午前中では、埒が明かなさそうだったので、二人は一旦三つ目の店を回り切らずに、昼食の為に外の方へと出た。二人は、手を繋いだままファーストフード店へと入った。特に何の予定もなかったし、食べやすいものが一番無難だろうと思って、タキオンがその店を提案したのだ。その提案を受けても田上は曖昧な雰囲気のままだった。ただタキオンの言葉に「うん」とか「わかった」とかだけで応じる人形のようだった。その様子に多少呆れつつも、店に入ったら何とかしてやろうと思って、タキオンは、ウマ娘盛りの大きなハンバーガーとポテトとオレンジジュースを注文した。そして、その横で田上がハンバーガーとオレンジジュース一つしか注文しなかったので、「もっと食べろ」とタキオンが言うと、田上用にポテトを一つ頼んだ。
それらの食べ物を持って、二人は席につくと、暫くの間黙々とそれを食べ続けた。田上は、曖昧な人間なので元より、タキオンまでも何も話さなかったのは、自分から話しかけるのに疲れたのと、圭一君から話しかけてくれないかな…という淡い期待を抱いていたからだった。しかし、その期待も呆気なく打ち破られそうな気配がしたのは、田上が早々にハンバーガーを一つ食べ終わってしまった時だった。その後のポテトは、見つめたまま手をつけようとはしなかった。だから、タキオンはもう仕方がないと思って、自分から話しかけた。
「そのポテトはやっぱり無理だったかい?」
田上は、ポテトから目を離しタキオンの顔を見たが、その顔を見るとまた悲しげにポテトに目を落としたので、タキオンはちょっと嫌気が差し来た、という調子で田上に言った。
「そのポテトはやっぱり無理だったのかい」
少し強めの口調だったので、田上も口を開いて「いや、食べるよ…」と答えた。しかし、タキオンもその答えだけで満足できる気持ちにはもうなれなかったので、田上にこう問い詰めた。
「君の悩みは何なんだい?折角私と遊びに来ているんだよ?君が悩みの深い人だとは知っているけど、それじゃあ、あんまりじゃないか。もっと私を見てくれよ。もっと私に笑いかけてくれよ。それをしてくれないんなら、私たちは何のためにデートに来ているんだい?リリー君のオリエンテーションもこのために早く頑張ったんだろ?なら、もう少し楽しんでくれ。…何が君の前に立ちふさがっているんだい?せめて、それを私に言ってくれ。君の恋人なんだから、話せることはたくさんあるはずだろ?別にそれで君を嫌ったりはしないからさ。君ともっと一緒になって話したいんだよ。…それすらも叶えてくれないのかい?君のお悩み相談会でも私は十分に楽しいよ?」
近くの席の人の視線が、タキオンには鬱陶しく感じられたが、最後までそう言い切った。それで、田上も少し様子が変わった。曖昧で何も見ていない表情から、痛ましい思いに悩まされている男の顔になった。タキオンとしては、そちらの顔の方がまだマシだった。この顔の時の方が、もっと口は簡単に開くような気がしたからだ。だから、タキオンはもう一度聞いた。
「君の悩みが解けるんだったら私はそれが良い。何かあるかな?」
「………ここでは無理だ。ここでは…」
「なら、今から帰ってから話すかい?」
タキオンがそう提案すると、悩ましげな目で田上はタキオンの顔をいつものように見た。そして、暫く見つめた後、呟くように言った。
「帰ってからも、話せるかどうか分からない…」
「分かった。じゃあ、君は、トレーナー寮で話す事に抵抗があったりするのかな?」
「…ない事はない」
「まぁ、それも踏まえると、この場では話せないという事だ。人の目があるからね。一度、歩きながら話そうよ。店には入らなくていい。ただこのショッピングモールを歩き回りながら、君の疲れない程度に、…歩き回りながら、私に話してくれ。隠し事は無しにしてくれ。どんな些細な事でもいいんだ。少し今日は便の出方が悪かったとか、心に引っ掛かっている事、いや、引っ掛かっていなくても思いついた、頭の中に思い浮かんでいる事を私に話してくれ。でないと私も寂しいんだ。君もそれを分かってくれ」
