田上とタキオンと後ろで話している二人は、ぼちぼちに荷物を運んだ。先に、霧島の部屋の荷物を運び終わり、次いで、田上の部屋の荷物も運び終わった。それが、丁度、十二時少し前だったので、良い塩梅の時間に終わることができた。田上の手は、タキオン程に荷物を運んでいないとしても、筋力がなかったので、終わった時にくたびれてくたびれて仕方なかった。
そこで、皆で昼食に行こうという話になったのだが、まず初めにタキオンが「行かない」と言い、次いで「圭一君も私に少し付き合ってもらうから」と言うと、場が神妙な空気になった。ここで、タキオンと田上に消えてもらっては困るのだ。いくら、マテリアルと霧島が、荷運び中に会話が弾んだと言っても、それは、荷運び中だからである。昼食にまで持っていくような話ではないから、話が弾んだのである。そして、霧島もマテリアルもお互い、昼食に話して弾む様な話題など何一つ持っていなかった。だから、その仲介役や話題運び役として、田上とタキオン、特に全員の共通の知り合いである田上が必要だったのだが、タキオンが霧島とマテリアルに「君たちはどうするんだい?」と問うと、二人は顔を見合わせた。そして、霧島が「どうします?」と聞くと、マテリアルも「霧島さんは、どうしますか?」と聞いた。二人共、初めから断るのは嫌だったのだ。だけども、この次の問答では絶対にどちらかが断らなければ、二人で昼食に行く流れになってしまうので、それは必ず避けなければならなかった。そこで、霧島が男として初めに断る事にした。
「僕は、…やめときます?」
「私もやめておいた方が良いと思います」
この言葉をマテリアルは平然と言ったが、心の内では大いにほっと胸を撫で下ろしていた。それで、田上が横から「じゃあ、これで皆解散かな?」と言うと、霧島の部屋のドアがコンコンと二回鳴った。田上は、椅子に座っていて、タキオンはその横に立ち、霧島とマテリアルが二人田上たちの前のドアの近い方に立っていた。その中でも一番この状況で、元部屋主としても動くのに適している霧島が、「誰かな?」と言いつつドアの方に行き、そのドアを「はーい」と言って開けた。すると、外に居たのは、少し怯えながらも立っていたリリックだった。
ドアが開くと、リリックは目の前に居る霧島を見つつ、奥の方に居る田上の方にも目を向けて、安心したような声で言った。
「やっぱり、ここに居たんですね。…もう引っ越しは終わったんですか?」
「ああ、終わったよ」と田上が答えた。
「もう解散したら、リリーさんに連絡を送るつもりだったんだけど」
「あー、…別に、私も手伝って良かったんですけど」
「ああ、手伝いたかった?」と田上が言うと、リリックは少し怒った。
「私もチームなんですから、ここまで除け者にされると寂しいです!」
「ごめん」
そう謝りつつ、隣のタキオンの方に田上が目を移したので、リリックは、妙に腹が立った。しかし、マテリアルがこう声をかけると、若干ではあるが、その心も収まった。
「リリーちゃん、一緒にご飯食べに行かない?」
そして、リリックが「あ、行きます」と答えたのだが、二人が出て行く前に、ここで、ようやく解散できそうな雰囲気になったのを察した霧島が「俺はもう行くよ」と田上に声をかけた。田上や他の人たちも、それぞれ別れの言葉と感謝の言葉を霧島に告げたのだが、霧島がトレーナー室からドアを開けて出て行こうとしたその時に、田上が慌てて言った。
「ああ!鍵鍵!鍵も交換しないと!」
それで、霧島と田上は鍵も交換し、晴れて、部屋交換がここに成立した。その後に、霧島が出て行くと、リリックとマテリアルも続々と出て行き、最後にはタキオンと田上だけになった。そこで、二人は、暫く黙ったまま顔を見合わせた。今の田上の心境は、心地良い疲労に痺れて、大分穏やかになっていた。タキオンもまた同じように穏やかではあったが、その心の中には、朝頃の自分たちの様子が映し出されていた。目の前の田上の事もしっかりと見てはいる。見ているのだが、どうしようもなくその光景がタキオンの頭の中に浮かんできた。だから、タキオンは言った。
「……私たち、恋人同士だね」
「…?ああ」
「…私たち、恋人同士だよね?」
