二十三、タキオンの誕生日プレゼント
トレーナー室の引っ越しのあった日の夜。田上の下へ研究室に巣くっていたはずの『悪意』が訪れた。しかし、田上は全く『悪意』の存在なんて知らないし、姿かたちも分からない、どんな声をしているのか分からないので、初めの内は気付きもしなかった。
『悪意』は、田上の夢の中へと現れた。田上の夢は、タキオンとピクニックをしている夢だった。その夢は、今日のような長閑な春の日で、まだ小学生だった時分に母親とピクニックに行った思い出を彷彿とさせた。すると、母親も出てきた。田上は、多少怯えながらも母親にタキオンの事を紹介した。母親は、タキオンの事をチラと見た限りで、後は、田上に向かってこう言った。
「今日はピアノのレッスンじゃなかったっけ?」
田上は、タキオンの事について何も触れられずに愕然としたが、そこで、タキオンが田上を庇う為に出てきた。
「今日は、ピクニックをするために出てきたんだよ!」
そう言われると、田上の母親は、黙ってその場を去って行った。
何とも言えない空気が流れた。夢がまるで止まってしまったかのような雰囲気だった。タキオンは微動だにしないし、草はそよともさやがない。田上の意識は段々と、また深い眠りへ引きずられるか、覚醒へと向かうのかという心地がしたのだが、そのどれでもなく、ただ、背景としてベンチに腰かけていた灰色のパーカーのフードを目深にかぶった男が自分に近づいてくるのが分かった。
田上は、まだ夢が続いているのかと思って、その男に「あなたは誰ですか?」と聞いた。男は、何も答えずにまだ、田上の方へと近づいてくる。
そして、男が目の前まで来ると、立ち止まってそのフードをとった。そこにあった顔は、田上をうんと陽気にしたような顔だった。眼鏡は外しているし、髪は染めている。ピアスもしていれば、髭もお洒落に整えていた。しかし、骨格や目鼻立ちは紛れもなく田上そのものだった。
ただ、何よりも灰色のパーカーの方の田上を陽気にさせていたのはその表情だった。それは、まるで別人だと見紛うほどにニコニコとしていて、田上は、それが自分だと気が付くまで数秒は掛かった。その後に、目の前にいる人が自分だという事に気が付くと、田上はうんと警戒して言った。
「誰ですか?」
男は田上の質問には答えなかった。ただ、「タキオン」と呼ぶと、タキオンがその自分の顔の紛い物の方へと歩いて行って、その隣に寄り添うようにして立った。すると、田上の心臓が急に飛び跳ねて、顔からは汗が噴き出した。田上は激昂寸前の表情になったが、何も言わずにタキオンの方を見ると、今度は、タキオンが田上への方へと寄り添った。それで、男は、また「タキオン」と呼んだけれども、今度はタキオンもそちらの方へとは行かず、変わらない表情で田上の横へと寄り添った。男は、悲しそうに「こっちじゃ無理か…」と田上の声で言うと、田上の方に向き直って再び言った。
「こんにちは」
田上は、自分の声で語り掛けられているものだから、警戒心剥き出しのまま何も答えなかった。その事に気が付くと、男は声色を少し変えて言った。
「田上君だよね?」
「……ええ。……あなたは誰ですか?」
「俺?…うーん。特に、決まった名前を付けられたことはないけど、…あの黒い髪のお嬢ちゃんは俺の事をなんて言ってたかな?」
田上は、黙ったまま、隣のタキオンの手を固く握りしめて、警戒を解かないでいた。それには構わず、男は独り言のように話を続けた。
「えー…、確か、…あれだ。…悪意!酷いよなぁ。俺だって好きでここに居るんじゃないんだぜ?」
「なんでここに居るんですか?」
「なんで?…場所を変えよう」
そう言って、男がカッと口の中で舌を鳴らすと、田上と男の間を境に、男の方の空間が真っ白へと変色していった。影も物体も何もない世界。そしてまた、男が指をパチンと鳴らすとこげ茶色の木のベンチが現れ、男はそれに座った。
田上の方は、何も変わらず長閑な春の陽気がそこにはあったが、やはり、男の方まで行くと真っっ白となっていた。
男はベンチに座ると言った。
「君も座らない?立ったままだと話づらいだろ?」
田上はそう言われて、少し迷ったように視線を自分の足元へと迷わせたが、恐る恐る下手な指パッチンをやってみた。すると、タキオンと田上の分の椅子が二つ現れた。田上は、隣のタキオンを見ると、手を放して別々の椅子に座り、あの男と向かい合った。男と向かい合うと、不思議な事に、田上たちとその椅子以外を残して世界は真っ白になった。だが、その男は顔をしかめて言った。
「お前、その幻と一緒に俺と話すの?」
男が「その幻」と言ったのは、田上の隣のタキオンの事だった。夢の中なので、当然と言えば当然なのだが、田上はそう言われて初めて、ここが夢の中であることに気が付いた。今までは、夢か現実など念頭になく、何にも理解はしていなかった。田上は、驚いたようにタキオンを見つめると、タキオンもまた田上を見つめてきていた。その目は優しく微笑んでいた。そこで、田上はまた、男の方に向かい合うと言った。
