ケロイド   作:石花漱一

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四、父の家へ(後編)

 アパートの二階の方にその人はいた。アパートの金属の柵ごしに駐車場の方から姿が見えた。田上は、その人を見て訝しく思ったが、顔が見えなかったので何も言わなかった。そして、駐車場脇にある不安げに軋む階段を階段を上って、その人と同じ高さまで行くとその人は顔を上げた。

 その人は、田上もよく知る人物、弟の幸助だった。幸助は、兄の姿を見とめると嬉しそうに、横にあったバッグを持ち上げて立ち上がった。

「兄上ぇ!」

 ふざけたように幸助はそう呼んだ。

「よくぞ参られた」

 田上は、面倒くさそうな顔をしながら、弟に言った。

「お前、なんでここにいるんだよ。中に入れよ」

「鍵を忘れたんだよ。父さんいると思ったらいないし、圭一も帰ってくると思ったら、俺より遅いし、一体どうなってんの?」

「そんなもん知るか。どいてろ、鍵を開けるよ」

 そう言って、田上は半ば押すようにして幸助をどけるとドアの鍵に、自分が持っている合鍵を挿した。すると、今まで田上に隠れて様子を窺っていたタキオンが、幸助の目に留まった。

「あれ?えっと…、誰?」

 幸助がそう言ったが、タキオンは答えることをせず、ただ黙って幸助を見ていたので、田上が代わりに答えた。しかし、田上の方も弟に説明するのが恥ずかしいやら面倒やらで少しぶっきらぼうになってしまった。

「タキオン。俺が担当している子。テレビで見たことあるんじゃないか?」

 そう言って鍵を開けた。

「だよねぇ!そうだよねぇ!どうりで見たことがある顔だと思った。有名人じゃん!サ、サイン!サイン貰っておいた方がいいな!」

「後から俺でもタキオンのでもいくらでも書いてやるから、とりあえず今はそっとしておいてやれ。お前、タキオンに警戒されてるんだから、大学生、…まず、お前が中に入れ」

 幸助は、「圭一のなんていらないけどね」と言いながら、仕方なく家の中に入った。それから言った。

「今日、父さん仕事?」

 スニーカーを脱ぐのに少し手間取っていた。

「…いや、俺は何も聞いていないけどね」

 狭い玄関だったので、後がつかえていた。だけども、田上は何も言わずに、ただ立って、幸助に圧を与えていた。

 幸助は何も気づいていないようで、スニーカーを丁寧に脱ぎ終わると、知らん顔で部屋の奥の方に歩いて行った。その時に、「スニーカー、新しいのだから踏むなよ」という言葉も添えて。

「タキオン、次入りな」

 田上がそう言った時、道路の方から駐車場に車がゴロゴロと入り込んできた。父親の青い車だった。

「父さんだ…」と田上が呟いたので、タキオンも後ろの駐車場の方を振り返った。だから、田上は「早く入れ」と言った。

 部屋の奥の方から、「父さん、帰ってきたの~?」と言っているのが聞こえてきたが、大声を出すのが面倒臭かったので何も答えなかった。そうすると、幸助は、玄関まで確かめに来て、タキオンを少し押しのけて、駐車場の方を見た。

「父さん、帰ってきたね」

 田上が家の方を見ると、幸助の影にタキオンが物凄く迷惑そうな顔をしてたのが見えたので言った。

「お前、邪魔だわ」

 すると、田上の言葉の意味に幸助も気が付いたようで、「ごめんごめん」と言いながら、タキオンに頭を下げた。タキオンは、黒の低いヒールが付いた靴を脱ぎ、安っぽい黄色で塗られた冷たい玄関に立つと、田上が中に入ってくるのを待ったが、田上が玄関に入る前に外の方から父の呼ぶ声が聞こえた。

「お~い、圭一。ちょっと、買ってきたもの運ぶの手伝ってくれ」

 そう言われると、田上は父の方に行かざるを得なかったが、タキオンを一人にするのが気がかりだった。実際、タキオンは少し不安そうに田上の方を見ていた。だから、こう言った。

「タキオンも運ぶの手伝うか?」

 田上が、そう言うのを待っていたかのようにコクリと頷くと、また靴を履き直した。そして、駐車場の方まで下りて行った。二人の背後では、扉が音を立てて閉まった。

 

 田上とタキオンが下りていくと、父が忙しそうにレジ袋をどう持とうか試行錯誤していた。そして、チラと田上の方に目をやった途端、にっこり笑った。田上の後ろにタキオンが見えたからだ。

「こんにちは」と父が言うと、タキオンも「こんにちは」と小声で言って頭を下げた。それは、田上にとって少し馴染みのない姿だったので可笑しくて、思わずニヤリと口角を上げてしまった。すると、タキオンが眉を寄せて睨んできたので、猶更可笑しくなって、もっと口角を上げた。

 父が言った。

「アグネスさんも運んでくれるのかい?」

 タキオンは、コクリと頷いた。

「じゃあ、これ、…を圭一が持って」と言って、大きな袋を二つ田上に渡した。そして、自分も大きいのを一つ持って、それから、タキオンに小さな袋を一つ手渡した。あからさまに田上をいじめてたので、抗議しようと口を開きかけたが、タキオンと目が合うと、その目がニヤニヤ笑っていたのでどうでもよくなった。けれども、重いものは重くて、階段を上るときは、一つをタキオンに持ってもらった。相当重かったはずなのだが、タキオンが楽々持っているのを見ると、――やっぱりウマ娘なんだなぁと田上は考えてしまった。

