それで、タキオンは満足して、また田上の胡坐の上に頭を乗せた。それから、田上のスマホで再び感想を読み始めると、暫くしてからこう言った。
「――アグネスタキオンさんと田上トレーナーは本当に仲が良いよね。正直、この二人は、いつか結婚するんじゃないかと思っている。アグネスさんの親御さんも確か、トレーナー婚の人だったし。……この人は、私たちがまだ付き合っていると思っているのかな?いないかな?文面からそれは読み取れないが、私たち、また予測されてる。…結婚するかな?」
タキオンがスマホから目を上げて、田上を見て言った。
それに田上が答えた。
「結婚…すると思う?」
「私は、まぁ、できるんじゃないかと思っているよ。私、君の事が好きだし、君も私の事が好き。これで結婚しない理由はない」
「でも、好き同士でも結婚しない人たちは居るんじゃないか?よくあるだろ?長年付き合っている彼氏が、中々、結婚してくれないので別れた、みたいな話が」
「ああ、聞いた事はあるね。…だけど、…本当にそれはお互いの事が好きだったのかな?君の言うように、結婚という言葉に希望が持てないとしても、それは、二人のつながりが不安定な時だけだ。長年付き合っていた上で結婚しないのは、何かにびびっているか、お互いの『恋人同士』という関係に依存しているだけかもしれない。だってね?考えてもみてくれよ?結婚と相対的に離婚があるわけだから、結婚しても意味はないとしても、結婚自体はしてもいいはずだ。お互いが繋がっているという証になる。これをしない理由はない。別に、結婚式なんて上げなくても、最低限、入籍さえすればいいだけだ。それをああだこうだ言って引き延ばしているとしたら、それは、全く結婚する気はなくて、ただ、二人で生活しているだけになる。もしかしたら、その彼氏はヒモ男で、彼女の事なんて全く好きじゃないかもしれないね。…君はどうだい?結婚してくれるんだろ?」
「…するつもりではあるよ」
「いつかな?具体的に何年後とかも考えておいた方が良いかもしれないね。私たちの場合は、状況が特殊だ。私は、まだ未成年だし、現役の選手でもある。…入籍だけなら問題ないが、…子供を作るとなると、ねぇ?」
「………怖くなってきた」
「何がかな?」
「……結婚が」
「でも、水曜に海に行った時は、――もう想像できるようになった、と言わなかったかな?」
「想像はできる。…けど、いざ目の前に来るとなると、怖くなってきた。…あんまり長くする事はできないよな。…お前にだって人生があるんだし」
「君にだって人生があるよ。…あんまり悲観しなくても大丈夫だとは思うけどね。…それとも、今こうして私と居る事が楽しくはないのかな?」
「…別に、楽しくない事はないけど、…怖くなってきた」
「また、想像できなくなってしまったかな?私が妻であることが。…なら、もっと私の女性的なところを見せてあげようか?胸やくびれや臀部。私との間に子供を儲けたい。そう思えるような形を見せてあげようか?」
「お前…、やめろよ…」
「でも、言わば、それが一番手っ取り早いような気もする。君、やっぱり私を女として見れていないんじゃないか?この、私と仲良く話しているという関係を持続させるために、今まで体良く話を合わせてここまで来たんじゃないのかな?」
「…いや、別に、お前の事が嫌いなわけじゃない」
「なら、私に性欲という物を抱いてもいいんじゃないのかな?私を襲いたいくらいの気持ちは抱いてもいいんじゃないのかな?」
段々と議論が白熱してきた。これは、田上にとって望ましくなかったのだが、少し頬の上気し始めたタキオンはゆっくりと起き上がると、田上に向き直って「どうなんだい?」と怒り気味に聞いた。
田上は、返答に困ってしまった。トレーナーとしての立場上、教え子と性交なんて考えるのは難題だ。例え、性交したいと言ったとしても、今すぐできないのは明々白々だった。しかし、答えなければならない。タキオンの赤い魅惑的な瞳は、今はもう、涙に潤み始めている。タキオンが冷静でない事も明らかだった。
だから、田上は、非常に情けない怯えたような顔をしながらも言った。
「お前の体が魅力的じゃないとは思ってない…。…ただ、…ただ、…どうしよう?」
「今、答えを出してくれ!今ならできる!私はできる!」
「……避妊具は?」
