その後は、タキオンの授業が終わると二人でカフェテリアで食事をとって、食べ終わってトレーナー室に戻ると、マテリアルと合流した。そして、その時にリリックが友達を引き連れてトレーナー室に来た。何かと賑やかになったトレーナー室だったが、田上とタキオンは二人でずっと話していて、マテリアルは一人でおにぎりを食べながらスマホをいじっていて、リリックは友達と三人で話をしていた。
お昼休みをそんな感じで過ごそうと思っていたのだけれど、ここは、ウマ娘専門校なのでいつの間にか女の子たちが恋の話題で盛り上がっていたのに田上は気が付いた。タキオンと田上はそれに参加していないが、マテリアルとリリックとその友達がワイワイと好きな芸能人を言い合っていた。マテリアルも中学生相手に中々に面倒見の良い人だったが、田上はその中に入りたくなかった。しかし、その盛り上がり具合からなんだか話がこちらに飛び火しそうな気がしてきた。流石に、この部屋には事情を知らないリリックの友達が居るから、そんな簡単には二人が交際している事を口には出さないだろうが、交際という事実を知っているリリックとマテリアルは、この話に絶好の二人を会話に巻き込まないはずはなかった。
案の定、二人でパソコンの画面を見て話している田上とタキオンにマテリアルが、ニヤニヤとしながら言ってきた。
「田上トレーナー、好きな髪の色って何ですか?」
「ん?」
「好きな髪の色です。タキオンさんだったら栗毛とかでしょう?」
「…俺は普通に黒色が好きだけど…」と田上が平然として答えると、タキオンが田上の首の後ろに手を当てて、そこにあるネックレスの鎖を少しいじっているのを感じた。ここで、田上がタキオンに視線を送ってしまうと、二人の関係を見知らぬ中学生にまで勘付かれそうでもあったし、タキオンと目が合った途端に笑い出しそうでもあったので、田上は必死にタキオンに視線を送らないように気を付けた。
「じゃあ、好きな芸能人は誰ですか?」とマテリアルが次いで聞いた。
「芸能人?」
「田畑雪とか花より子だったり、好きな芸能人いません?」
「…芸能人は、そんなに知らないなぁ…」
「でも、田畑雪も花より子も知ってるでしょ?」
「知ってるけど…」
「じゃあ、知っている人だけで良いので、一番タイプだな、と思える人を上げてみてください」
「…松林百合子…かなぁ?」と田上が言うと、中等部組が「誰それ?」という顔をした。タキオンもあまり知らなかったようで、「誰なんだい?」と田上に聞いてきた。すると、田上がパソコンで調べて画像を出す前に、マテリアルが、スマホでパッと調べてタキオンに見せてきた。
「この人ですよ。確か、七、八年くらい前に覚せい剤で捕まった人」
「へー」とタキオンがよく確認すると、中等部組にも「これ、分かります?」と言って、マテリアルが見せた。中等部組も「へー」と頷いて、その中でリリックが言った。
「結構美人ですね。この人が、田上トレーナーの好きな人ですか?」
「好き?別に好きでもないけど」
「ええ?じゃあ、誰が好きなんですか?」
この質問に、リリックのからかうような意図は込められていなかったので、田上は普通に答えた。
「別に好きとかじゃないけど、この人美人だなーって思うのは、松林百合子だった」
すると、マテリアルが口を挟んだ。
「ホント昔は結構ドラマの主演になってたりして、ブイブイいわせてたんですけどね。今はもう刑務所は出てるんですよね?」
「知らない」と田上が答えた。その横で、タキオンはさっきの顔を頭の中に思い浮かべながら考え込んでいた。明らかに、タキオンとその人は似てはいなかった。その人の目はぱっちりと見開かれていたし、可愛らしいえくぼがあって、肌は白くて、比較的顔立ちの良い、ウマ娘にも引けを取らない美しさだった。けれども、タキオンとは着飾った時の雰囲気が決定的に違うので、それが何だかタキオンには引っ掛かった。田上が、「誰が好きか?」と聞かれて一番に上げるのがその人なのだから、嫌いという事はなくて、むしろ好みの部類ではあるだろう。口では好きじゃないと言っているが、それは皆の前での強がりのはずだ。その事は、自分の良く知っている田上の事なので、容易に理解できた。理解できると益々引っ掛かる。つまり、田上の好みは自分ではないという事だ。勿論、田上が自分の事を好きでいてくれているのは十二分に理解はしているので、そこは安心しているのだけれど、田上の好みの顔でもないのに隣にいる自分は、いつか田上の好みの顔の人が現れたら捨てられるのじゃないかと思った。――考えすぎかも…。とは思ったが、この場で田上に相談することは少々恥ずかしいので、田上の横顔を見つめながらもやもやしていた。