 それから、家に着くと、父が「冷蔵庫の前まで持って行ってくれ」と言ったので、そこまで玄関から距離のない冷蔵庫まで重い荷物を引っ張っていった。タキオンは、階段を上るときに田上に渡されてから快くそのレジ袋を持ち続けていて、父に言われてからも快く冷蔵庫の前まで持って行って置いた。田上もレジ袋を持った指が痺れて、一度置きはしたものの、最後まで持って行った。

 タキオンは、その間田上を待っていた。どうやら幸助がいる部屋で二人きりになるつもりはなかったようだ。田上が、「あー、疲れた」と言って、脇を通り過ぎるまで、じっと待っていた。そして、田上が先に部屋を入ったら、タキオンも入ってきた。しかし、入った後で田上の袖を引いて言った。

「君、私のキャリーケースはどうすればいいんだい?」

「ああ、車輪についてる砂を払ったら、隣の部屋に持っておいていいよ。ついでに俺のバッグも…」

 田上は、頼もうとしたが、タキオンに睨まれたので言うのをやめた。そして、幸助がすでに入って温めておいた炬燵に入り込んだ。すると、唐突な温もりに大きなため息が出た。悲哀のため息なのか喜びのため息なのか分からなかったが、田上は、もう一度息を吸うと言った。

「あ~~、やっと帰ってきた」

 そう言うと、お昼の空腹を忘れて眠り込んでしまった。

 

 田上は、タキオンに肩を揺られて起きた。まだ、全然寝た気がしなくて、起こそうとしてくるタキオンの手を振り払おうとしたが、怒ったタキオンに思い切り腕をつねられた。

「君、お昼はいらないのかい!いらないのだったら、私が君の分も食べてしまうが!」

 その言葉を聞いて、田上は慌てて飛び起きた。空腹を思い出したからだ。

「お昼は何だ?」

 田上はそう聞いたが、答えは聞かずとも知っていた。目の前にラーメンが置いてあったし、言えば、起きる前から香ばしい豚骨ラーメンの匂いがしていた。

「ラーメンか…」

 田上としては、別に嬉しくないわけではなかったのだが、思いがけず自分の声の調子が低くなってしまって、その後に慌ててこう付け加えた。

「ま、美味いことには間違いないけどね」

 そう言ってから、タキオンを見たが、タキオンの方はと言うと、田上なんて見ようともせず夢中でラーメンを啜っていた。前髪が邪魔だったらしいので、ヘアピンをして、綺麗なおでこの一部を見せていた。

 それから、田上が、目の前に置かれた二人前の量のうち半分を食べ切った頃、もうタキオンはとっくに食べ終わっていて、物欲しそうに田上の器を見ていた。

「欲しいのか?」

 田上が、そう聞くと、「うん」と食い気味に頷かれた。田上は、苦笑しながら箸から汁を切るとタキオンの方に皿を押しやった。それから、立ち上がると、まだ台所にいるであろう父親に声をかけた。

「タキオンは二人前じゃ足りないぞ。四人前くらいないと」

 そう言うと、父親の驚く声が聞こえた。

「えっ、ウマ娘って四人前食べるの?」

「個人差が大きいけど、一般的には余裕でそんくらい食べる。むしろ、タキオンは小食な方」

「嘘…」という父親の驚愕した声が聞こえた。

「えっ、つまり、家にウマ娘の姉妹と母親の三人がいた場合、父親を含めると最低でも…八、十二…、十三人前作らないといけないの!?食費どうなってるの?」

「そこらへんは、色々なサービスで賄われてるよ。公的なものもあるし、店が独自でやってるサービスもある」

「へー」と感心した声が聞こえた。

「じゃあ、まだアグネスさん食べ足りなかったりするのか?」

 父親が、心配そうな声を出したので、タキオンの方を振り返った。見ると、もう麺の残りかすを摘まんで口に運んでいるところだった。

「タキオン、もう腹は減ってないか?」

 タキオンは箸を口に入れたまま答えた。

「ほうはいじょうふ(もう大丈夫)だよ」

 そう言って、口から箸を出すと、もう麺を摘まむことはせず残り汁までもあっという間に平らげた。

「ごちそうさま」

 タキオンは、田上の方を見ながら手を合わせた。それから、立ち上がると田上に聞いた。

「トイレはどこだい?」

「ああ、ここから左の茶色いドア」

 田上はそう言ったが、少し間を開けた後、トイレに行こうとしているタキオンの背に言った。

「…本当に大丈夫なのか?」

 そう聞くと、タキオンはニヤリと笑って言った。

「本当は、腹六分目くらいさ。でも、お昼にしては今は少し遅い時間だ。満腹にならないくらいが夜食の時間にちょうどいい」

 そう言うと、タキオンは通路の陰に消えた。田上は、あまり納得がいっていなかったが、父の方を見るとこう言った。

「父さん、今度買い物行くときは俺も連れて行ってよ。ウマ娘用のクーポンを持ってるから」

「ああ」と父は頷いた。それから、また台所の壁を見つめると、無言で皿を拭きだした。

 田上は、あまり落ち着かないまま炬燵の方に戻った。炬燵に座っている弟の方を見てみると、スマホを机の上に置いて、携帯ゲームを両手に持ってうつむいて遊んでいた。

「何のゲームをしてるんだ?」

 田上は聞いた。すると、幸助は言った。

「異世界時空」

「…ん?…ああ、あのゲームか。俺も少しならやったことがあるな。ただ、FPS(一人称視点のシューティングゲーム)だろ?俺の肌にはあまり合わなかったな」

「へー、そうなんだ」

 幸助は、あまり兄の話が聞こえていないようだった。それもそのはず、オンラインゲームをしているのだ。リアルタイムで状況が動いていくというのに人の話なんて聞けるものではないだろう。田上もそのことは身をもって知っていた。ただ、田上の場合はオフラインのゲームでも人の話が聞こえない場合がある。幸助のように返事をしているだけマシ、というものだろう。