「ああ」
「…キスを、してくれないか?」
これには、案外簡単に「いいよ」と田上も答えられた。心地よい疲れがそうさせたのか定かではないが、すぐに立ち上がると、タキオンの体に寄り添うと「良いのか?」と聞いた。タキオンもあまりの田上の対応の良さに少し戸惑いこそしたが、コクリと頷くと、目を瞑った。田上は、窓から外の景色が見えるのが少し気になったが、今更、カーテンを閉めに行くわけにもいかないので、そのままタキオンの体を軽く抱いて、唇を重ね合わせた。田上は、自分の満足やタキオンの満足を気にする事もせず、ただ単に愛を持ってキスをする事に成功した。これが繋がるという事だった。二人は、幸せな一時を過ごせた。どちらも離れる事をちっとも考えずに、ただその唇から二人の体が繋がっているという事を感じた。離れる時も、少しの心の名残はあったものの、ごく自然に離れることができ、お互いがお互いの目を見つめ合った。そして、再びキスをした。お互いが申し合わせることもなく、また、拒絶する事もなく、そのキスは丁寧に執り行われた。心の穏やかさが実に救いだった。穏やかであればあるほど、田上の心に安寧が訪れ、二人の時間がより親密になっていく。タキオンがまだ学生である事は気にならなくなり、自分が、ただの平凡な冴えない男であるのも気にならなくなる。
ただ、繋がっていることを感じられる。
繋がりが、繋がりとしてそこにある事を感じられる。繋がりは、繋がり以外の何物でもなく、ただ鼓動の高鳴りや肌の触れ合う感覚がそこに添え物として置かれているだけだ。今、田上の心に生まれて初めての、最高の安寧が訪れた。心安らかに温まる母の懐のような安寧。それを、田上は、今初めて感じた。繋がりは、愛を持って繋がった。より親密で、より近寄り難く、より強固で、より穏やかな繋がり。それを田上は感じた。このまま、二人でタキオンと溶け合っていたかった。幽霊を見る事よりも曖昧な二人の境界線は、春の暖かな日差しに照らされ、微かな吐息に混ぜられて、より境目の分からない境界線となっていった。二人は、何度もキスをし直したが、お互いの為の行為だった。お互いが、唇を離し、そして、また重ねる。その行為をしたいと思った瞬間に、緩やかにそれを実行し、愛を深め合った。このまま、二人は、何時間でもキスをしていそうな勢いだった。また、唇を離して見つめ合ったとしても、次の瞬間には、お互いの唇が重なり合っている。そんな状況だろう。しかし、そんなところにも入ってくる人はいた。
ササクレだった。ドアがガチャリと開くと、スマホを見つめたままのササクレがテクテクと歩き、長机の前に並べられたパイプ椅子に座った。その時、片時もスマホから目を離さなかったので、唇を重ね合わせているタキオンと田上には気が付かなかった。そして、田上とタキオンもまたドアが開いたからと言って、簡単に唇を離しはしなかった。それから、少しの間唇を重ね合わせた後、お互いに申し合わせたように唇を離し、見つめ合ってから、今ドアを開けた人の行方を捜した。ドアを開けた人がササクレだったという事はすぐに分かったのだが、それは向こうも同じだった。今しがた、キスをした後に見つめ合っている様をササクレはしっかりと見ていて、愕然とした。トレーナーとその担当が、そんな顔をして見つめ合うなんて、ササクレには到底考えられなかった。あれでは、まるで、本当の恋人同士の様に見えた。お互いがお互いを愛おしく思い、慈しむ目を向ける。そんな眼差しをササクレは、今まで一度も見たことがなかった。少し二人の関係が羨ましくなってしまう程に、その穏やかな目を誰かに向けられたくなったが、その代わりに思い切り憎しむような目を二人に向けると言った。
「あなた方、今、何してたんですか?」
「ん?……軽く接吻をね」とタキオンが、平然として答えた。内心は、ほんの少しだけ焦っていた。
その返答を聞くと、ササクレはもっと眉根を寄せて言った。
「接吻?あなた方付き合っているんですか?」
「まぁ、そういう事になる」とタキオンが答えたが、今度は、ササクレは、まだタキオンを抱いたままでいる田上に向かって言った。
「同意の上なんですか?」
