二十二、ササクレ①
二十二、ササクレ
ササクレの顔と胸には火傷痕がある。その火傷を負った時には、ケロイドができた。ササクレの金色のウマ耳には、ピアス穴があった。その穴には、ケロイドができた。
火傷の時の事は、ササクレは覚えていない。ただ、母親のドジによってその火傷を負ったということを聞かされていただけだ。ピアス穴を耳に開けたときは、中学の時だった。その時に、自分の耳が醜く膨れてしまうと、ササクレは悟った。自分は不幸の星の下に生まれてしまったのだ、と。
母親と父親の仲は、小学校五年生の時に拗れてしまった。その時に別れて以来、父親には会っていないし、その行方を聞こうとは思わなかった。父親の事を話題にすれば、母親が動揺するのは目に見えていた。
たまに、母親が、自分にすがって泣くことがあった。中学になれば、トレセン学園の寮へと入ったから、そういうこともなくなったが、休暇などで帰省したときには、母親は飛ぶように喜んで自分を出迎えた。
母親に勝利を贈る事はあまりできなかった。一番の目標はGⅠであったが、それも自分のせいか、うだつの上がらない担当トレーナーの霧島のせいか、全く届きそうにはなかった。それでも、GⅢを二勝することはできたのは、もしかすると、自分のお陰かもしれない。トレーニングは、時折、さぼっている。保護者面をしてくる霧島が、多少うざったく思って、そういう時は霧島と会うのを避けたのだ。ただ自分が苛ついているだけという事は分かってはいるのだが、懸命に探してくれる霧島を見るとそれも解消されるので、度々、逃げる事をした。
ただ、最近は、特に何ともないので、素直にトレーニングをやっている。いつもつるんでいる他よりガラの悪い友達に、「日和ってるのか?」とからかわれても、「うるさい」の一言で済ませて、自分はトレーニングへと出かけた。
特に、勝ちたいという願望はなかった。霧島から「トレーニングをしよう」と誘われているのでしているだけだ。目標もない。霧島に、「あのレースを目指してみよう」と言われたから、そのレースを目指しているだけだ。ただ、日々を惰性で過ごしている。ついでに言えば、未来もない。想像しておらず、ただ言われるがままに日々を過ごしているのだから、未来なんてあるはずがない。ただ、不意にぽやーっと浮かんでくる自分の未来の姿は、母親と一緒に暮らしているんだろうな、ということくらいの頼りないものでしかなかった。
これまで、男性に懇意を示した事はないが、一度、キスをしたことがある。それも、自分の担当トレーナーである霧島とだ。別に、あの人の事が好きとか嫌いとかそういうものではなかったが、怒りをぶちまけた拍子になんやかんやあって強引にキスをしたのだ。それでも、霧島は、キスをする前と後でも何にも変わらず接してくるから、ササクレにとっては、少し気味が悪かった。
そんなある日、ササクレは、霧島にトレーナー室でこう言われた。
「この広い部屋を使いたい人が居るそうだから、今の所、俺も新しくウマ娘をスカウトする予定もないから、譲ってみようか?」
ササクレは、それに即座に「嫌だ」と答えたが、これは、反抗期の一環のようなものだ。とりあえず、霧島のやる事なす事の反対をしておきたい。霧島もこれが分かっているから、「まあまあ、俺の話を聞いてくれ」と言うと自分で話を続けた。
「俺の友達のね?ササクレは知らないか?あのアグネスタキオンの担当をしている人だ」
「ああ、あのやけに疲れた顔をしてる自信の欠片も無さそうな男か。その癖、担当と仲が良いとか何とかで世間にちやほやされてる」
「こらこら、俺の友達なんだから、そんな邪険に扱わないでくれ。…そして、その人が、前の部屋が手狭になってきたそうなんだ。これは、その人が直接俺に頼んできたわけじゃないよ?事務の人が、たまたま一人でこの広い部屋を持ってる俺に声をかけてきたら、その相手が田上だったって言う事だ」
「それは良かった。もし、それじゃなかったんなら、自信もない上に礼儀もないのかと思った」
「本当に、俺の友達なんだからやめてくれ。あいつは凄いんだぞ?アグネスさんが幾ら足が速いって言ったって、そりゃあ、限度がある。GⅠを今回の大阪杯を含め三つもとっているんだから、それには、トレーナーとしての役目を万全に果たさなければならない。それをしているのが、俺の友人の田上だ」
