トレーニングには体操服で来るように伝えていたため、リリックはしっかりと体操服を着てここまで来た。しかし、タキオンはトレーニングはしないので、制服だったし、片手には本を持っていた。それは、以前田上が勧めた『人斬り』という高松信夫の著書の一つだった。どうやら、今日のどこかで図書室から借りてきたらしい。田上が、リリックに色々と伝えているその横でタキオンは熱心にその本を覗き込んでいた。
そのあらすじを簡単に説明すると、主人公は三十七歳になる作家と人斬りと呼ばれる人物だ。人斬りは、三度傘を頭の上に据え、腰には一本の刀を差し、ボロ布を身に纏った浪人のような姿をした人物だ。その人斬りは、他の人物には見えない。ただ、その主人公の作家にのみ姿を現して、「次の年までにお前を殺す」と言う。次の年まであと、たったの十四日しかない。作家には妻と娘も居る。ここで死ぬわけにはいかなかったが、その人斬りはあまりにも真に迫っていたので、作家には到底自分一人に見られる幻覚とは感じられず、その身に迫る死を実感していた。
こんな具合で、世間から相当な評価を得ている高松信夫の『人斬り』は続いていく。それを熱心に読むタキオンは、やはり面白く思って読んでいるのだろう。田上はタキオンと共に土手に座りながら、集中して本を読んでいる彼女の姿を微笑みながら眺めた。
リリックは、とりあえず、初週の所はゆっくりとトレーニングをさせてやるつもりだった。初めからきついトレーニングをさせても辛いだけなので、初めはトレーニングという存在に慣れさせることにした。それでも、本人からの要望でもう少しきつい物がしたいと言われれば、楽しめるくらいのきつい物にさせてあげることはするつもりだった。しかし、リリックは、ゆっくり走るだけでも十分に楽しかったようだ。一応、既定の回数に達すれば、休憩させてまた走る、という目標を設定してあげたのでそれが十分に効力を発してくれたのじゃないかと思う。それに、タキオンがリリックの休憩時間に話し相手になってくれたのも良かった。リリックが肩で息をしながら「タキオンさんはこんなことをやってGⅠを勝ったんですか?」と聞けば、タキオンが昔の話をし、それに続いて田上も口を挟んだりして上手にリリックの気を楽しませることができた。
それが続いて、もう限界の所まで来ると、今日のトレーニングを終えた。そして、その走り終わったリリックに田上とマテリアルは、二人で話した事をリリックにも言った。
「リリーさんは、デビュー戦の事どう考えている?」
田上が優しく聞いてみた。すると、タキオンの顔と同じような感じで、リリックも顔を曇らせて黙った。だから、今度はマテリアルが聞いた。
「メイクデビューで絶対勝てって言っているわけじゃないけど、リリーちゃんと走るには今後の話もしないといけないからね。今日は、デビュー戦をどう思っているかだけ教えてほしいの」
「……緊張してます」とリリックは、むっつりと答えた。
「オッケーオッケー。誰でも初めはそんなもんだ。緊張はして当たり前だし、俺だってお前と同じくらい緊張するよ」
そう言った田上をリリックは怪訝そうな顔で見てきたが、田上は少しお道化た様に言った。
「大阪杯で倒れたのも少し緊張しすぎたのが原因だと思う。俺も、緊張には弱いから、一緒に頑張って緊張を倒そうな」
「はい…」とリリックはあまり怪訝そうな顔は崩さずに、でも、口元に少しだけ笑みを浮かべて頷いた。
そして、その後に田上はある事を思い出して、タキオンに慌てて言った。
「そうだ。連絡来てたんだった。タキオン、お前、日曜のファン感謝祭はどうする?GⅠ勝った人を中心に出し物としてサイン会をするらしいけど」
「え?サイン会出ないといけないのかい?」
「別に、強制ではないけど、ぜひとも出てほしいって感謝祭実行委員会から連絡が来てた。…どうする?」
「ええ?別にそこまでしてファンに気を遣う必要もないけど、サイン会か…。君が一緒に出るんだったらいいよ?」
「俺?出れるの?」
「ファン感謝祭なんだから、君も出れたって良いだろう。トレーナーにだって十分ファンはついているはずだ。それに、私の見立てでは、君は主婦層に受けそうな顔をしている」