マテリアルは次にこう聞いた。また、ニヤニヤとした顔になっていた。
「じゃあ、恋人とデートに行くならどこが良いですか?」
「それ、答えないといけないの?」
「答えましょうよ。communicationですよ、communication」
それを妙に発音良く言ったのが田上には腹が立った。
「ね?チームでのcommunicationが大事なんですから、万国共通の恋バナでcommunicationを取りましょうよ」
「嫌だよ。恋人なんていないし」
これは、断るための咄嗟に口から出た嘘だったのだが、これは田上は不味いと思った。この部屋の自分以外の五分の三は、田上とタキオンが恋人同士なのを知っているし、その内の一人は当事者なのだ。案の定、首の後ろを触っていたタキオンの手がツンツンと、田上の首筋をつついた。そして、マテリアルとリリックが「良いネタを掴んだ!」と言わんばかりのニヤニヤ顔を見せてきた。それでも、その事は言及しないでくれて、その代わりに飛びっきりにニヤニヤ顔で言った。
「恋人は居なくても好きな人くらいはいたことあるでしょう?前に聞きましたよ?学生時代に栗毛の髪のウマ娘が好きだった、って」
そこまで言えば、もしかしたら、言及しているのと同じかもしれないが、少なくとも田上の嘘については言及してくれなかった。ただ、やっぱり田上はその言葉で自分の顔が火のように熱くなるのを感じた。きっと周りから見れば、自分の顔が真っ赤になっているに違いないと思った。栗毛の髪というのは、明らかにタキオンの事を指している。その事にリリックの友達に気付いてほしくなかったが、田上がマテリアルを見ている視界の端で、その二人共、タキオンと田上の事を興味深そうに交互に見つめていた。それに、タキオンもこの嘘に乗らないわけにはいかなかった。明らかにタキオンの事を指しているのは、誰の目にも明々白々だったので、タキオンは田上にこう言った。
「ええ?君、私の事が好きなのかい?」
そう言って、確信犯ことタキオンは田上の顔を覗き込んで、その手で田上の頬をむにむにといじくった。田上は、尚も真っ赤に顔をほてらせながら少々上ずった声で言った。
「んなわけないよ!俺が、お前の事を好きになってどうするんだよ!トレーナーとウマ娘だぞ!好きになるはずもないだろ!」
すると、また確信犯がからかってきた。
「おやおやぁ?今は時代が変わったんだよ?ドラマやアニメなんかでもトレーナーとウマ娘の恋愛の描写がたくさんある。それはどういうつもりかな?」
「……ちょっと待った!俺だけこんなにいじめられてるのはおかしい!タッ、タキオンはどうなんだ?恋人はいないのか?」
——なんでこんな茶番をやっているんだ、と心の中では思っているのだけれど、田上ももう引くに引けない所まで来てしまったので、こうした声でそう聞いた。
タキオンは随分と平静に答えた。
「恋人ねぇ…、居ると嬉しい物だね。…どうだい?私の恋人にならないかい?」
中等部の二人から「え?え?」と黄色い声が聞こえてきた。
「お前の…恋人にはならないよ。お前はまだ子供だろ?」
そう言われると、タキオンは思わず顔の笑みを落としてしまった。田上もタキオンが気にしている事を言ってしまったと、言った後で気が付いた。しかし、この場はどうする事もできない。タキオンを外へ連れ出して、何処か人目に付かない所で弁明しようとすれば、明らかに二人が何かの関係であることが、知らない二人には伝わってしまうだろう。田上は、なるだけ隠したい。そんな中で、タキオンはすぐに表情を戻して、「からかっただけだよ」と言って、田上の頬を少し強めに人差し指で突いた。それで、田上もやりきれなくなって、「ちょっと騒がしいからここには居られない」と言うと、唐突に席を立って逃げるように部屋から出ようとした。その時にタキオンも「私も行く」と田上に背後から声をかけてきたのだけれど、田上はそれは無視して進むしかなかった。ここで反応してしまうと、残された道は、タキオンが来るのを嫌がる、という道しかなかったからだ。田上としては、タキオンに追いかけてきて欲しかった。その田上の思惑を察してか、それとも、普通に自分の言葉を実行するためか、タキオンは田上に無視されてもすぐにトレーナー室のドアを開けて、田上の横まで来た。そして、顔に微笑を浮かべながら言った。