タキオンが悲しげに言うと、田上も顔に苦笑を滲ませて「分かった」と悲しげに答えた。それで、少し気分を回復した田上がポテトをポリポリ食べながら、タキオンにこんな事を聞いた。
「分かってるんだけどさ、お前の気持ちは。ただ、こんな男と付き合ったってどうせ碌な事にはならないぞ」
その言葉に少し笑いながらタキオンは答えた。
「分かっているんなら、私が答える必要はないだろう?」
それを聞いて、田上も少し口元に笑みを作った。
ポテトを食べる間は、二人共それなりに駄弁ることができた。全ては、田上の気分が回復してくれたおかげだった。それで、タキオンも気分は上々、お腹は満腹でファストフード店の外へ出ることができた。
外へ出ると、タキオンももっと田上と一緒に話したいので、早々に田上悩みの真相を聞いた。しかし、今度は、田上もただ曖昧に頷いて、話をはぐらかそうとしたので、これではつまらない。だから、タキオンは「圭一君!」と怒ったように言うと、悩みを打ち明けるように促した。田上も若干話し辛い事ではあった。それは、悩みの内容が恥ずかしいと言うより、悩みの内容が自分自身でも曖昧だからだ。それでも、タキオンに些細な事でも言ってくれ、と頼まれたので、田上はその正体を掴むように空中を見つめながら言った。
「俺にも、あんまり良く分からないんだよ。分からないって事が分からない。いや、何が分からないのかが分からない。その分からないものの正体が分からない」
「まぁ、そりゃあ、当然と言っちゃ当然だろう。初めから分かっているんだったら、君のように宙を見つめはしない。じゃあ、それが、悩みというわけだね?君の心を縛っていた物は、私の言葉をぼんやりとしか聞いていなかった、その頭を縛っていた物は、何にも分からないという思いだね?」
「そんな感じ」
「…そりゃあ、漠然としている。漠然とし過ぎているねぇ。…何か他に手掛かりはないかな?」
「何にも分からん」
「ふむ。じゃあ、まぁ、漠然とした不安のような物だろう。君は何かが不安なんだね?それは一体何だろう?…考えられるのは、一番は、ネックレスの事だろう。ネックレスの事は、君はその心でどう向き合っているかな?」
「分かんない物」
「具体的には?」
「あんまり…俺が何を求めているのか分からん」
「まぁ、今回のネックレス選びは、少し目的もぼんやりし過ぎていたね。…あれから、私たちは何を買えばいいと思う?観音像を買った方がいいかな?」
「観音像はダメだと思う」
「だけど、君はそれを私に提案、とまではいかなくとも、――どう思う?と聞いてきたわけだ。あんなの、カップルが誕生日プレゼントとして選ぶなら、初めから無しに決まってる。あれを買うのは、よっぽどの仏教オタクだけだよ」
「そうだな」
「なら、私の誕生日プレゼント、と考えてみたまえよ。私は何が欲しそうに見えるかな?」
「…可愛い物?」
「それも良いだろう。他には?」
「他にぃ?…お洒落な物?」
「お洒落とはあまり具体的ではないんじゃないのかな?君は、お洒落とは具体的に何、と言い切れるかい?」
「言い切れない」
「それなら、君はそんな事を、私と一緒にネックレスを選ぶときに考えていたんだ。失敗しないようにしなくちゃ。そう思いはしないかな?」
「…まぁ、思わない事もない?」
「だろ?ちょっと君は気負い過ぎていたように思うよ。もう少し私へのプレゼントと考えてくれ。一番初めに、君は可愛い物。と言っただろ?私は、君が選んでくれるならそれで十分だよ。そりゃ、多少のセンスは問われるが、君が可愛いと思って選んでくれたのなら、私にはそれが嬉しいんだよ」
「そう…」と田上が返事をすると、その眼差しが段々と遠くになっていくようだったので、タキオンは慌てた。こんなにフラフラと定まらない男の相手に、タキオンも疲弊しそうだったが、それでも、田上と一緒にデートを楽しみたかったので、急に立ち止まると田上の両頬を掴んで自分の顔の近くへ、キスをしそうなくらいに引き寄せた。それから、田上にしかめっ面を見せながら言った。
「私を見てくれ!じゃないと、大衆の面前でキスするところを見せつけるぞ!」
「この距離じゃあんまり変わらない」
「じゃあ、キスをしてもいいのかな?」