「主婦層?」
田上は思わず笑ってしまった。
「そう、主婦層だよ。ファン感謝祭にも新しい層を取り入れたほうがいいんじゃないかな?トレーナー陣でアイドルユニット作りたまえよ」
「嫌だよ。俺はそんなのに参加はしたくないよ」
「じゃあ、サイン会はどうするんだい?君が出ないのなら私も出ないつもりだよ?さすがに、大勢のファンの相手をするのはつまらないだけだし」
「…どうだろう?トレーナーがそういうサイン会に出るって聞いたことないし」
「出てみたら?」
タキオンが、少し嬉しそうに催促をした。
「いや、…ファンってお前のファンだろ?それの横に俺がいて良いのか?…お前の事が好きで来ている人もいるだろうし…」
「嫌だよ。私はそんなファンとは交流したくないよ。だって、まぁ、偶像商売ではあるものの、私は君の事が好きなんだよ。そして、ファンの事は好きにはならないんだよ。それで、一方的に好かれたってしょうがないよ。そんなファンには現実を見せてやった方が良いと思うよ。君と私の仲の良さを。大体、今までも仲が良い二人組でここまで来たじゃないか。それすらも受け止められずにここまで来てしまったファンには直々に引導を渡してやったほうが良いと思うんだ」
「それは、少し可哀想じゃないか?」
「いや?…考えてみてくれよ。嫉妬心は湧かないのかい?君の事だよ。君の彼女だよ?君の恋人だよ?君の彼女が、他の人に好意を向けられているんだよ?男としての君はどうかな?」
田上は、外のたくさんの人が居る場所でそんな事を言われたくはなかったのだけれど、あまり聞き耳を立てている暇そうな人は見えなかったので、眉を寄せながら言った。
「そりゃあ、無い事もないけど…」
田上のちょっとした言葉詰まりを、タキオンは見逃さずに捉えた。
「無いけど、有るだろう?何しろ君の恋人の事なんだから。…で、君はどうするのかな?」
田上は、少しタキオンの顔を恨めしそうに微笑しながら見つめた。それから、考える時間を取った後に田上は答えた。
「まぁ、掛け合ってみよう。タキオンがそうじゃないと出ないって言った、って伝えたら相手方の方で考えるだろう」
「君としては、他の人間を牽制する事もできると思うよ?」
「…別にお前は普通の人とは一線を画するアイドルなんだから、牽制以前に線引きがされているだろ」
「それもそうだ。が、私は一応世間を牽制しておくつもりだ。――私たちは『二人』んだからな?と」
「それをする必要はあるのか?」
「あるとも。私は普通の人間だ。普通に君と結婚するつもりだ。それを、世間は邪魔をしないでほしいから、牽制をする必要があるんだ」
こうタキオンの口から、田上が世間にバレてほしくない言葉がぽんぽんと出てくると、少しは田上も動揺したが、その言葉にこう返した。
「普通に暮らすんだったら、今のうちに引退をしておいた方が得じゃないか?」
この言葉にタキオンは眉を寄せた。
「宝塚は走るよ?」
その言葉を間に置いて、田上とタキオンは暫く見つめ合った。すると、先程までリリックと話していたマテリアルが、話を終えて二人に話しかけてきた。
「何の話をしているんですか?」
タキオンが顔だけを動かすと言った。
「圭一君が、私の事を信用してくれない」
マテリアルは、――そんな事はないだろう、と思って田上の顔を見ると、成程、大体の事は予想できたのでタキオンに言葉を返した。
「田上トレーナーは、あなたの事を信用していないんじゃなくて、心配しているんですよ」
「いや、それは同じ意味だよ。あんまり変わらない」
「そんなことないですよ。じゃあ、聞きますけど、あなたは田上トレーナーに信用されていないと本当に思っているんですか?」
タキオンは、また田上の事をじっと見つめたし、田上も見つめ返した。そして、タキオンが言った。
「心配かもしれないが、私は宝塚を走ると覚悟を決めたのに蒸し返してこようとするんだ」
この言葉を聞くと、マテリアルも田上の言いたい事が今十二分に理解できた。どうやら、タキオンは焦っているように見えた。それで、彼女は田上に少し憐みの目を向けると、タキオンに打ち明けた。
