ケロイド   作:石花漱一

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五、冬とシンガーソングライター(前編)

五、冬とシンガーソングライター

 

 幸助が起きたのは、布団の隙間に流れ込んでくるほんの少しの寒さが理由だったが、隣を見てみると、自分より情けなく身を縮めて寝ているだろうと思っていた兄が、その教え子と寝ていたのに驚いた。そして、少し羨ましいとも思った。と言うのも、二人は身を寄り添い合っていて暖かそうだったし、その様子を見ると自分の彼女のことを思い出したからだ。今年の夏の終わりにできた彼女。名前は、今田夏希という。ポニーテールの可愛い子で、幸助は「なっちゃん」と親しみを込めて呼んでいる。しかし、その子は、年末は家族と一緒に過ごすらしかった。幸助は、年末は東京なんかに遊びに行ったりして、遊園地や繁華街を楽しみたかったが、なっちゃんがそれを嫌がるのならば仕方がなかった。幸助は、がっかりしつつも今年も家へ帰ることを父にメールで告げたのだ。…まぁ、父は嬉しそうだったので、特に問題はなかった。

 幸助は、少しの嫉妬で兄の頭に軽くデコピンをすると、襖を開けて父の寝ている部屋へと抜けた。今日も寒い朝だった。幸助は、まずトイレに行った。まだ、父の賢助すら起きていなかったので、自分の足音が大きく聞こえた。

 そして、トイレから出ると、玄関のドアを開けて、外を見た。昨日の夜雪が降っていたが、朝に大きく積っていることはなかった。外は、まだ薄暗かった。日がまだ出ていないのだろう。幸助は、一面の雪を期待してはいたが、叶わなかったことを受け止めるとつまらなさそうに鼻からフンと息を出し、玄関の戸を閉めた。すると、後ろの方で白色の引き戸が開いて、父親が恐る恐る覗き込んできた。そして、玄関にいるのが幸助だと分かると、ほっと安心した声を出した。

「なんだ、お前かぁ…」

「驚かせてごめん」とバツが悪そうに幸助は言った。それから、父との間に数瞬の間が置かれると言った。

「雪、積もらなかったね」

「そっちの方がいいだろ。雪がない方が事故が減る。それにアグネスさんが、もっと食べるって知ったから、もう少し飯を買ってこないとなぁ…。後、今年も前田家とお前のじいちゃんばあちゃんがこっちにくるって言ってたぞ」

「正月に?」

「そう。初詣に行くけど…、アグネスさんは大丈夫だろうか?」

「どうせ、圭一が面倒見るって。…そうそう!あの二人一緒に寝てたよ?あれ本当に付き合ってないの?」

「えっ?どういうことだ?」

「ちょっとこっちに来て見てみてよ」

 幸助がそう言うと、炬燵のある部屋を通り、隣のまだタキオンたちが寝ている部屋の襖を少しだけそっと開けた。それを二人は覗き込んだ。

「ほら、見て。二人とも抱き合うようにして寝てるよ」と幸助が最初に言った。

「本当だ。…本当に付き合ってないのかな?」

「どうだろう?でも、圭一が教え子に手を出すとは思えないんだよね」

「だろうなぁ…。うーん…、一緒に寝るほど仲がいいってことなのか?」

「でも、圭一がタキオンさんの布団に勝手に入った可能性もあるよ」

「…それはまずいな。最悪刑事事件になりかねんぞ」

「まずいな。…消すか?」

 ニヤリと笑って幸助が言った。それに父が答えた。

「何を?」

「圭一をだよ。今のうちに殺しておけば問題はない」

「そうだな」

 父もそれに乗って、ニヤリと笑った。それから、二人は悪だくみをするボスのように「クックック」と笑うと、次に揃って笑い吹き出した。

「まぁ、なんとかなるだろう。あの二人がくっつくんだったら、うちの甲斐性なしにも引き取り手が見つかって言うもんだ」

「そうだそうだ」

 二人はニコニコしながら、そう言った。

 そして、この三十分後に何も知らないタキオンが、見慣れない朝の風景に少し戸惑いながら起きてきた。

 