「恋人はいないのかな?」
「…いない事はないかもな」
「まだ、学校の中だから警戒しているのかい?」
「そんな所」
「私は、別にあんなに見ていて恥ずかしい嘘を吐いてまで隠す必要はないと思うんだけどね」
「…でも、あの中等部に言ってみると瞬く間に広がりそうじゃないか?」
「まぁ、私もあのリリー君の友達がどんなものなのかまでは知らないけど、そもそも、私たちは学園内で手を繋いで歩いてしまっているし、ベンチで長く話もした。キスを白昼堂々としてしまった時もあるし、今こうして話しているのをどこかの誰かに聞かれているかもしれない。もしかしたら、もう噂は私たちの知らない所で手の付けられないまでに広がっているかもしれないよ?」
「そう思うんなら、あんまりそんな話をしないでくれ」
田上は少し邪険に答えた。
「私は別に噂なんて広まったっていい。むしろ、そうしてくれた方が今までより随分と楽に動ける。君も嘘を吐かなくて済むしね」
「でも、せめて、いつ籍を入れるかが決められるまで、あんまり噂にはなりたくない」
「まぁ、それも分からない事はないけどね。…隠して行動するのは少々骨が折れないかい?」
「骨は折れるけど、節度は守って行動しなきゃ」
「節度と言うと、君の部屋に行くのはどうかな?もう何回もあそこに行ったけど」
「…俺もお前とたくさん話したい気持ちがないわけじゃないから…、ぎりぎり…」
「君は、自分には甘いなぁ!」とタキオンがケラケラ笑った。その横で田上が微笑していると、笑い終わったタキオンが言った。
「まぁ、十分に隠してやっているつもりではあるよ?少なくとも、あの場での明言は避けてあげた」
「ありがとう」
そう田上が言うと、タキオンが少し顔を曇らせて、田上の顔をじっと見つめてきたので、田上が「何か?」と聞いた。すると、タキオンが渋りつつ言った。
「君、私の勘違いじゃなければ、女性の好みはあんまり私ではないようだね」
「好み?」
「松林百合子だよ。あの人の顔は、随分と綺麗寄りじゃなかったかい?」
「ああ、…嫉妬してるの?」
田上は、半分面白がって、半分驚いてそう聞いた。
「嫉妬…かもしれないけど、純粋な疑問でもあるよ。君の好みと私の顔はかけ離れているだろう?」
「言うほどかけ離れてるかな?…別に、タキオンの顔が嫌いってわけでもないし…」
「でも、君はあんなオトナな感じの女性が好みではないのかな?」
「大人ぁ?そうでもないと思うけどねぇ。…少なくとも、タキオンの顔は嫌いじゃないし、今までも好きって言ってきただろ?」
「まぁ、否定はしないが、…あれだね。少し君と同じような不安を抱いてしまった」
「俺と同じような不安?」
「あれだよ。君が言ってたじゃないか。タキオンが他の人になびいてしまったら悲しくなるんだろうな、って。それを私も少し感じたよ」
「タキオンも悲しくなるの?」
「…悲しくならない事はない。君と一緒に居れればそれでいいだけだ」
「へ~」と田上はタキオンの事を興味深そうに見つめた。今日は学園の制服を着ていたので、田上には何だかタキオンがまだまだ女子高生なんだという事が改めて心に染みた。
二人は、いつもの誰も通らない道の脇に置いてあるベンチに向かったのだけれど、今日はなぜだか人が少なくはなかった。授業が始まった影響かもしれない。道の端にちらほらと人が居て、そのベンチに座ればいつも見えていた景色の中に知らないウマ娘がいた。田上はそのベンチに少々不愉快そうに座ったが、タキオンは特段何か感じる事はなく、田上に気軽に話しかけていた。その内に、田上がベンチの上に寝転がろうとしたら、頼んでもいないのに膝枕を強制的にさせられた。そこから見るタキオンが制服だったので、何だか背徳感が湧いて、直ぐに目を逸らした。すると、その様子を目聡く見つけたタキオンが言った。
「何かあったのかい?」
「何か?」と田上は聞き返した。
「何かだよ。君が嘘を吐こうとすればすぐに分かるからね。だって、今君は私の顔を見てわざと目を逸らしただろう?これを何かあったと言わずして、何と言えばいいんだい?」
「ちょっと周りを見たかっただけだよ…」