 田上自身もバッグの中に自分の携帯ゲーム機を忍ばせていたのだが、どうにもそれをする気にはなれなかった。その理由は、今やっているゲームが半分飽きていたというのもあるし、現在少し落ち着かないというのもある。

 だから、田上は何をしようかと考えていたのだが、不意に幸助の方を見た時、後ろの立った時の腰くらいの高さの棚に見覚えのある写真がいくつか飾られていたのを見出した。それは、前回の帰省の時にはなかったものなので、きっと父親が飾ったのだろう。三枚の家族写真が飾られていた。一つは、父の賢助と母の美花がまだ若く、そして、圭一と幸助が、まだ小さい時の写真。二つ目は、圭一が中学生、幸助が小学生の時の写真。それから、最後が、母の美花が病院服姿の時の写真。この時、田上はまだ中学三年生だった。

 ただ、写真立て自体は、あと一つあった。しかし、その中にまだ写真はなく、空のケースにキラキラした縁取りが施されていた。鳥や花の模様なんかもあった。田上は、それを見て不思議に思ったが、それ以上に思うことはなく、見直すと三枚の家族写真を手に取りに行った。それから、じっくり眺めようと、炬燵のところにそれを持って行った。ちょうどその時、タキオンがトイレから帰ってきたところだった。タキオンは、田上と出会い頭にぶつかりそうになると無言で驚いて、田上を見上げたが、田上はぶつかりそうになったことにすら気が付かず、夢中で手に取ったものを見ていた。

 タキオンは、炬燵に戻っていく田上の後ろについて、自分も炬燵に入った。そして、夢中で写真を眺めている田上に聞いた。

「それは…なんだい?写真?」

 田上の頭には初めのうち、タキオンの言葉が届いていなかったようだが、暫くすると、ようやく気がついて言った。

「ああ、…ああ!写真だよ写真。まだ、母さんが生きていたころの…」

 そう言うと、田上はまた押し黙って自分の手に持っている写真を眺めた。この写真を眺めていると沸々と思い出してくるものがあって、その中には怒りにも似た感情を持つものがあった。これは、田上自身が怒っているということを言いたくないのだから、怒りにも似た感情と言ったが、実際のところは怒りと言ってもいいだろう。ただ、怒りと言うとあまりにも直接的すぎるから、『焦げ付くように赤い夕空』と言ってみるのもいいかもしれない。夕空というのは田上と深い関わりがあった。しかし、今のところはこの事を話すべき時ではないのかもしれない。だから、現実の田上の方に話を戻すと、田上は、やっぱり押し黙ってじっと家族写真を眺めていた。

 タキオンは、話しかけたかったが、本人の様子を見るにそれは難しそうだった。なので、探りを入れるためにも、自分でその写真の一つを手に取った。さすがに田上も全てを一遍に見るわけにもいかないので、タキオンが写真立てを取るのを横目で見ても何も言わなかった。

 タキオンが手に取った写真は、田上がまだ小学生くらいの時であろう写真だった。皆、笑顔で大した情報はなかった。タキオンは、もう一つの方も手に取った。もう一つは、田上がまだ幼く、可愛いと言える年頃の頃のものだった。こちらも大した情報はなかった。皆、揃いも揃って幸せそうだった。

 タキオンは、これらの写真から何も得るものがないと分かると、二つの写真を机に置いて、田上が持っている写真に少し首を傾けて見てみた。天井の照明がガラスに反射していてほとんど何も見えなかった。だから、タキオンは、首を傾けるのをやめて、暇そうに前の方を見た。すると、ちょうどオンラインゲームの空き時間に炬燵の上にあるお菓子を摘まもうとした幸助と目が合った。幸助が、ふざけてバチッとウインクをしたので、タキオンは思わずフフッと笑ってしまった。その後に幸助は、自分のゲーム機を見て、慌ててゲームを再開したので、またタキオンは暇になった。

 机の上にあったお菓子を自分も摘まんだ。丸いチョコレートを食べた。そのチョコレートは、甘くタキオンの好みの味だったが、たまに顔を出す得体の知れないほんの少しの苦味が、タキオンの顔を僅かに曇らせた。だが、他に美味しそうなものはなかったので、もう一つだけタキオンはそれを摘まむと、炬燵から立ち上がった。

 

 炬燵から立つと、やることもないので本を読もうと思った。だから、くるりと振り返ると後ろにある襖の方を向き、隣の部屋に置いてある自分のキャリーケースのところに行った。