 タキオンも朝起きると、田上の顔が目の前にあって少しぎょっとしたが、すぐに昨日の夜に一緒に寝たことを思い出すと可笑しそうにクククと笑った。そして、大きく息を吸うと田上の顔に息を吹きかけた。しかし、田上はそんなことをされても目覚める気配がなかったため、タキオンはつまらなさそうに鼻を鳴らし、田上を寝かせておくことに決めた。

 そして、襖の外に出て行くと、予想外の明かりに目をしばたたかせ、見慣れない人々に驚いた。それから、自分が田上家にお邪魔していることに気が付いた。

「おはようございます」

 タキオンはそう言った、すると、炬燵の対辺と対辺に座っていた人々は、「おはよう」とそれぞれに言った。

「アグネスさん、いい眠りにつけた?」

 賢助がそう聞いた。

「ええ、おかげさまでぐっすり眠ることができました」とタキオンが答えると、驚いたように二人が見つめてきた、しかし、タキオンはとりあえずトイレに行って、顔を洗いたかったのでその視線は無視して、玄関に続く引き戸を開けた。

 それから帰ってくると、開口一番に父の賢助が聞いてきた。

「アグネスさん、その…息子と一緒に寝てたのを目撃してしまったんですけど、もしかして、息子が無礼を働きましたかね?」

 タキオンは一瞬きょとんとしたが、賢助がこんなにも丁寧に伺いを立てている理由に察しがつくとクスクスと笑って言った。

「いえ、私が一緒に寝てくれと頼んだんです」

「何で!?」と賢助が素っ頓狂な声を上げたから、タキオンはこれまたクスクスと笑った。

「いえいえ、本当に一緒に寝てほしかっただけなんですよ。ウマ娘と言うのは、嗅覚が動物くらいに優れているから、こう…知らない人の家にいるとですね。あんまり落ち着かなくて…」

「それでうちの息子をぉ…」

「へー」と幸助も頷いていた。そして、「いいなぁ」と呟いたから、賢助が驚いて幸助の方を見た。

「お前、まさかアグネスさんと!?」

 幸助はそう言われて、慌てて答えた。

「いや、まさかそんなことあるわけないでしょ!俺は……彼女ができたんだよ」

「えっ、彼女?どこで拾ったんだ」

「拾ったものじゃないよ」と幸助は父親を睨んだ。タキオンは、その間にするりと幸助の横を通りその隣に座った。

「今年の夏終わりに付き合うことになったんだ。もう少し軌道に乗るまで、黙っておくつもりではあったんだけどね。ここでばれてしまったのならしょうがない」

 そう言って、幸助はスマホをいじると父親の方にそれをかざした。その画面に映し出されていたのは、なっちゃんの写真だった。

「おお!中々に美人さんじゃないか!いい人を見つけたな!」

 幸助は少し照れたのをごまかすように鼻を鳴らした。

「私にも見せておくれよ」

 タキオンもそれに興味を持って、聞いてみた。「ほら」と少し得意げになって幸助はタキオンの方にもスマホの画面を見せた。

「おお!確かに、いい笑顔じゃないか。綺麗に取れてる。これを写したのは君なのかい?」

「ああ、上手く取れてたのは他にもあるんだ。…ほら、これ」

 そう言うと、一枚二枚と彼女の写真を見せて、最後には彼女の自慢をタキオンに聞かせた。これにはタキオンも少し参ってしまって、困ったように父親の方をチラチラ見ながら、幸助の話を聞いていた。父親は、それを熱心に聞いていたので、タキオンの視線には気が付いていないようだった。

 最後に、「俺の彼女もここに連れてきたかったなぁ」という嘆きの言葉で、幸助は話を終わらせた。賢助が苦笑しながら言った。

「…まぁ、お前の彼女までこっちにきたらそれこそ大所帯で、お前たち兄弟は皆狭い布団で一緒になって寝るしかなかっただろうな」

 幸助は、「それがしたかった」と言いたかったが、それを言ってしまうとさすがに気持ち悪いと思ったので何も言わなかった。

 