「そんな事はないんじゃないかな?嘘は分かるって言ったろ?」
タキオンはそう言うと、田上の頬をちょんちょんとつついた。
「じゃあ、私の顔を見てみろよ。そのままじっと見つめられたら何もないだろう?」
「見つめられないのは、昨日も言っただろ?」
「あ、そうか。…でも、今のは明らかに私の顔を見て、何かを思ってから目を逸らした。私の目を欺けると思ったら大間違いだぞ、圭一君」
田上は、そのタキオンの顔を寂しそうに見つめると、タキオンも今まで浮かべていた口元の笑みを消して、自分も寂しそうな顔をして言った。
「君が、色んな事を相談してくれたら私も嬉しいんだよ。言い辛いのも分かるけど、相談できるのは私くらいしかいないだろ?」
そう言われると、田上は少し悩んでから言った。
「お前ってまだ女子高生なんだなぁ、って」
「女子高生?」
「そう」
田上は要領の得ない返事をしたが、タキオンにはそういう反応が見られることは分かり切った事だったので、すぐにこう聞いた。
「どうして、また、そんな風に思ったんだい?」
この訳を言うのには、大分時間がかかったが、田上はやっとのことで言った。
「お前が、今日、制服だったから」
「ああ、そういう事か。あれだね?自分の彼女が制服を着ているのを見て、私がまだ女子高生だったという事を思い知らされたんだ。それで、君も何だか前のように引き戻されて、女子高生と付き合うのに抵抗を持っちゃったんだね?」
「…そう」
田上は、陰気に呟くように言った。
「ふぅん。…どうしよかな。…君は私が好きなんだろ?」
「…分からない」
「でも、これまで何度もキスをしてきたじゃないか。それに、今だってこうして膝枕もしている」
「でも、これはお前が無理矢理…」
「でもね?君から私にキスをしてきたこともあった。それはどう言い訳するつもりだい?」
田上は、何も答える事はできなかった。
「…女子高生がそんなに嫌いかな?」
田上は、タキオンの顔を見つめて黙るだけだった。だから、タキオンはもう一度聞いた。
「私が女子高生でなければ君の気持ちはもっと素直だったのかな?」
これにも田上は答えなかった。
「…まぁ、君と私が同年代だったらさぞ上手く行っていただろう?少なくとも、この年齢の障壁はなかったはずだ。それがないだけ随分とマシだったはずだ。しかし、それを言ってもしょうがないからね。私は君を好きになってしまったんだし、君も私を好きになってしまった。この事実だけはどうにも覆せない」
「……覆せないから大変なんだよ」
田上は、疲れたような口調で口を開いた。
「確かにそうだろうねぇ。大変だよ。これからの人生で起こる苦労を今、一身に背負っているんじゃないかと思う。君と私の間には、覆せない矛盾がある。矛盾があるのに好きなんだからしょうがない。君も私の事が好きだろ?」
「ああ」と田上は言ってから、その手をタキオンの顔へと伸ばした。丁度その時に、頭上の木の枝から落ちてきた一枚の木の葉が、田上の手に触れて地面の方へと落ちていった。田上は、それに一瞬驚いて手を引っ込めたが、また、気を取り直すとタキオンの頬を撫でた。タキオンは、ふふふと笑いながらその手の温かさを感じていた。
その後は、二人は穏やかな時間を過ごした。そして、お昼休みが終わると、またタキオンは授業の方に戻っていった。その際に、タキオンは「ばいばい」と悲しそうな笑みをしながら、田上の手を取り、その手の指を自分の指と絡ませて名残惜しさを表現した。今もその指の肌ざわりが田上の手に残っている。
田上がトレーナー室に戻ると、当然のことながら、マテリアルがパイプ椅子に座ってスマホを見ていた。そして、田上が入ってくるとその方に顔を向けて、その入ってきた人が田上だと分かった途端にニヤリと笑みを作って言った。
「どうですか?恋人は」
「まあまあです」
「…タキオンさんのどこが好きなんですか?」
マテリアルが、急にからかう事をやめて、普通に疑問に思っていたことを言うと、田上は顔をしかめた。
「別に、…これと言って好きなところを上げる程、好きなところはありませんよ」
「…全部が好きって事ですか?」
マテリアルがそう聞くと、田上は彼女から目を逸らして「そんな所です」と言った。それでは少々面白くなかったので、マテリアルはもう一つ聞いた。
「さっきタキオンさんと出て行った後は、やっぱりタキオンさんと一緒に居たんですか?」