「現実のタキオンの方にも後で話す。…悪意?カフェさんが言っていた?」
「そうそうその悪意」と男は、鼻毛を抜きながら答えて、それからクシュンとくしゃみをした。そして、立ち上がると続けた。
「悪意って呼び方止めない?非常に不愉快だよ?」
「じゃあ、なんですか?」
「何?…何って聞かれると…。田上君、何か案を出したまえ」
「幽霊?」
「厳密には俺は幽霊ではなくて、『存在』だ」
「じゃあ、何が存在しているんですか?」
「何?また何かい?…俺はなんにでもなれる。例えば、動物だったり」
男がそう言うと、椅子を立ち上がり、途端に大きな鬣に大きな図体をしたライオンになって、これまた大きな吠え声を一つ出した。かと思えば、また人間に戻りこう言った。
「例えば、暗闇にだってなれる」
すると、男の体は消え失せ、代わりに大きな暗闇が真っ白だった世界を覆った。暗闇はすぐに引いて、また同じ所に男は立っていた。そして、次のように言った。
「だから、俺に具体性という物はない。ね?だから、俺に名前を付けてみてくれよ。お前につけてみてほしいんだ。あの部屋をあんな使い方をしたのは初めて見たぞ。それに、あんな風に、主人でもないただの女の子に尽くしている男も初めて見た。お前は一体何なんだい?」
今度は田上が質問される番だったが、田上は顔をしかめるとこう返した。
「俺だって何でもない。田上圭一としてこの世に生まれただけだ」
「この世ってどの世だい?ここは夢の世界だぜ?お前はこの世界で生を受けたのかい?」
「…いや、俺の生活している世界がこの世だ」
「そうか…。じゃあ、俺とは違うわけだ。俺の生まれた世界は、夢と繋がっている世界だ。厳密には夢の世界ではなくて、夢の世界の『狭間』と言った方が正しいかもしれない。多分、奴も俺と同じ出身かもしれない」
「奴?」
「…あれだよ。…あの、お前の世界に住んでいる黒髪の子と仲が良い奴」
「…カフェさん?」
「のあれだな。あの黒髪の子は、一人で良く喋っているだろ?それのあれだ」
「あの、カフェさんがトゥルースって呼んでいる幽霊?」
「そう幽霊。…幽霊?…どうかな?奴はただの幽霊かな?俺にはそう思えないけど、奴は、俺と同じくらいには秘密主義だ。全裸で歩くようなことはしない。絶対に何処かを衣服で覆っている」
「トゥルースさんがどんな姿か知ってるのか?」
田上は、少し好奇心が湧いてきて、男にそう聞いてみたが、男はにやりと笑うと田上にこう返した。
「奴の姿なんてのは分からない。奴だって姿は変える事のできる可能性がある。あの世界じゃ、誰も本当の姿なんて分からないのさ。…尤も、お前の世界だって本当の姿は分からなさそうに見える。…田上君、…君は、その隣の女の子は信用できるのかな?」
男は、タキオンの方を顎で示して見せた。それで、田上がタキオンの方を見てみると、タキオンもまた田上の方を見てきていた。だが、今度は微笑む事のできる時間が発生する程に見つめ合う事はせず、田上の方から目を逸らして男に向かって言った。
「信用できる。俺は、タキオンの事が好きだ」
「そうかそうか。幸せそうで何よりだ。…で、俺の名前はどうかな?『タキオン』にしてみて良い?」
そう言われると、田上は顔をしかめて言い返した。
「その前にその顔を変えろ。いつまで俺の顔でいるつもりだ」
「ええ…。良い顔じゃない?陰気臭いお前の顔から脱却した、言わば、お前の望む顔だぞ?」
「俺はそんな顔なんて望んでいない。見ていて気持ち悪いだけだ。止めろ」
「おやおや、田上君。君、夢の世界だと嫌に強気だねぇ」
「お前が怖いだけだよ。お前は、一度、俺たちに何かしようとしただろ。警戒するのは当然だ」
「警戒するにしたって、普段の田上君とは大違いじゃないかい?…もしかして、君、そのお隣の女の子に良い所を見せようと頑張っているのかな?」
「…別に、恋人の前で強気になって悪いか」
「でも、それは恋人じゃないよ?ただの幻だ」
そう言って、男は指をパチンと鳴らした。田上は、タキオンに何かあったんじゃないかと思って、慌てて左隣の方を見やったが、タキオンは先程と同じように田上を見つめてきていて、ほっと胸を撫で下ろすことができた。
男は残念そうに言った。
「やはり、田上君の夢では無理なようだ。…では、君のご注文通り別の姿へ変わってあげよう」
それで、男は変身するために体の原型を無くしたのだが、その際の最後の表情が田上には気に掛かった。今までの陽気そうな表情の中に、意地悪な笑みが浮かんでいた。その表情について田上がなんだろうと思っていた束の間、男は田上の驚愕する人物へと姿を変えていた。それは、田上の中学時代好きだった人だ。肩くらいの長さの黒髪にパチリとした目、快活に笑う口元。完全に本人だった。田上は、驚きのあまり立ち上がって、聞いた。
「お、お前!その人」
「お前なんて呼ぶなよ圭一!あの時は悪かった。あいつらとは綺麗さっぱり別れることにしたよ」
「どの時だよ!」
「お前が告白してくれた時。私嬉しかったんだよ。本当は両想いだったんだぜ」
「で、でも、…でも、……ああ!待ってくれ!お前こんなことして何が楽しいんだ!名前を付けてもらいたいんじゃないのか!」