 それから、また暫くすると、今度は寝ぼけた顔の田上は寝室の襖をあけて入ってきた。

「おはよう」

 田上が、そう言うと、皆揃って「おはよう」と返した。そして、ちょうどテレビで田上の好きな歌手の特集が組まれていたから、父がこう言った。

「おい、圭一。これ、お前の好きなバンドだろ?『大きな蛇』。違ったっけ?」

「いや、それだよ。俺の好きなバンド。また、アルバムでも出たの?」

「いや、ライブがあったらしい」

「ああ、ドームツアーね。…俺は、そんなにライブには興味がないからなぁ」

「そうなんだ…」

 賢助は、そう言ってテレビを見たが、驚くべきことがあってまた息子の方を見た。

「おい、ライブで新曲を発表したらしいぞ」

「…俺も今見てるよ。うるさいから黙ってて」

 そう言って、田上は真剣にテレビを見つめた。テレビで言っていたのは、今から新曲の一番だけを特別に流してくれるそうだ。これは、『消えたらリフレッシュ』というアルバムの中に収録されている『ハロー鬱病』という曲だということだ。田上は、少しニヤリとした。『ハロー鬱病』なんて題名から予想するに、過激な歌詞が出てきそうだからこれは地上波で流してもいい曲なのだろうか?と思ったからだ。

 実際に聞いてみると、一番だけでも十分に風刺が効いていて、これを流した番組スタッフは相当勇気があるか、バカで無謀なのかのどちらかなのだろうと思った。

 その歌詞の内容はこうだった。

 

 

  ハロー鬱病 君と散歩して歩こう

  ハロー鬱病 君と空にかかる虹を渡ろう

 

  最近いろんなところで暗いニュースを見るね

  いいことなんてある気もしなくて

  小さい小さい僕がこんなにも無表情なんだよ

  

  僕のもとには来ないと思っていた

  消えたいくらいのどでかい気持ち

  君のもとには来ることはないだろう

  僕が全部君の防波堤になってやるから

 

  ハロー鬱病 人を殺して回ろう

  ハロー鬱病 君を無残に殺そう

  ハロー鬱病 消えたいくらいの孤独

  ハロー鬱病 最後に残ったのは誰?

  ハロー鬱病 自分を殺して

  ハロー鬱病 世界は平和

 

 

 こうして、この曲はフェードアウトしていった。番組のアナウンサーも何を言ったらいいか分からない様子だった。だから、苦笑しながらとりあえず「こんな曲今までに聞いた事がありませんね」と言った。このアナウンサーのコメントは、とりあえずは間違っていなかったと言えるだろう。なぜなら、誰も聞いた事がないからだ。…まぁ、ただ田上の知る限りでは似たような曲はあった。だが、こんなにも苦悩に満ちた曲は見たことがないだろう。この『大きな蛇』というバンドが昔から出している曲の中には、たくさんあるかもしれないが、そこらへんのバンドだったらこんな曲は作れないだろう。

 田上は感心しながら、テレビの画面をしばらく見つめていたが、もう何もないと分かると、洗面台顔を洗いに行った。

 帰ってくると、タキオンの隣が幸助で埋まっていたので、田上は仕方なく別の場所に座った。

 幸助とタキオンはすっかり打ち解けたようだった。何のことだかわからないが、誰か他人の話で盛り上がっていた。田上は、恐らく自分用に置かれたであろう朝食のみそ汁と納豆を前にすると、少しずつ箸を進めた。

 