田上の返答に多少苛立ちを覚えながら、このまま田上が自分を見ないようであれば、本当にキスをしてしまおうと思って、タキオンがそう聞いた。しかし、田上はまた悩ましげな男の顔に戻って言った。
「本当に分からないんだよ。…何を悩んでいるのか」
すると、タキオンも田上が憐れになって、その両頬を押さえつけていた手を放して、田上を開放した。そして、元通り手を繋ぐと、歩き始めながら言った。
「じゃあ、もしかしたら、それはネックレスが原因じゃないかもしれないね。…私かな?私が原因かな?私とのデートはどうだい?あんまり好きじゃない?」
「いや、嫌いな事はない。…ネックレスが原因じゃないわけでもない。けど、ネックレス以外にもありそうな気はする」
「ふむ。…これまた難しい問題だよ。…何かな…。分からないんだろ?何が分からないのかが分からない。…心の引っ掛かりはあるが、それが曖昧で判然としない。しかし、分からない。分からない事が分からない。分からないから、私とのデートに集中できない。その上に、君のネックレス選びを、その分からないが妨害している…。そうだよね?」
「多分そう」
「ふーむふむ。成程、これは私にも分からない。ただ、実は君がこのデートが嫌だという線も十分に考えられる」
「嫌な事はない」
「そうかもしれないが、無意識という物は恐ろしい物だ。意識で感じ取るのが難しいから、君のように悩む事になる。無意識とは、その人の根本にある価値観の事だ。悩みを解決するとは、その根本の価値観を、今の自分の状況に照らし合わせて、統合するという事だ。何事も冷静に考えなくてはならないといけない、というのはそういう事だよ、圭一君。君には分かるかな?」
「あんまり分からん」
「分からないだろう。担当のメンタルケアの授業もやるはずだけどね。そういう事はトレーナー試験ではしなかったのかい?」
「多分しなかった。担当の精神状態に合わせたスケジュールの調整なんかが主な内容だった。ストレス発散とかそこら辺だったな。お出かけをしましょう、とか」
「まぁ、それだと多少の気の紛れにはなるが、気の紛れになるだけだ。再発させない、または、再発しても解決できるように導かねばならない。それが、トレーナーとしてウマ娘と向き合うならば必要な事だよ。トレーナーとして担当と向き合うのならばそれでいいのかもしれないけどね。君は、私とたまに対話を図ってくれたからそれが良かった」
「それでも、今迷惑をかけているのは俺の方なんだけどな」
「迷惑じゃないよ。私は私のためにやっているんだ。…そこら辺も、君は考えを改めてくれた方がいいように思うんだけどね。中々どうして、改まらないものだね。何度も君の事は大切だと言っているのに。……それは、やっぱり私が幼いから、真に受けてくれていないのかな?」
タキオンは、少し心に引っ掛かって、今まで燻っていたことを田上に言った。それを聞いた田上の顔は、あまり変わらなかった。もしかしたら、動揺でもするのじゃないかと思って、タキオンはその顔を見守っていたのだけれど、田上はただこう答えた。
「別に、幼過ぎるという事もないけど、少しだけ幼さが残っているだけだよ」
「それは、私の外見についてかな?」
「それもあるけど、…それもある」
「ん?はっきり言ってくれないと困るよ」
「いや、…どう言えばいいかな…。俺は、…その幼さが別に好きでも嫌いでもないけど、ただ、その幼さがそこにある事を知っている」
「じゃあ、やっぱり、私の言う事は真に受けていない、信用していないという事にならないかい?」
タキオンは、それを自分自身の口から言うのは、少し嫌そうだった。
「いや、信用してない事はない。これは、断言できる。だけど、お前も幼いんだよ」
「それは、やっぱり、信用していないという事なんじゃないのかい?」
「そんな事はない。これは本当だ。信用はしている」
「なら、何はしていないんだい?」
タキオンが切り返すようにそう聞くと、田上も少しだけ顔をしかめた。
「そういう話の流れじゃない。お前は幼いけど、信用はしているって事だ」
「でも、それって大分矛盾しているだろ?」