「名前?私の名前は、青葉(あおば)だけど?…そうか、お前と結婚すりゃ、田上青葉になるな」
「うるさい!お前の事なんてもうどうでもいいんだよ!なんで今出てきた!」
「お前の事が好きだからに決まってるじゃん。もう一回あの時の告白をやり直そうぜ。お前のあのバカ科学者の事なんて忘れてよ」
田上は、そう言われて突然にタキオンの事を思い出して、慌ててそちらの方を見やった。タキオンは、不思議そうな顔をしてこちらを見てきていた。それで、田上がタキオンに呼び掛けようとしたその時に、青葉が指をパチンと鳴らして、今度はタキオンは風景にかき消されて見えなくなった。
田上は、いつの間にか中学生時代の、大内県の竜之終町へ転校する前の自分へと戻っていた。学ランを着て、青葉を目の前にして立っている。右側からは夕日が差してくる。ここは、放課後の学校の三階の渡り廊下だ。渡り廊下の続いている校舎の方からは、生徒の話し声やざわめき声が聞こえる。丁度、あの時だった。まるで、タイムスリップをしてしまったかのような感覚に陥った。青葉を目の前にしてみれば、あの日の感覚が蘇り、自分の心臓の高鳴る音が気になる。しかし、同時に全てを知っている自分も居て、青葉の背後の渡り廊下の奥が気になった。青葉の交際相手達は、あのドアの影に隠れて自分たちを覗き見していたのだ。趣味が悪い事この上なかったが、同時に気付けなかった自分も中々に間抜けだと思った。青葉は、あの日と同じようなからかうような目で田上を見つめてきている。田上の心も段々段々と、その日へと戻っていく。田上は、戻りたくない戻りたくないと思って、必死に意識を保とうとしていたが、夕日の暑さはその意識をかき消すようだった。
「渡り廊下に呼び出されたけど何の用?」と青葉が、田上の顔を覗き込みながら聞いた。田上は、まだ、意識が微かにあったのだけれど、その目に覗き込まれると、とうとう意識は消え失せた。だから、田上はあの日のようにこう答えた。
「あいつらが、うるさかったんだよ。俺は、どうでも良かったんだけど、もうすぐ転校するからって……」
「ふぅん。…それで?」
「……大変申し訳なくて、気持ち悪いかもしれないんだけど、……もう母さんと一緒に大内県に引っ越すから会えないし、俺、スマホ持ってないから連絡先も交換できないし、……それでも、少しはアレだったから言うけど、…………」
田上の言葉は出てこなかった。夕日が妙に暑く感じる。額には少し汗もにじんでいる。五感が奇妙に張りつめているが、声だけはなかなかどうして緊張して出てこなかった。それでも頑張って、頑張って、頑張って、ようやく田上はその言葉を口にした。
「好きです」
途端に、渡り廊下のドアの陰から笑い声がゲラゲラと聞こえ始めた。田上は、呆然としてその方を見つめた。いつも、廊下などで、ふざけて笑っていたあまり心地の良くない声が、今はもっと気持ち悪く聞こえた。その声のする方角には、サッカー部やバスケ部のいつも一緒につるんでいる背の高い奴らが居た。他のクラスの奴で、名前は人伝にしか聞いた事がない奴らだ。田上は、なんでそんなに笑われているのか分からなかった。そこに人が居る事にも驚いたし、どうやら笑われている対象が自分であるという事にも驚いた。青葉の方は、分かっていたようだ。仕方なさそうに苦笑しながら、奴らの方を見ていた。田上には何も理解できない。何も分からない。その様子を見た青葉が苦笑しながら言った。
「ごめんね。私、彼氏がいるの。桐龍(きりゅう)君と付き合ってるの」
途端に、田上の顔は火が出ているんじゃないかと思うくらい熱くなった。碌に考えをまとめる事もできず、「ああ、そう…」と言うと、近くに置いていた自分の鞄を背に負って、何かに追われるように、一段飛ばし、二段飛ばし、三段飛ばしで階段を駆け下りて行った。
未だに状況は掴めていなかった。田上の目は見開かれたまま、ただ無心に階段を駆け下り、靴箱まで行き、そのまま走って学校を出た。学校を出た後も、田上は走り続けた。いつ止まればいいの分からなかった。止まれば、冷静に物を考えようとしてしまう。物を考えれば、全てが分かってしまう。止まりたくなかった。走って走って走って走って、いつまでも息は続くかのように思えた。しかし、ある時、目の前にタキオンが現れて、田上は立ち止まることができた。その途端に、田上の体は、学ランを脱ぎ捨て、元のトレセン学園に住んでいるトレーナーに戻った。
タキオンは、「圭一君、そんなに慌ててどうしたんだい?」と言いながら近づいてきた。勿論、田上はどうしようもない気持ちに襲われた。今大好きなのは、タキオンのはずなのに、事もあろうか昔好きだった人に今告白をしてしまった。田上は、タキオンにどう近づいたらいいものかと考えあぐねたが、そんな事には構わずタキオンは近づいてきて、田上の右手を手に取った。
「落ち着いて言ってみてごらん?」
それで、田上も言葉を頭の中でまとめて、タキオンに話をしようとしたのだけれど、そこで、後ろから声をかけられた。