「なら、その田上って奴から教わって、私の足をもっと速くしてみたらどうだ?それとも、才能の前には屈服せよってか?」
「それは、田上だって、アグネスさんとのトレーニングで忙しいんだから、俺も軽々しく聞くのは忍びないだろ?」
「それがトレーナーか?担当しているウマ娘の事を一番に考えろよ」
「それを言われると、俺もどうにも反論しにくいんだけどね?…GⅢを二つも取れたんだから、ササクレは十分に凄い奴なんだよ」
「友達からもそう言われるけどね。多分、GⅢ二つ取ったって、GⅠ三つ取ったって、大した違いはねえぞ?アグネスの奴も碌でもないって噂は聞くだろ?私の仲間内にも、試験管片手に脅されたって奴がいる」
「アグネスさんは、そんな人じゃないと思うよ。一回遊んだことがあるけど、…まぁ、脅されはしなかった」
「じゃあ、試験管を飲んだのか?」
ササクレが、少し話に身を乗り出して聞いた。
「飲みはしたよ。物凄い苦い奴だったし副作用も凄かったけど、少なくとも、苦みだけはどうにかしてくれた」
「へえ~。…遊んだっていつ?」
「一月頃に、俺の友達と遊びに行こうって所に、たまたまアグネスさんが出くわして、そのまま遊びに行った」
「そんな奴なの?あいつ。てっきり、研究バカかと思ってたけど」
「あれも研究の一環らしいから、俺たちの遊びについてきたんだ。薬もちゃんと使えるかの検証が必要だろ?」
「そりゃそうだ」
「…それで、今日ここに呼び出したのは、田上の部屋を見に行こうって事だ。多分、順当に行けば、部屋を交換するだけの話になると思うから、…ササクレはどうする?」
「…私?…なんでこの部屋から動かなくちゃいけないんだよ。私ら以外にも、同じような境遇の奴は一杯いるだろ?そいつらに声を掛けりゃあいいんじゃないか」
「まぁ、とりあえず、考えてみますって返事はしたんだよ。返事はしたからには考えてみたいんだよ。それに俺の友達だしね?やれることなら、交代はしてあげたいんだよ。現に、見てくれ、ササクレ。この広い部屋を俺たち二人で占領しているわけじゃん。椅子なんて二個あれば十分なのに、八つもここに置いてあるよ。それを欲している人が居るというのに、自分だけ呑気にここに座っているのは少し――どれ私がその願いを叶えて進ぜよう、という気持ちになったりはしないか?」
霧島にそう言われて、少し考えてみると、ササクレは段々とその様な気がしてきた。だから、神妙な面持ちになると、ササクレは霧島に向かって答えた。
「まぁ、行ってやってもいいかな。けど、断る時は断るから。どれくらい居心地が悪そうかによる」
すると、霧島はぱっと晴れやかな笑みを顔に浮かべて言った。
「それは良かった。実は、もう田上と話は付けているから、後はお前だけだったんだ」
「はぁ?じゃあ、私が断った時はどうするつもりだったんだよ」
「それは、普通に断るつもりでいたよ。どうせ、お前に無理させたってしょうがないから」
ササクレは、霧島が自分の事を分かっていてくれた嬉しさを隠す、妙な笑みを顔に浮かべると聞いた。
「いつ行くの?」
「もう今からが良いんだけど」
「嫌だ。今ゲームをしているから、もう少し待て」
「じゃあ、先方にもその様に伝える」
やけに物分かりが良かったので、ササクレも拍子抜けだったが、それでも、今、霧島の話を聞きながらのんびりと続けていたゲームに意識を集中させた。霧島は、その前の席で、同じようにスマホを眺めていたが、それは、田上にメッセージを送っていたからだった。田上に霧島がこの話を持ち掛けたのは今日だった。田上の方は、霧島に部屋替えの相談が持ち掛けられたことは知らない。ただ、霧島が事務の人と話しているうちに、田上がトレーナー室を替えたい事をたまたま知っただけだった。それが、二三日前の事で、今日は、四月五日金曜日だ。昨日は、熱で寝込んでいて、担当しているアグネスさんに看病されていたらしかったが、それも今日は大丈夫そうだと言うから、この話を持ち掛けた。これが、田上とアグネスさんと霧島と三人で朝食を食べている時に、不図思い出した事だったから、ササクレには何にも伝えていなかった。