 田上が、ぽつぽつとご飯を食べ進めて、ようやく残りも少なくなってきたころタキオンが話しかけてきた。

「なぁなぁ、トレーナー君?」

「…なんだ?」

「君、私の体が鈍らないようにトレーニング表を用意するとか何か言っていなかったかい?」

「…ああ、もう今渡した方がいいか?」

「そうしてくれ」

 タキオンがそう言うと、田上は箸を置いて、隣の部屋の自分のリュックの所まで歩いて行った。そして、帰ってくるとバッグから取り出した一枚の紙をタキオンに渡した。

 その紙は、この町の地図で、少しだけ線が引かれていた。

「これが走るルートだ」

 田上は、地図の道に沿って引かれた線を指差しながら言った。

「最低、四キロは走ってもらう。それから、プラスするかしないかはお前の自由だ」

「ふむ…、了解だが……」

「…何か問題が?」

「いや、あんまりこの地図じゃ分かりづらいな、と思って。それに線は四本あるが、これはどういうことなんだい?」

「ああ、これはタキオンが飽きないように同じ四キロの道を別々に取ってみたけど…、いらない?」

「う~ん…」とタキオンは少し唸ったが、その後に言った。

「…この道だけに絞って、もう少し長く距離を取らないかい?ちょっと四本あっても多いような気がするし、道を覚えながら行くのではペースも狂ってしまう。…やはり、一本のみに絞った方がいいと思うのだけれど…」

 タキオンがそう言った後、横で見ていた幸助が口を挟んできた。

「すげぇ、本当に圭一がトレーナーしてる」

 弟に珍しく褒められて田上はどういう顔をしていいか分からず、混乱した後にニヤリと不敵に笑った。

「なんだよ、その顔」

 幸助が、バカにしたように鼻を鳴らした。すると、田上が何か言い返そうとしたが、その前にタキオンが田上の注意を引くように頬を叩いて言った。

「トレーナー君、この道とこの道、どちらが簡単だい?」

「…ええっとね。…多分、大通りに面しているから、こっちの方が簡単かな?」

 田上が、そう自身がなさそうに言ったから、タキオンは不思議そうに聞いた。

「君、ここの出身じゃないのかい?」

「…?いや、違うよ。ここには、俺が中学の時に引っ越してきたんだ。母さんの病気の都合でね。だから、俺はここに……中学最後と高校の時しか住んでいないな。それでも、この町は好きだから、色々と歩いて回ったことはあるよ。ただ、タキオンに走らせる方面はね、あんまり歩いてないから詳しくないんだ」

「じゃあ、君はよくわからない道を私に走らせようとしたのかい?」

「いんや、ちゃんと調べたよ。特に、危ない道は避けるようにして、景色のよさそうな所を探したよ」

「ふーん」とタキオンは頷いた。

「じゃあ、この大通りに面している道を私は走ろうかな。ウマ娘用のレーンもあるわけだろ?」

「…どうかな?田舎だから分からないけど…、とりあえずはそんなに速く走らなくてもいい。人が前から来たら立ち止まるんだ。絶対に無理に通ろうとして、ぶつかって怪我をさせるような真似だけはするなよ」

「言われなくても。……で、距離をもう少し延ばしてほしいんだ」

「ああ、そうだな。四キロじゃ不満か。ならもう一キロ足すか?」

「そうしよう」

「じゃあ、ここに線を引いて…、縮尺はこのくらいだから…、ここら辺までかな?…ああ、ここは知ってるな。いつも大安売りの張り紙を貼った魚屋だ」

「…私は知らないな」

「そうだろう」と田上はフフフと笑った。

「タキオンが知ってたら驚きだわ。…ここはね、中学の時に通っていた道だから…。と言うことは、多分道にはウマ娘用の場所はなかったな。道が広くなって、俺の知らない間に追加されていたら別だけど。…まぁ、そんな速く走ってくれる必要はないんだ。スピードを出さないんだったら、ウマ娘のレーンにいたって邪魔だろ?」

「ふむ」とタキオンは頷いた。それから、うんと一つ唸ってから田上に言った。

「一回歩いて確かめないかい?」

「歩いて?そんなに不安なのか?この道は結構単純だぞ」

 そこでタキオンが、言いにくそうに「う~ん」と唸ったから、幸助が横から口を挟んだ。

「女の子が散歩に誘ってるんだから男は黙ってその手を取れよ」

「うるさい!」

 田上は、噛みつくように幸助に怒った。そうすると、「ごめんなさーい」とふざけて謝って、ニコニコしながら見てきたから、余計に腹が立った。しかし、一瞥をくれただけで幸助にはもう何も言わなかった。