 キャリーケースは、襖を開けるとすぐのところに事前に置いておいたので、さほど襖を開けないで、その隙間から手を伸ばして半分手探りで本を手に取った。

 そして、本を手に取って再び立ち上がったとき、襖のそばにある仏壇を眺める機会ができた。その仏壇には、笑顔の女の人の写真が飾られていた。先程見た家族写真の母だろう。それをタキオンは、不思議そうに見つめた。

 暫く見つめていると、背後から急に声がしたので驚いた。見ると、声の雰囲気から自身のトレーナーだと思っていたのだが、実は弟の幸助の方だった。幸助は、先程のふざけた顔とは似つかない、深く考え込むような黒い瞳を持っていた。タキオンの後ろに立って、仏壇の母の写真を見つめながら、幸助は独り言のようにこう言った。

「人って死ぬんだよなぁ」

 まるでさっきの幸助じゃなかった。だから、タキオンはその言葉に返答なんかできないで、ただただ幸助の顔を見つめていた。幸助のその眉間には、深い皺が刻まれていた。

 やがて、田上もその後ろについた。家族写真から不図目をあげると、二人が傍に立っていて、仏壇をじっと眺めていたからだ。

 その後ろに立った時の顔は、弟の幸助にそっくりだった。

 それから、田上は物悲しそうにこう呟いた。

「ああ、母さん...」

 玄関にある台所の方から、水の流れる音が聞こえた。そして、栓を締めるキュッキュッという音が聞こえると、家の中はすっかり静かになった。

 田上は、一歩前に進んでタキオンの肩を軽く掴むと「ちょっとどいて」と小さく言った。タキオンは、初めのうちは田上が何をしようとしているのか分からなかったが、蝋燭に火を灯すのを見てからやっと、線香に火をつけようとしているのに気が付いた。田上は、仏壇の前で静かに足を畳んで、蝋燭から線香に火を点けた。そして、それを軽く振ると火は見えなくなり、先の方が赤く発光しているのみとなった。

 そこで田上は振り返った。まだ、後ろで立っているタキオンと幸助を見上げた。幸助は、田上に何も言われずともすぐに自分も足を畳んだが、タキオンは――自分も手を合わせたほうがいいのだろうか?と迷い、幸助のすぐ後には続けなかった。

 だから、田上は優しく言った。

「あんまり気を使わなくてもいいぞ。タキオンが、手を合わせないのならそれでいい」

 田上にそう言われたが、タキオンはあまり納得できていない表情で田上の顔を見つめた。その理由は、ここまできたらどうしようもなかったからだった。目の前に仏壇があって身近な人が手を合わせるというのに、自分が手を合わせないなんて場違いにもほどがあるだろう。多少ムカムカしながらもタキオンは、膝を曲げて他の二人に揃えて正座をした。

 そして、タキオンが座るのを見た田上は、仏壇の鐘をカーンと鳴らした。

 再び静寂が訪れたが、今度は、玄関にいる父親の足音が妙に響いて聞こえた。特に、タキオンには。田上と幸助は、一生懸命手を合わせて、目を瞑っていた。何を思っているのかは知らないが、それはそれは長いこと目を瞑っていた。タキオンは、早々に飽きてしまって目を開けると、他の二人を見つめた。田上は、目の前にいたから、背中しか見えなかったが、幸助の顔をよく見ることが出来た。やはり、田上と兄弟なのだろう。類似する点がよく見つけることが出来た。鼻や口元が特に似ていた。他にも何かないか探していたら、幸助は顔を上げて、目を開けたのでタキオンはできるだけ平静を装って目を静かに逸らした。

 田上は、まだ目を瞑って祈っていた。タキオンが、後ろから見た背は案外大きかった。いつもは舐め腐っていたが、こうして見ると田上も立派な男だった。骨張った肩が、洋服を引っ張っていた。

 それから、ようやく田上が顔を上げると、まず火を、小さい鐘の様なものに細い棒がついたものを被せて消した。そして、振り返って、タキオンを見つけると言った。後ろに居たのはタキオンだけだった。幸助の方はと言うと、もう田上の背中なんて見続ける気はなく、一人でゲームを再開していた。

「ああ、タキオン。改めて紹介すると、これが俺の母さんだ。田上美花っていう名前だ。名前も分かんないのに祈ったってしょうがなかったな。ごめん、タキオン」

 田上は、さっきのタキオンのムカついた顔を見とめていたようだ。そうすると、タキオンは少し申し訳なくなって、「美花さんね…」とごまかすように呟いた。

「ほら、炬燵に入って」

 田上が急かすように言った。もう、思いは吹っ切れたようだった。まだ、机の上に置いていた家族写真を元の棚の上に戻すと、不思議そうに空の写真立てを見てからタキオンの横に戻ってきた。

「雪、明日積もるかなぁ?」

 田上としては、この言葉は誰に言うともなく言った独り言の様なものだったが、本を読み始めていたタキオンはそれに一言返した。

「どうだろうね。あんまり積もる気はしないけど…」

 雪は、深々と振り続けていた。それは、夜になってカーテンが引かれたその裏でもまだ降っていた。しかし、残念ながら夜の間に雪は止むだろう。そして、朝になればまた日は照り輝く。寒い朝に負けじと頑張る人々の背をなるだけ温めようとして。

 