そこで、田上が「あそこのベンチに座って話そう」と提案したので、一旦会話が途切れた。そして、またタキオンが「矛盾しているだろ?」と聞くと、田上はこう答えた。
「俺としては、あんまり矛盾しているつもりはない。実際にお前の事は信用はしている」
それを聞くと、タキオンも少しは嬉しかったのだけれど、顔を曇らせるばかりだった。
「でも、ね?お前は幼い、と言われてごらんよ。君とは対等な関係でいるつもりなのに、私だけ少し下のように思うじゃないか」
「じゃあ、俺も幼い。俺とお前は対等だ」
田上が即座にそう返したが、その素早さがタキオンには納得いかなかった。
「そんなんじゃないよぉ。言うならもっと気持ちを込めてくれ。それに、それじゃあ、ちょっと納得が行かない。もっと行動で示してくれ。私は、幼稚なんかじゃないだろう?」
「幼稚だっていいだろ?俺も幼稚なんだから」
「共倒れってのは納得が行かないよ」
「でも、お前が求めてるのは、幼稚であるかなしかじゃなくて、俺と対等で恋人であるかどうかなんだろ?俺がお前の保護者じゃなくて、恋人である方がいいんだろ?」
「そりゃそうさ。そりゃそうなんだけど、ちょっと納得が行かない。私は上手くあしらわれただけなんじゃないのかい?」
「別にあしらってはないよ。俺も子供で、お前も子供だろ?」
「それが、果たして恋人のあるべき姿なのかな?子供と子供が付き合っているのなら、それは飯事遊びと大差ないじゃないか」
「まぁ、そりゃあ、大人の飯事遊びの可能性もなくは無いんじゃないか?」
「大人の飯事遊び?聞き捨てならないね」
タキオンは田上の事を少し睨んだ。
「じゃあ、今の私たちの関係は飯事遊びと言っても過言ではないと?」
「過言かもしれないけど、少なくとも、俺はいまいち何をやればいいのか分かってないんだよ。ハグとキスとか言ったって、そんな簡単な関係でもないだろ?」
「まぁ、難しいには違いないが、それと飯事遊びは関係ないように思うのだけれど」
「俺は、いまいち恋人ってもんが、一体何なのか分かってない。これをすれば恋人だ、って言えればいいけど、手探りの内は飯事遊びとあんまり変わらないだろ?」
「まぁ、否めなくもないが、…君の気持ちは分かった。分かったが、あんまり良く分からない。どう解決すればいいのか…。…どう思う?」
「分からない」
「分からない、じゃしょうがないよ。君も何か案を出してみれくれ」
「案?…恋人らしい事をしてみる?」
「恋人らしい事?」
「…一緒に過ごす?」
「ダメだダメだ。それじゃあ曖昧過ぎる。それに、もうそれはすでにやっている事だ。…肝心なのは、なんだろうねぇ…。あまりにも曖昧過ぎて、私にも掴み難い。…さっきの、君の言動から鑑みるに、…君の視点として、私たちの間から、トレーナーとその担当という犯し難い壁が、取り除けていないのじゃないかと思う。だから、私の事は信用しているが、幼いと思っていると感じるんだ。君としては、トレーナーの立場として、一線を置くために、私の事を幼いと思わなければならなかったはずだ。しかし、トレーナーと担当以上に仲が良くなってしまった私たちは、その間に親密な信頼を築いてしまった。まだ、私と付き合っていないときは、その考えでも良かったんだろうけど、私と付き合ってしまうと、無意識の領域にまで食い込んでしまったその銃弾が邪魔なわけだ。その弾は、君が自覚しない限り、取り除くのは不可能な事のように思うよ。どうだい?私の推理は結構いい線を言ったと思うんだけど。…君の中に居る私の『トレーナー君』と、私の『恋人君』との間で、喧嘩を始めてしまっているんだよ。それを何とか収めてやるのは、中立的な君なんじゃないのかい?」
タキオンにそう説明されると、田上はじっと考え込んだ。その際の口元に手を当てる仕草が、タキオンにそっくりだったが、二人はその事には気が付かなかった。そして、うーんうーんと唸った後に、ようやく田上は言った。
「分からない…」
「分からないかい?…それは、考える事を放棄したのではないかな?そんな事はない?怒らないから言ってごらん?」
「……正直、考えが纏まりそうにない…」
