霧島のトレーナー室から出ると、田上はメンバーの方に「詳細は追って連絡する」との言葉を残して解散しようとしたのだが、タキオンは田上から離れようとせず、マテリアルも「えー、暇ですねぇ」と言って動こうとはしなかった。それで、リリックはこの状況で自分一人だけ帰って友達と遊ぶことを選択してもいいものかと迷ったが、田上が「リリーさんはどうするの?」と問いかけると、途端に顔を晴れやかにして「友達と遊びにいってもいいですか?」と聞いた。その言葉に田上が、「全然いいよ」と答えると、リリックは「それじゃあ」と言って、廊下を走り気味に歩いて行った。
田上は、まだ霧島と書類のやり取りやらで用事があったのだが、それにはノコノコとタキオンとマテリアルもついてきた。マテリアルとタキオンがついてきても、何もやる事はなく、暇が解消されるのかと言えば、そうでもない。タキオンは、単純に田上の傍に居たいから、田上の左側をその手ごと陣取っていたのだが、右側には霧島が陣取っていたので、マテリアルの入り込む余地はなかった。それだから、一番ノコノコと後ろをついてきていたのはマテリアルで、会話すらも入り込めはしないのかとも思えたが、いとも容易く食らいついてきて、会話の端々にマテリアルがいた。
そして、順々に田上のトレーナー室へ再び戻り、必要な書類を取り、事務室で手続きをして部屋交換が行われた。これで、名義上の部屋交換は行われたので、トレーナー室の鍵は双方で交換するはずだったのだが、まだ、実質的な引っ越しは行っていないので、とりあえずは田上と霧島がそれぞれ自分の部屋の鍵を持っていた。
その後に、引っ越しはいつするかの具体的な取り決めが行われた。明日は随分早急なように思われた。しかし、別に、引き延ばす理由もなかったので、いっそのこと面倒事は早くに終わらせたいという田上の意見から、引っ越すのは明日にする事にした。ただ、なるだけ簡潔に済ますことができるよう、今日から荷造りをやっておこうという話になった。
そこで、田上と霧島は別れて、荷造りでもしタキオンやマテリアルの力が必要なら、皆で霧島の所に応援に行く事になった。トレーナー室の大きな物は、ほとんどがトレーナー室に備え付けの物だったので、動かすことはほとんど予定になかった。一番は、パソコンの中にあるデータだった。田上や霧島は、荷造りをしながらそのパソコンのデータをハードディスクに移す作業をした。時間は、まぁそれなりにかかったという感じだったが、漏れがないかを確認しなければならなかったので、それが田上には少し面倒だった。
タキオンは、荷造りには参加しようとはせずに、田上の椅子を借りてその様子を怠そうに眺めるだけだった。そのため、椅子の無い田上はパソコンの作業を腰を曲げたり、しゃがみこんだりしてしないといけなかったため、その作業には若干の辛さも伴った。タキオンが、何を想っているのかは田上も知らないため、黙ったままで居るなら黙ったままで放っておいたのだが、ある時、タキオンが、目の前でしゃがみながらパソコンでの作業をしている田上に言った。
「……部屋が変わるのか…」
これは、初め自分に向けて言われたと思わなかったので、田上はその言葉を無視してパソコンの作業をしていた。しかし、タキオンも田上に何か言いたかったので、もう一度呼び掛けた。
「本当に部屋を変えるのかい?圭一君」
「ん?…変えないとさすがに狭すぎるだろ?後二人は入る予定だし、今のままだとしてもお前の座る場所がないだろ」
「あるとも」
タキオンが、少し表情と声色を明るくして言った。
「どこに?」
「君の膝の上。その上に私が座れば一件落着だろ?」
「ないよ。高校生を膝の上に抱えて、パソコンの作業ができると思うか?」
「やればいいだろ?私の恋人だ。それくらいの事はできるはずだ」
そう言うと、田上とタキオンから少し離れた場所で屈みこんで作業をしていたマテリアルが口を挟んだ。
「トレーナー室で四六時中恋人同士のいちゃいちゃを見せつけられる私たちの身にもなってください。鬱憤しか溜まりませんよ」
「だそうだ」と田上が諭すようにタキオンに言ったが、タキオンはこう反論した。
「マテリアル君の鬱憤は勘定に入れたってしょうがないよ。彼女の場合は、私たちが恋人でいる時点で鬱憤が溜まっているようなもんだ。こうして私たちで話している間にも鬱憤は溜まってゆく」
「だそうですが、マテリアルさん」