「圭一ーー!!」
後ろを見ると、青葉が追いかけてきていた。田上は、もう二度と青葉には会いたくなかったから、後ろの方に向かってこう言った。
「追いかけてくるなよ!!お前は青葉なんかじゃない!」
「青葉って誰だい?」と隣でタキオンが聞いてきたが、それを説明する暇はなかった。田上は急いでタキオンの手を取ると、「行こう!」と言って走り出した。田上の夢の中だからか、それは、車でも追いつけないくらいの速度で、田上たちは走っていた。田上は、見る見るうちに遠ざかっていく青葉を後ろの方に見やると、ハハハとタキオンの方に笑いかけた。タキオンも「速いねぇ」と感心している様子だった。それで、田上たちは最後に青葉を撒くために建物の角を曲がると、そこはまた元のように真っ白の世界になっていた。そして、そこには、青葉の格好をしているものの、不貞腐れた顔をしていた悪意が座っていた。田上は、元のように悪意の前の椅子に座り直したが、今度は、新しいソファーを出してタキオンと一緒に座った。それから、田上は悪意に向かって言った。
「お前は何がしたいんだ?…楽しかったか?俺を苛めることができて」
「…楽しかったかもな。次は、その女の子の所に行ってみるよ」
悪意がそう言うと、田上は眉を寄せて言った。
「お前、そんなことしたら絶対にぶん殴るからな」
すると、今まで不貞腐れていた悪意は、目を上げ、田上とタキオンを見て、お道化た様に言った。
「おお、夢の中だといつになく強気だねぇ、圭一君」
その声が、タキオンの声に変わっていたので、田上は嫌そうな顔をして言い返した。
「金輪際そんな事はするな、気持ち悪い。お前は一体何なんだ。何がしたいんだ?悪意という名前が不愉快だって言ってたけど、そう呼ばれる所以がお前にはあるんだろ?」
「俺は、何でもないさ。何にでもなり損ねたやつと言ってもいい。悪意と呼ぶならそう呼ぶがいい。物にはそれ相応の名前がある。俺もきっとその程度の名前なのだろう。いいさ、分かった。今日の所はもう無理だ。女子高生を誑かして、幸せ一杯の田上圭一君には敵わないようだ。じゃあね、圭一。また来るよ」
「二度と来るな」という田上の言葉が聞こえたかそうでないかの内に、悪意は青葉の格好のままで姿を消した。辺りは、白い世界のままシンと静まり返った。いよいよ、夢ももう終わる時だ。その時に、横でタキオンがこう言った。
「眠たいよ」
黙って青葉の居た所を見ていた田上だったが、その言葉を聞くと、優しく返した。
「ああ、分かってるよ。お前はここで眠れ。…俺が、また夢でお前を必要になったらよろしく頼むよ」
「了解。元気でね」
そう言うと、タキオンは、田上が立ち上がって退いたところに、自分の体を置き、ソファーの上で横になった。そして、すぐに眠りに就いた。田上は、その寝顔を微笑みながら見ると、自分はどこへ行けば目覚めることができるのか、と辺りをきょろきょろと見回した。やはり、何かあるわけでもなく、扉があるわけでもなく、ただの真っ白の世界だ。暫く、タキオンの眠っているソファーからあんまり離れないようにしながら、ぐるぐると辺りを歩いてみたが、何も見つからなかった。
だから、中指と親指で下手な音を鳴らして、扉を空間に出してみたのだけれど、それは出てきた途端に、ただの扉としてパタンと地面に倒れたのみで、何にもならなかった。それで、田上もどうすればいいか分からなくなり、疲れも溜まってきて、タキオンのソファーの下へと戻った。タキオンは相変わらず、安らかに眠っていた。そこで、疲れたので自分も寝ることにした。ただ、新しいベッドを作り出す気にはなれず、かと言って、タキオンと同じソファーで眠る気にもなれなかったから、タキオンのソファーの前の床で寝ることにした。固くて平たい床だったので、多少寝心地が悪かった。それでも、いつかは寝られるだろうと思って、暫くごろごろとしていると、唐突に上からフワッと毛布を掛けられた。見るとタキオンの毛布だったので、田上は上半身を起こしてタキオンの様子を窺った。タキオンは、田上の思った通り、ただ毛布を落としたのではなく、やっぱり起きていて、片目を開けると田上にこう言った。
「おいで。眠れないなら一緒に寝よう」
「ああ」と田上は返事をすると、少し嬉しそうにタキオンの横の狭いソファーの中に寝転がった。すると、案外簡単に眠りに落ちることができた。