「私、田上トレーナーに相談されたんですよ?――タキオンが相談を持ち掛けてきたら素直に相談に乗ってやってほしいって」
ここで、タキオンは少し睨むように田上に目をやったが、またマテリアルに目をやると言い返した。
「私は別に君に相談なんてしない。相談するなら圭一君の方にする」
「それは分かっていますよ。私も実際にそう言い返しました。だけど、―—もし相談を持ち掛けられたら…、と言ってきたんですよ。田上トレーナーは、本当に心配しているんですよ?」
そう言われると、タキオンは半ば動揺を心に抱いて、田上の顔を見つめた。田上は、タキオンの顔を見つめたまま微かに頷いた。そして、タキオンに言った。
「お前もこれまで苦労が多かっただろうから、少しは落ち着いても良いと思うんだよ」
この言葉にまたタキオンは動揺を募らせたが、却って反論の種にもなった。
「嫌だ。私は走るんだ。もう決めたんだ。君もトレーナーならウマ娘の意見を尊重したまえ」
「…トレーナーだけど恋人だ」
田上は、今はもう悲しそうな顔になってタキオンを見つめてきていた。
「タキオン。…お前の走りたい気持ちも分かるから、どうか、辛くなったらすぐに相談してくれよ」
「それくらいすぐにするさ。それに、その事は君にも当てはまる。私が、今日も君に言った事だ。君だって簡単じゃないんだからな!」
タキオンはそう吐き捨てると、かっかと熱くなった頭に任せてその場を去ろうとした。田上は、タキオンの速足に置いて行かれ、呆然とその後ろ姿を見つめるだけだったが、タキオンが土手を上り切った時に、痺れを切らしたマテリアルが「追いかけろよ、ヘタレ!」と田上の肩に軽いパンチを食らわせた。言葉遣いもそうだったが、肩にパンチを受けた事にも驚いて、田上はマテリアルの方を見た。すると、マテリアルはまた「追いかけなさいよ。今追いかけないでいつ追いかけるんです?やっと恋人になったんでしょう?」と言った。それを言われると、田上も慌てて「はい」と返事をすると駆け出して、タキオンの後を追った。今の会話の間でもタキオンは速足だったから、大分遠くの方へと行っていた。しかし、追いつけない距離ではなかった。田上は懸命に走って距離をグングン詰めていき、少し息を切らせながら速足のタキオンの横についた。すると、タキオンはふっと笑って速足を緩めた。
「君なら来てくれると思ったよ」
「マテリアルさんが居なかったらこれなかったかもしれないけど」
「いや、君なら来てたさ。…相談しよう。あのベンチに座って」
陽はもう沈んで、辺りは街灯の明かりで薄ぼんやりと照らされているに過ぎなかった。まだ、西側の空は少し明るいが、それもやがて星の見えるような暗さに変わった。二人は、またあのベンチに座った。暗闇に目が慣れたのでお互いの顔は見えたが、それでも、あのベンチの周辺には明かりがなかったので、見えづらくはあった。そんな中タキオンは田上に肩を寄せながら言った。
「私の我儘を聞いてはくれないか…」
「…走りたいのか?」
「ああ。…私だって何かわだかまりがあるのは分かっているけど、とにかく私は走りたいんだ。君の為にも」
「俺の為?」
「君の為だ。…なぜかは分からないけど、私は君の為に走る」
「でも、俺は苦しみながら走るお前は見たくないよ。さっきのデビュー戦の話をした時のリリーさんの顔を見て思ったんだけど、その顔がお前とそっくりだったんだよ。お前は、今、リリーさんと同じように苦しんでいるんだよ」
「…でも、少しだけ目を瞑っていてほしい。…本当に目を瞑って。キスをしよう?ここならそんなに人は通らないし、暗いからあまり分からない。君がそれでも嫌なら、もう少し木陰の方でしよう」
「いや、キスで誤魔化そうとしないでくれ。…お前が俺にたくさん良くしてくれたから、俺がここに居れるのは分かっているけど、それでも、お前がそんな顔で走るのは見たくないんだよ。…なんで走りたいんだ?」
「いや、黙って私とキスをしてくれ。ほら、立って」