「ない!私は、君と子供を作って良い!教えてくれ!君は一体どうしたいんだ!」
「………今は、……今は、待ってくれ!頼む!今は無理だ!お前に手を出す事はできない!」
田上は、慌てながらそう言った。すると、タキオンの目からぽたり、ぽたりと涙が零れ落ち始めた。そして、ヒックヒックと泣き始めると、田上の方へそっと手を伸ばした。田上は、それが、どういう意図で伸ばされたのかが分からなかったから、それに困惑しながらもそっと触れた。すると、タキオンが、泣くのを堪えながら絶え絶えに言った。
「…抱き締め…させて…」
田上は、「ああ…」と戸惑いながら頷いた。すると、タキオンはそろりそろりと顔を俯かせながら田上に近寄って、その胡坐をかいている腰に抱き着いた。それから、また、しくしくと泣き始めた。田上は、どうすればいいのか分からずに、とりあえず、その髪に触れ、また、髪を梳き始めた。
さらり、さらりと梳く度に、栗毛の生えたウマ耳がピクリと揺れる。頭のてっぺんから長く伸びているアホ毛も田上は梳いて、タキオンの髪に撫でつけようとしたが、それは上手くいかなかった。何度やっても、栗毛の髪はまたぴよんとタキオンの頭の上に立った。そのアホ毛に苦心している時に、タキオンは、ほんの少しだけ落ち着いた泣き声で言った。
「…ごべん…」
「…いいよ」
「いや、……君が答えられないのは分かっていたのに、詰め寄ってしまった。私は、君の恋人失格だ…」
「お前が、恋人失格だなんて事はないよ。お前は、憧れの人だ。物凄い人だ。俺の好きな人だ。……俺もごめん。バカで、甲斐性が無くて、フラフラしてばっかりで、……お前に苦労しか掛けてない。謝っても謝っても、俺は変わってないから、何度もこういう事が起きる。……お前も俺が好きじゃなかったら良かったのにな…」
田上がそう言うと、タキオンの泣き声が一際高くなり、その後に、震えた声でタキオンが言った。
「そんな事、…言わないで…。ヒック…。私、君の事が好きだから、本当に好きだから、こんなに悩んでる。……どうにもできないけど、せめて、私の隣に居て…」
そして、その後にこう付け加えた。
「ヒック…。君は、変わってきてるから…。私と付き合う事にも抵抗感のあった君が今はもう、私とキスもする。……性交はしないけど…」
「………し……たいのか?」
「え?」
「………したいのか?」
「…したい」
そう言った後に、タキオンはゆっくりと体を動かすと、田上を抱きしめるのを止め、田上の前に向き合った。そして、まだ、涙をこぼしながら言った。
「でも、君に、そんな顔をさせながらはできない」
今の田上の顔は、深い自己嫌悪に苛まれていた。タキオンから目を逸らし、眉を凍らせて、目は虚空を見つめている。確かに、こんな状態の男と性交をして、楽しくなれるはずもなかった。
けれども、タキオンはその後に言った。
「でも、…私の事が魅力的だと思うんだったらいつでも私は歓迎するから。君の事を突き飛ばしたりなんてしないから。…いつでも来たまえ」
タキオンはそう言うと、再び田上の腰に抱き着いたが、今度はあまり大きな泣き声はたてないで、比較的大人しく田上の腰を抱きしめているだけだった。それを田上は見つめたが、今度はその髪を梳くことはせず、その髪の先のはねている部分をくるくるといじるだけに止めた。
静かな時間がそこにあった。タキオンが時々、大きく息継ぎをする音とその胸が息を吸うために膨れる度に起こる衣擦れの音しか聞こえなかった。田上の息の音は、ほとんどしていなかった。
そんな中、午前九時を過ぎた頃、霧島から連絡が来た。十時ごろから部屋交換を始めないか?という旨の連絡だった。この時の田上は、タキオンに話しかけるのが大変億劫になっていて、暫く躊躇っていたのだが、その事を察したタキオンがむくりと体を起こすと、田上に聞いた。
「さっき来たメッセージは誰からだったんだい?」
「……霧島」
「それで、内容は?」
「……引っ越しを十時頃から始めよう、って。多分、荷物まとめるのが、今日までかかってたんじゃないか」
「…それじゃあ、私たちは、十時から出発という事でいいかな?」
「……お前は残っててもいいぞ」
「私?なんで残らないといけないんだい?」
「……髪もいつもよりぼさぼさだし、涙で顔汚れてるし…」
「ああ、じゃあ、ちょっと顔洗ってくるよ。待ってて」