 その後で困ったように頭を掻いてタキオンに言った。

「うーん、どうしたもんかな。俺はもう少なくとも外なんて歩く気なんてなかったからな。…それに外は寒いし…」

「また私が手を繋いでいてあげるよ」

 タキオンがそう言うと、田上は嗚呼と頭を抱えた。幸助がその言葉に反応したからだ。

「また!?もしかして、何回か手を繋いだことがあるの?」

「何、寒かったら手を繋ぐことくらい普通だろう?」

 タキオンがそう切り返したが、興奮した幸助の前にはその言葉は無意味だったようだ。

「普通じゃないよ!いくら友達だと言っても異性だったら手なんて繋がないよ。男同士でさえ繋がないんだ。ましてやこの!兄の!真面目ド畜生の圭一が、誰かと手を繋ぐと思うか?」

「もうやめてくれ…」と田上は疲れ切った様な声を出した。

「もう分かったから。タキオンと道の確認をするからそれ以上のことは言わないでくれ」

 そう言うと、幸助は飛び切りのニヤニヤ顔を見せたが、それ以上はもう何も言うことはなかった。田上は、聞き分けのいい弟に初めて感謝をしたかもしれない。

「じゃあ…、なんだ?今から行くのか?」

「ああ、そうしよう。着替えてくるから待っててくれ」

 タキオンはそう言うと、襖をあけて隣の部屋に入っていった。しかし、襖を閉めるような気遣いは見せなかったから、田上は、再び疲れ切った顔をするとため息をついて、そっと襖を閉めた。

 

 タキオンが着替えて、田上も着替えて、外に出る段になると、「俺もついて行こうかなぁ」と幸助が言ったが、その声は無視してタキオンたちは外に出て行った。身を切るような冷たさだった。日は昇っていたが、冬の冷たさをどうこうできるはずもなく、ほんのかすかな温かみを田上たちに与えただけで、後は冷たいベールの上の方に輝く宝石のようにただ飾られているだけだった。

 タキオンが、「手を繋ごうか?」と言って手を差し出してきたが、田上はそれを断った。そうすると、タキオンはニヤリと笑って、「君さっきの弟君の話に惑わされたのかい?」とからかうように聞いてきた。腹が立ったので頬をつねろうとして、頬に触れたら予想外の温かさに思わず本来の目的を忘れてしまい、田上は、じっとタキオンを見つめた。

「なんだい?」とタキオンが聞いた。しかし、暫くの間は、何も喋ることができずに、ようやく冷たい風が二人の間を通ったところで言った。

「ウマ娘って、やっぱり体温高いんだよな」

「そりゃそうさ。あんだけ速く動くんだ。相当な代謝が必要だ。……まぁ、その代わり、夏は暑くて暑くて堪らないけどね。さぁ、行こう。私と手は繋がないのかい?」

「いや」と田上は断ろうとしたが、タキオンがその答えを言わせまいと先に言葉を発した。

「いや、ダメだ。拒否することは私が禁じよう。…君、昨日の夜言ったろ。俺が一時の休息所だって。じゃあ、休息所は休息所らしく私をわがまま放題にさせたまえ」

「休息所だって一人で休みたい時はあるよ」

 田上は、そう一言文句を言ったが、半ば無理矢理に、半ば自分からタキオンに手を取られ、道を歩き出した。

 

「君の手あんまり大したことないよね。私の手の方がずっと暖かくて、君の手は凄く冷たい」

「文句言うんなら、手を繋ぐなよ」

 道の半ばまで歩いたところでタキオンとこんな会話をした。

「いや、君と手を繋ぐこと自体に意義があるんだ」

「父親の事を思い出すってこと?」

「うーん…、どうだろうねぇ。別に父親の事を思い出したいから、君と手を繋ぐ訳ではないんだけどね。うーん…、でも君と手を繋げば父親のことも思い出せるような気もするし…」