タキオンはそう言うと、田上を強引に立たせた。そして、その首にしがみ付くように今度はキスをした。二人の胸の間に押し付けられた硬いネックレスの痛みを少し感じた。それでも、タキオンは身じろぎ一つせずに、田上も身じろぎ一つせずにキスをした。田上は、黙って身を委ねているだけだった。一度、少し目を開けてタキオンの顔を見てみたが、長い前髪にその顔の大部分を隠されて、田上の一番見たかった赤い瞳は目を閉じているのか開けているのかさえも分からなかった。
長い間唇を重ねてから、二人は体を離した。田上は、相変わらず悲しそうな顔でタキオンを見つめていた。その顔を見ると、タキオンも複雑そうな顔をした。どうにも、二人の間にはやりきれない壁があったが、タキオンは唐突に頭を下げると言った。
「走らせてくれ。お願いだ。我儘なのは分かっている。…でも、今度は君が支えてくれると言った。私は、この身を君に預ける。宝塚は走る。落ちるのなら、どうか君と一緒に落ちたい。…君が心配なのも分かっている。でも、君と一緒なら私はそんなに大事には至らないと思うんだ。君は、いつも通り私の傍に居てくれるだけでいいから、どうか、君の恋人として私が宝塚記念を走る事を許してくれないだろうか…」
そのままタキオンは頭を下げ続けた。いや、正確には頭の上げ方が分からなかった。この後、どのような顔をして自分の恋人を見ればいいのだろうか?確実に自分の我儘であるにも関わらず、それを押し通そうとしているのだ。叱責されたっておかしくはない。田上は、そのタキオンの後頭部をじっと見つめた後、言った。
「恋人として、…走ってくれ」
あそこまでして頼まれると、田上にだって断る術は持ち合わせていなかった。それに、あのタキオンの発言の中には、田上自身の覚悟も含まれていた。その覚悟を分かってくれているなら、田上ももう少しタキオンに対して寛容になれ、または、ならざるを得なかった。実の所、田上も自分たちの距離の不安定さに怯えていた所だったが、タキオンがこうしてしっかりと発言してくれたことで田上もいくらか安心した。
タキオンは、その言葉を受けても容易に顔を上げることができず、その胸には自分の我を押し通してしまった罪悪感が残った。けれども、田上に「顔を上げて」と言われると、ゆっくりと顔を上げて田上の顔を見た。そして、その田上が手に持っているネックレスを見た。今は首から外されている。田上はそれを持ちながらも、少し迷っている様子だったが、タキオンにこう言った。
「お前の誕生日までこれを掛けててくれないか?」
タキオンは、口を開くこともままならず、田上の顔をただ見つめ返すばかりだった。
「お前の誕生日になれば、また、新しいのを送るよ。それまで、これをかけててくれないか?」
これに、タキオンは答えようとしたが、中々言葉が出てこなかった。その苦心してるのを田上も察したから、口角に微かに笑みを浮かべながらその顔を見つめた。そして、ようやくタキオンは言った。
「それに何の意味があるんだい?」
「意味は、あんまりないかもしれないけど、恋人ならこんなことをしても良いと思って。嫌だった?」
「嫌?…嫌な事はないさ。…ただ、…ただ、……何にもない」
「本当に?言いたい事があれば言ってもいいよ」
「いや、…ただ、ちょっと戸惑うよ。本当に何か意味はないのかい?」
そう言われると、田上も少し考えてから言った。
「少し、…自分の物と一緒にいるタキオンを見たい?」
「それが理由かい?」
「…どうだろう?でも、お前が恋人だと俺も安心するんだよ」
「私もだよ」とタキオンも笑みを作った。そして、少し顎を上げると続けた。
「首に掛けてくれ。正面から」
「オッケー」と田上は言うと、手に持っていたネックレスをタキオンの首に掛け、その留め金を首の後ろで手さぐりに留めようとした。当然、少し時間がかかった。あまり器用ではない田上のため、こうなるのは見えていたが、むしろ、タキオンはその時間が続いてほしかったし、田上も同じようにこの時間が楽しかった。時々、タキオンが身じろぎすると「ちょっと待ってね…」と悪戦苦闘している田上の声が聞こえるのが、タキオンには可笑しくもあって、ふふふと笑い声を漏らした。