ただ、ササクレのトレーニングは今日は休みの予定だったので、急に呼び出すと、その機嫌が悪くなる可能性がある。ササクレは、急な事が心底嫌いなのは、霧島も心得ていた。だから、朝食の場でその話が決まっても、その午前中の間にササクレを呼び出すのではなく、連絡はすぐにして、トレーナー室に来るのは午後からにした。なので、今は昼食を食べ終わった後の午後一時半を少し過ぎたくらいだ。田上にも長引くかもしれないというのは事前に伝えておいたので、スマホからメッセージを送ればすぐに『了解』という返答が来た。
これに、霧島は少し安心してササクレがゲームが終わるのを待った。
田上たちの方はというと、皆さん勢ぞろいして、霧島たちが来るのを待った。まず、田上の部屋の方を見てから、その後に、霧島の部屋を見に行く予定になっていた。田上たちが後なのには理由があったが、それはやっぱりササクレの事だ。この部屋交換の一番の難題は、ササクレが田上たちの部屋を気に入ってくれるのかどうかだったので、気に入ってくれさえすれば田上たちが霧島の部屋を見に行くのは二の次だった。
ササクレが来たのは、丁度、窓際に田上が寄り掛かって、その近くの椅子にタキオンが座り、ソファーではマテリアルとリリックが話している時だった。田上の背には暖かな春日差しが暑いくらいに照りつけていた。その時、部屋の扉がコンコンと鳴って、今まで話していた一同が一瞬で静かになった。そして、田上はその体勢のまま「どうぞ」と言って、部屋の前に居る人物を招き入れた。
入ってきたのは、やっぱり、霧島とササクレだった。霧島は、陽気そうに田上に昼の挨拶をして、その他のメンバー方には、丁寧に昼の挨拶を挨拶をした。ササクレは、小さい声で「こんにちは」と一度呟いたきり何も話さなかった。マテリアルや田上やリリックが挨拶をしても、小さく会釈をするだけで、後は警戒するように目をぎらつかせながら部屋の中を落ち着きなく見回していた。
ササクレは、常に霧島の傍に陣取っていて、興味津々に見つめてくるリリックやタキオンなんかを無視して霧島と田上の話に耳を澄ませていたりもしたが、唐突に話題が自分の方へと振られると驚いて、「え?」と聞き返してしまった。その時に、タキオンがササクレの事を鼻で笑ったのが聞こえて、思いっきりそちらの方を睨んだが、春の日差しがタキオンにも降りかかっていて、暖かそうなのが何だか癪に触っただけだった。別に、ササクレも寒いわけではないが、あちらの席の方が心地良さそうで羨ましかった。けれども、敵地であるのにそんな事を口にする事も出来ないので、霧島の話を聞いた。
霧島は、こう言っていた。
「ササクレは、どう思う?この部屋」
「…良いんじゃない?」
「この部屋に移るのは?」
それを聞かれると、ササクレは部屋をもう一度見回してから言った。
「別に、悪かないとは思う」
「じゃあ、本当にこの部屋に行っていいんだな?」
「……そのソファー」
少し悩んだ後にササクレは、自分たちの部屋にはなかったふわふわそうなソファーの事を口にした。このソファーで寝ながら霧島の話を聞けるのだったら、この部屋も案外悪くない。そういう考えがあったのだ。
それで、ササクレに近い方のソファーに座っていたリリックは、慌てて立ち上がって「はい」と返事をすると、ササクレが座れるようにソファーの横に立った。ササクレは、そこにおずおずと進み出て、皆の見ている前でソファーに座った。手触りや座り心地など、自分の想像した通りの物だったかを確認した。ちゃんとソファーはソファーらしくふわふわしていたので、ササクレはそのまま何も言わずに少しの間、座り心地を楽しんでいた。
しかし、その最中に霧島から声をかけられたので、一瞬にして我に返らなければなくなったが、その心は案外満足できたものだった。これくらいふわふわな物の上に寝転がれるのだったら、部屋交換もむしろ積極的に受け付けたいまであった。
そう思って、振り返ろうとすると、再び、椅子に座ってニヤニヤとして自分を見つめてきているタキオンと目が合った。どうもササクレにはこの女が好きになれなかった。先入観などの偏見によるものかもしれないが、どうにも、この女を見ているとムカついてくる。こんな小バカにしたようなニヤニヤ顔じゃなくても、腹が立つ。