そう言うと、タキオンは、ベッドからそそくさと飛び降り、ペタペタと足音を立てながら、洗面所の方へと向かった。そして、ジャーと水の流れる音を静かな部屋の中に響かせながら、顔を洗った。
それから、顔を洗って帰ってくると、「はー、すっきりしたね」と田上に言いながら、ベッドの端の方に腰かけた。
「さっきはごめんね。君との事を考えたら、少し昂ってしまった。いけないね。私は、まだ未成年なのを忘れていたよ」
「別に、……してやってもいい…」
田上が低い声で言うと、タキオンが苦笑した。
「さっきも言ったろ?そんな顔の人としたくはない。君が、もっと私を可愛がれるようになった暁には一緒にしようじゃないか」
田上は、曖昧ながらも微かに笑って頷いた。そして、その後に、タキオンは雰囲気を変えるように大きな声を出して言った。
「気分転換に引っ越しの時まで、外で過ごそう!君もいい加減着替えたらどうかな?髭も剃ってはいないだろ?」
「ああ」と田上は答えこそしたが、それ以上動こうとはしなかった。それが、タキオンには何だか病人の様にも見えた。白いシーツを足の上にかけて、自分を見上げている。立ち上がっていたタキオンは、暫く田上と見つめ合ったが、痺れを切らすとこう言った。
「着替えさせてほしいのかな?」
「…そうすれば、俺の下着姿が見れるぞ」と田上は、低い声で冗談かも分からない内容の言葉を飛ばした。それにまた苦笑をしながら、タキオンは言った。
「君もいい加減その事から頭を離れさせたまえ。あの言葉を言うのに、君がどれ程の労力と精神を費やしたのかは良く分かるが、君も言ったように、今はできない。私もまだ現役中だ。さすがに、トレーナーとの子供を妊娠して、引退しました。となったら、私たちの善良なファンもそんな男に自分たちのタキオンを預けてもいいのかと迷うだろ?…私は、勿論、いつでも歓迎だが、とりあえずは、君が――お願いします。子供を作らせてください。と頭を下げてきてからだね。…君は、今すぐにでも頭を下げれるかい?」
すると、田上が少しだけ頭を前後に揺らしたから、タキオンも笑った。
「違うよぉ。頭を下げるんなら、地面に頭を付けなきゃ」
それで、田上が少し眉を寄せた。タキオンも、田上ができないと思った事が分かったので、こう言った。
「できないだろ?…私は、君に頼まれたいんだよ。子供を作らせてほしい、と。子供を作るんだったら、もっと、君と私が通じ合うような物にしたい。心を通じ合わせたい」
そう言って、タキオンは、またベッドの端に座ったが、田上はそれと目を合わせないように視線を下におろして、シーツを見つめながら言った。
「…本当に、…通じ合えるのかな…?……不安だよ」
「それじゃあ、君には常に私といかにして通じ合えるか考えておいてほしい。不安を解消するには、考える事が一番だ。考える事が未来へと通じる。それから、夫婦にも通じる。体よりも先に、まずは、心で夫婦にならないとね」
そのタキオンの奇妙な発言に、田上も思わず顔を上げて聞いた。
「心で夫婦?」
「…うーん、…つまり、…つまり、ね?…つまりぃ、…君と私の場合は大きな障壁に見舞われている。君が、人や物事、事象を信じられないという事だ。それが大きな妨げになっている。そんな中で夫婦になっても、あまり心の通じ合ったものではないだろう。だから、例え、書類や苗字や体で通じ合っていたとしても、心が通じ合っていなければ、それは、本当に通じ合っているのかな?という問題だ。…今の所、私たちは、その小指から辛うじて伸びている赤くて細い糸によって、ギリギリ結ばれている状態だと言える。それを、言わば、君の心臓から血液を送り出す動脈くらい太くして通じ合わせるんだ」
「…でも、……」
「なんだい?」
「…でも、………」
「なんでも良いよ。私が傷付いたら、君の懐で休ませてもらうだけだから」
「…でも、……俺は、捨てられたっていい奴だよ」
「またそれかい!?…うーん、……実に難しい奴だ。どうしようもなく難しいな。…私一人で解決できるかな?…いや、やらねばならない。……君は、通じ合うってどういう事象の事を示すと思う?」
「……分からない」
「分からない…。うーん、難しい。君の心の扉を開くのは容易じゃないな。何せ、恋人であり、また、数年を共に過ごした私が、こんなにも苦労しているんだからな。しかし、君もその心の扉を閉じるために私の想像のつかない様な苦労をしてきたはずだ。…違うかな?」