そして、中々時間をかけてから田上はようやく「できた!」と言って体を離した。すると、今度はタキオンが田上を抱きしめた。田上の脇の下をグイと抱き締めて距離を詰めてきたので、田上は少しよろけた。そして、少し体勢が辛い事をタキオンに伝えると、二人で体勢を調整してまた抱き合った。田上は、タキオンの髪に自分の顔を埋めて、ふふっと笑った。タキオンもその笑い声に呼応するかのようにふふふと笑った。タキオンのふわふわの髪の中に顔を埋めると、髪の毛がチクチクもしたが、匂いで彼女の事を感じることができた。タキオンも先程から田上の肩に自分の顔を押し当てて、しきりに田上の匂いを嗅いでいた。二人は少し喜びを感じて、そのまま暫く、田上がタキオンにネックレスを着けるのに手間取っている時間よりも些か長く抱き合った。その頃には、もう門限も近い時間となっていた。タキオンも田上も寮に帰らないといけない。田上が「もう帰らないと」と言うと、タキオンが「あと少し待って」と言って、今までよりも強く田上を抱き締めた後、満足したように離れた。しかし、田上は、離れた後のタキオンの小さな体と嬉しそうな顔を見ると、顔をしかめた。そして、次のように言った。
「お前は女子高生だ」
「そうだ。私は女子高生だ。問題あるかな?」
「問題は山積みだ。とりあえず、今はこうして抱き合う事しかできない」
「そうだね」
「…お前は女子高生だ…」
「何かな?」
タキオンが少し苦笑して、また聞き返した。
「……お前は恋人だ」
「そうだよ」
「…どうしようか?もう帰るか?」
「帰りたくないと言ったら?」
「どうしようもないよ。依然、お前は女子高生なんだから、俺の部屋に泊まらせるのは少し問題になる」
「まぁ、そうだろう」
そう言うと、タキオンはにっこりと笑って田上と手を繋いだ。そして、「帰るしかないか」と言うと、二人は、石畳の道を歩いて街灯を目指し、街灯の下へ行くと少し明かりに目を瞬かせる。それから、二人は寮の前まで行き、無謀にもその建物の前でキスを交わすと別れた。これを果たして他の人たちが見ていたのかは分からないが、少なくとも問題にはならなかった。このキスは、タキオンが不意に田上にしてきた物だったので、タキオンがすぐに「ばいばい」と言って立ち去った後ろ姿を、田上は少し苦笑しながら見つめた。その後に、またタキオンがドアの前で振り返って、今度は田上を見送ったので、田上も手を振るとその場を立ち去って行った。その時に、やっぱりまだタキオンの唇の感覚を無性に思い出していた。
翌朝、タキオンは、起床するとさっそく田上の青いてんとう虫のネックレスを手に取った。そして、同じ時間に目を覚ましたデジタルに見せびらかした。
「これ、圭一君から預かったんだ。誕生日まで着けててくれって」
「ほい!?」とデジタルは奇声を上げた。
「ななななななんと!?贈り物ですか!?」
「いや、厳密にはそうじゃないけど、誕生日にはこれと対になっているネックレスをくれるんだ」
「TU☆I!?あわわわわ、ご結婚おめでとうございます!!」
混乱の極みに達した後にデジタルが発した言葉はそれだった。それを聞くと、タキオンははっはっはと大笑いをした。
「君の反応はいつも私の予想を超えてくるよ。結婚?どうしてそんな事を思ったんだい?」
「ああ、結婚していないのでいらっしゃいますか。てっきり、最近同棲とかなんとか聞きますので、とうとう結婚してしまったのかと思ってしまいました。すみません。ただの誕生日プレゼント…に対のネックレスですか?」
デジタルの興奮は一度は落ち着いたものの、また極みを目指そうとしていた。
「誕生日プレゼントに対のネックレスという事は、恋人からのプレゼントだという事で、タキオンさんとタキオンさんのトレーナーさんは恋人同士という事で、その恋人同士のプレゼントが対のネックレスという事で、タキオンさんと田上トレーナーさんは、恋人同士という事で、恋人同士という事はタキオンさんと田上トレーナーさんが付き合っているという事で、二人の関係は尊い物で、……今後の創作のネタになるのでは?」
デジタルは、興奮を通り過ぎ、一周回って少し目の前にいる人にとっては失礼な事を言っていた。タキオンも勿論、その失礼さは十分に承知の上だったが、それでも可笑しくて笑ってしまった。