「ふーん…。タキオンのお父さんってどんな人だったんだ?トレーナーだってことは知ってるけど」

「それを知っているのならば話は早いさ。別にそれ以上でもそれ以下でもない普通の父親だよ。普通に娘を愛でて、普通に娘を育てて、普通に娘の扱いに困って、…そういう父親だよ」

「へー」と頷いている所で、道路の反対側からまだそれ程年のいっていない小さいお婆ちゃんが、横断歩道もないのに渡ってきているのが見えた。車が通っていないタイミングを見計らって来たのだろうが、お婆ちゃんから見て反対車線の方は、あまり遠くないところから車が来ていたので見ていてハラハラした。

 そして、そのお婆ちゃんが渡り切るところに田上たちは歩いて行って、そこでそのお婆ちゃんと目が合った。タキオンと田上を一人一人見ていって、にっこり笑うと「こんにちは」と丁寧に言った。田上たちもそれに「こんにちは」と返すと、お婆ちゃんの横を通り過ぎようとしたが、三歩歩くとお婆ちゃんが「あーー!」と叫んでこちらに歩いてきた。

「あなたたち、ひょっとしてタキオンちゃんと田上さん!?」

 そう言われると田上とタキオンは顔を見合わせた。果たして「そうです」と頷いてもいいものだろうかと思ったからだ。しかし、このおばちゃんにはむしろ正体を明かして口止めをしておいた方が変に噂が広まらないかもしれない。田上はそう考えると、「ええ、そうですけど…」と答えた。

「ほらー、やっぱりーー!」

 冬だというのに永遠の元気の良さがあった。

「あなたたちどこかで見たことがあるわー、と思って少し考えたんだけど、テレビで見たことがあったのよ。まさか本物に会えるとは思わなかったわー。…ところで、今どうしてここにいるのかしら?帰省じゃないわよね?二人とも同じではないだろうし。…はっ、もしかして、新婚旅行?んなわけないわよねぇ、はっはっはっは」

 自分の言った冗談にお婆ちゃんは、一人でバカ笑いしていた。

「あら、ごめんなさいひとりで笑っちゃって、私ったら最近一人でゲラゲラ笑う事が多いもんだからさ。もうガサガサの古びた松みたいな旦那に、お前は動物園のサルよりうるさいぞ!って言われてもう、あっはっはっはっは」

「それでね。私はサルと言うよりオットセイだわって答えたら、なるほどって旦那が感心しちゃったのよ。私冗談のつもりで言ったのに本気にされて悲しいわー。本当にもう別れちゃおうかしら。あら!あなた、うちの旦那より『よかにせ』ねー。知ってる?鹿児島弁でイケメンのことを『よかにせ』って言うらしいわよ。私全然使う機会がなくて、今か今かと待っていたんだけどやっと使えたわー。多分、もう忘れて使わないわね」

 そう言うと、またお婆ちゃんは、あっはっはと笑った。この人の話が無限に続くかに思われた。しかし、田上が、隙を見計らって、すばやく会話の間に割り込んだ。

「あの、僕たちもう行かないといけないので…」

「えー」とお婆ちゃんが言った。それから、また話し出した。

「そうだタキオンちゃん。のど飴あげようか?」

「いらないです」

 そうタキオンは冷静に突っぱねた。すると、お婆ちゃんは急に肩をがっくりと落として、もう十歳も更けたような気がした。いや、これが元々の年齢なのかもしれない。急に元気のなくなったお婆ちゃんは、両手に持っていたレジ袋が限界まで重たくなったかのように低く持った。そして言った。