ピリリとした空気が部屋の中に漂ったが、一番初めに口を開いたのはタキオンだった。
「何か用かい?」とニヤニヤ顔を崩さずに言ったから、それに反発するようにササクレも言い返した。
「あなたこそ用があるんじゃないでしょうか?ジロジロ見ているんですから」
「…いや、特に用はないよ。見ていることが気に障ったならすまない。君が、ソファーに座りたいだなんて言うから」
「私がソファーに座っちゃ不味いでしょうか?何か、火傷からばい菌でも移ってしまうんでしょうか?」
「いやいや、そんな差別はするつもりはないよ」
これは、タキオンも少し焦っていたが、ササクレは変わらず詰め寄るような口調で言った。
「差別しないと口では言っていても、あな」
「ササクレ」
霧島が、嗜めるために口を開くと、ササクレもタキオンから視線を外して霧島の方を不服気に見た。すると、霧島はこう続けた。
「アグネスさんはそんなこと思ってないよ。…どうする?この部屋は?ソファーは気に入った?」
そこでまたササクレがタキオンの方を見ると、丁度、田上とタキオンが目配せで何かを伝え合い、また、ササクレの方を見た所だった。
目が合うと、タキオンは少し躊躇った後、「すまない。私も君の気に障る様な顔をしていた」と言った。それから、少しだけ頭を下げたが、あまり気持ちの籠ったものでもなかった。ササクレは、暫くその様子を見つめていたが、やがて、ゆっくりと振り向くと後ろで田上と一緒に立っていた霧島に向かって言った。
「別に、この部屋に移動してやってもいいよ。元々、ほとんどそのつもりでここには来てたから」
大分ササクレの表情は険しかったが、それでも、霧島は嬉しそうに笑うと隣の田上に「だそうだ」と言った。田上は、ササクレの表情と言葉の違いに戸惑いながらも「ありがとうございます」と言って、深く頭を下げた。ササクレは、その頭をどこか足蹴にでもしてやりたい気持ちがあったが、その気持ちを別の所へ放っておくと霧島に言った。
「これで終わり?」
「えー、…ササクレはもう終わってもいいけど、…いつ引っ越す?」
最後のは田上に聞いていたから、ササクレも田上の方に視線を動かした。
田上は、こう答えた。
「いつでもいいけど、まぁ、そんなに引き延ばす必要はないんじゃない?」
「じゃあ、明日でもいいかな?」
そう霧島が言うと、ササクレが横から口を挟んだ。
「明日にするならするでいいけど、私は、明日は手伝わない」
すると、その次に田上が言った。
「俺たちもお前の部屋の分を手伝うよ」
「そうしてくれるとありがたい」とササクレに半分目をやりながら霧島が言うと、ササクレはソファーから立ち上がって言った。
「じゃあ、私はもう行く」
「ああ、ありがとう。休みなのに付き合わせてごめんな」
霧島がニコニコしながら言ったが、部屋から出て行こうとしたササクレはその言葉で不意に足を止めて、霧島の顔をじっと見た。今度は、何が起こったのかと思って、田上は驚きつつ霧島の顔を見たが、相変わらず、顔に笑みを浮かべていてササクレの方を見ていた。それから、ササクレが何も話さなそうだという事が分かると、霧島が口を開いた。
「なに?」
「…いや、…失礼しました」
礼儀正しく言いながら、ササクレはドアを開けて部屋から出て行った。
その出て行った扉を見つめながら、田上が不思議そうに言った。
「案外、礼儀正しい人なんだね。ササクレさんって」
「え?」と霧島が聞き返すと、田上は別の事を言った。
「いや、お前が苦労してたりするのを見てたからさ」
それだけで霧島は察することができたようだ。それに霧島は、微妙な笑みを浮かべながら答えた。
「いやいや、お前もアグネスさんの実験に付き合ったりしながら、一緒にGⅠを取るんだから、俺なんか足元にも及ばないよ」
「いや~…。え?ササクレさんってあんな人だったの?」
「ササクレ?」
「…何か、トレーニングサボったりする割に敬語とか使ってたから、…不思議だなぁって」
「ふ~ん。…ササクレ…。まぁ、俺もあんまりササクレがなんなのか分かってはいないよ。……お前が、アグネスさんとGⅠ勝てたのって何でだと思う?」
「え?…なんで?…う~ん、…俺に聞かれてもなぁ。…そもそもタキオンの走りが速くて、頭が良かった…」