目覚めた時には、日曜日の朝になっていた。念の為つけていた目覚ましは、まだ鳴る前の時間だった。つまり、七時十五分だ。田上は、目覚ましが鳴る十五分前に起きた。それで、すぐに眠っている間の出来事を思い出したのだが、思い出してみると、少し信憑性が怪しくなった。一応、田上の眠っている間の出来事である。眠っているからには、自分が何を考えているのかは分からない。悪意は、本当は自分の夢の中には現れておらず、自分の夢が悪意という物を具現化してしまったのではないだろうか、と考えた。しかし、それにしてはあまりに意識がはっきりとしすぎていた。ピクニックの夢のように朧げでなく、悪意と確かに話したのを覚えている。また、夢の場面が移り変わるとしてもあまりに不自然だった。あの白い世界には、夢を見ると感じるような不思議な心地はなく、ただ見たままにある白い世界だった。こう考えると、田上には、本当に悪意が来たように思えた。けれど、何故悪意がよりによって自分の下へと訪れたのかが分からなかった。結局、田上の「なんでここに居るんですか?」という質問には、悪意は答えておらず、話は先へと進んだ。故意か偶然かは田上には分からなかったが、悪意が訪れたのは全くの偶然じゃないかと思う。それか、悪意の気紛れのような気がした。気紛れであるなら、それは、少し田上にとって恐ろしかった。気紛れでここを訪れてもらわれると、悪意がいつここへ来るのか分からないから、おちおち眠りにも就けない。その上、気紛れであるなら、別に田上の所でなくてもタキオンの所へと行っても良いはずだ。それも田上にとっては恐ろしかった。悪意と話す事はできたが、全貌は掴めていない。田上の心を読んだか何処かで知ったのかは知らないが、悪意は、田上の心の中にだけ居るはずの青葉に姿を変えた。今現在の青葉は、少なからず中学の頃の姿より変わっているだろう。もう大人になって、結婚していたっておかしくない。田上にもあの転校する前の中学の友達と今も付き合いが少しはあったのだが、そういう話はめっきり聞かなかった。その友達からは、時々、「テレビで見たよ」などと電話やLANEで連絡が来るくらいだ。最後に会ったのは、タキオンと契約する一月くらい前だった。
田上は、悪意が次はタキオンの所に行ってみる、と言ったのをベッドの上で不意に思い出すと、急に心配になりだした。けれども、今はまだ七時である。約束の時間の三十分前どころか、田上の目覚ましすらなる時間ではない。それで、田上が電話を見つめて迷っている間に、目覚ましが比較的大きな音で鳴り出して、田上は慌ててそれを止めた。
七時半を過ぎた。――タキオンは起きているだろうか?いないだろうか?と田上は、スマホを見つめながら悶々としていたが、ある時、ええいと思い立つとタキオンに電話を掛けた。案外すぐにタキオンは電話に出たが、その声は非常に眠たそうな物だった。
「ふぁ~~い、…圭一君。モーニングコールを頼んだ覚えはないけど、何か用かな?」
「えー、…タキオンは、今日は夢は見なかった?」
「夢?…見ていないが」
「…そう…」
そこで、田上が次の言葉を考えていると、タキオンが言った。
「ここで夢という事は、君は怖い夢でも見たのかな?それで、不安になったから私に電話を掛けてきたと?」
「いや、そんなんじゃないけど…」
「けど?…なんだい?……もう今日は朝から忙しいんだ。あんまりのんびりもできないから、一緒に朝食をとりながら話そう?私が、着替えたら君の所に行くよ。…あんまり怖いようなら、電話を繋いでいてもいいけど」
「いや、いいよ。俺も着替える。バイバイ」
タキオンも「バイバイ』」と返すと、田上は電話を切った。しかし、すぐに着替えに行く事はしないで、暫くベッドの上に座ってぼーっとしていた。やはり、あの悪意が来たことが少し気掛かりだった。けれども、その後に自分も着替えないといけないという事を思い出すと、田上は慌てて立ち上がって、髭を剃ったり動ける服に着替えたりした。
タキオンは、田上が丁度ズボンを穿いている時に部屋のドアをコンコンと叩いたので、田上は慌てて、「は~い」と返事をして、ズボンを着なければならなかった。もう衣替えをする季節だったので、長ズボンはやめた格好にしていた。トレセンの体操服とあまり変わらない格好だ。ただ、トレセンの方は、色の選択の余地があったが、田上はただの黒い半ズボンと白い半袖のTシャツを着るだけにしていた。タキオンも色を黒で選択していたのでこれと一緒だ。色の好みが同じかは定かではないが、とりあえず、体操服は交際を始める前から同じ色だったようだ。
田上が、部屋の扉を開けると、そこには、毎年春頃になると見れる体操服姿のタキオンが居た。冬の間は、その上にジャージを着ている格好なので、それが今日取り払われたようだ。タキオンは、ニコニコしながら「おはよう」と挨拶をすると、こう続けた。
「もう準備は済ませたかな?朝食を食べに行こうと思うのだけれど」
「ああ、ちょっと待って。クリップボードを持ってくるから」
田上がそう言うと、タキオンが部屋のドアを支えて開け広げたまま、彼は部屋の奥の方へクリップボードを取りに行き、そして、戻って来ると言った。
「行こう。俺も少し話したい事があるんだよ」
それから、二人は手を繋いで、修さんと節子さんが作っている食堂へと出かけて行った。
田上とタキオンが、それぞれ自分の朝食を乗せたお盆をもって、長机の隣へと腰かけた。その座った時の距離が、あまりに近かったから田上は、口角をこそばゆそうにニヤリと上げた顔をして、隣のタキオンを見たのだけれど、タキオンの嬉しそうな顔を見ると、また黙って前を向き、両手を合わせて「いただきます」と言った。タキオンもまたそれに倣って「いただきます」と言って、朝食を食べ始めた。