「そんな所です」
「二人きりで話すときってどんな会話しているんですか?ちょっと私も次に彼氏ができた時の為に知りたいので、教えてくださいよ」
「ええ?…別に、そんな聞かせて面白いような話はしていませんよ?」
「じゃあ、何の話をしているんですか?」
これを言われると、田上も答えに窮したが、先程全力を挙げて嘘を吐いてしまった反動からか、もう嘘は吐きたくなかった。
「…将来の事とか、話し合っていますね…」
「将来の事…。え、どんな?結婚とか?」
「そんな所ですね」
「へ~。私が付き合ってた時は、そんな話はしませんでした。…なんか別に私は口下手でもないんですけど、二人きりになるとあんまり会話が生まれなかったんですよね」
「なんででしょうね」
「多分ですね~。…将来?将来って、恋人同士がする話題で、一番話の盛り上がる話題ですよね。だって、二人の将来って共通の物なんだから、そりゃあ、二人にとって共通の話題になって話も盛り上がる」
田上は、返事はしないで黙ってその話を聞いていた。
「いや~、私も付き合ってた時はその事を話せばよかったですね。…将来ねぇ~。考えもしてなかったな、あの時は…」
それは、半ばマテリアルの独り言だったが、明らかに田上の方に話しかけられていた。それでも、田上は返事をせずに自分の机に座って、パソコンを見つめていたので、マテリアルの声は次第に萎んでいった。
それから、少ししてから物思いから覚めたマテリアルが、元気のいい声で言った。
「なにか、仕事ありますか?今日リリーちゃんのトレーニング初めの日でしょう?」
「仕事?」と田上は集中して見ていたパソコンの画面からふっと目を逸らし、オウム返しに聞いた。
「当然、私も補佐なんですから出来る事はしますよ。そうでないとお金をもらっているのが申し訳なくなる」
「…リリーさんのデビューとタキオンの宝塚、そして、もう一人二人くらいスカウトもする予定だから、どうしたらいいと思います?」
「お、一気に来ましたね。そう言えば、タキオンさんの予定は詳しくは聞いてなかったんですが、宝塚記念?に出るという事で決まったんですか?」
「ええ、昨日あたりにタキオンと話し合って、本当に走るっていう事に決まりました。…ただ、気になる事があって…」
「なんですか?」
「…タキオンが、宝塚記念を少し躊躇っていそうで、本当に走りたいのかな?って。勿論、本当に走りたいのかどうかは聞きましたけど、…あの、本人ももしかしたらまだ迷っているかもしれないので、もし、相談を持ち掛けられることがあったら素直に相談に乗ってやってください」
「へ~。でも、一番の恋人である田上トレーナーに言わないんだったら、私にも相談はしてこないと思いますけどね」
「…まぁ、それがどうかは知りませんが、もしかしたら、タキオンもマテリアルさんの方が話しやすい、女同士でしかできない会話とか、があるんじゃないかなぁって思うので、その時はよろしくお願いします」
「はい。オッケーです」
「で、リリーさんは、一番の懸念は本番のレースです。あの選抜レースでもあった通り、走るには走りますが、仕掛けようとしないかもしれません。予定としては、タキオンと同じ週の日にデビューをさせようと思います。六月の九日か八日に。で、トレーニングの予定に関してですが、模擬レースってどうでしょう?本番と違いがあると思いますか?」
「模擬レース…。どうでしょうねぇ?…それは、本番みたいな雰囲気に慣れさせたい、って事ですか?」
「まぁ、その意図もあって、タキオンよりも少し多めに模擬レースの予定を組み込みたいんですよ。ただ、それで、もし負けが込むと却って本人の為にもならないんじゃないかと思って」
「じゃあ、いっその事ぶっつけ本番で行きます?」
「…いや、それはあんまり意味が無いんじゃないですか?だって、本番に慣れさせてあげたいのにぶっつけ本番にやらせるのは…。どうでしょうね?あの、模擬レースはリリーさんの為になると思いますか?」
「リリーさんの為には、…ならない事はないでしょう?タキオンさんだって、レース前に模擬レースをして闘志を上げるんでしょう?」
「そりゃあ、タキオンはGⅠ勝てるくらいの力があるから、模擬レースに出してもあんまり負ける心配はしないんですよ。…問題は、リリーさんが負けて落ち込まないか?ですね」