 夜食が運ばれてきたのは、夜の六時だったが、その時に、風呂をどの順番で入るのかで少しもめた。一番、気の狂ったことを言っていたのは、幸助だった。

「圭一とタキオンさん、二人で入れば一件落着じゃん」

 別にそんなことはなかった。問題は、タキオンを最初にするのか後にするのか?ということだった。だから、幸助の意見は全くの見当違いであり、からかい目的のものでしかないものと思われた。しかし、当の本人は全然嘘などついていないような真面目な顔で言っていたものだから、田上とタキオンを混乱させた。

「お前、気ぃ狂ってんのか?」

「そうだそうだ。脳外科に行きたまえ」

 そう口々に叫んだが、傍にいた父親が苦笑しながら幸助に言った。

「お前は、何か誤解しているかもしれないが、アグネスさんは何か俺たちのことに興味があってここに来たんだそうだ。決して、俺たちの甲斐性なしの兄貴と交際しているとかそんなものじゃない。それだったら何か言うことがあるだろ?」

 父は、甲斐性なしと呼ばれて不満そうな田上の視線を無視しながら、幸助に言った。幸助は、父親に注意されたのが響いて、少し言い淀んだがこう言った。

「ご、ごめん、タキオンさん」

 タキオンは、困ったような不満そうな微妙な顔をしながら、微かに許すように頷いた。そして、その後、幸助が言った。

「それにしても、…どうなの?トレセン学園ってドラマの中みたいに、付き合っている人いたりするの?」

「…まぁ、いるって聞いたことはあるけどね。でも、そういうのはほんの一部で、大体は隠れて付き合っていると思うんだよねぇ…」

 田上が、幸助にそう返すと、また質問を繰り返してきた。

「え、ということは、圭一の友達とかに心当たりがある人とかがいるの?」

 田上は、曖昧に頷いた。すると、幸助が興奮して高い声を出した。

「ふぅ~~~!トレセン学園のトレーナーになれば、ウマ娘と付き合えるなんていいご身分してるな!俺もトレーナーになっておけばよかったか?」

「…そう言えば、お前はどこに就職するつもりなんだ?」

 田上がそう言うと、さっきまで興奮していた面持ちを幸助は曇らせた。

「今んとこ分からんのよね。あんまり将来に展望がないというか…」

「あんまり急かすようなことはしたくないけど、しっかりと考えてはおけよ。考えなしにそこらへんの企業に就職したら痛い目に合うからな」

「圭一は痛い目に合ったことないだろ。女の子引っかけて自分の家に連れ込んでいるだけだろ」

 幸助のその言葉が田上の怒りの琴線に触った。突然にダッと立ち上がると、幸助の傍に掴みかかるために寄っていこうとしたが、父親がそれを食い止めた。

「女の子の前でくらい仲良くせんか!お前らいい年して、まだ仲が悪いんか!…そして、幸助!お前の言い方が悪い。圭一のお節介にイラついたのも分かるが、お前の言い方はアグネスさんも傷つける言い方だぞ。兄弟喧嘩ならせめて周りを傷つけるようなことはするな!」

 田上は、舌打ちを一つすると思い切り幸助の方を睨んだが、その後にタキオンの顔を見た途端、なんだか具合が悪くなって、「ごめん」と一言呟いた。

 父の賢助は、その様子を見とめていたが、最後にこう言った。

「よし、順番は決めた。まず、幸助。お前が入れ。そして、次に俺。その次に圭一。それから、最後にアグネスさん。これでいこう。異論は?」

 誰も何も言わなかった。それから、幸助が無言で立ち上がると、夕食も食べないで自分のバッグから着替えを取り出して、風呂の方に歩いて行った。まだ、湯も沸かしていないのだから、向こうでずっと待つつもりなのだろう。寒い夜なので、炬燵なしでは厳しそうだった。賢助もそのことには気が付いていたが、今更気を遣うこともせず、田上を挟んで向こうのタキオンの方に話しかけた。

「ごめんね、アグネスさん。こいつらまだまだ子供だから」

「…いえ、男兄弟だとこんなものになるんですね。私は、妹しか、しかも年の離れたものしかいないからこういうのは味わったことがないですね」

「へー、妹がいたと。初耳だけど、どのくらい年の離れた妹さん?」

「十歳離れています。今小学一年生で、来年二年生ですね」

「へー」と賢助は言ったが、それ以上はなにも質問がなかったようだ。ゆっくりと目を逸らすと、自分のご飯に手をつけ始めた。

 暫く田上は、ご飯に手をつけずにぼーっとテレビを見ていたが、タキオンに心配そうに肩を叩かれると目覚めたかのように体をビクッと震わせた。そして、怯えるようにタキオンの方を見るとまた言った。

「ご、ごめん」

「なに、君が謝ることはないよ。あっちの方が少なからず無礼だった。君に対しても私に対してもね。だから、君がいきり立つのも無理はない。あれは、人の尊厳を傷つける言葉だった。…と言っても、君も少々お節介が過ぎたのだろう。君が、弟君の触れてはいけない場所に触れたのも事実だった。あんまり年若い人の将来のことになんて触れるべきじゃないんだよ。それにね。ちゃんと会社を選んだほうがいいとは言ったが、人生は長いんだ。本人が学んで成長していくこともたくさんあるんだよ」