「あんまり話すのも体に悪いものねぇ。…私ったら、ついついはしゃいじゃうんだもの。若いカップルを見ると。ごめんなさいね。もう行きますよ」

 そう言うと、小さいお婆ちゃんはもっと小さくなり、寒さに体を震わせながら、寂しいコンクリートの道を歩いた。田上は、なんだか申し訳ない気持ちになった。タキオンは、田上の手をお婆ちゃんと反対の方に引き、「行こう」と呼びかけたが、田上にはその言葉に応えることができなかった。だが、タキオンの事も優先したくて、もがくようにタキオンの方を見た。タキオンは、田上の顔を見、瞳を見ると、その思いを汲み取り言った。

「いいよ、私もついて行こう。ちょうどお婆さんの買い物袋を持ちたいと思っていたところだ」

 そう言うと、とぼとぼ歩いているお婆ちゃんの所まで二人は歩いて行った。

 

 その背中に声をかけるときに田上はどうやって声をかけたらいいか戸惑ったが、その戸惑いを吹き消すかのようにタキオンがお婆ちゃんの肩を叩いて声をかけた。

「お婆ちゃん、お荷物重いようだけどお持ちしましょうか?」

 タキオンがそう言ったが、お婆ちゃんは拗ねているようだった。

「あんたなんかに大事な買い物袋持たせられますか!いいですよ。最近の子は知らない人から飴を貰ってはいけないという、さぞ高尚な教育をなされているようですからね」

 タキオンは、困ったように笑って田上の方を見たから、田上も話しかけた。

「お婆ちゃん。……さっきの話ですけど、僕たちの事カップルって言ってませんでした?」

 田上はできるだけお婆ちゃんが喜びそうな話題をもって話しかけた。

「でも、僕たちカップルなんかじゃありませんよ」

 そう言うと、お婆ちゃんは驚いた顔で田上を見つめた。

「あんれまぁ!てっきり手を繋いでいたもんだから、デキてるものかと思っていたけど。…!違ったのねぇ…」

「そうです。たまたま手を繋いでいたところをあなたに見られていただけだったんです」

 隣でタキオンがふっと笑うのが聞こえたが、そちらの方に視線は向けないでお婆ちゃんの話を聞いた。

「へー……、本当にたまたまなのかしら?」

 お婆ちゃんがニヤリと笑って、顔に生気が戻ってきた。

「本当の本当に?たまたま繋いでいるときがあるのかしらぁ?…あなたたちの事情も分かるわよ。大丈夫。このことは私の信用の置ける人にしか話さないから。…ああ、袋持ってくれるの?」

 その時タキオンが、お婆ちゃんの袋を「持ちましょうか?」と言って触ったのでお婆ちゃんはこう言った。そして、視線は田上に常に向け続けながら話を続けた。

「本当の事を話してごらん。大丈夫だから。もうおタエさんとキヌさんにしか話さないから。ほら、何で手を繋いでいたの?」

「……ちょっとそれはお話はできませんね」

 そう困ったように田上が言うと、お婆ちゃんは嬉しそうに「あんらぁ!!」と黄色い声を上げた。

「お話しできないことなの?やっぱり一般人に話してしまうとまずいのね。そうよね?そうよね?」

 そう聞かれても田上は黙って微笑むだけだったので、お婆ちゃんは尚のこと興奮した。

「あらあらあらあら。もしかしたら、新婚旅行ってのもあながち間違いじゃないかもしれないわね」

「いや、それは違います」

 田上は、そこだけは訂正した。隣にはタキオンがいたから、明確な言葉が出てきた場合は否定しなければいけなかった。しかし、このお婆ちゃんが中々の曲者で、田上がそういうとまた再びがっかりして、顔から生気が消えた。田上と視線を合わせなくなり、大きく深いため息をはいた。

「…まあ、そんなところだわね。…ぁぁ、もう家に着くわ。もうそこの曲がり角を曲がったらすぐ。買い物袋を返して頂戴」

 お婆ちゃんがタキオンから無理に奪い取ろうとして、タキオンもどうしたらいいのか分からなくなったのだろう。助けを求めるように田上の顔を見た。田上は、「もういいよ」と言った。それから、自分でも知らないうちにこう言った。