田上が半ばふざけた調子で、自分に向けられた言葉を上手くマテリアルの方に流した。すると、マテリアルは眉間に皺を寄せながら、立ち上がって言った。
「鬱憤なんてあなた方がいちゃいちゃしてる時点で溜まっていくんです。あんまり言うと蹴りますよ!田上トレーナーを!」
「ええ?俺ですか?」
田上が笑いながらそう言うと、マテリアルが続けた。
「ええ、そうです!私が走ってタキオンさんを追いかけたところで、どうせ敵いっこありませんもん!だったら、田上トレーナーを蹴った方が効果的です!できるだけ痛めつけてやったら、タキオンさんだって、さすがに反省するでしょう」
すると、次にタキオンが心外そうに言った。
「私だって普通に反省はするよぉ!…まぁ、大抵の事は聞き流すが」
「なら、普通には反省してないじゃないですか!」とマテリアルがツッコミを入れたが、これでは作業が終わらないと思ったのか、また、屈みこんで作業をし始めた。それを見届けると、タキオンは田上に言った。
「でもね、圭一君。ここは、私たちの思い出の場所だよ?考えても見てごらんよ。まだ、GⅠどころかオープン戦にも勝っていない頃、私たちの物語はここから始まったんだ」
「でも、お前は、最初は結構サボってばかりだったし、ここにもあんまり来なかっただろ?」
「そりゃあね。…まだ、仲が良くなかったわけだから、ここにも頻繁には訪れようとは思わなかったさ。でも、私の研究が行き詰まってきたときなんかは、ここで過ごしたじゃないか。私は、その思い出を忘れないぞ」
「俺だって忘れないけど、………じゃあ、どうすればいい?」
「…もう少し私を気にかけてくれ。もう少し私に何か聞いてくれればよかった」
「でも…」と田上が言いかけたが、それを遮ってタキオンが続けた。
「でも、もう無理なものは無理だから、もう少し私の相手をしてくれ。寂しいじゃないか、こんなにほったらかしにされると」
「…何かしてほしい事はあるか?」
田上が仕方なく聞くと、タキオンがこう言った。
「紅茶を淹れてくれ」
「今は無理だ。今片付けようとしているのに、カップなんて出すのはダメだ」
「私だって嫌だ。もっと私を見たまえ、恋人君!君の恋人は誰だ?…私だ。…紅茶が駄目なら、もっと私の相手をしたまえ」
「…じゃあ、何が良い?」
田上がそう言うと、タキオンは少し考えた後言った。
「君が考えたまえ。私の相手をする最善の策を。別に、紅茶なんて淹れなくたっていいから、私の相手をしたまえ」
「…じゃあ、一緒に片付けしよう。お前もマテリアルさんと荷造りしてくれ」
「君は?どうするんだい?」
「俺?…パソコンのあれこれが終わって、初期化したら、荷造りに参加するけど…」
「それは長くかかりそうかい?」
「…まぁ、…どうだろうな?…あんまり長引きそうな気配はない」
「じゃあ、それまで君の懐で休ませてもらうことにしよう」
それから、タキオンは立ち上がると、田上の下へ歩いて行き、そのパソコンと田上の間に強引に割り込むと、そこから田上と一緒にパソコンを眺めようとした。しかし、田上もこれでは作業にならない。今まで辛い体勢だったのが、タキオンが割り込むことによってもっと辛い体勢になっただけだ。それで、田上はパソコンでの作業の手を止めてタキオンを脅すように見つめ始めたのだが、懐に入ったタキオンはそんな事にはお構いなしで、例え田上の顔を見つめても「なんだい?」と田上の言いたい事は分かっているくせにニヤニヤ顔で聞いてきた。田上は、どうにも怠くて仕様がなかったが、とりあえず、先へと作業を進めたかったのでパソコンに向かった。しかし、すぐに腰が痛くなり始めて、我慢の限界へと達した。だから、田上はタキオンに向かって言った。
「もう、どいてくれ!この体勢じゃきつい。膝に抱える方がまだマシだ」
「じゃあ、膝に抱えるかい?」
「抱えん!俺の傍に居たいなら勝手にすればいいけど、邪魔はするな!」
タキオンもこれ以上田上を怒らせると不味いと思ったのか、そう言われると素直に退いた。それで、田上にはやっと椅子も手に入って、パソコンで真面な作業ができるようになった。タキオンは、田上の邪魔はなるだけしないように、周辺をうろつきながら荷造りをする事にした。その時に、タキオンが色々と田上に話しかけたが、これには田上もなるべく答えるようにした。田上の心にも少しは、タキオンの心を無下に扱ってしまったという罪悪感があったので、答えることでタキオンも許してくれたらいいな、との願いだった。タキオンは、それが特に嬉しいとは感じなかったが、それでも、田上が何も答えてくれなかったら、ああだこうだ言うつもりだったので、結果的には答えてくれた方が嬉しいに越した事はなかった。ただ、田上が集中したい時は「ちょっと黙っててくれ」と頼まれるので、そういう時は黙ってあげることにした。そして、田上が集中している様子を後ろから眺めるのが少し面白かった。ぶつぶつ独り言を言いながら考えている様は、なんだか子供のようでもあって、それが愛おしくもあった。