「…はい」
そう言われると、ササクレも難癖をつけることができなくなって、自分のスマホの方に目を逸らした。それでも、何か腹の虫が収まらなかったので、「気持ち悪」と一言呟いた。これには、タキオンと田上も顔を見合わせた。その言葉によって傷を負うなんてことはなかったのだが、いきなり人の部屋に入ってきて、いきなり二人の関係を否定されれば戸惑う事にはなった。けれども、田上もササクレが、トレーニングをサボる様な問題児である事は知っていたし、間違えてこの部屋に入ってきたんだろうという事も察せられたので、優しく言った。
「ササクレさん。この部屋は、もう僕たちの方に移ったのはご存じでしょうか?今、昼食が始まる前に、荷物を運び終わったばかりだったんですけども」
「…知ってるよ!」とササクレは、先程の礼儀正しい敬語も忘れて、乱暴に言い返した。それで、田上とタキオンは再び顔を見合わせた。――知ってるなら知ってるで、部屋から出ればいいのに、というのが、二人の頭に浮かび上がった考えだったが、ササクレは、相変わらずスマホを苛立たしそうに見つめているばかりで、ここで、再び声を掛けようものなら刺してきそうな気配がした。だから、二人は仕方なく、ササクレを刺激しないようにできる限り抑えた声で話した。
田上が、タキオンに椅子に座るようデスクの方の椅子に座るよう促すと、タキオンも「君が座ればいいだろ」と遠慮したが、田上が「座っていいよ」と言うと、素直にタキオンは座った。そのタキオンが座ろうとしている間に、田上はササクレの方をチラリと見やったのだが、ササクレは、いつの間にかおにぎりを取り出して、それを口に運びながらスマホを見つめていた。どうやら、ここで昼食をとるようだった。これには、田上も参ってしまった。ぼちぼちすれば、自分たちも昼食をとりにカフェテリアに行く予定だったが、ここに部外者が居られては少々不味いのだ。別に、ササクレが何かを盗んでいくみたいなことは考えてはいなかったが、何かあった時に責任の所在を問われるのは自分だ。できるだけ、ササクレをここに一人残して立ち去りたくはなかった。
それでも、ササクレは、もぐもぐと大きいおにぎりを口に運んでいるので、田上は静かにタキオンの方を見やった。タキオンは、目の前に立っている田上の事を見上げていたが、やがて、自分の膝を両手でパンパンと叩くと小さな声で「座るかい?」と聞いた。田上が、微かに笑って首を横に振ると、もっと田上と話をしたかったタキオンは「遠慮しないで」と再び小さな声で言った。ただ、小さな声と言っても、十分ササクレには聞こえる音量だった。聞こえの良いウマ耳には白い布の耳カバーをしていたが、それでも、タキオンの声が聞こえる度に、苛立ちを募らせるようにその耳は伏せられていった。
タキオンは、田上が自分の膝に座る事を断ると、次に何を話そうか考えていたのだが、あんまり大した話題が見つからなかったので、やっぱり小さな声でこう言った。
「好きだよ」
田上も頷いて、それに同じ気持ちである事に同意した。それでも、タキオンは田上の返答が聞きたかったので、「口で言ってくれ」と言った。
その時に少しタキオンの音量が上がってしまったのが、原因かもしれない。ササクレが、ガタッと椅子の音を立てて立ち上がると、スマホをぎゅっと握りしめ、田上たちを睨みつけながら言った。
「なんで、あなたはトレーナーなのにアグネスタキオンさんと付き合っているんですか?」
その声には、低い怒気が込められていた。田上は、それに多少驚きつつも、冷静に返した。
「タキオンと両想いだったからです」
「ええ?両想いなら、まだ未成年の女の子と付き合っていいと思っているんですか?」
ササクレは、少しずつ田上の方に近づきながらそう言っていたから、なんだか妙な雰囲気だと思ったタキオンは、もしも何かあった時に田上を守るために立ち上がった。すると、ササクレが今度はタキオンの方に反応して言った。
「超高速のプリンセスさんは、なんで田上さんの事を好きになったんですか?」
「…かっこいいから」
「外見主義ですか?」
「そんな事はない。内面も含めてかっこいいと思う」