「まぁ、それが葛藤だ。…それじゃあ、今日は、ネックレスは選べそうにないかな?」
「…いや、選んではあげたい。選んではあげたいけど…、どうしよう」
「また、あそこに戻っても、君の考えは葛藤に邪魔されて纏まらないと思うよ?…それとも、まとめられないと分かっててもまた、あそこに戻るのかな?」
「いや、いや、分かる。分かるけど、それだとタキオンの誕生日プレゼントが…」
「私の誕生日プレゼントくらい後ででも充分大丈夫さ。今、無理矢理買って、後になって後悔する方が不味い。それは君にも分かるだろう?」
「分かるよ…。分かるけど、どうしようかなぁ…」
「まぁ、私とこのままデートを続けるという手もあるよ。もう今日の所はネックレスは諦めて、私とデートに来たのだと思って楽しめば、私もそれで十分だと思うけど」
「…でも、どうしよう…。いつ買えばいいかな?」
「別に、私の居ない時に一人で買いに行っても良いよ。私はどちらかと言うと、今日はネックレスを買う事より、君とのデートの方が楽しみだった」
「でも、ネックレスを一緒に買うのも、楽しみだったんだろ?」
「それは、勿論だよ。でも、君が買ってくれるのならそれでいいさ。大抵の物は大喜びできる自信がある。それでも不安なら、私の授業が終わった後に急いで行くかい?時間は十分にあると思う。門限は七時だから、ざっと四時間くらい?それくらいあれば多分大丈夫だ」
タキオンがその予定を提示すると、田上は少し悩んだが、次にタキオンの思ってもみなかったことを言った。
「トレーニングはどうする?宝塚記念を走るんだったら、もうトレーニングは始めておいた方がいい」
「ああ…、そうか。…そうだね。いつだったかな?」
「六月九日。…本当に走るのか?」
タキオンの顔に動揺が走ったのを、しっかりと感じ取った田上が、心配そうにそう聞いた。
「走る。…走ろう」
「本当に?」
「本当に」
「俺が止めたら?」
その言葉を聞くと、タキオンは田上の顔をじっと見つめたが、次にはこう言った。
「止めないでくれ」
「…もう、走る事を辞めて一緒に暮らそうと言ったら?」
すると、今度は、タキオンは目を見開いて田上を見つめた。それでも、返答は上手くいかなかった。
「宝塚までは私は走るつもりだ」
「じゃあ、その間に、俺がお前の事を嫌いになるかもしれないよ?」
次は、悲しそうな顔をしてタキオンは言った。
「嫌いになんてならないだろ?」
「嫌いにはならない。でも、お前は本当にそれでいいのか?そんな顔をしてまで、お前は走るのか?」
これには、タキオンも言葉を秘めて考え込んだが、一層辛そうに言った。
「走らせてくれ。…頼む」
そのタキオンの顔を見ていると、田上も少し辛くなってきたが、こう言った。
「じゃあ、帰ったら出走登録しておくからな。…それでいいのか?」
タキオンは、眉間に深い皺を寄せながら、「いい」と頷いた。その様子はどう見ても良さそうには見えなかった。
その後に、二人は、気を取り直して、ショッピングモールを散策しつつ、店の色々を見ることにした。殊に、タキオンは服屋に入りたがって、田上の服をどうにかこうにか買わせようとした。どうやら、タキオンには、田上の服を選んでやるのが楽しくて楽しくて仕方がなかったようだ。それで、タキオンが、楽しんでくれているのなら仕方がないので、田上も、自分の興味の無い服選びに付き合ってあげた。たまに、田上が、ユーモアに溢れたTシャツを指差して「これはどう?」と言って見ると、タキオンはケラケラと笑い出して、「買ってみるかい?」と田上に聞いた。田上は、元から買うつもりのないTシャツを指差していたので、当然「買うわけないじゃん、こんな服」と言った。それを聞くと、タキオンは尚の事ケラケラと笑った。これによって、多少なりとも、タキオンの宝塚記念への恐怖が薄れた様だった。先程もタキオンが言ったように、これは気の紛れでしかなかったが、田上はその笑顔を大切にしなければならないように感じた。彼女の顔は、田上と居るととても嬉しそうな笑顔になっていた。それを崩すわけにはいかなかった。その為には、田上は、タキオンと共に過ごす覚悟をせねばならない。それは、田上の本望でもあったのだが、やっぱり、心の中の何かがそれを咎めた。その正体が何なのか、今でも全く掴めない。掴めないけれども、田上はやっぱりタキオンの傍に居るしかなかった。彼女の事が好きだったから。