「…分からない」
「分からないだろう。…分からないだろう。…また、キスをする?」
その言葉で、田上は、またぼんやりと目を上げ、タキオンを見、そして、微かに頷いた。すると、タキオンが田上の方に身を寄せて、その病人のような佇まいの男とそっと唇を重ねた。田上は、ただ受け身になって、そのキスを受けた。あまり感じるものはなかった。タキオンとキスをしている自分は、どこかあやふやで、空虚で、実体がないもののように思えた。しかし、タキオンは満足するまでキスをしたようで、唇を離すとニコニコしながら言った。
「今のは、私と君の唇が『繋がった』という事だ。分かるかな?想像できるかな?私は、ありありと想像できるが、私と君は、今この行為によって愛を伝えあっている。唇がつながる瞬間があるだろ?その時に、君の体と私の体は繋がっている。という事だ。その時は、君と私の体は二つで一つと化している。これを心でしてみよう。という事だ。今は、一時、唇を重ね合わせることでしか、君と通じ合えないかもしれない。しかし、心を繋げれば、いつでもどこに居ても君と私は繋がっている。実際に、繋がっていることもあるかもしれない。…今、思い出したんだけど、大阪杯の時君は倒れただろ?」
「ああ」
「その時、私も躓いたというのは記憶しているかな?」
「ああ」
「偶然だと思うかな?」
「…偶然」
「…うーん…、偶然かもしれないが、こうも思わないかい?――あの時、私たちは繋がっていた。どちらかというと、君を想う私の心が君に繋がっていたのかもしれない。だから、私も躓いてしまった。そう思うと、私たちの繋がりは見えてこないかい?」
これには、田上は、何も答えずに、ただ自分のシーツを見つめ続けた。
「分からないかな?…まぁ、いい。でも、考えてみたまえ。君と私の繋がりは、色んな所にある。例えば、こうして手を繋いでみたり…」と言って、タキオンはシーツの上に力なく放っておかれている田上の手を取って、その指と指を交互に組み合わせてみた。
「君と私はキスをするし…」と言って、タキオンはそのまま田上をベッドの上に押し倒しつつ、キスをした。
「肌と肌が触れ合えば、私と君の体は一つだ」
そう言って、タキオンは、田上の手を放し、その髭のチクチクする顎から頬をそっと撫でた。
「これが、夫婦だよ。一つになる。私たちは、一つになれる。愛を深め、情を抱き、心と体は一つになる。…これが夫婦だ。ここで、この話をするの時期尚早だったかもしれないが、君の悩みは分かった。君は、人間恐怖症だ。どうしてそこまでなってしまったのかは分からないが、恐怖症を克服するのは、その物事を理解するのが一番だ。特に、人間は怖い生き物ではないからね。私だったら、猶更だ。私が怖く見えるかい?」
「……怖い」
「まぁ、ちょっと、さっきは昂ってしまったからね。……私たちの相性って、ひょっとすると悪いのかな?君は、私たち、離れたほうが良いと思うかい?」
「……今更、…離れる事はできない…」
「そうだよね…。今更、ね…」
タキオンは、そう言って暫く黙りこくってしまったが、やがて、再び立ち上がると言った。
「今度こそ、君も着替えなきゃ。どうせ、外に出かけなくちゃならない用事があるんだから、用意はしなくちゃいけないよ。ほら、立って立って。私が介護してあげようかい?」
田上は、タキオンに急かされて、ようやくのろのろと立ち上がったが、タキオンの事は少し無視し気味ではあった。タキオンの方に、一度、チラリと目をくれてやっただけで、その後は、自分一人で黙々と朝の支度をしていた。途中、田上が洗面所で着替えをしている所に、タキオンが入ってくることがあったが、声も上げなければ、眉一つも動かさないで、ただズボンを腰まで上げた。タキオンは、少し寂しかったが、ここで声をかけてしまうと、田上の何かが崩れそうだったので、何も声はかけないでおいた。
そして、田上が落ち着いて朝の何かもが終わったんだろうな、というタイミングでタキオンは「朝ご飯はどうする?」と声をかけた。田上は、やっぱり何も言葉を発しなかったが、ただ首を横に振ってそれに答えた。すると、タキオンは、「じゃあ、外に出よう」と田上に手を伸ばした。田上は、その手を取ろうか、一瞬だけ迷ったが、すぐにタキオンの手を取る事に決めると、その手を繋いで、自分の部屋の外へ出た。