「はっはっは、君、目が据わっているよ?そんなに私たちは尊い物なのかい?」
「あ、いや、別に尊くな…、いえ、尊い物ではあるんですが、ご本人様の前で言うべきことではありませんでした。すみません。二度も失礼を働いてしまって」
「いや、別に構わないさ。私は、その『尊い』に興味を持った。聞かせておくれよ。私たちのどこが尊いんだい?」
「いえ、一オタクの身分としてはご本人様にその尊さを伝えるとなると、それは腹を切ってでもできないものでございますので、どうかどうかそれ以上の質問はご勘弁願えると有難いです」
デジタルからはそれ以上煮ても焼いても何も出てこなさそうだったので、そこでタキオンもさすがに質問するのをやめてあげた。そして、またすぐに気分を切り替えて、ウキウキの気分になると、パジャマから制服に着替え、その首元にネックレスを着けた。そして、また、タキオンは自分の身に着けたネックレスをデジタルに「どうだい?」と見せびらかした。デジタルは、尊さに目が眩んだような仕草をした後に早口でお褒めの言葉を並べ立てた。それが終わるとタキオンも満足して朝食を取りに行った。田上が、騒がしいカフェテリアが嫌いなため、朝食はいつも食堂で食べるらしいから、タキオンもそうしていた。そして、その食べる時間も田上とあまり変わらないようにしていた。だから、田上と朝の挨拶を交わすのはまずLANEである。LANEで挨拶する時間は気紛れではあるが、田上の方から挨拶が来たことはそんなにない。今日もそうではなかったから、タキオンは朝食を食べながら田上にメッセージを送った。
『おはよう』
その一言は、また数分後に戻ってきた。
『おはよう』
その返事が来るや否や、タキオンはある事を思いついて言った。
『明日から君の食堂で朝食を取ってみて良いかい?』
『何の話?』と返ってきた。タキオンには、スマホの向こうで怪訝な顔をしている田上が手に取るように見えた。
『明日の話だよ。できるだけ長く君と居たい』
『いいんじゃない?』
その返信が来ると、タキオンは『ありがとう』と返して、残りの朝食を食べ終わった。そして、それが終わると、タキオンはこれまたウキウキしながら自分の鞄を持って、教室の方へと向かった。その途中で、ネックレスは服の内側の方へとしまった。別に、アクセサリーが禁止なわけではないが、そのネックレスで噂されても困るだろうと思ってそれをした。ちなみに、困るのは田上の方であって、タキオンはそれを思ってやっただけだった。
教室に着くと、いつもの席に座った。窓側の一番後ろの席だ。勿論、この席が先生から丸見えだという事はタキオンにも分かっていたが、それでも落ち着く席だった。気楽に外の景色を見れるのが良い。外の方を不意に見てみれば草の緑が向こうの方に見える。勿論、ここの中庭は枯れてる方の中庭なので、見える緑は奥の校庭の方だ。
それに、夏になればここは風の当たる良い場所だった。この学園には、金があるくせにエアコンはないので、天井で回る扇風機と窓から入る風のみが夏の時の涼を得る手段となる。そして、冬になれば太陽の光も入ってくるので、ぽかぽかしていて暖かい。これが、つい一月まで最低限の授業しか出ていなかったタキオンが学んだことだった。
その席で、タキオンはこっそりネックレスを外してそれを眺めていた。すると、教室のどこかでタキオンを噂する声が不意に耳についた。別に悪い事は言っていない。小声で「ねえねえ、アグネスさんが嬉しそうにネックレス眺めてる」というのを友達に報告している声が聞こえただけだ。それで、タキオンもあんまり噂になるもの田上に良くないので、それをおもむろに首に掛けると服の中でしまおうとした。その時にもう一人うるさいのが話しかけてきた。ハナミだった。「タキオンって、進路どうするの~?」と全然別の話題を振りかけたのだったが、タキオンの首に掛けて今まさに服の内にしまおうとしているネックレスを目ざとく見つけると、すぐにネックレスの話題に切り替えた。
「あ、それ、田上トレーナーのネックレスじゃない?違う?」