結局、田上は、自分の服を買う羽目になった。でも、そこまでお洒落な服は、普段着として着るつもりはなかったので、田上はそのようにタキオンに告げたら、こう返された。
「これから、私とたくさんデートに行くだろ?その時に着てくれればいいよ」
「でも、毎回同じ服装ってのは?」
田上がそう聞き返すと、タキオンは笑いながら「構わないよ。その内、君の洋服棚を私の選んだ服でいっぱいにして見せるし、君が服を選ぶの面倒って言うのなら、私が選びに行ってあげる」と答えた。――まるで、女房のようだ、と田上は思いながら、微かに笑うと「ありがとう」と返した。
買うときには、どちらが金を出すか(どちらも金を出したかった)で揉めたが、最終的には、タキオンがズボン、田上が上の服を買うことに決まった。どちらにしろ田上の物だったが、タキオンは田上に贈り物ができたという事で、少し喜んでいた。
そして、二人は帰路についた。田上は、勿論ネックレスの事が少し気掛かりだった。その様子をタキオンに察せられて、「大丈夫かな?」と聞かれたが、案外大丈夫な事には大丈夫だった。むしろ、どちらかというと、田上の心は一人で買いに行く事の方に傾きかけていた。一人でじっくり悩む方が、タキオンと一緒に買いに行くよりも、遥かに買いやすいような気がしていた。無論、タキオンと買いに行くのが悪いと言っているのではない。ただ、今は、そちらの方がやりやすいような気がしてきたのだ。これが、『気がする』だけなので、実際の所はどうなのか分からない。しかし、その方が田上の性に合っているのは確かだった。
この、一人の方が買いやすいかもしれない、という考えをタキオンに言ってみると、こんな答えが返ってきた。
「そうなんだね。私も、そっちの方がいいというのなら、君にそういう風にしてくれた方がいいよ」
「…そう。…俺も誕生日プレゼントを買う不安を、タキオンと行く事で紛らわせようとしたのがいけなかったのかもな。失敗できない不安もあったし…」
「それなら尚の事、君だけで行けばいいんじゃないのかな?」
「…そうしておく。…明日行こうかな?」
「明日?随分と急だけど」
「明日は、リリーさんのトレーニングを午後に入れる…。お前はどうする?宝塚に出るんだったら、もう明日からでも始めていいけど」
田上がそう言うと、タキオンは目に見えて動揺し始めたので、田上はショッピングモールに居た時に言った事をもう一度繰り返した。
「本当に走るのか?」
そう言われたタキオンは、大分苦しそうだった。
「…走る。…走るから、そんなに私を試さないで。…出来れば、君にももう少し頼らせてほしい」
「頼らせてって言ったって、俺は今以上にできる事はないよ?」
「できるよ…。…抱き締める回数を増やすとか…」
「それは、また難しい。普通のカップルくらいには、俺たちもハグはしていると思うけど」
「もっと…」
「もっと、ねぇ。…今日だって、ぎりぎりの所でキスをしたわけだから、どこそこでハグするわけにはいかないよ。俺の寮だってそんな頻繁に来られると、最悪お前が出禁になったりしかねない」
「…なら、もう同棲を…」
「それはもっと難しい。お前は、お前一人の体じゃないんだよ」
「誰かのための体ではいたくはない」
「それは尤もだけど、なら、もう走るのをやめるしかない」
そう言われると、タキオンも黙りこくった。けれども、答えを聞かない事には予定の立てようもないので、田上は言った。
「俺もお前と一緒に居るつもりではあるよ」
「一緒に居るつもりなら、もっとその様子を表に出したまえ」
「それは俺も頑張りたいけど、とにかく、俺がどこそこの女に付いて行くようなことはしない」
「信じられないね」
タキオンは少し顔を上げて、田上の事を睨んだ。田上もそれに負けじと睨み返して言った。
「信じられない?お前は、前の時の俺と同じことを言っていないか?」