 タキオンに説かれるのもなんだか癪に障ったが、それはほんの少しの感情で、後は素直に頷く激情の後の反省の心があった。しかし、タキオンはなおも話を続けたから、田上はそれは鬱陶しく思ってしまった。「君、あんまり怒っちゃいけないよ」とか「争いは自分をも傷つけるんだ」とか、タキオンが田上の事を心底心配して言っているであろうことは分かっていた。そして、田上の激情に不安になっていたであろうことも分かっていた。だが、あんまり説かれるのも面倒なので、「分かったよ」と言うとその後に「ご飯を食え」と言った。タキオンは、そう言われると、ぽつぽつとご飯を食べ始めた。

 

 幸助がお湯を沸かして、風呂に入って、あがってきたとき、もう機嫌は直っているかのように思われたが、兄の顔を見ると途端に顔を歪ませた。しかし、それは一瞬の出来事だったので見とめていたのは、タキオンしかいなかった。

「父さん、風呂」と幸助が明るく言ったが、炬燵に入る時には正面の席の兄の方は極力見ないようにしていた。それから後は、テレビしか見なかった。ご飯を食べるときも体ごとテレビに向けていて、炬燵の上にある茶碗を交互に持って箸を進めていた。

 田上もまた幸助の方など見るつもりはなかった。田上の方が、幸助より怒っていたと言ってもいいだろう。その目は、テレビの前を通った幸助に注がれる事はなかったが、その代わりに見ていたテレビの肝心の内容の方は、幸助の存在を意識しすぎていて全く頭に入っていなかった。

 タキオンに話しかけられていることに気が付いてから、ようやく、自分が何を思ってどうしていたのかに気づき反省した。――頭を冷やさないといけない。そう思った。だから、そのためにもタキオンの話を聞くことに注力した。タキオンは、テレビから連想して思い出された事柄を一生懸命田上に話していて、田上も一生懸命聞いていた。その様子を隣で聞いていた幸助は、一瞬鼻を鳴らしたが、それは誰にも聞こえておらず、もし田上に聞こえていたら起こっていたであろう出来事は起こらずに済んだ。

 一触即発の空気であろうことはタキオンも分かっていたから、田上の気を紛らわそうといろんな話をした。そして、その後タキオンに風呂の順番が来て、湯船に浸かりながら思たのが、自分の全く見当違いの方向で疲れ切っていたことだった。二人の兄弟喧嘩の間を取り持つなんて予定にはなかった。――トレーナー君に償いをさせなければいけないと思った。ただでさえ、慣れない家で疲れていたのだ。自分の気も紛らわしてもらおうと思った。その方法を考えている間に、幸助か圭一かが、脱衣所にあるトイレに出入りしたので少し緊張してしまい興が削がれてしまった。もういいや、と思ってタキオンは、湯船に深く浸かり直した。それから、誰かがトイレから出て行く物音を聞くと、自分も風呂から出て行った。

 

 夜は寝るまで長く感じたようだった。元々、この家族は自分から進んで話すのが幸助からしかいないからなのだろう。家の中は静まり返って、人の息遣いとゲーム機のボタンの音、衣擦れの音しか聞こえてこなかった。テレビは消されていた。誰も見る人がいなかったからだ。一番暇そうな父親でさえも、「最近のテレビはつまらねぇなぁ…」と呟きながらテレビの電源を消していた。それから、何をしたのかと言えば、寝床の場所を話し合わなければならなかった。まず、初めに父親から話し始めた。

「おい、お前ら、重要な話がある」

 物々しくそう言ったので、自分の物事に集中していた兄弟もタキオンも顔を上げた。

「一大事だ。…布団が三枚しかない。…どうする?」

 誰も何も言わなかった。だから、賢助は少し顔をしかめるとこう言った。

「俺は、別に布団がなくてもかまわない。…うん。それで、我が家のお客様であるアグネスさんには布団が必要だ」

「いらないですよ」とタキオンは言ってもよかったが、この父親はそういうところは譲らなさそうなので何も言わなかった。

「しかし、隣の部屋には残念なことに布団が二枚しかしけない。お前たちの身長では、三枚しくには狭すぎるだろう。だから、隣の部屋で二人、こっちの部屋で二人寝ることになると思うけど…。…だけどもだ!こっちの部屋に寝るのも俺と二人で寝るのであれば、物凄く狭くなる。炬燵が邪魔だ。そして、俺は狭いのは嫌いだ。確実に寝ながら人を蹴る自信がある。…となると、あっちに三人寝たいが、一人が布団なしでうずくまって寝るとかそのような格好になってしまう。…俺がそれをしてもいいけど…」

 最後の言葉は大変嫌そうな顔をしていた。そして、皆の顔を見回したが、一番最初に口を開いたのは田上だった。

「俺がうずくまって寝てもいいよ。どうせ俺が寝るんならあっちの部屋だし、寝る格好なんてどうでもいい」

 田上がそう言うと、賢助は幸助の方を見た。

「……圭一がそれでいいなら、どっちでも…」

 幸助はそう言った。

「じゃあ、幸助はどっちに寝る?こっちに寝るんだったら、炬燵どかして布団敷かないといけないし、あっちに寝るんだったら、圭一と一緒になるけど……」

 幸助は、圭一の方を見た。兄の方もまた弟の方を見たが、弟はすぐに目を逸らすと頭を掻いて言いにくそうに言葉を発した。

「……もういいよ。ごめん。俺の言い方が一番悪いってのは分かってたから。圭一の言葉に少しむきになってたから、ごめん。…タキオンさんもごめん」

「いいよ」

 タキオンが、そう言うと、少し間をあけてから田上も「いいよ」と言った。

「じゃあ、これで一件落着だな。二十五歳に二十一歳。兄弟喧嘩。もうこれから後はないことを願っているよ。…それで、じゃあ、幸助はあっちの部屋で寝るってことでいいんだな?」