そうしているうちに田上は「よし!」と一息付けた声を発すると、椅子から立ち上がって、部屋を見回した拍子にタキオンを見た。タキオンも田上の事を見ていたから、二人は暫くの間見つめ合ったが、マテリアルの咳が一つ聞こえると、二人は視線を外して、荷造りを進めた。この時の咳が、本当に喉の調子がおかしくて出た咳なのかは定かではない。本棚にあった本の大部分は、マテリアルがもう段ボール箱へと詰めてくれていた。別に、テープでしっかりと段ボールを閉める必要もなかったため、天井が開いているのも何個かあったが、その中に田上がいつか読んだ古びていて小さくて茶色く薄汚れた詩集を見つけた。
マテリアルの非難する目にも気が付かず、田上が段ボールにしまわれたその本を取ってぱらぱらとめくってみた。そうするうちに、あの日見た詩を見つけることができた。地獄三丁目の詩だ。永遠の中に愛を望む詩だ。――あの時の自分は酷かった、と田上は、今その詩を読みながら省みたが、今の自分が良いのかと問われると、あまり成長はしていないような気がした。今も全く分からない。何が分からないのかが分からない。根本として、精神病者な面は変わっていない。今はただ、タキオンと一緒に恋人としていれる事だけが幸せだった。その後の事は考えないようにしている。考えても考えても解けない問題は、もう考えない事にした。――自分はタキオンと居れればそれでいい。そう自分に言い聞かせて、思い込むことに尽力している最中だ。タキオンがそれでいいというのなら、田上に考える必要はなかった。タキオンも自分と一緒に心中する覚悟でいる事をただ信じるだけだった。その事に、是も否もない。これに口出ししようとしてくる奴がいるのであれば、田上は、それを無視するか追っ払うしか無かった。
今は、生きる事に必死だ。生命というものを限界まで限界まで落ち詰めて自分の心臓を動かしている。逃げる事は己が許さず、ただ、タキオンを見つめ続ける。それが、田上の役目だった。果たして、自分の存在意義というものがこれでいいのかどうかは、前述の通り考えない。考えてしまえば、生きる事に迷う。迷ってしまえばふらついてしまう。ふらつけばタキオンが不安になる。タキオンを不安にさせないためには、田上は、考えない事こそが最重要項目だと信じた。
それ故に、今は、自分というものが少しあやふやではあるが、これも考えない。自分を考えるという事は、生きる意味を考えるという事だ。自分という意識の果てで、自分が何をしているのか。それに気が付いてしまう事は、タキオンを一人にしないためにも避けなければならなかった。自分自身がなんであるのかに気が付いて、その結果田上がタキオンを一人にしてしまう事が絶対にあるとは言えなかったが、タキオンと一緒に生きる上でそれを考えてしまってはダメだと感じた。
――タキオンを一人にしてはいけない。
今の田上の心に下される命令は、それだった。
田上が詩集を立ったまま黙って読んでいると、横からタキオンが覗き込んできた。脇には箱を抱えたまま、田上の肩に頭をくっつけながら、その詩集を見ようとしてくるから、田上は、タキオンが読みやすいように少し傾けて広げて見せた。
すると、タキオンもその詩集の事を思い出したようだ。
「ああ、あの、まだ付き合っていない時に君が疑問に思っていた詩集だね?」と田上に語り掛けながら、その詩集をしげしげと見つめた。だから、田上が、タキオンが読み終わったかな?と思う時間になると、一ページめくってやった。すると、タキオンが「ふ~ん」と頷きながら言った。
「君のお気に入りの詩はあったりするのかい?」
「お気に入り?…今は、…この詩が浮かんでくるな…」
田上は、そう言って、あるページを開いた。それは、最後の最後の方のページだった。
『 知的な探求心
私は短刀を持って正座をする
首の上に頭はない 血が滴っている
私は恋人を待ち焦がれる獣
腹の中に臓物はない 空腹もない
良ければ私を殺してくれないだろうか?