そこで、タキオンが口を挟んできた。
「私は、君なしじゃ勝てなかった。誰が何と言おうと、君が居なかったら、私は今の私たりえなかった」
急に口を挟んできたタキオンを振り返って、田上はその顔を見つめたが、タキオンは何にも言わなかった。だから、また田上は霧島の方を見て言った。
「だそうだ」
「そりゃあ、今みたいにお前らが特別仲が良いって事は分かるけどさ。どうやったらそんなに仲が良くなれるの?」
すると、また、タキオンが口を挟んだ。
「圭一君は私の心の支えだった」
田上は、うるさいハエに苛つくようなそぶりでまたタキオンを振り返ったが、その後に霧島が話し出したので、再び、霧島の方を向いた。
「心の支えー?…心の支えって具体的に?」
「俺に言われても困るよ。聞くならタキオンに聞いてくれ」
それで、霧島がタキオンに質問しやすい所に移動し、田上もそれに倣ってタキオンを霧島と二人で囲むように移動した。
「え、アグネスさんは、田上のどういう所が心の支えだった?」
「全部」
田上は、それに嬉しかったか恥ずかしかったかを隠したかったのか、眉を寄せたが、それには気が付かずに霧島がまた質問した。
「全部って言っても、何か特徴的なところはあるでしょ?」
「ええ?……まぁ、強いて言えば、お弁当を作ってくれたことは私の大きな支えになったかな」
「へぇ、…でも、ササクレにお弁当を作って持っていったって、しょうがないしな。それに、必ずしもGⅠが勝てるようになるって訳でもなさそうだし」
「まぁ、おいそれとは行かないものだし、本格化だって微妙なところはあるからね。まだ、彼女は本格化が始まっていない時に、選抜レースに出て君にスカウトされたのかもしれない。すると、まだ、GⅠを勝てる見込みはあるだろう」
「ええ?でも、…でも、ねぇ?トレーナーとして俺にもっとやるべきことってないのかな?」
「それは、ぜひうちのトレーナー君に聞きたまえ。トレーナーとしてやるべきことは、圭一君が一番知っているはずだ」
「圭一君ねぇ…」と言いながら霧島は、田上の事を見つめたが、タキオンがこの前会った時とは別の呼び方で田上の事を呼んでいるのには気が付いていなかったようだ。田上は、また、指摘されるんじゃないかと思って一瞬身構えたが、霧島は、それには触れずにこう言った。
「田上は、アグネスさんをトレーニングするうえで何か考えてるの?」
「俺?…別に、学校で習った事をそのままやってるだけだよ」
「それに、情熱をほんの一摘み」とタキオンが口を挟んだが、霧島と田上は黙ってタキオンを見た後、それに何も答えないで話を続けた。
霧島が言った。
「でも、俺も学校で習った事はやってるつもりだけどなぁ。…情熱もない事はないし」
「でも、ウマ娘本来の力の差もあるってのは常識だろ?俺は、たまたまタキオンをスカウトできただけだよ」
「なんでスカウトできたの?」と霧島が言ったのは、タキオンに向けてだった。
タキオンは、自分に質問されると、霧島を見上げながら言った。
「なんでと言われても、それは、圭一君が私にぴったりだったからだよ」
「もし俺が、スカウトしてたらダメだった?」
「いや~、君には狂気が足りないだろうね。私の薬を三本一気に飲み干すくらいの」
すると、霧島が驚いた顔をして田上に言った。
「お前、そんな事やったの?」
「…まぁ、やったことにはやったけど、…だって、あのアグネスタキオンのトレーナーになれるんだったら、誰でもできる事だろ?」
「お前、それは、イカレてるよ。誰でもはできないよ。誰でもは。お前だけだよ。俺なんか一本でも怖かったのに、それをお前は三本も一気に飲んだんだろ?そりゃあ、アグネスさんのトレーナーになれるわけだよ」
その次にタキオンが田上に向かって言った。
「だから言っただろ?君以外の男性諸君は嫌なんだって」
そのタキオンのニヤニヤ笑いに少々腹が立ったが、それは無視して、田上は霧島に言った。
「まぁ、俺はあんまり特別な事はやってないよ。…それよりも、お前の部屋を見させてくれよ。ここに居る人は全員簡単に座れるんだろ?」
「ええ?…いや~、それにしてもなんだろうね?アグネスさんは、この世代の中で飛び抜けて強いわけじゃん。菊花賞は、マンハッタンカフェが取るなんて言われながら、お前とアグネスさんとでかっさらったわけだろ?…何かあんのかな~?」