「圭一が良ければそれで」

 幸助はさっきより多少元気の出た声で言った。

「俺は全然大丈夫。…タキオンの意見は聞いてなかったけど、…何か要望とかございますか?」

「うーん…、特に」

 タキオンはそう答えた。

「よし、決定。じゃあ、寝るときはそれで!」

 そう言うと、また各々は自分たちの興味のあることに目を向けた。空気はさっきよりも微かに軽くなったような気はするが、代わりに少しのぎこちなさが残ったような気がする。タキオンは、そう思うと、本に集中した。

 

 夜も更けたころになってようやく皆は寝ようかという話になった。タキオンは、もうその時には眠たかった。本を読んでいたものの、眠気で何度も欠伸をしていた。そのことに気が付いた田上が、その話を切り出したのだ。

「もう寝ようか…」

 田上がそう言うと、皆もぞろぞろ動いて、寝る支度を始めた。まだ、布団は隣の部屋には敷かれていなかったから、それを敷くところから始まった。タキオンの布団は田上が敷いてくれた。行く前には、世話はしないと言っていながら、何を思うこともなくタキオンの世話をしていた。タキオンが、そのことに気が付いてクスクス笑っていたら幸助に話しかけられた。

「なんで笑っているんだ?」

「…いや、君の兄貴がね?こちらに来る前には、お前の世話なんかしないからな!って言っておきながら、今こうして何の疑問もなく私の世話をしていると思うと可笑しくって」

 そう言ってまたクスクスと笑った。幸助の方も笑い出した。あんまりバカにした笑いにならないように、小声で笑っていた。田上は、それをしっかりと両の耳で聞いていて、タキオンたちが笑っているのをわざとらしいしかめっ面で睨んだ。それから、言った。

「厄介な妹が増えたな」

 その言葉にタキオンたちは、今度はハハハと笑った。

 そして、布団が敷き終わると、途切れ途切れにしていた会話も終わらせて、電気を消すと眠りについた。だが、タキオンはあまり眠りに集中はできなかった。それと言うのも、慣れない匂いが脳裏にこびりついて離れなかったからだ。タキオンは、落ち着かなかった。

 タキオンの頭の上の方では、田上が古びた小さい毛布に包まって、寝息をすうすうと立てていた。彼なら、この状況を打破できると思った。

 元々、この家に来てから慣れない匂いに苛まれていたのだが、いよいよ布団を被るという段になって、それが出てきてしまった。ウマ娘の鼻の良さだ。ウマ娘は、体の筋力や体力なんかが人を遥かに凌駕しているが、嗅覚についても例外ではなかった。遠くのカレーとハンバーグの匂いだってかぎ分けることができるのだ。他人の家の布団の匂いなんて強く感じることは造作もなかった。

 だから、タキオンは普段感じている田上の匂いの方を強く感じれば、まだマシになるのではないかと考えた。だけど、田上は今はすっかり眠っていて手が出し辛かった。

 

 それから、暫くタキオンは落ち着かない微睡みの中で漂っていたが、田上が不意に出したくしゃみの声で目を覚ました。まだ、時間はそんなに立っていなかった。外の明かりが田上の顔を照らしていたが、田上はそれを嫌がるように顔を背けると体勢を変えて壁に顔を向けた。

 この時、タキオンの方に背を向けていたのだが、毛布の間から田上の背中が見え、それからその肌が見えた。うずくまっているので寝巻が引っ張られて、肌が露出したのだろう。そして、くしゃみが出たのもこれのせいだろう。

 タキオンは、これを見て、――これを逃したらもう安眠の機会はないと思って、布団から這い出すと田上の肩をそっと叩いた。外を車の通る音がして、不意に明るくなってまた、元の明るさに戻った。

 田上は、全然タキオンが肩を叩いているのには気付きもしなかった。当然と言えば当然で、タキオンは本当に起こす気があるのかと思うくらい、そっと肩を叩いていた。しかし、それも意味がないと分かると、少しずつ強くなっていって、最後には田上の頬を強めに突っついた。そこで、ようやく田上は起きた。

 まだ眠たいようで、意識もそこそこにタキオンの話すことを聞いた。タキオンは小声で話しかけた。

「トレーナー君、一緒に寝ないか?」

「…?なんで?」

「落ち着かないんだよ。分かるだろ?ウマ娘の嗅覚は君たち人間とは比べ物にはならないんだ。他人の家の布団なんて君たち人間でも落ち着かないだろ?それじゃあ、私たちはもっと落ち着かないんだ。君がどうにかしてくれ」

「…でも、なんで俺?」

「なんでもどうしても、君が一番普段感じている匂いに近いだろ?なら、君を傍に置くのが妥当だろ」

「…でも、それって少しまずいんじゃ?」

 その後に田上は大きく欠伸をした。それに少し怒ってタキオンは言った。

「君は分からないんだろうけど、寝にくいんだよ!」

「なら、来なければよかったのに…」

 そして、また欠伸をした。その様子を見ると、タキオンも遂には頭にきて、田上の頬をつねった。すると、田上は、「分かった分かった。痛い痛い。寝るから、一緒に」と言って、タキオンの後から布団に入った。その時に、少し躊躇うと、タキオンはしばらく見ていないあざとい顔を見せて、「はーやーくー」と言った。