田上は、初めは話す気があまり起こらずに、黙っていたのだけれど、田上が白飯を二三口食べ始めた時に、タキオンが聞いてきた。
「君、夢を見たんだろ?どんな夢だったんだい?聞かせておくれよ」
そこで、田上は一度隣のタキオンを見て、少し考えてから、茶碗を置いてタキオンを見ながら話し始めた。
「…夢。……まぁ、夢なんだけど、…何て話せばいいかなぁ…」
「ただ夢の話をすればいいだけだよ?」
「…ただの夢じゃないんだよ。…何て言えば…」と田上が悩んでいると、タキオンがこう提案をした。
「まず、初めに起こった出来事を話してごらんよ。夢には違いないんだろ?」
「じゃあ、…まず、一番初めに、…お前とピクニックをしている夢を見た」
「ほう。…嬉しいねぇ」
「ピクニックをしてたら母さんが出てきて、――ピアノのレッスンがあるんじゃないの?って言ってきた。いや、その前に、俺がお前の事を母さんに紹介した。そしたら、それを無視されて、ピアノのレッスンがあるんじゃないの?と言ってきた」
「…ふぅん」
「で、そこで、夢じゃなくなった」
「……夢じゃなくなった?…なら、何になったんだい?」
「それは、俺にもあんまり分からない。分からないけど、…お前は思い出したくないかもしれないけど、悪意が…来た?」
「悪意?…あの…変な奴かい?」
「そう。…あんまり信憑性は無いんだけど…」
「それで、その悪意はなんて言ったんだい?」
「…悪意は、俺の姿をしていて、…そこはまだピクニックの夢の時と同じなんだ。俺が、背景だと思っていた、ベンチに座っている男が急にこっちに来たんだよ。それで、その男がフードをかぶりながらこっちへ来た」
「フード…」
「俺は、なんか変な気分だった。夢が続いているのかいないのか分からない変な気分だった。…でも、その男がフードを取ると嫌な気分になった。その男の顔が、変に陽気な俺の顔だったから」
「君の顔?どんな顔だったんだい?」
「えー、…髪は染めてて、ピアスつけてて、…そんな感じの人」
「君とは正反対って事だね?」
「そう。で、タキオンもまだそこに居て、どちらかというと呼べば来る人形に近くて、悪意がお前の事を呼ぶとそっちに行った。それで、俺もちょっとお前が俺以外の人の傍に居るのが嫌だったから…」
田上が言いにくそうにそう言うと、タキオンがこれまた嬉しそうに口角を上げて、「嫌だったのかい?」と聞いてきた。
「…お前も嫌だろ?俺が他の女の人と肩を寄せているのは」
「まぁ、話し合う必要は出てくるね」
「嫌だろ?」
田上は、タキオンにどうしても「嫌」と言わせたくて、もう一度そう聞いた。すると、タキオンもその意図を汲み取って「嫌だねぇ。…少し嫉妬もするだろうね」と答えた。
「まぁ、それだから、タキオンにこっちに来てほしいと思ったら、タキオンもこっちに来たんだよ」
「ふむふむ」
「…長くなるな…」
「いいよ。君の話せる分だけ話してくれ」
「…まぁ、それで、悪意の方が――場所を変えようって言って、舌を鳴らすと、俺とその悪意との間を境に、悪意の方だけ真っ白の世界になった」
「ほう。…真っ白?」
「真っ白。何もない。影もない。そして、その後に悪意がパチンと指を鳴らすと、椅子が出てきて、悪意はそれに座った」
「ふむ。魔法のような物かな?」
「魔法…と同じなんじゃない?夢の中だし。…それで、俺もそれを真似して指をパチンと鳴らしてみると、俺も椅子を出せたんだよ。それで、お前と俺の分の椅子を出すと、そこに悪意と向かい合うように座った」
「…私もいるのかい?」
「…そりゃあ、夢だけど、心細いだろ?お前が傍にいた方が俺も安心したから、お前と一緒に俺も椅子に座った。すると、俺と悪意の境で分けられていた真っ白の世界とピクニックの世界が、一つになって、ただ世界が真っ白になった。その後に、俺と悪意は話をした。俺は、少し怖かったから色々質問をしたんだけど、…悪意はあんまり良く分からなかった。…まず初めに、…確か、俺が――なんでここに居るんですか?って聞いたんだよ。そしたら、世界が真っ白になった」
「ん?…じゃあ、つまり、君が――なんでここに居るんですか?と質問した後に、君と私は椅子に座ったという事でいいのかな?」
「それでいい。…で、悪意が俺とお前が一緒に居るのを嫌がったけど、結局はお前もそこに居て、次に、悪意が悪意って呼んでほしくないって言ったんだよ」
「ほう」
「だから、俺に名前を付けろって言ってきて、俺はそれに――幽霊?って答えた。すると、あいつは、――俺は幽霊じゃなくて存在だ、って言ってきた」
「存在?…存在って何だい?」
「俺も知らない。ただ、何にでもなれるって言って、ライオンとただの暗闇になった」
「暗闇、というと、それはあの時の君がキスをしてくれた時の物と同じ物かい?」
「あんなに一寸先も見えない様な暗闇じゃなかったけど、それがその悪意の力かもしれない。何にでもなれるから、幽霊じゃなくて『存在』なんじゃない?」
「……まぁ、そういう事だろうね。それが本当に悪意なのか定かではないが、君の考えならばそういう事になる」
