タキオンと田上は、マテリアルが出て行くと、再び向かい合ってキスをしていたが、これは、タキオンの方から仕掛けたものだった。けれども、田上も受け入れる準備はできていたので、愛を込めてタキオンとキスをした。タキオンが田上にキスを仕掛けた理由は、単純に少し心細かったからだ。感情が抑えきれなくなって、暴走してしまった自分を、田上が嫌ってしまうんじゃないか、という事が田上の言葉を聞いても尚恐ろしかったのだが、田上は、タキオンを嫌うなんてことは全く以てなかった。むしろ、今は、以前より愛があふれ出て堪らない。キスをしている間も、タキオンの肩を力強く抱いてやった。そうすると、タキオンも段々段々と落ち着いてきて、二人は穏やかにゆっくりとキスをするようになった。
それから、満足の行くまでキスをすると、二人は、お互いの事を想いながら唇を離し、そして、見つめ合った。それで、タキオンが再びキスを始めようとしたのだけれど、田上がそれを拒否するという程ではないが、やんわりと断るように一歩後ろに引きさがった。タキオンは、思ったようなキスにならずに、不満そうな顔を田上に向けたが、田上はこう言った。
「お前がキスをしたいのも分かるけど、こうずっとキスばかりしていると飢えて死ぬ。それに俺はちょっと恥ずかしい」
「君が恥ずかしいのは分かっているさ。…最後だ。最後にもう一度しよう」
そう言われると田上も断る理由はないので、最後に一度長めのキスをして、タキオンと唇を離した。
キスを終えると、二人は購買に行き、それぞれのおにぎりを買って、前にそのおにぎりを食べたベンチで食べることにした。そこは、人もあまり通らないという事もあって、中々二人に適した場所だった。
二人は、おにぎりを口に含みながら、話をした。
「俺、…明日買い物に行こうと思うんだけどどうする?」と田上が言った。
「買い物?…どうして?」とタキオンがおにぎりをまた一口、口に含んで言った。
「えー、…お前の誕生日プレゼントを買いに行こうかな、と思って」
それを聞くと、タキオンは今まで平然としていた顔を急にニヤニヤ顔に変身させた。
「私の誕生日プレゼント?リングかな?婚約指輪?」
「…いや、ネックレスなんかが良いんじゃないかと思ったんだけど…ダメ?」
「いや、ネックレスもいいだろう。…お揃いにしないかい?」
「お揃いー?お揃いって言うと、…ロケットペンダントとか?」
「それもいいけど、単純にお揃いだよ」
「でも、同じ物を買ったってしょうがなくない?」
「なら、ペアのネックレスだ。何かあるだろ?」
「…でも、お前の誕生日なのに俺の分も買うの?」
「嫌なら私が出すが…」
「なら、俺が買うよ。ペアリングを割り勘は意味が分からない」
「ペアリング?」
タキオンが田上の言い間違いを指摘すると、田上はむっと顔をしかめて「ペアネックレス」と言い直した。それをふふふと笑いながら、タキオンは言った。
「別に、一つは自分の物、だなんて思わないでさ、二つを私にプレゼントとしてあげて、それを私が君にまたあげると思えば、夫婦のようで素敵だろう?」
「夫婦ぅ?…まぁ、ペアネックレス自体は良いと思うよ。誕生日プレゼントはそれでいい?」
「あわよくば、婚約指輪は?」
「婚約の時に指輪は必要?どうしても欲しいなら、また、考えるけど」
「まぁ、ネックレスでも大して意味は変わらないと思う。私はネックレスでいいよ。…で、私はそのお買い物に同行させてもらえるのかな?」
「…同行…してもいいけど、…どうする?」
「どうする?…私に何を買うか言った時点で、サプライズにはならないが」
「うーん…、…まぁ、なんだろう。ネックレスでいいか確認したかったのは事実なんだけど、お前の誕生日が来週な事を考えると、目の前で買って、それを来週までお預け…は、なんか微妙じゃないか?」
「微妙であることに間違いは無いが、君が先にネックレスを着けている所を拝むのは少し面白いかもしれないね」
「俺が先につけるの?でも、それだと、ペアネックレスの包みを破る事になるよ?」
「それも些か……。うむ。…まぁ、包み自体はいいんじゃないか?店頭で買うんだろ?もうそこで、包んでもらうのは止めてもらえば」
「でも、お前の誕生日プレゼントなんだよ?」