「…なんで、初めての人にそんな舐めた態度取れるんですか?明らかに上から目線ですよね?」
「すまない。この話し方が、癖になってしまっているんだ。今まで、特に注意もされてこなかったしね」
「足が速ければ注意されないんですか?」
「…まぁ、多少はそういう所も多めに見てもらえるだろうね。――この子は将来走れる子になる。または、走れる子だから、と思われれば、そうなるかもしれない」
「つまり、足が早い人は特権階級って事ですか?」
「別に、そんなんじゃないさ。足が速かったからと言って、恋がすんなり実りもしなかった」
「…実ってるじゃないですか。隣に居るトレーナーは一体何ですか?」
「恋人さ」
「……いい加減敬語使ってくれませんか?話していると苛々してきそうです」
ここでタキオンが「もう苛々しているじゃないか」と揚げ足を取る選択肢も残されてはいたのだが、恋人が横に居るのならば、できる限り厄介事に巻き込まれないようとする心が働いた。けれども、どうすれば正解になるのかが分からなかったので、隣に居る田上の顔を見つめた。すると、田上と目が合ったので、一時二人は微笑みながら見つめ合った。しかし、すぐにササクレが怒ったようにダン!と足を踏み鳴らした。
「見つめ合うの止めてもらっていいですか?アグネスさんも田上さんに助けを求めようとしないで、自分で答えてもらっていいですか?」
ここで、「いいとも」と答えてしまうのがタキオンだったから、下手に相手を刺激しないようにササクレを見つめたまま黙った。代わりに、恋人の窮地だと思った田上が口を挟んだ。
「俺からも注意しておくから、今回は見逃してくれないか?」
「喜んでモルモットになる様な変人が、敬語の出来不出来を注意するわけないじゃないですか!アグネスさんが何とか言ってください」
――あまりにもしつこい。タキオンはそう思ったが、ここで反発して田上を危険にさらすわけにもいかないから、タキオンは頭を下げて言った。
「ごめんなさい。私が悪かったです。今度から貴女と話す際には、敬語で話す事に致します。今までのご無礼をお詫び申し上げます」
あまりにも丁寧過ぎたので今度は腹が立ってきたが、敬語の事には違いがないので、ササクレも無理に怒れずに、今度はその矛先を田上へと向けた。
「田上さんは、本当に隣の人の事が好きなんですか?」
「え?ああ、好きです」
「…気持ち悪いとは思いませんか?その人女子高生ですよ?」
「えー、まぁ、そうですね」
「気持ち悪くないですか?」
「えー、…まぁ、あの、タキオンも良いって言っているので、僕も甘んじてそれを受け入れるしかないのかな、と思います」
「でも、傍から見れば、おじさんと女子高生ですよ。気持ち悪いとは思いませんか?」
「まぁ、僕もその様に思いはしたんですが、タキオンが良いって言いましたので、それを受け入れるしかないのかな、と」
「気持ち悪いですね。犯罪ですよ。教え子に手を出したって事ですからね。強制わいせつ罪に当たりますよ」
すると、タキオンがそのすぐ後に「当たりません」と答えた。
「同意の上ですので、圭一君がそのような罪に問われることはありえません」
それに、ササクレが言い返した。
「なら、その同意を見せてください。…もしかすると、洗脳されているのかもしれません」
「その様な事はあり得ません。圭一君はれっきとした私の夫でございます」
「入籍したんですか?」
「今後、その予定があります」
そこで、ササクレも言い返せなくなり、再び田上に向かって言った。
「結局は外見主義ですか?若くて、可愛い子供をこの学園で調達できて良かったですね」
この言葉にタキオンがむっとして何か言い返そうとしたが、田上がその手を握ると、先にササクレに言った。
「僕は、タキオンをただの可愛い子供だとは思っていません。僕を慰め、救ってくれたヒーローです。タキオン以上に素晴らしい人間は居ないと思ったので、彼女の事を好きになりました。外見主義だと何だと言われようと、僕はタキオンの事が好きです」