それは無理だろうか? どうしてもだろうか?
私に自死を選べというのだろうか?
愛の中に救いはあったのだろうか?
それとも無いのだろうか? 一途であればいいのか?
恋の獣に一途を選べというのか?
一途は人を殺す刀となり得るだろうか?
短刀は私の言う事を聞いてくれるだろうか?
それとも聞かないのだろうか? 手が震える
死にたい 死にたい
私は意を決して腹に短刀を刺す
痛みは腹の底から湧き上がる
もう一度引き抜き、刺す
もう一度、刺す 刺す 刺す
死ねない
短刀は人を殺せなかった
私は自死の道を歩めなかった
それ故に私は再び立つ
這いつくばってでも立つ
恥ずかしくとも死にそうでも
短刀は私を殺せなかった
ならば、生きねばならない
さようなら さようなら
今日はもう死ねない 』
それをじっくりと読んだ後に、タキオンがこう聞いた。
「なんでこれが思い浮かぶんだい?」
「…分からん」
「……じゃあ、私が当ててあげよう。…ん~、…自死。君、まだ、そういうのに惹かれていたりするかい?」
「…分からん」
「んん?…じゃあ、私と恋人同士になった事でまた考えることができたんじゃないかな?」
「…知らない」
「……まぁ、これからも仲良くしていこうね。君と私は恋人同士なんだから。この女の人のような悩みができれば、すぐに私に言いたまえ。一緒に考えるから」
「ああ」
田上は、自分の心の内とは裏腹に、顔に笑みを作ってそう答えた。
そして、また、荷造りを始めた。タキオンと田上が、詩集を見てイチャイチャしている間にもマテリアルは手際よく作業を進めていて、本棚の本はなくなっていた。後は、紙の資料が他の棚に幾つかまとめられて置いてあるだけなので、荷造りは今日のうちに終わりそうだった。これは、ほとんどマテリアルの功績だったが、マテリアルは敢えて褒められたいとも思わなかったので、何も言わずにただ黙々と作業を続けた。
その作業で一番耳障りで目障りだったのが、田上とタキオンだ。荷造りをしていたとしても、マテリアルの周りでずっといちゃいちゃし続ける。マテリアルの劣等感に触れる事もそうだったが、単純に目を向けづらいというのもあった。どこへ目を向けても、視界の端で二人がイチャイチャしているのが感じられる。例え、離れていたとしても、そこでまた会話を始めるから、耳障りである。大抵は、タキオンから田上に話しかけたりくっついたりしてイチャイチャするものだったが、マテリアルは、タキオンと恋人という時点で田上は有罪だった。だから、マテリアルのイライラから田上が逃れる術はなかったのだが、今は、マテリアルもそれを作業に集中させることで発散させていた。それでも、聞こえたり見えたりするものは鬱陶しかった。
タキオンは、簡単そうなものが全て終わったと見えると、もう田上の傍にしか居なかった。書類などは、面倒臭そうなので、田上がやるのに任せた。タキオンが今やる事と言ったら、専ら、田上の横で色々と喋ったり、隣の彼の様子を見る事だけだった。
そんなこんなで、作業は終わりへと近づいて行った。荷造りは、マテリアルの手際の良さによって、案外早く終わった。床には段ボールが並べられ、窓にあったタキオンを模したぬいぐるみ達も棚に敷き詰めてあった本も一切合切無くなって、部屋はがらんとしていた。そこに、夕日が入ってきたのが、何だか心許なくなった。田上もタキオンも同じ気持ちのようであった。マテリアルがどうかは知らない。ただ、三人でこの部屋を暫く黙ってみると、マテリアルだけ「じゃあ、私はこれで帰ります」と言って帰っていった。その際に、明日の予定なども聞かれ、田上はそれに対応しなければならなかったが、マテリアルを見送って田上がまた元の位置に戻っても、タキオンは変わらずにじっと部屋を見つめていた。だから、田上が聞いた。