「少しお婆ちゃんと話すからさ。タキオンはさっきの場所に戻って待っておいてくれ」

 タキオンは、不思議そうに田上の顔を見たが、何も言わずに頷くと今来た道を戻っていった。

 

 タキオンが、戻っていくのを確認すると、田上は言った。

「お婆ちゃん、少しタキオンの見えない場所で話をしたいんです。だから、お婆ちゃんの家まで行って、玄関先で話しませんか?その間に僕が持っておいてあげますよ、その荷物」

 お婆ちゃんも不思議そうな顔をしながら田上に荷物を渡した。

「話したい事って?」としわがれた声で聞いてきたが、「まだです」と答えるとお婆ちゃんと道を共にした。

 そして、道を歩いていくにつれ、――自分は何でこの話をしようと思ったのだろうという後悔が強くなっていった。

 不意にお婆ちゃんが、「ここが私の家」と言って敷地に入っていくと、田上は両手にレジ袋を持ったまま躊躇ってしまった。

「どうしたの?玄関先で話をしようと言ったのはあなたじゃないの?」

 お婆ちゃんは何気なくそう言ったのだろうが、田上にはその言葉が自分を試す惑わしの言葉のように聞こえた。

「お婆ちゃん」

 どうすることもできなくて、田上はそう呟いた。お婆ちゃんの声は、なおも田上を試すように響いてくる。

「入ってきなさい。お茶は準備した方がいい?」

 田上は口をパクパクさせて、最後にやっと「いらないです」と言葉を絞り出した。

「早く入って来なさいよ。私の買い物を持ち逃げする気?」

 お婆ちゃんもあまり穏やかではない雰囲気になってきた。そして、「入ってこないと警察呼ぶわよ」と言った時、田上は意を決して玄関の方まで歩いて行った。

「すみません」

 田上がそう言うと、イラついたようにお婆ちゃんが言った。

「あんた、そんなに躊躇うような最初から話をするなんて言わなければ良かったのに」

「すみません。僕もそう思ったんですけど、どうにも引っ込みがつかなかったんです」

 田上がそう謝ると、お婆ちゃんは不機嫌そうに田上の顔を見たが、言った。

「…で、話は何?私をここまで待たせたんだから、絶対に最後まで聞かせてもらうわよ」

 田上は、無言で自分の心を確かめるように頷いた。そして、後ろを振り返って、誰も家の前にいないか確かめると、ほんの少し声を抑えてこう言った。

「僕は、…僕は、実はタキオンが好きなんです。…これで機嫌が直ってもらえましたか?」

「あら!あなたタキオンちゃんが好きなの?」

 その言葉を聞くと体が燃えるように熱くなって、どうしようもない痒みに襲われた。胸の奥が痒かった。けれども、ただ掻いただけじゃ治らない痒みがそこにあった。

 田上は、もう殺される寸前の人のようにこう言った。

「誰にも言わないでください。お願いです。この気持ちは秘密なんです。なのにあなたに言ってしまった。無遠慮で作法のない田舎のお婆ちゃんに」

 お婆ちゃんはそう言われて、不愉快そうに眉をひそめたが何も言わずに田上の話すことを聞いた。

「どうしても、どうしてもこれは言わないでください。絶対です。これがばれたら僕は死んでしまいます。もう嫌なんです。こんな気持ち抱えるのは。だから、あなたに話したかったのかもしれない。無遠慮で作法のない田舎のお婆ちゃんなら笑い飛ばしてくれると思った。なのに、あなたは違う。どうして笑ってくれないんですか?」

「……話される寸前まで不機嫌だったのに笑えるわけないじゃない。もういいわ。誰にも言わないから早く出て行って」

 田上は、懇願するようにお婆ちゃんを見つめたが、ダメだった。お婆ちゃんは首を振ると日本家屋の廊下の奥に消えて、見えなくなった。「玄関の戸は閉めてね」と言う言葉を残して。

 田上は、暫く今度は恨みを持つような目つきでお婆ちゃんの廊下の奥を見たが、やがて後悔のため息をつくと玄関から出て行った。

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