「がっつき過ぎたら落ち込むかもしれないですね…。うーん、ただ、本番も走れるようになってくれないと困るわけで、…上手くいくとは限らないですもんね…」
「…その、上手くいかないって事を本人に教えて上げられればいいんですけど、…勝手に学びますかね?」
「…どうでしょう?仕掛けなければ負けそうですか?」
「うーん…、逃げの位置に立つように指導してみる?」
「うーん、…難しいですね。…とりあえず、本人に聞いてみたらどうですか?模擬レースを多めにして、本番に慣れてみるか?みたいな今後の方針を話し合ってみたほうが、本人も理解できて嬉しいんじゃないかと思います」
「…まぁ、そこに行きつきますね。デビューまでにはまだまだあるし、話し合いは確実に必要不可欠。…ただ、僕も色々タキオンと揉めたので、信用されているかな?」
「リリーちゃんにですか?」
「そう。あんまりしっかりとしたトレーナーとして信用されていない気もするんですよね」
「それが気になりますか?」
「いや、そんな状態で話し合いをしても、素直な言葉はあんまり引き出せないんじゃないかと思って。だから、マテリアルさん、話し合いをするときは頼めますか?」
「ええ?私ですか?…別に良いですけど、さすがに田上トレーナー自身が目の前に姿を見せてあげないと、誰から指導を受けているのかリリーちゃんも分からなくなりますよ。それに、そこまであなたの事を信用してない事はないと思いますよ。仮にもあなたはGⅠウマ娘のトレーナーで、そして、そのGⅠウマ娘のタキオンさんが、全幅の信頼を田上トレーナーに置いているわけですから、タキオンさんに憧れているリリーちゃんにとっては、田上トレーナーも十分に凄い人だと思いますけどね。…揉め事の事をリリーちゃんがどう思っているのかは知りませんが、私と同じくらいの認識だと思いますよ」
「どういう認識ですか?」と田上は少し動揺しながら聞いた。
「単純に、あなたは大変な人だけど、落ち着いている時は落ち着いている人で、タキオンさんの前でしかさらけ出そうとしない人だな、って感じです」
「そんな風に見られているんですか?」
田上は、それを聞いて自分がショックを受けたのか、それとも恥ずかしいのか分からない心地でそう聞き返した。
「そんな所です。あとは、タキオンさんが好きなんだなって事と、タキオンさんと一緒に居たいんだなって事です」
「そうですか…」と田上は顔を赤らめたが、その後に少し気になって恥を忍んで聞いた。
「僕がタキオンと一緒に居たいように見えますか?」
「いやぁ、見えない人の方が少ないとは思いますけど、知らない人から見ればタキオンさんを遠ざけているように見えるかもしれませんね」
「そうですか…」とまた田上は顔を赤らめた。しかし、今度はマテリアルが言った。
「で、まだあと一つありませんでしたっけ?」
「え、ああ、スカウトの話だ。スカウトは、また選抜レース一回で一人確保して、最終的にマテリアルさんと僕を含めて、六人のチームにしたいと思います。この予定で大丈夫ですか?」
「ええ、勿論です」
「あの、マテリアルさんも結構働くことになると思いますけど…」
「働きに来ているんですから、どしどし仕事くれちゃってください。大概の事はできます」
「分かりました。…で、今の話を整理すると、リリーさんは一先ず話し合いをして、タキオンは宝塚記念を目指しつつ、メンタルケアも忘れずに、そして、選抜レースの時に一人ずつスカウトをしていく。これで良いですか?」
「オッケーです」
「……タキオンって大阪杯の後に俺に抱き着いて泣きましたよね?」
「ええ、そうですけど…」
マテリアルは田上の顔を不思議そうに見つめた。田上は、思慮深げに机に差している影を見つめていた。
「あの時になんでタキオンは俺を抱き締めて泣いたんでしょう?」
「えー、なんででしょうね?甘えたかったからとか?」
「甘えたかった……。あんまり当たっては無いような気がします…」
「本人に聞いてみたらどうでしょう?それが一番簡単でしょう?あなた方恋人なんだし」
「…そうですね」と田上が返事をしたところで、その話は終わった。
あとは、リリックの今後の大まかな予定と今日するトレーニングの詳細、それから、タキオンは今日はトレーニングはしないが、田上に付いてくることを伝えた。それを言うと、マテリアルは、「仲が良いですね」と笑ったが、田上は特に気を悪くすることはせずに、トレーニングの時間までを過ごした。