「寂しいのか?」
これには、タキオンも答えなかったので、また、田上は言った。
「俺も少しは寂しいよ」
すると、タキオンが口を開いた。
「私も寂しいよ。…こう、…何か、…色々あったのに、…色々あったのに、風景っていうのは簡単に形を変えるんだなぁ…」
それから、タキオンは悲しそうにため息を一つ吐いた。その後に、田上が言った。
「簡単だよ。案外簡単だ。今までの日々は、たった一つの出来事で壊れていったりする…」
「………君のお母さんの事かい?」
「…それもあるけど、一番は、もう帰れない場所の事だ」
「…こことか?」
「ここもだし、俺の生まれた町もだ。もうあそこへは帰れない」
「そうか…。君、引っ越したんだっけ。大内県に」
「そう。鹿児島から大内に」
「その時、どんなことを想った?」
「……あんまり覚えてない」
そこで二人の会話は途切れたが、それは、タキオンが田上の方に向き直ったからだった。
向き直ると、タキオンは言った。
「私を抱きしめて…」
田上は、無言のまま頷きもしないで、その体を抱き締めた。春の夕日が暖かく部屋に入り込んできていたが、それ以上に、二人の体温がお互いを温め合った。田上は、ひしとタキオンの体を抱きしめて、タキオンはそれにくっついていた。そして、暫く抱き締め合った時にタキオンが言った。
「寂しい…」
田上は、何か答えようと口を開きかけたが、結局、何も言葉が出てこなかったので、再びその口を閉じただけだった。それでも、二人は抱き合ってお互いの寂しさを紛らわそうとはしていた。時を忘れるほどに、抱き合って、いつしか陽が沈んで部屋が暗くなっていった。
田上だって、タキオンから離れたくなかった。今は、部屋から離れることが寂しいというよりも、タキオンから離れる事の方が寂しかった。タキオンも同じような気持ちはあったかもしれないが、田上よりかは、この部屋自体から離れることが寂しくもあった。
けれども、こう暗くなってくると、さすがに離れなければならない。田上は、もういつまででもこうしているつもりだった。タキオンから何か言わない限り、田上も離れる術を持たない。そういう意味では、タキオンの方が幾らか理性的ではあった。タキオンが、不意に部屋が暗くなっていることに気が付けば、もうそろそろ帰らないといけないと思い始めた。しかし、こうも熱心に抱き締められてはタキオンも嬉しかったし、離れようとも言い辛かった。だが、いつかは別れないといけないので、タキオンの方から話を切り出した。
「…圭一君」
「……何?」
「そんなに私の事が好きなのかい?」
「…嫌いじゃない」
「恋人同士なんだからもっとはっきりと言ってもいいんだよ?」
「…嫌いじゃない」
田上がそう言うと、タキオンは少し苦笑した。
「幾ら恋人同士になったといっても、君の照れ屋は直らないな」
「…タキオンがおかしいだけだ。俺には、率直な意見なんて言えない」
「まぁ、でも、言わないと好機を逃すこともあるだろ?それと同時に、率直過ぎると人間関係が少し厳しかったりもするが、そこは君の出番だ。ずっと私を支えてくれている君が、私の一番の頼りだ。…圭一君」
タキオンが最後に呼び掛けてきたので、田上は「何?」と答えた。
「あんまり不安にならないでくれ。私は、私の安心も得たいけど、君も安心させたいと持っているんだよ。君が不安であると、私も少し不安になって来るしね。…私じゃ、安心できないかい?」
それに田上は曖昧に首を傾げたまま、「分からん」と言って、タキオンを抱きしめていた腕を解いた。タキオンは、少し不満げな様子で田上を見ていたが、その後にこう言った。