「うーむ、困った。……ふむふむ。…なら、いっその事、もう買ってからすぐに首に着けて、そのまま帰るかい?」
「いや、だから、そのネックレスの目的はお前の誕生日プレゼントだろ?お前の誕生日は、来週じゃん」
「うーむうーむ。……私は、君が首にネックレスを着けているのを拝みたいんだよ。だって、君、普段からお洒落のおの字もないだろ?ネックレスなんて奇特な物、君が首にぶら下げているのを見てみたいんだよ」
「…なら、俺のだけ別に渡してもらえないか、店で聞いてみる?どういう方法で売られてるか分からないけど、ペアネックレスって言うくらいだから、一まとめにして売られているだろうし」
「…ちょーっと待ってくれよ。考えを整理する。…まず、これは、私の誕生日プレゼントだ。それを明日そのままもらうとすれば、少し整合性が取れない。そして、次に、ペアネックレスであるという事だ。これは、もう決定事項のような物だから、オーケー。その次が、私が、君のネックレスを着けている姿を見てみたいという事だ。これは、やはり、興味深い事象であり、見逃すのは得策ではないが、私の誕生日プレゼントという事もあり、これも圭一君だけ少し先に着けているのは整合性が取れない。…が、これは別にいいだろう。それは私の気にする問題であり、私としては、ネックレスを着けている圭一君を第一に見てみたい」
「俺は、俺とお揃いのネックレスを着けたお前を見てみたいよ」と田上がタキオンの独り言の中に口を挟むと、タキオンは少しの間、理解できていなさそうに田上を見た後、口角を恥ずかしそうに上げた。
「言うようになったね。…表情も少し明るくなっている。…私の朝の談議が功を奏したのかな?」
「まぁ、肯定しにくいけど、それだと思う。…なんか、こう、キスをすると、…お前と『繋がっている』という事が、明確に感じれるようになった。…と言うか何と言うか」
「…それは良かった。…で、何を考えて…、あっ、ネックレスだ。えー、…私は、君のネックレス姿を見てみたいし、…その間に期間が空けば、君の姿を見ながら楽しみにもできる。君との繋がりがまた一つ増える、と。…これが良いな。私はすごく楽しみだ。来週が」
「それで決定かな?」と田上が言うと、タキオンは田上の方を向いて言った。
「それで決定だ。別々で貰えないときはしょうがない。君の下にある包みを想像しながら、四月十三日を待つとしよう」
「ああ。…じゃあ、一緒に買いに行くってことでいい?」
「それでいいよ」
「俺もその方が、一人で行くより、選ぶときの楽しみがあっていいよ」
「そうだね。君と二人であれこれ言いながら、選ぶのは私も結構楽しいと思う。…楽しみだ」
タキオンがそう言って、その話は終わり、二人はもぐもぐと残りのおにぎりを食べた。昼の一時を四分の三程過ぎた頃だった。
おにぎりの最後の一口をタキオンが口の中に放り込もうとしていた時だった。田上がこう言ったのは。
「…たださ…、明日くらいにリリーさんのトレーニングも始めたいと思っていたんだよね」
「うん?」
「もうそろそろ始めないといけないと思ってたから」
「リリー君のトレーニングを?」
「うん。……できれば、初めのトレーニングは、休日のゆったりとしたタイミングでやらせたいと思っていたんだよ。授業の始まる前じゃなくて」
「うん」
「だから、明日頃が良いのかな~、と思っていたんだけど、お前の誕生日プレゼントも買いに行かないといけないんだよ」
「そうだね。君一人ならいいが、私と一緒に買いに行くとしたら、私の授業も明後日から始まるわけだから、授業が終わってから、少し慌ただしく買いに行かないといけない事になる」
「そうなんだよ。…ゆっくりしたいだろ?」
「ああ、君とウィンドウショッピングも楽しみたいと思っていたんだけど」
「だから、明日がいいかな~、と思っているんだけどねぇ。…リリーさんにもあんまりストレスはかけたくないし。初っ端から走る事に抵抗感を持ってもらうと困る」
「うーん。…じゃあ、選択肢は、明日リリー君の予定を優先して、私の誕生日プレゼントは慌ただしく買いに行くか、リリー君のトレーニングをもっと後にして、学校生活が落ち着いたタイミングでトレーニングを開始するか、…しかないんじゃないのかい?」