霧島はどうにも納得が行っていないようだったが、それを言ったら、田上だって、自分がタキオンの恋人でいれる事どころか、GⅠウマ娘の担当である事すらあんまり納得が行っていない。今は、ただ、タキオンの傍で生きようと決めただけだった。それだから、田上も難しい顔をしながら「何にもないよ」と答えた。それから、また、霧島が話し出すと面倒なので、「お前のとこの部屋を見させてくれよ」と言った。その言葉で、霧島も田上に担当を勝たせる秘訣を聞くのは諦めたようだ。「ああ、そうしよう」と言うと、田上と一緒に出て行こうとした。
田上も一緒にその後についていこうと思ったのだが、他のメンバーにも呼びかけないといけないので、部屋にいるそれぞれを見回すと、言った。
「どうする?」
「私は行く」とタキオンが最初に言うと、それに続いてマテリアルとリリックもそれぞれ「行く」と言った。
タキオンは、椅子から立ち上がると、すぐに当たり前のように田上の隣へ行って、その手を掴んだ。田上も最早当たり前のようなものだったので、その手を握り返したが、その様子をしげしげと見つめながら霧島が言った。
「手を繋ぐまで仲が良いんだな…。前に遊びに行った時もおんぶしてたくらいだしな」
これで、自分たちのしでかしたことに気が付くと、田上は、手を放したそうにもぞもぞさせたが、タキオンはニヤッと笑っただけでその手は放さなかった。
そして、マテリアルとリリックもドアの前まで来ると、霧島と田上とタキオンを先頭に歩き始めた。と言っても、田上は、霧島のトレーナー室がどこにあるのか分からなかったので、常にタキオンを小脇に抱えながらも曲がり角が来る度にここで曲がりはしないかと警戒していた。そのせいもあってか、一行の進みは少し遅かったが、それでも、霧島のトレーナー室へと着いた。
霧島のトレーナー室は、南校舎の三階にあった。丁度、そこを出てみれば、タキオンの研究室が見える場所だ。その部屋の前まで来ると、タキオンは、何か思う所があるのか、そこから自分の研究室を見ていた。しかし、田上がその後に手を引っ張って先へ進む事を催促すると、何も言わずに霧島のトレーナー室へと入った。
タキオンは、それからも無言で、田上の横について霧島のトレーナー室を眺めた。田上は、満足げな表情を浮かべて、「大分広いな」と言いつつ、霧島と何個か話をした。それから、黙っているタキオンに向かって、こう聞いた。
「タキオンは、この部屋に何か不満とかないか?」
タキオンは、暫く黙ったまま、何をしようとしているのか分からない面持ちで田上を見つめた後、言った。
「…ソファーが無いのが少し残念だね」
「ソファー?欲しいなら買ってやるよ」
「ありがとう」
知らない所へ来たからなのか、タキオンは大分、落ち着いた口調で田上と話していた。田上は、それを不思議に思ったが、今は特段タキオンに何か聞くつもりはなく、また、霧島と二三個話をした。
マテリアルとリリックは、窓から外の景色を見ていた。元々が一階だったので、ここは大分高く感じられたが、それでも見えるのは、コンクリートの街並みなので特別感動する事はなかった。リリックの方は、田上とタキオンの傍に居ても仲間外れ感があるだけなので、マテリアルの尻に引っ付いてきただけだった。
二人して窓を開けて外のぽかぽかとした空気と涼しい風を感じた。今の二人の間に話すことは無かったので、二人は黙ったまま肩を並べて外を見て、田上たちの話が終わるのを待った。その間に、窓から吹き抜ける風によって、霧島のトレーナー室にあった書類の何枚かがひらひらと床の方へと舞い降りたので、それに気が付いたマテリアルが書類を拾い上げ、元の場所へと戻した。
そして、丁度その時に、田上たちの話が終わったので、マテリアルがリリックに「窓を閉めておいて下さい」と頼んだのだが、その後に霧島が「あ、閉めなくてもいいよ。そのままで」と呼び掛けたので、リリックは少しの間混乱して立ち尽くした。マテリアルは、それを見ると、微笑んで「大丈夫ですよ」と安心させるように言った。だから、リリックは、疑いながらも窓を開けたままその場から離れた。