「キスは?してくれないのかい?」
田上は、しかめっ面のまま黙ってタキオンを見つめると、次に、少しタキオンと目線を合わせると、その頬の方にチクチクする髭と共に唇くっつけた。タキオンは、当然唇にしてくれるものだと思っていたから、頬にキスされた時は戸惑ったが、すぐに自分の気を持ち直すと、目の前でタキオンが言葉を発するのを待っている田上に言った。
「唇にはしてくれないのかい?」
「…連日唇ばかりだと、飽きるだろ?」
「私は飽きないよ」
「じゃあ、もう一回した方が良いのか?」
「ああ、君がしたいのならしてくれ」
この判断をタキオンは田上に委ねたが、ここで、唇の方にキスをしない判断をしてしまえば、後で何か言われるのは分かっていたから、田上は、そこは素直にもう一度タキオンとキスをした。幸せな一時だったが、タキオンが思っているよりも早く、田上の方から唇を離してしまったので、タキオンはまたもや不満だった。しかし、唇にキスをしてくれ、抱き締められれば、十分な量の満足は得られたので、タキオンは何も言わなかった。代わりに、「帰ろうか」と一言言うと、田上の手をそっと取ってトレーナー室から出た。
次の日になると、田上は怠惰なままベッドにてスマホを見ていた。朝起きたはいいが、今日は少し冷えているので、起きづらかったのだ。そうやって、スマホを何の気なしに見ていると、唐突に自分たちについて書かれている記事が目に飛び込んできた。この前の、自分たちが海に遊びに行ったところに突撃した記者の出来事の記事だ。田上たちについて、悪くは書かれていなかったし、むしろ、日常なんかを切り抜かれたようで、ひたすらに田上とタキオンの良い所が羅列してあり、なんだか面映ゆかった。すると、その記事が終わる頃にタキオンからLANEでメッセージが届いた。そのメッセージには、今田上が読んでいる記事に繋がるURLが乗せられてあり、その後に、こう文字が並んでいた。
『あの記者は、私たちのファンだったのかもしれない』
田上にもタキオンの言っていることが分かったので、すぐに『俺もそう思った』と送ると、また、タキオンからメッセージが届いた。
『感想欄を見て。面白い事が書かれている』
その文を見ると、田上は、その記事の感想欄を見に行った。そこまで、注目度の高い記事ではなかったが、様々な感想がその記事に寄せられており、その中にこれじゃないかと思うものを見つけた。それは、こう書かれていた。
『二人で海。つまり、デートに行ってたんだろ?記者さんもあんまり二人の時間を邪魔してやんなさんな』
だから、田上は、タキオンに『デートに行ってたんだろ?のコメント?』と聞いた。すると、また、少しした後にこう返ってきた。
『そう。世間じゃ、案外私たちの事をもうカップルだと気が付いているのかもしれない。特に、ウイニングライブの事もあったし』
そして、その後にもう一つメッセージが来た。
『君の所に行く』
これには、田上も慌てた。まだ、自分は布団の中だ。着替えもしていなければ髭も剃っていないので、こんな姿をあんまりタキオンには見せたくなかった。だけども、幾分かは落ち着いていて、その情報の真偽や詳細を確かめるために、『いつ来るの?』と聞いた。すると、タキオンから『もう行く。朝』と返ってきた。幾ら時間を質問されたからと言って、その時間が直ぐ後では話にならない。ウマ娘寮から田上の部屋まで、全く以て時間はかからない。髭を剃る時間どころか、完全に着替えきるにも至らないかもしれない。だから、田上はもう諦めて、タキオンが来るのを待った。とりあえず、タキオンを出迎えて、それから色々と朝の支度をすればいいやという寸法だった。