これで、田上の演説は終わり、ササクレは苦虫を噛み潰したような顔になった。隣のタキオンは少し嬉しそうに眉を上げてササクレを見ていた。ここで、もうササクレが田上にああだこうだ言う事はできない。嫌悪感という唯一の持ち札をいとも容易く破られてしまったのだ。けれども、ササクレの嫌悪感はまだ消えない。何か、この二人の仲を破ってやる良い手段はないかと考えていた時に、またドアがガチャリと開いて、一人の金髪で美人のウマ娘が「忘れ物忘れ物~」と言って飛び込んできた。マテリアルだ。
陽気に飛び込んできたマテリアルだったが、机を挟んだ形で向かい合っているササクレと田上とその手を繋いでいるタキオンを見るとピタリと動きを止めた。ここに居るはずのないササクレにも驚いたし、険悪そうな雰囲気にも驚いたからだ。現に、マテリアルは入ってきた途端に、部屋に居た全員に静かに見つめられたし、ササクレにいたっては睨んできていた。それで、マテリアルもこの場に長くとどまっては不味いと感じたから、「私は忘れ物を取りに来ました~」と小声で言うと、田上の机の端に置いてあった自分のスマホを手に取って部屋から出ようとした。しかし、その時に、ササクレに呼び止められた。
「貴女の名前は何ですか?」
ここで、マテリアルは聞かなかったふりをしてそのまま部屋を出て行く案が頭にふっと浮かんだが、その前に、声に反応してササクレの方を見てしまっていたから、それで逃げる事は、考えついた時にはもうダメだった。
マテリアルは、できるだけ平然と「え?私ですか?」と聞いた。
「貴女です。名前は、何て言うんですか?」
「えー、ナツノマテリアル…と申します」
その返答を聞くと、ササクレは田上の方に向き直って言った。
「なんでこの人を好きにならなかったんですか?」
「え?」と田上も困惑して固まったが、その後に続けた。
「…えー、…タキオンの方が好きだったから…?」
「なんでこの人の方を好きにならなかったんですか?どう見てもこの人の方が美人ですよね?」
「ええ?…まぁ、別に、タキオンも可愛くない事はないし…」
「じゃあ、外見主義ですか?」
「外見主義ではありません」
田上も段々と優しく話す事に疲れてきて、きっぱりとそう言ったのだが、それがさらにササクレに火を点けた。
「なら、何主義なんですか?」
「…知りません」
「どうして知らないんですか?」
「…分からないからです」
「超高速の方を好きな理由が分からないんですか?それなら、別に大して好きじゃないんじゃないですか?」
「タキオンの事は好きです」
「じゃあ、何が好きなんですか?具体的に教えてくださいよ。彼女のここがこうこうであれのあれあれが好き、って」
「ええ?……別に、今ここであげる程突出して好きな部分はありません。全部好きです」
「じゃあ、外見主義じゃないですか!今、そこの人と私の中身だけが入れ替わったとして、あなたはその中身の超高速の人を好きになれるんですか?」
「分かりません。タキオンは外見だけじゃないけど、外見もまたタキオンです。それが急に入れ替わったっていうのなら、僕は、受け入れるのには少し時間が必要です」
「私だって、圭一君が入れ替わるのなら時間が必要です」とタキオンが横から口を挟むと、ササクレは、思い切りタキオンの事を睨んだが、その返答には触れないで、田上に言った。
「なら、なんで好きなんですか?私とあの人の違いを教えてください」
マテリアルは、三人をハラハラしながら見つめていた。そんな中、タキオンが、もううんざりだ、とばかりに、田上にされた質問に敬語も忘れて答えた。
「君と私は根本から違う!!何が同じかと問われれば!それはこの世に生きているという事が同じなだけで、思想も立場も外見も圭一君を想う気持ちも何もかもが違う!君が何を知りたいのかは知らないが、迷惑なんだよ!」
ここで、田上が「タキオン」となだめるように言ったが、それで止まるタキオンではなかった。
「何故君に敬語を使わないのかと問われれば、それは君がその様な人間だからだ!初めから、敵意を向けてくるような人間に敬語を使うはずもないだろう!」
「初めから、人を見下しているような表情をする人に言われたくない!」
ササクレが、つかつかと机を回って、タキオンに詰め寄ってきた。場が騒然とする。田上には、ウマ娘同士の喧嘩など止めることができなかった。隣で、「タキオン。…タキオン!」と必死になって呼び掛けたが、興奮しているタキオンは田上の事なんて眼中にも入れないでササクレに言い返した。