 田上は、仕方なく一緒の布団に入った。そして言った。

「お前のその顔、久々に見たよ」

「…?どの顔のことだい?」

「いや、なんにもないよ」

 田上は、そう言った後、ぴったりと寄り添ってくるタキオンに向かってこう言った。

「お前、もうちょっと離れられないのか?…少し…ダメだぞ」

「いいや」とタキオンは答えた。

「ウマ娘は腰に尻尾の骨があるから、仰向けに寝るのは大変なんだ。そうなると、君の方に寄るのは仕方のないことだろう?それにこの掛布団も若干小さいし、敷布団も面積がないから、一緒の布団に入るんだったら離れることは叶わないよ」

「それにしてもなぁ…」と田上は困ったように頭を掻いて言った。さっきから心臓がうるさくて堪らなかった。母以外の女性となんて一緒の布団で寝たことがなかったし、ましてや、今恋している相手だ。冬だというのに緊張の汗が止まらなかった。

 それに追い打ちをかけるようにタキオンは言った。

「トレーナー君、こっちを向いてくれ。…ああ、その感じだ。そして、君の腕を私の頭の下に…。よしよし」

 ほとんどタキオンのされるがままに、田上は動かされた。いよいよ二人の距離は近くなって、田上の心臓はこれ以上は高鳴ることはないと思われた限界のその先まで行き、うなりを上げた。

 もうだめだった。田上は、苦しそうに言った。

「タ、タキオン、さすがにこれは…」

「いや、今日の分のつけは払ってもらうよ。君と弟君の喧嘩にこちらも付き合わされたんだ。その心労たるや測り知れないものだろう。だから、君にはせめて隣にいて償ってもらわなくては」

「俺じゃなくても自分の持ち物でそれはできないのか」

「おや!…まぁ、できないことはないが、もうここまできたんだ観念したまえよ。…そうだなぁ、今度は、父親のように私を寝かしつけてくれよ。子守歌でも歌って」

「子守歌って…、俺はお前の父親なんかじゃないぞ」

「それと同等くらいはあるだろう?」

 そう言われると、田上は言葉に詰まった。父親と同等と言われて、喜んでいいのか悔しがればいいのか分からなかった。しかし、その後に思ったことがあって、言った。

「お前、もしかして、自分の家の方が良かったんじゃないのか?今になって後悔したのか?…お前が良かったら、明日、せめてトレセン学園の方に帰してやるくらいはするぞ」

 田上がこう言うと、タキオンは少しの間黙って、その後ほんの微かに震えている声で言った。

「……自分の家に帰ればよかった、とは、思ったさ。だけど…今思ったんだけど、家に帰っても別に大したことはないんじゃないかって。…だって、私は高校生で、帰れば自立目前の大人なんだ。君の周りで適当にふざけたりなんかもできないんだ。だったら、ここでこうしている方が、私には一番楽しいかもしれない。君の懐に抱かれているときの方が、楽しいのかもしれない。…まだ子供でいた時のあの頃には戻れない。父の懐になんて何年も入っていない。元々私は、親から離れるのが早かったんだ。何の気の迷いもしないで、父親から離れ、母親から離れた。そして、あそこには妹がいる。あそこは私の場所じゃないんだよ」

 田上は、思いがけずタキオンの心の深層に触れたような気がして、戸惑った。そして、その想いが自分が普段持っているものと酷似していた驚いた。ただ、それは簡単に話せるものではなかった。しかし、タキオンの心に触れた今、自分の心も動かされて、思わず話した。

「俺だって、戻りたい気持ちがある。俺の方がずっと強いかもしれないし、タキオンの方がずっと強いかもしれない。……多分、誰もが皆抱えているものじゃないかな?あの頃に帰りたいって想いは。だから、夕焼けを見れば人は堪らない心苦しさに襲われるし、夕日に延ばされた影を見れば、もう戻れない事を知る。……タキオンも分かるか?」

 田上の腕の上でタキオンがコクコクと頷くのが感じ取れた。

「きっと、タキオンはまだ思春期だから、大人にもなれずに子供にもなれずに、その境界線を彷徨っているんだよ。そして、今俺がいることで一時の休息所が見つけられた。…俺としては迷惑千万極まりないけどね」

 田上がそう言うと、暗闇の中でタキオンがフンと鼻を鳴らした。

「…ゆっくり眠れ。こういう時には、眠るのが一番だ。頭が夢を見るのに任せて、朝起きたらその夢の意味を考えろ。人はそうやって、転げて跳ねて踊りながら成長していく。夢の世界の住人は何もお前だけじゃない。俺もいるし、父さんもいる。お前の父さんもいるだろう。俺の弟もいるし、お前の妹もいる。数え上げればキリがない程、皆夢の世界に迷い込むんだ。そして、起きた時こう思うんだ。――ああ、今日も一日が始まる」

 田上が、そう言い切るころにはタキオンはすやすやと眠っていた。だから、田上は家族に一緒に寝られたところを見られたらまずいと思って、元の場所に行こうとしたが、その時には、田上にも睡魔が優しく手を取って、夢の世界に案内してくれていた。

 朝起きると、隣の布団で寝ていた幸助がぎょっとしたのは言うまでもないだろう。

 


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