「……いや、…あと一つ俺が考えていることがあるんだけど…」
「なんだい?」
「…明日の朝頃、オリエンテーションのみを軽く済ませて、で、十時頃からお前と買い物に行く。…一日中遊ぶつもりだろ?」
「君が良ければ」
「俺は、それでいいんだよ。…で、少し億劫なのが、慌ただしいって事だよ。大体、一時間あれば、ほとんどの事は済ますことができると思う。ただ、俺も少し準備をしたりするから、余裕をもって十時の三十分前、九時半には、オリエンテーションを終えることが望ましい。すると、八時半から開始になるというわけだから、俺が起きるのは、七時半くらい。…案外余裕だな」
「私も一緒に行こうか?」
タキオンがそう提案すると、田上が不図タキオンの顔を見つめて考え込んだ。タキオンがその顔を見つめ返したのだが、両者見つめ合うだけで一向に話さなかった。
それで、田上の考えがまとまった時に、彼が口を開いた。
「…いいの?」
「いいとも。何か問題があるかな?」
「…いや、…俺もそっちの方が嬉しかったんだけど、お前が居なくてもできる事にはできるし、お前を、教える事に利用させてもらうって事がどうもね…」
「それなら、別に相談するくらいの事をしてくれよ。私たち夫婦だろ?」
この言葉に、田上が少し口角と眉を上げた、恥ずかしさを堪えている顔をして、タキオンを見つめた。すると、タキオンは、その顔を「私が何か言ったかな?」と平然としている顔で見つめ返した。二人は暫く、見つめ合ったままでいたが、先程よりも早く田上の方が口を開いた。
「タキオン」
そう言うと、田上はタキオンに体を寄せてその顎に手を添えた。それで、タキオンも次に何をするのかが分かったので、ただ田上の方に顔を向けて、目を瞑った。唇に今日は何度も感じた柔らかな感触がして、そして、思ったよりもすぐに離れた。タキオンは、少し物足りない顔をしながら田上の顔を見つめて、少しだけしかめっ面になっていた。ただ、これは、本気のしかめっ面ではなく、どことなく物悲しさを感じるしかめっ面だった。
その顔をしながら田上は言った。
「お前が、俺の恋人で良かった。…ありがとう」
「今まで何回も聞いたよ」
「何回でも言うよ。お前が、俺の事を好きでなければ、俺は今頃どうなっていたのか分からないから。…ありがとう。タキオン」
「どういたしまして。…もう君も本当に大丈夫なようだね。…また、話しにくい話で申し訳ないが、子供はいつになるのかな?君も私の事を想ってくれているだろ?」
「…いや、…まぁ、ちょっと待たないといけないけど、引退か……そこら辺だろうな。…引退まではできないけど良いだろ?」
「まぁ、良いとも。私もなんだか走れるような気がしてきたし。…宝塚は走ろうかな?」
「走る?…走りたいのか?」
田上がそう聞くと、タキオンは少し目を逸らしつつ言った。
「…走るつもりではあるよ」
田上は、その様子にしっかりと気が付いてはいたが、今は無理に問い詰めるという判断をせずにこう話した。
「まぁ、お前が走れるならそれでいいけど、今度こそ、俺が支える番だ。今まで苦労掛けた分を全部取り戻す。絶対にお前と一緒に走るから」
タキオンは、その話を聞くと、苦笑を顔に浮かべた。
「別に、そんな熱心にならなくても…」
「いいや、やるときゃやらないと、男としての名が廃る。今まで、本当にお前に苦労を掛けたんだ。その事は分かってる。分かってるからこそ、お前に報いないと俺の気が済まない」
「まぁ、そんなに言うんだったらいいが、ちゃんとできるかな?」
タキオンにそう問われると、田上は今まで体に入れてた力を抜いて、少し笑ってから言った。
「お前の支えになれればいいんだ。それ以上の事は、あんまり考えてないよ。…ただ、お前の支えになって、お前がニコニコ笑って暮らせれば、俺はそれが一番好きだ」
タキオンは、田上の話を聞くと、一瞬きょとんと不思議そうな顔をしたが、次に半ば恥ずかしそうにしながらもそれを堪えて言った。
「君も妻をしっかりと想ってくれるのであれば、それが嬉しいよ」
それから、二人は暫くふふふと笑い合ったが、田上が次にはこう言った。
「そう言えばさ」
「なんだい?話がコロコロ変わるね」