外は、田上の心とは正反対に大変に大変に心地の良い日和だった。眩い春の光が、田上たちを照らしてきた。それを浴びると、タキオンは伸びをして、嬉しそうな笑い声を上げた。その後に、田上に笑いかけた。田上も笑い返したが、それは、どこか悲しそうな笑みでもあった。けれども、タキオンは、それに気付けなかった。あまりに陽気な春の光に目が眩んでしまったのだ。だから、タキオンは田上の朧げな心には気付けずに、その手を引きながらあっちこっちへと連れ回した。
十時になると、タキオンと田上は二人でトレーナー室に向かった。マテリアルにも事前に連絡をしておいたので、田上たちがトレーナー室まで行った時には、もうすでにそこに居た。そして、そこに田上たちが手を繋いでやってくると、少し物言いたげな顔をした後に、若干表情を和らげて、「仲が良いですね」と呟くように言った。田上は、それに黙って、微かに頭を下げるのみだったが、タキオンはこう言い返した。
「仲が良いなんてもんじゃないよ!なんせ、恋人同士なんだからね!今しがた、お散歩デートを楽しんできたところさ」
そうすると、マテリアルは、先程と変わらない表情のまま、ふっと笑った。その後に、再びドアがガチャリと言って、霧島が入ってきた。今日は、初めから一人のようだった。この人は、今の場の雰囲気とは大違いに、春の陽気の様に明るい声で「おはよう!」と皆に呼び掛けると、田上に聞いた。
「今日は、どっちの荷物を先に運ぶ?どちらにしろ、混ざらないように気をつけておかないといけないんだけど」
そう言うと、マテリアルが横から口を挟んだ。
「あ、私たちの段ボールの方には星のマークをつけておきました。それに、まとめてあるので、霧島トレーナーさんの荷物は、部屋の向こう隅にでもおいていただけれれば、絶対に混ざる心配はないと思います」
「あー、でも、俺の方は段ボールはまとめておいてないな。結構散らばってる」
そう霧島が言った後に、田上が提案した。
「とりあえず、俺たちの荷物は廊下でもどこでもいいから運んでおいていいんじゃないか?あっちに行く時に、俺たちの荷物を運んで、帰る時に霧島の荷物を運べば、効率的だろ?」
「おお、お前頭良いな!さすが、アグネスさんを育てただけの事はある!…じゃあ、始めてもいいかな?」
「いいよ」「いいですよ」と田上とマテリアルが答えると、各々、段ボールを胸の前に抱えて、部屋から出た。タキオンも手伝わなければいけなかったので、段ボール箱二つ程を胸の前に抱えたが、廊下を歩く際に田上の横を陣取るのは止めなかった。しかし、今回の霧島は、マテリアルの方に興味があったようだ。先導は、田上とタキオンに任せて、後ろでマテリアルに色々と質問していた。
「ナツノさんは、やっぱりウマ娘を指導してみたくてトレーナーになったんですか?」と霧島が聞いた。
「ええ、そうですね。やっぱり、ウマ娘が切磋琢磨していくのを間近で見てみたかった。それが、大きいですね」
「やっぱり、ウマ娘っていうのは、夢ですもんねー。圧巻ですもん、あの走りは。ナツノさんは、競走の方は?」
「いや、もう私はからきしで、だから、トレーナーになって走りを見つめてやろうと思ったんです」
こんな調子で、非常に他人行儀ではあったが、それなりに会話は弾んでいた。むしろ、田上とタキオンは、これ以上に弾んでいなかったと言えるだろう。タキオンが話しかけるし、田上もそれに答えていたのだが、それは、どこか恋人同士とは思えない距離があった。恐らくは、田上が、少し距離を開けているからだと思われる。まだ、部屋にいた時までの心地が心の中に残留しているのだろう。それにどう抗おうかと、心の中では必死のようだった。しかし、これをタキオンに気づかれないまでに表に出さなかったのは、田上の素晴らしき、そして、憎むべき無意識の仕業だった。田上は、心の中で自分が何かと戦っているのは感じていたのだが、それが心の深層のまた深層の方だったので、意識としては気付けなかった。ただ、気持ちが少しだけ暗くなるだけだった。少しだけ暗くなるだけなら、田上の意識は簡単にそれを除くことができた。タキオンが気付けなかったのはこのためだった。タキオンがそれに気付くには、田上の戦いはあまりにも奥深くすぎた。