「うん。…それで、なんかこうか話して、……あの…ね。………俺の中学時代好きだった人に、悪意がなった」
「うんん?なんかこうかって一体何だい?なんで、突然悪意が君の中学時代の好きな人になるんだい?」
「…いや、俺が、悪意に――俺の顔をするのをやめろ、って言ったんだよ。そしたら、悪意って名前の通り、俺を苛めるために中学時代の好きな人になった」
「ふぅん…。…じゃあ、当然の事ではあるけど、君が私の初恋の人ではないという事か」
タキオンが露骨にがっかりした様子になると、田上は苦笑して言った。
「初恋の人が良かったか?」
「いや、そんな事はないさ。ただ、君も昔私じゃない他の人を好きだったという時があると思うと、…少し、思う所はあるよね」
「どんな?」と田上が少しからかう気持ちでそう聞くと、タキオンは半ば余裕のある照れた面持ちで田上を見つめてこう返した。
「君も私の事が好きだろ?」
「ああ」
「そして、私も君の事が好きなわけだ」
「ああ」
「そうすると、君の過去に思う所があっちゃダメかい?ただでさえ、君は私より長く生きているんだ。だから、君の過去は想像する事しかできない。君の学生時代なんてあんまり想像できないよ。…どんな学生時代を過ごしていたんだい?友達は何人くらいいたのかな?」
「友達は、…そんな多くはなかったけど、夢の続きを話してもいいかな?」
「まぁ、良いとも。今の話も後でじっくりと聞かせてくれ。私は君の事をもっと知りたい」
「ありがとう。…それで、どこまで話したっけ?」
「…えー、君の中学時代の好きな人になったわけだ」
「そうだそうだ。……話し辛いなぁ」
「…何か未練でもあるのかい?」
タキオンが不思議そうにそう聞くと、田上は眉を寄せた。
「未練って訳じゃないけど、……後悔?に近いものではある」
「ふむ」
「……その人に俺は、……昔、……やっぱり話すのやめて良いかな?」
「気になるところではあるが、…君がそういうのなら仕方がない」と言ったタキオンの顔は、不満そうな顔をしていたので、田上は思わず苦笑してしまったが、それでも、その顔は些か気の迷いに満ちたものだった。だから、タキオンは少し田上の事が憐れになって、こう言った。
「話してごらん。私は、君の昔の好きな人なんかで、君を怒ったりしないよ」
「……まぁ、…中学の時にその人に告白したんだよ」
「ほう。告白…?結果は?」
「惨敗だったんだけど、今でも、もう少しどうにかならなかったのかなぁって思ってはいる」
「どうにか…。何があったんだい?」
「……その人、もうサッカー部の人と付き合ってた」
「付き合っていた。そりゃあ、…何と言うか、…君も残念だったね」
「もっと残念だったのが、その彼氏に俺の告白を盗み聞きされてて、大爆笑されたって事だよ」
「あら…。そこまで行くと、同情するね。…でも、良かったんじゃないかい?もし、君の告白が成功していた世界線があったとすると、私たちは出会う事すらなかった可能性がある」
タキオンがそう言うと、田上はその顔を神妙な顔をして見つめた。
「…そりゃあ、お前とこうなっているのは、偶然だけでは言い表せられないけど、それでも、その時何かもっと…もっと別の方法があったと思わないか?」
「まぁ、私たちは、幾つもの分岐点を辿ってきてここに居る。そこの分岐点が腑に落ちない事もあるだろう。…君は、自分がバカだったと言いたいんだろう?」
「…そういう事かも」
「ただ、単純に気付けなかったことをどうやって気付ければ、あの事態を回避できたんだろう、とも思っているんだろう?」
「…それもあると思う」
「その矛盾が、君には解せないわけだ。…君は、確信があってその人に告白したのかい?」
「確信は、…ただ、その時は、仲が良かったから行けるんじゃないかという希望も少しはあったけどね」
「すると、例えば、どこどこで告白しようというのは、君から言ったりしたのかな?それとも、廊下で出会い頭に告白でもしたのかな?」
「それは、俺もちゃんとするよ。あんまり人の来そうもない三階の渡り廊下で告白するために呼び出した」
「それは、君の決断でしたのかな?…少しざっくり言わせてもらうと、君は少し臆病だろ?それとも、中学時代は、大胆不敵だったのかな?」
「あんまり変わってないとは思うよ。ただ、決断は、友達に勧められたからしただけ」
「どんなふうに?」
「…――お前、行けそうなんだから告白しなよ、って感じで勧められた」
「…その友達も君の好きな人が付き合っているのは知らなかったのかな?」
「…知らなかったんじゃない?さすがに、人を騙すような奴ではなかったと思うけど」
「なら、もしかしたら、君の好きな人は交際を隠すのが物凄く上手かったのかもしれないね。私たちのように、こんな感じで話す事もなく、学校の中では一切会っていなかったのかもしれない。遊びに行く時だって、友達が居そうなところは避けて、遠くの場所に行っていたのかもしれないね」
「どうなんだろうね…。俺は、本当に全然気付けなかったんだけど、もしかしたら、他の人は気付いてたりしたのかなぁ…」