「さっきの話に戻るだけだよ。…値段って…どんなもんだろう?」
「値段?ペアネックレスのかい?」
「ああ」
「うーん。…私も、まぁ、ネックレスは色々調べたことがあるけど、千差万別ではあるよ。…気に入ったのを買うんだろう?」
「…そのつもりではある」
「なら、十万でも二十万でも買ってみればいいんじゃないかい?」
「二十万!?無理無理。俺にはそんな高い買い物はできない」
「それなら、結婚指輪はどうするんだい?高い物を買うつもりではあるんだろう?」
「結婚指輪?………高いの?」
「……千差万別なんじゃないのかい?…さすがの私も結婚指輪の値段は調べたことがないよ」
「…まぁ、今は、ネックレスの話だ。…二十万は、…さすがにしないよねぇ?」
「いや、ブランドの店に行けばそれくらいはするだろ」
「……ブランド物がいいの?」
「別に、欲しいものであればそれでいいんだよ。例え、百均のだって気に入ればそれでいいさ。…私は、君とそういう…買い物をしたいんだよ。一緒に気に入る物を見つけよう?ブランド物じゃなくていい。君との思い出の品という物であれば、私は何にも代え難いから」
タキオンにそう言われると、田上は少しの間黙って考え込んでいたが、やがて、こう言った。
「…分かった。…分かった分かった。…明日は、一緒に行こう。十時からだ。十時に…トレセン学園を出て、で、…駅から、前のクレープ屋のショッピングモールに行こう」
「いいとも。そうしよう。十時だね。…で、その前に、私もリリー君のオリエンテーションに協力しないといけないわけだから、…何時だっけ?」
「八時半。それくらいには終えないといけない事になる」
「…三十分前だろ?…シャワーを浴びるには充分か?」
「シャワー?」
「…いや、私がお手本として走る事にはなるんだろ?なら、汗を掻くかもしれないじゃないか。そうなると、私も汗臭いままで君と出掛けるのは少々気掛かりだから、シャワーを浴びておきたいわけだよ」
「多分、そんなには走らないと思うぞ」
「それならそれでいいが、…まぁ、それでいい。他に伝えるべき事はないかな?明日の予定に抜かりがあると困る」
「…ネックレスもクレカで払える…。明日は、十時にトレセンを出る…。八時半にリリーさんのオリエンテーションを始めて、九時半に終わる。…門限までに帰ってくる。…ざっとこんなもんじゃない?」
「それに、私は君の体調を気遣わないといけないのを思い出した。つい一昨日みたいに熱を出されても困るからね」
「さすがに、疲れも少しは取れたよ」
「いいや?…どうなのか分からない。君、昨日も今日も少し忙しかったはずだ。今日は、特に、君に心的ストレスをかけてしまったし。…おいで、少しの間私の膝枕で休みたまえ」
「ええ?…お前だって、少しは疲れてるはずだよ。お前こそ、たまには休まないと。…俺は大丈夫だよ。それより今は、お前の方が心配だ。…今まで俺の世話ばっかりで疲れてたんじゃないのか?もう、本当に俺は大丈夫だから。…俺の膝枕で休む?あんまり良いものじゃないかもしれないけど…」
田上の提案を聞くと、タキオンは僅かに迷うそぶりを見せた。今まで田上の顔に向けていた目を一瞬だけ、膝の方にやった。しかし、その後に出てきた言葉はこうだった。
「いや、君が休んだ方がいい。私ならウマ娘だし、体力は人一倍あるから大丈夫だ。…おいで」
「いやいや、俺だって体力は人一倍ないにしても一昨日に熱を出して、お前としっかり休んだんだ。休んだ!お前と一緒に休んだ!これは、お前も知っている事実だ。十分休めたし、お前のお陰で大分心も楽になった。今度は、お前が休んでもいいんだよ」
そう言って、田上が自分の膝枕の方を誘導するように見つめると、タキオンの視線も段々と田上の太ももへとずれていった。大して柔らかそうではなかったが、男らしい重厚感は有り、タキオンには何だかそこが魅力的な場所に思えた。それでも、タキオンはまだ思うところがあったので、田上を見つめたのだけれど、田上が優しく「いいよ」と語り掛けると、タキオンも迷いながらもその膝へとそろりそろりと頭を下ろした。