「生憎だが、この顔だけは生まれつきだ!悪かったね!人を見下しているような顔で!!」
「マテリアルさん!!」と田上が悲痛な叫びをあげた。ササクレとタキオンは今にも衝突しそうになっている。田上にもどうしようもないとすれば、これを止められるのはマテリアルだけだった。しかし、マテリアルも生まれてこのかた、喧嘩なんていうのは弟としかしたことがないし、その喧嘩も中学に入って以降は一度もやっていない。今更、人を止める術なんて分からない。だけれども、この場を止められるのも自分しかいないと理解はできるので、マテリアルは急いで二人の下へと近寄っていき声をかけた。田上もタキオンを近寄らせまいと、必死に手を繋いで呼び掛けて、最後には肩を抱いて引き留めた。
それで、タキオンも少しは我に返ったようだ。まだ、ササクレの方も警戒しつつはあったが、田上の必死の呼び声に応じて、「すまない」と謝った。田上は、タキオンを後ろから抱き締めつつ「落ち着いて…。行かないで…」と呼び掛けた。
ササクレの方はと言えば、案外、マテリアルに押し負けていた。マテリアルも幾ら美人と言えど、ひ弱ではない。昔、弟と戦っていた感覚をすぐに思い出すと、ササクレと手をがっちり組んで頭を押し合いしていた。その内に、幾分冷静なマテリアルがササクレの押してくる力を利用して、くるんと一つササクレの体を回すと、見事にササクレを地面に組み伏せた。ササクレは、どうにか目の前の女を傷つけてやろうともがいたが、マテリアルの体重の落とし方も完璧で、ササクレは歯を食いしばった奥から唸り声を出す事しかできなかった。
そして、マテリアルは自分の体の下に押さえつけているササクレに言った。
「何がそんなに不満なんですか!!」
ササクレは、ただ唸った。
「火傷ですか?この顔の火傷がそんなに不満なんですか?」
またも唸るだけだったが、先程よりももっと動こうともがいた。
「それが不満なら整形手術なんかで消せばいいじゃないですか!あなたの親御さんはそんな事をしてくれなかったんですか?」
すると、唸り声が一際大きくなって、ササクレが言った。
「うちにはそんな金はない!母さんは、お金を出すって言ったけど、私はそれを断った!!この痕を抱えて生きていくんだ!!」
「なら、勝手に生きて行けばいいじゃないですか!」
「違う!世の中不公平だ!!私も美人で可愛くいれるならその方が良かった!!あなたのように美人のままだったら私の人生も変わってた!!きっともっと良い人生だった!!」
「十八ごときで何を言っているんです!人生なんて十八年で決まってたら、私は一生人と付き合えません!!」
「…嘘だ!!あなたみたいな美人はどうせ裏で隠れて付き合ってるに決まってる!!」
これには、マテリアルも少し向きになった。
「残念ですが、今の所、付き合っている人はいません!!全員に振られましたよ!こん畜生!!」
マテリアルは八つ当たりにササクレの頬をデコピンで弾いた。ササクレは、それに「イタッ!」と声を上げた。
「何するんですか!」
「あなたが世界で一番不幸みたいな面してるから腹が立ったんです!」
「でも!私みたいに顔に火傷のある人なんてほとんどいない!!」
「居て堪るもんですか!!火傷は不幸の勲章じゃありません!!不幸なんて人の数ほどあります!!この!田上トレーナーだって、中学の時に母親が死んだんです!!あなただけが不幸じゃありませんよ!!」
そのやり取りをタキオンと見ていた田上だったが、自分を引き合いに出されると少し困った。つい今しがた、タキオンと幸福になったばかりだったからだ。
ササクレは、その微妙な表情で見てきている田上を、少し驚いたような目つきで見た。それから、隣に居るタキオンも少し沈んだ顔で自分を見てきていることに不意に気が付くと、「見るな!!」と叫んだ。そして、マテリアルが油断した隙を突き、体をグイと動かすと、その体の下から抜け出した。マテリアルは、あっという間に床に転がされてしまったが、立ち上がったササクレはタキオンの向かう気配やマテリアルに仕返しをする気配もなく、真っ直ぐに自分の荷物を置いていた長机の椅子に向かった。