ここで、「違う」と否定しても手遅れである事は否めなかったが、それでも素直に認めるのには抵抗があったので、タキオンは「違う」と返した。けれども、もう服の内に隠すの諦めて素直にそこに置いた。すると、当然ハナミは反論した。
「ええ?それ、田上トレーナーのじゃん。同じの買ったの?」
二度も聞かれればタキオンも少々低めた声で素直に言った。
「預かっててくれ、と頼まれたんだ。だから、私がこうして着けてる」
「へ~、付き合ってるから?」
「あんまりそれを大きな声で言わないでくれ。彼の方が嫌がる」
すると、その直後に前の席の方で塊になって喋っているウマ娘二三人のクラスメイトの内の一人がタキオンに声をかけてきた。
「アグネスさん」
タキオンがそちらの方を見ると、あまり見ていて心地良くはない笑みを口元に浮かべた女子たちが皆揃ってタキオンたちの方を見ていた。ハナミもまた、タキオンが見ている女子たちを見た。そして、その声をかけてきたクラスメイトは自分の首元をちょんちょんと指差しながら言った。
「アグネスさんのそのネックレスどこで買ったの?」
これは、田上が買ってきた物だから正確な場所は分からない。ここで下手に嘘を吐いてしまうと、タキオンが後々困る。だから、田上の存在はあまり表に出さないように、無難な嘘を吐いた。
「ネットで買った」
端的にそう答えると、その女子の塊はクスクスと笑い合った後に、タキオンに話しかけてきた人だけが近寄ってきて、さらに踏み込んだ質問をした。
「タキオンさんって、学外に好きな人とかいるの?彼氏がいたりする?」
「残念ながら、彼氏も好きな人もいない」
「へぇ、そうなんだ。なんか、アグネスさんってオトナっぽいからてっきり男の人と付き合っているのかと思ってた」
その人の顔は相変わらずにやにや笑っていて、タキオンは鬱陶しく思ったが、それでも、その人は話しかけてきた。中々にやりにくい質問をぽんぽんと投げてきた。
「アグネスさんって、この前インタビューの記事出ていたけど、田上トレーナーとお出かけしてたって本当?」
「本当だよ?何かあるかな?」
「いやぁ、トレーナーさんとお出かけするなんて中々だなぁ、と思って。それで、付き合ってますかって聞かれた時に、――お答えできませんって田上トレーナーが答えていたけど、それってもしかして?」
その人のニヤニヤ顔がさらにニヤニヤした。
「付き合ってるのを隠している、とでも言いたいのかい?それなら、残念だが、あれは自衛のための判断だ。私たちの二人の仲が良いというのは、度々報道されていたから、ああいうのには答えないでおこうと二人で決めたんだ」
「へぇ、…でも、この前ラーちゃんがアグネスさんと田上トレーナーが手を繋いで歩いているのを見たって言っていたけど」
これは、さすがのタキオンも心の中で動揺した。ハナミもこれまでずっと黙って見守っていてくれたが、今度こそはこれをどうやって切り抜けるのだろう、とタキオンの方をじっと見つめていた。その視線が、タキオンには鬱陶しくもあったが、できるだけ動揺は表に出さないで、こう返した。
「そういうので報道されていたから、私たちは困っていたんだ。別に、あの人の事は何とも思っていないよ。私が興味があるのは、生物の神秘についてだけだ」
こう言うと、相手方も一旦は「へぇ」と言って納得してくれたようだ。それでも、タキオンと話したかったらしく、「そのネックレスってお洒落だね。青いてんとう虫?」と言ってきた。これは、タキオンとしては田上のセンスを褒められるのは万々歳なので、にっこりと笑って「そうだろう?」と返した。その笑みに釣られて向こうの方も温和な笑みをしていたが、ここで先生が教室に入ってきて出席の確認が始まろうとした。ただ、まだ喋りたそうにしていたその人は、「また次の休み時間にね。ハナミさんも」と言うと、自分の席の方へと戻っていった。ハナミはその人が立ち去ると、心配そうにタキオンを見ながら「どうするの?」と聞いた。タキオンは、それに言葉では答えず、ただ首を傾げるだけだった。
その後は、ハナミも自分の席へと戻っていった。ちなみに、アルトは、自分の机に突っ伏して、まだ朝だというのに眠っていた。