タキオンは田上の膝枕に頭を乗せ、ベンチを占領して寝転がった。すると、不思議な事に段々と笑いが込み上げてきた。別に、下から見上げる田上の顔が可笑しかったからでも首筋を撫でる自分の髪の毛がくすぐったからでもない。ただ、田上の太ももの上に乗っかってみると、青く澄んだ空とそれを覆う木の葉と自分の愛すべき人である田上の顔が見えた途端、不思議と笑みがこぼれ始めたのだ。タキオンは、ふふふふと笑い出すと田上に言った。
「不思議だ。不思議だよ。君のただの膝枕なのに可笑しくて可笑しくて堪らない。ククク。…ああ、良かった。私も良かった。君が私の恋人で。君と私がパートナーで。…これ程良かったと思った事はない。可笑しい可笑しい。本当に、君の膝枕というだけの事なのに、笑いが止まらないよ」
田上は、それには何も答えないで、ただタキオンの髪の毛を撫でてやった。すると、また、タキオンはクスクス笑い出して、田上にこう言った。
「良い男だ、君は。こうして私に報いてくれるんだから」
そう言うと、タキオンは、覗き込んでくる田上から垂れさがった前髪を、手を伸ばして無邪気に触った。田上は、今度はふふふと笑ってからタキオンに言った。
「お前も良い女だよ」
それから、田上もタキオンの前髪を触って、その顔が露わになるようにした。タキオンは、恥ずかしそうに口元を歪めたが、田上は相変わらず、愉快そうに口元に笑みを浮かべたままだった。
そして、二人は何度かキスをし、話をした。「君の膝枕は一月の時以来だね」だったり、「もう四月だね…」だったり、他愛ない話をした。その後に、タキオンは眠りに就いた。すやすやと恋人の膝の上で安らかな眠りに就けた。ここ最近のタキオンの眠りの中で、一番の安らかさであったことは間違いがない。子守歌は、田上の低い声だったし、枕は田上の太もも、頭を撫でてくれるのは田上の大きな手だった。それはそれは楽しい眠りだった。田上もそのタキオンの顔を微笑ましそうに見ていた。愛おしい顔だ。手放し難い可愛い顔だ。その可愛い顔は、今は楽しい夢でも見ているのか、ニヤリと笑っていた。
長閑な春の日和である。田上とタキオンはそのベンチの周辺で遊んですごした。結局、タキオンは眠りに就いた三十分後くらいには目を覚ました。しかし、その後が元気一杯で、田上を振り回しつつ、二人で愉快に過ごした。服が草まみれになるのも構わずに芝で転げ回ったし、稀に近くを人が通っても変わらずに笑ったり転げたりしていた。
そして、暗くなると、二人も別々の寮へと分かれる事になった。その時に田上がこう言った。
「確か、家族寮自体は、別に何か条件があったわけじゃないから、もう少し生活が軌道に乗れば、そこに二人で移り住んでもいいかもな」
その話にタキオンはにっこりと笑って頷いた。
その後に、二人はお別れのハグをタキオンの寮の前ですると、別々に分かれてそれぞれの部屋へと帰った。
部屋に帰ると、タキオンはデジタルに嬉々としてこう報告した。
「圭一君が、私と二人で家族寮に移っても良いかもしれないという提案をしてくれたよ。多分、まだ彼も色々とあると思うから、先の事にはなるとは思うけど、それでも、その話が彼の口から出たこと自体が私は嬉しいよ」
口調は、幾分落ち着いていたものだったけれども、確実に嬉しさを一杯にしている声色ではあった。これには、デジタルも今年一番の衝撃を食らってしまい、鼻から血を噴出させた。それで、一時場は騒然としたのだけれど、デジタルは右手を上げ、拳を作り、そこに揺ぎ無い親指を上へとそびえ立たせると、死にそうな声でこう言った。
「了解です…。天に召しますは、我が命。如何なる時もあなたのお傍に…」
そう言ってから、まさか死ぬわけではなかったが、デジタルが風呂に入るまでその鼻血は止まらなかった。
タキオンは、喜びの有頂天へと達していた。人生でこれ程喜びに満ちた時間も無かっただろう。自分の足の脆さが克服できた時だってこんなには喜ばなかった。全ては、田上に費やした努力と時間が全て報われたからだった。
喜びの有頂天へと達した彼女は、今はもうふわふわとした心地だった。やがて、眠りに就くが、明日もそのふわふわした心地は続いているだろう。今はもう、彼女の喜びを止める術はなかった。暗い闇も惨めな恐怖も今の彼女は、気付きすらしないだろう。
しかし、気付きもしない暗い闇が、その日、田上の枕元へ舞い降りた。