないぞ」
「それで?」
「それで?…俺は、好かれない人間だから、お前が俺を好きになるのはおかしい」
「ふむ…。次は?」
「え?…もうないけど」
「ふむふむ。…どうだろうねぇ。君、自分の事不細工だと思っているのかい?」
「まぁ、…まぁ」
「それなら言うけど、君、まさか、そこら辺のイケメンや芸能人に勝とうって言うんじゃないだろうね?その人たちに勝とうって言うんなら、君は今すぐ、転生するか整形するかしないといけないけど、別に、君の顔は見れない顔じゃないよ。十分に良い顔だし、十分に好きな人も現れる。…女性に好かれた事はない?…それは、何かの間違いだと私は思うね。君自身による自己肯定感の無さによって、その女性たちのアピールを無下にしてしまった可能性もあるし、または、君が好きな事を胸の内に秘めたままだった女の人も居るかもしれない」
「本当かぁ?」と田上が訝しげに言うと、タキオンがさらに反論した。
「本当だとも。いいかい?可能性の話だ。例え、限りなくゼロパーセントに近い確率であったとしても、誰もその心の内を君に明かしていないのであれば、それはゼロにはならない。もしかすると、誰か君を好きだった可能性がある。その主たる例が私だ。現に私が君を好きになっている」
「お前だけじゃないの?」
「ほほう。では、君は誰か私以外の人に好かれてみたいと、想いを伝えてもらいたいと言うわけだね?私という人がありながら?誰か別の女性の方が好きだと。君はそう言うわけだね?」
「いや、そんなんじゃないけどさ。……お前一人だけじゃん。『俺は、女性から好かれない』という法則をただ一人破ったのが、お前じゃん。すると、もっと他にこの実験にはあれこれの不備があったりはしないかと、調べるのが普通じゃん。法則から外れているんだから、何か、間違ったんだよ」
「んん?そうすると、私の何かしらが間違っているという事になるね?価値観だったり、好みだったりかい?…いや、待て。そもそも、その法則はしっかりと検証が行われていない。君は、周りにいる女子全員に――俺の事が好きですか?と調べたのかい?」
「調べてないけど…」
田上は、少し考えに夢中になって興奮しているタキオンにたじたじになりながら、そう答えた。すると、タキオンは次に早口で言った。
「すると、君の法則は初めから存在しなかったことになる。その法則を検証しようと思ったら、君の小学校、幼稚園、中学校、高校、大学、全てを洗って探し出さなければならない事になる。君と出会った女性一人たりとも逃してはならない。その時の気持ちを絶対に話させるんだ。話せなければ、その時点でその検証は意味を成さない事になる。それに、君は、メディアでの露出もある。世の中色んな女性がいる。その上、私を担当してGⅠを勝利した、言わば勝ち組だ。勝ち組好きの女性には引く手数多なんじゃないか?」
「そんなので俺は、好かれたくない」
「なら、私で我慢しておくんだな。何せ、この世でただ一人君に想いを伝えることのできた女性だぞ?これ以上、君が大事にすべきものはあるだろうか?いや、無いだろう」
「無いよ。…でも、少しあれがあるんだ」
田上が曖昧な物言いをしたので、タキオンは不思議な顔をして聞いた。
「あれ?」
「……こう、…感覚というか。…別に、気のせいと言えば気のせいでもいいし、俺が、タキオンと一緒に居る事は変わらない。でも、…昨日も言ったんだけど…」
そこまで言うと、タキオンも田上が何を言おうとしているのかが分かったから、田上の言葉を継いで言った。
「ああ、昨日の帰りに寮まで学園内を歩いている時だね?」
「ああ」
「…それは、…私は、…多分大丈夫だと思う。…多分。…これ以上は私にも分からない。…私だって、君と居れればそれでいいという、少し頼り気味の感覚はある。けれど、君が離れていくという感覚はない。夢でも、君はついてきてくれると言っていたし、私は、それが感覚の中にあるのだと思う」
「…俺は、…ない。さっきの離婚する自由の話の様に、俺は、結婚にもあまり意味を見い出してはいないのかもしれないけど、…俺自身にも意味は見い出していない。俺は、…俺の代わりがあって、お前が興味を無くしてしまえばただのガラクタ…。…ついていく。お前にはついていくけど、…分からん」
「…私は、今は、…『今は』だよ?一先ず、私と君と二人で居れるという状況でいいと思う。それが、逃避であっても何であっても、私の傍には君が居てほしい」
タキオンがそう言うと、田上の返事はより一層迷いに沈んだまま「ああ」と吐き出された。
その後、二人は結局、夕食の時間になるまで同じ空間で過ごして、それぞれに本を読んだり、話しかけたりしてあまり時の流れを感じないまま部屋の中に居た。
夕食の時間には、不意に時計を見たタキオンが先に気が付いて、そのまま、食堂の方へと出掛けた。田上は、最後まで服も着替えなければ、風呂にも入らないままでいた。もう、夕食頃までその格好で過ごしたのなら、また、今日の夜風呂に入るまでその格好のままで居てもいいだろうと思ったからだ。タキオンは、それについては、特に何とも思わなかったので、二人は、のんびりと修さんの料理を口に運んでいた。
そして、夕食を食べ終わると、さすがのタキオンも自分の寮の部屋へと帰った。『泊まる』という言葉が頭の片隅にはあったのだが、それは、さすがに寮長も注意してくるだろうと思ったので、やめておくことにした。
部屋に帰ってきたタキオンが、これまでになく、田上トレーナーの匂いを身に強く纏っていたので、デジタルは妄想的展開が繰り広げられたのだと思って、興奮を隠し切れない様子で何があったのかと聞いた。すると、タキオンが今まで田上トレーナーの部屋に居たと言うので、デジタルは、ひょええええ!!という事になった。
夜は本日も更けていく。ふわふわと点いていた街灯の明かりが気が付かぬうちに消え、トレセン学園は暗く静かになっていく。
大阪杯編もこの話で終了となります。大阪杯編が始まってから本日まで一年近く更新に時間がかかりましたが、この編もご愛読してくださった読者様に心よりの感謝を申し上げます。
田上の片思いから始まったこの物語は、タキオンと田上の両片想いを経て、遂に二人が交際するまでに至りました。一人の人間としての感情や発せられる言葉をありのままに伝えてみようと、タキオンと田上という二人の人間を主人公に、これまで小説を書かせていただきました。読み手として、感じた事や考えた事は様々あるかもしれませんが、そういう思いを大切に心の中で吟味して、これからも引き続きご愛読下されば幸いです。
次週からは、春光編となります。これからもよろしくお願いします。