「言ってない」
タキオンは田上の事をもっと睨んだ。その様相が、一触即発の雰囲気になっていたから、田上は睨むのをやめて、なだめに掛からねばならなかった。
「言ってないならそれでいい。…俺の事は信じれくれないのか?」
「……信じる。…けど、信じれない」
「俺に直に信じれないと言っている時点で、お前は十分に俺の事を信じていると思うよ」
田上がそう言うと、タキオンは迷うように少し目を逸らしたが、また、田上に視線を合わせた。
「信じる。けど、これまで以上に私を大切にしてくれ。これまで以上にだ。四の五のは言わせない」
「言わない。これまで以上に善処する。…ほら、笑え」
田上はそう言うと、自分の手をタキオンの首筋に持っていき、そこらへんを指で擦ってくすぐった。タキオンも始めは堪えていたのだけれど、田上が執拗に続けると、「参ったよ」と困ったように笑って、田上の方に体を寄せた。
帰りの電車の中は、少しゆったりできた。
二人は、トレセン学園に帰ると、二人でできるだけ長く入れるように散歩をしたり、ベンチに座って話しこんだりして過ごした。その間に、何度か宝塚記念の話題が出てきた。相変わらず、タキオンと田上の対話は難航したが、せめて、明日のトレーニングをするか否かを言ってくれないと、と田上が頼み込むと、タキオンも渋々「嫌だ」と答えた。その為、明日のトレーニングは、リリック主体でする事になった。けれども、田上はタキオンが拒否した後にこうも提案した。
「お前も一緒にトレーニングに来ないか?するんじゃなくて、俺の隣で見とくだけ。…それも嫌?」
タキオンは、少し悩んだようだったけれども、次には、田上の目を見て「分かった。行く」と答えた。田上は、その答えに満足そうに微笑したが、その後の余韻を引きずって、また、タキオンの気が変わってしまったら面倒だから、すぐに別の話へと切り替えた。ネックレスの事だったり、将来の事だったり、二人で色々と話し合った。そして、タキオンを十二分に満足な笑顔にさせて寮に帰らせると、田上も自分の部屋へと戻った。その後は、どんなネックレスが良いか、ネットで検索したりもした。ネットにもいろんなものがありそうだったが、田上は、ぜひあの店に行って買おうと思っていたので、興味本位で眺めていただけだった。ただ、良さそうなネックレスは、色々と見つけることができたので、あの店に行って何もピンとくるものが無ければ、また、ここで買おうと思った。寝る時に少し緊張したのは、明日行く店についての不安があったからだった。しかし、それは些細な不安に過ぎず、また別の、明日にするトレーニングの予定を、頭の中で反芻していれば、それはすぐに消えていった。
――明日には、どんなネックレスをタキオンに見せてあげられるだろうか?
明日になると、田上は真っ先にタキオンに『今日の午前中に済ませる』とメッセージを送って、朝の支度を済ませて、寮を出た。その間に、タキオンもメッセージを返してきていたので、二人はこんなやり取りをした。
まず、タキオンがこう返してきた。
『私も行きたい』
寝ぼけているのかは知らないが、当然今日から授業があるので、『ダメ。授業に出ろ』と返すと、またタキオンから返信が来た。
『授業に出なくても良いとは思わないかな?どうせ、何もかも分かるし』
『ダメ。少なくとも、授業サボってやっていたことが、トレーナーとお出かけでした、となれば俺の信用度が地に落ちる』
『君の信用度は、どうでもいいとは思わないかな?』
『どうでも良くない。給料が良いんだから、これから暮らしていくためには、金は必要だ。無職の男と結婚したいのか?』
『分かったよ。私も授業に出るから、君も頑張ってきてね』
『頑張る』
そう返すと、田上は寮を出、学園を出、電車に乗って、一人でまたショッピングモールへ来た。当然、あの店にも店員さんは居たので――あの人今日も来た、と思われはしないかと、田上は心配だったが、そこら辺を心配してしまっては、もう動きようがなくなるので、あるかもしれない恥を忍んで、田上は昨日の三回目に入ったネックレス店に、今日も入った。