その荷物を取るとササクレは、そのままマテリアルの横を通り過ぎて、ドアの前に立った。皆は、ササクレがどうするものかと思って見つめたが、ササクレは、振り返って部屋にいる人たちを全員見回すと、その後に、田上に向かって言った。
「死ね」
そう言うと、ササクレは、ドアを乱暴に開け、乱暴に閉めてから部屋を出て行った。そこで、数秒してからやっと場の雰囲気がいつものように柔らかに戻り、田上が言った。
「はーー、怖かったぁぁぁ!タキオンもあんな挑発に乗らないでくれよ!」
「ごめん」とタキオンは落ち込んだ声で言ったから、田上もそれを慰めた。
「ごめん。俺ももう少し気の利いた返しをできれば、ササクレさんをもっと早く帰してあげることができたかもしれないのに」
すると、タキオンは落ち込んではいるものの、田上に暗い声で言い返した。
「いや、あの人は、こうなるまで帰らなかったと思う。私を何とかして怒らせたかったんだ。私も初めの内は我慢できたんだけど、あの人が君をただ責めているのを見ると……。幻滅したかな?」
「幻滅?しないよ。する要素がない。俺もタキオンの気持ちは良く分かる。俺だって、あんなの嫌だったもん」
「…でも」とタキオンが言うと、田上がその両の頬をぷにっと持ち上げて、タキオンの顔で遊び始めたから、タキオンは「何だい?」と不機嫌そうな目で田上を見つめた。田上はニコニコしながらそれに答えた。
「今更、ここまでお前に助けられた俺が、お前を見捨てたりはしないよ。安心して。俺はタキオンの事が好きだから」
そう言うと、机を挟んだ向かいの方からコホンコホンとわざとらしい咳が二つ聞こえてきた。だから、タキオンと田上がそちらの方を見ると、穏やかな目つきで二人を見ているマテリアルが居た。
「お二人でいちゃつくのは良いですが、私にも何か一言ありませんでしょうか?」
「ああ、ありがとうございます」と田上がマテリアルの方に頭を下げて、感謝の言葉を伝えた。
「マテリアルさんのお陰で、何とか無事に終わることができました。スマホを忘れてくださってありがとうございます」
「どういたしまして。お二人はどうするんですか?ご飯に行かなくても?」
そこで、田上は時計を見た。後十五分も経たないうちに昼食の時間は終わるようだった。だから、もう昼食は購買の物で済ませればいいか、と思ったのだけれど、その前にタキオンがこう言ったので、時間以前に昼食の事を断念せざるを得なくなった。
「もう少しここに居たい。…良いだろ?圭一君」
タキオンは、まだ、落ち込んだ声色だった。
「いいよ」
そう田上が言うと、マテリアルは、自身のスマホをもう一度手に取り、今度こそ部屋から出るためにこう言った。
「では、私はこれで」
「ありがとうございました」と言う田上の声に見送られて、マテリアルは部屋から出た。マテリアルの機嫌は結構上々だった。乱闘を演じてしまったので、少し髪は乱れたが、それでもササクレを制圧できたのは、中々の武勲だと思った。田上が感謝しても、してくれなくても、ササクレを打ち負かせたのが、中々に嬉しかった。ここ最近は、マテリアルにとっても良い事がなかった。先行きが難しそうだった二人は、完全に恋人同士としてくっついてしまっていたし、自分には彼氏が居ないし、おまけに友達らしい友達もいない。その上、トレーナー補佐として自分の存在意義に疑問を見出していたこともあったので、彼女は、久々に鬱憤を晴らせた。ササクレも中々に可哀想な子ではあった。火傷をしていなければ、見れた顔であったと思うし、その金髪も丁寧に手入れが行き届いていて、マテリアルにもほんの少しくらい見劣りはしなかった。マテリアルには、あの火傷がササクレの人生にどんな影響を及ぼしたのかは全く知らなかったが、人生は十八年かそこらで決まらないのも事実であり、ついでに、不幸な人間がササクレこの世でただ一人でないのも事実であった。今日は、これが吐き出せてよかった。ここ最近、ずっと自分の胸に溜まっていたものはこれだった。
マテリアルは、ルンルンと鼻歌を歌いながら、待たせていたリリックを迎えに行った。