「いや、それにしてもだよ。今気が付いたが、放課後にあんまり人が来ない所に呼び出すとなればだ。大概は、交際の申し込みなんかじゃないかと気づいてもよさそうじゃないかい?よっっぽどの鈍感でなければ、その事に気が付くはずだ。それを了承して、ましてや、彼氏に盗み聞きをさせたわけだから、その女は物凄く意地悪な女じゃないかい?」
「彼氏の言いなりだったっていう可能性もある」と田上は、あの夕日に照らされた苦笑を思い出しながらそう言った。
「彼氏の言いなりにしてもだよ。あんまり碌な女じゃないよ。…むしろ、それは良い出来事だったよ。君が、その碌でもない女と交際せずに済んだんだから。もし、その女と交際していたら、変な事に巻き込まれていたかもしれない」
「交際して無くても変な事には巻き込まれてるな」
すると、タキオンが「ああ、変な夢だね」と言ったので、田上はその後にこう付け加えた。
「それじゃなくて…」
それから、含みのある目つきでタキオンを見つめると、タキオンも田上の言いたい事を理解したのか、途端に口角をにや~っと上げて言った。
「君はよっぽど私の事が好きなようだね。今から、変な事に巻き込まれて良かったと思わせてあげようかい?」
それで、タキオンが箸を置いて臨戦態勢に入ろうとしたので田上は慌てて言った。
「巻き込まれたとは言ったけど、嫌だったとは言ってない」
「おや、確かにそうだ。…でも、変という言葉は、肯定的には受け取ることは難しいんじゃないかな?」
「いやいや、変な事には違いないけど、俺は、それに巻き込まれて良かったと思ってるよ。巻き込まれなかったら、お前のトレーナーになれてない」
「それどころか、恋人にすらなれていない。嘆かわしいね。別の世界線の君はどうなっているのかが気になるよ。…で、君の夢の話じゃなかったかな?もう終わりかい?」
「いや、……これも話し辛い」と田上はさっきよりも幾分軽そうにそう言った。
「なら、私に話してみたまえよ。いざという時は、君を抱き締めてあげるから」
「抱き締める?」と田上がにやけながら怪訝そうな顔をして聞くと、タキオンは「おや、嫌かい?」と返してきたので、田上も少し困った。ここで、答えるべきなのは、「嫌じゃない」という返答だったが、生憎、正面切ってそう答えるのは田上には少し恥ずかし事だった。けれども、まぁ、昨今は言い馴れてきたことではあるので、恥ずかしくてはにかみながらも田上はこう答えた。
「嫌じゃないよ」
「嫌じゃないなら、今すぐにでも今すぐにでも抱き締めてあげようかな?」
それは、田上もさすがに御免だった。知り合いの居る食堂の中で恥も外聞もかなぐり捨てて抱き合うというのは、田上にはできない相談だった。だから、それから逃れる策を探す田ために不意に時計を見つめると、田上はある事に気が付いた。それは、リリックのオリエンテーションまであまり時間が残されていないという事だった。少し夢の話が長すぎた様だった。田上は自分らの朝食の残量を考えると、これは、朝食を早く取っておいた方がいいように感じた。だから、その事をタキオンに提案したのだけれど、せめて夢の話を手短にでもいいから話してくれと頼まれたので、田上は、躊躇いつつも最後まで話した。また、好きな人に告白した事とタキオンと一緒に走って逃げた事と、田上が一番危惧している悪意がタキオンの方に行こうと言っていたことをなるだけ早く語った。田上だって、話していて気持ちい話ではなかったからだ。それで、話し終わるとタキオンは神妙そうな顔をして言った。
「…私の所に来るのかな?」
「…どうだろう。まだ、悪意が本物だったって決まったわけじゃないし、悪意がどんなことをできるのかも知らない。…でも、人の夢じゃあれこれ好き勝手出来無さそうな感じではあったよ」
「でも、君をまた嫌な告白の舞台へと立たせたわけだろ?…私の場合だとどうなるんだろう…」
「俺が、お前の事を嫌いになるとか?」
田上がそう言うと、タキオンは机を見つめて少しの間考えた後、言った。
「君には苦労を掛けさせられたからな…。私のせいで夢がなくなったみたいなことも言われたし」
タキオンは、独り言半分で物を言ったのだけれど、それは田上にもしっかり聞こえてる。そして、田上にもしっかりと心当たりがある。タキオンに心無い言葉を何回も言っていたので、田上としては悔やんでも悔やみきれぬ思いで、これまた神妙な顔をして言った。
「ごめんな。俺が、ダメな奴で…」
そう言うと、場は妙に重たくなったのだけれど、考え事に頭を支配されていたタキオンが田上の言葉を数秒後にしっかりと頭に入れると、慌てて言った。
「ごめん。今のは君を責めたくて言ったんじゃないよ。過去は、ただの過去だ。今君と一緒に居れるなら、私はそれでいいんだよ」
「俺もそれでいい」と田上が、朧げな笑みを顔の上に浮かべたその後すぐに、田上はそのまま立ち上がりタキオンに「行こう」と静かに呼びかけた。タキオンも田上がまたこのまま過去へと逆戻りしてしまうのではないかと怯えたが、田上はただ、たった一週間ほど前の自分の行いと、タキオンの唐突なキスを思い出していただけだった。