先生が出席を取り終わった後は、また何か連絡事項を述べたことがあり、それから、授業までの時間が五分ほど空くのだけれど、あの人は、タキオンに「また次の時間にしゃべろうね」と言うと、別の友達と嬉々として五分もの間話しこんでいた。ハナミは、その間は、授業の準備をしていたし、アルトは相変わらず寝ていたので、タキオンも一人で外を見つめていた。また、あの人の相手をしないといけないと思うと、少し憂鬱だったが、それよりも胸にある田上のネックレスを感じると少し嬉しくもあった。タキオンは、外を見つめるのをほとんど一瞬でやめて、今度は、また自分の首からネックレスを外してそれを眺めることにした。まだ、田上と一緒になれるという興奮は冷めやらなかったが、同時に自分の我儘を押し通してしまった罪悪感も、それと共にタキオンの心にじんわりと染みた。けれども、それ以上にやっぱり田上の事が好きだった。もっと一緒に居たいと思っていたから、このネックレスによって田上の事が想起されつのは、実に喜ばしい事だった。これは、授業中でもできるので素晴らしい。タキオンは、一時間目の授業時間は、時折、そのネックレスを嬉しそうに見つめながら過ごした。
そして、また休み時間になると憂鬱でもあったが、なんとあの子は他の人と話していた。――もう忘れてしまったのだろう、とタキオンは少しホッとすると、立ち上がってアルトの方に朝の挨拶をしに行った。
「おはよう」
そう声をかけると、今まで机に突っ伏していたアルトが、ノロノロと起き上がって、タキオンの顔を見ながら「おはよう」と返した。すると、すぐにタキオンのネックレスに気が付いて、自分の首元を指差しながら「それ?」とタキオンに聞いてきた。今は、そのネックレスは服の内にしまっていたのだけれど、やはり、首に掛けて露出している部分だけでも、アルトは昨日の田上のネックレスだと気が付いたようだった。タキオンは少し困ったように笑いながら、そのネックレスを服の内から出してアルトに見せた。
「やっぱり分かるかな?」とタキオンが言うと、アルトは「何が?」と返した。
「このネックレス。服の中に隠してても分かるだろう?」
「まぁ、分かるね。何か問題でも?」
アルトがそう聞くと、向こうの方からハナミも来て、アルトの机を囲む輪の中に加わった。だが、暫くの間は口は開かなかった。だから、タキオンとアルトは話を続けた。
「君たち以外は分からないだろうけど、噂になると不味いかな、と思って」
「…あの人の事?」というのは田上の事を指しているのは、この輪に居る人は皆承知だった。
「ああ、ちょっと預かっててくれって頼まれたから。…どうだろう?不自然かな?」
「…別にいいんじゃない?ネックレスを着けている人はあんまり見ないけど、まぁ、気にはしないんじゃない?」
「そうかなぁ…」
タキオンが心配そうに言うと、ハナミがその後に言った。
「学生にしては少し高そうなのがね。制服にもあってないし。外したら?」
「外す?…それは、あの人に着けててくれって頼まれたから…」
タキオンは、聞き耳を立てている人が居ないか、少し辺りを警戒しながら言った。
「そんなにあの人の事が大事なの?」
ハナミは少し物珍しそうにタキオンの事を見ていた。
「…別に問題はないだろ?」
「問題はないけど、…丸くなったねぇ」
「どういう意味だい?」
「昔は、タキオンももう少し尖ってたよ。研究・研究・研究だったでしょ?それが今は、人と付き合って、その人にでれでれなんだから、丸くなったよ」
「でれでれかい?」
「いやぁ、でれでれでしょ。さっきのネックレス褒められた時の嬉しそうな顔と言ったら…、ねえ?アルちゃんにも見せてあげたい」
「どんな顔してたの?」
「うーんとね。…顎撫でられた時の猫みたいな顔」
「うわぁ、もう女じゃないですかタキオンさん」
「女じゃないよ」とタキオンは、少しまんざらでもなさそうな顔で、二人の事を睨みながら言った。
「例え女だったとしても、君たちも、大切な人が出来れば、そんな顔になるんじゃないのかい?」
アルトとハナミは、同じような楽しそうな顔をしながら「いやぁ、そうはならないと思うけどね」とそれぞれ答えた。それをタキオンは不信の目で見つめて言った。
「そんな事はない。君ら、人と交際した事はないんだろ?」
「あったら、今頃君らとは話してないね」とアルトが答えたし、ハナミも「私も彼氏が欲しい」と言った。それから、アルトがこう続けた。
「いやぁ、そう考えると、タキオンってすごいな。自分より年上の社会人と付き合っているって事でしょ?並の女子高生じゃないよ」
社会人と付き合っているという言葉が、自分と田上が付き合っている事のバレる危険性を孕んでいたから、タキオンはあまりいい顔はしなかったが、特にそれに触れることはせずに言った。
「こっちだって並の女子高生として生きているつもりなんていないよ。あの人と対等になるためには、並の女子高生をやめる必要があった。…だけど、昨日はやけに女子高生女子高生言われたよ」
「なんで?」
ハナミにそう聞かれると、タキオンも少し困ったような顔になって返した。
「まぁ、悪い意味じゃないと思うけど、あの人も少し私との関係を整理する必要があったのだと思う。だから、要するに、私が女子高生だという事実をしっかりと捉えた上で向き合いたかったんじゃないかな」
「へ~」とアルトとハナミが揃って頷いた。すると、アルトとハナミの間に割って入ってきた人が居た。それは、先程タキオンに話しかけてきたあの人だった。
「何の話してるの~?」
「ネックレスの話だよ」とタキオンは当然のように嘘を吐いた。その頭の回転の速さにハナミとアルトは舌を巻いた。
「ネックレス?」
「アルト君が、聞いてきたから話してたんだ」
「へ~、アルトさんとアグネスさんって仲良いんだ」
「仲は良いね」
「へ~。…なんで仲が良いの?」
「…別にこれといった理由はないけど…、いつの間にか仲は良くなったよね?」
タキオンがそうハナミとアルトに頷きかけると、二人の方もうんうんと頷きながら「いつの間にか仲良くなってたよね?」と言っていた。それを面白そうに眺めながら、またその人は言った。
「アグネスさん、最近は教室に来るようになったけど、その前は結構研究?みたいなのをしてたんでしょ?その間に仲良くなったんだ」
「そうだね。たまに教室に来た時に、二人が話しかけてくるから私もそれに返してたよ」
「へ~、アグネスさんって案外話せるんだね。もっと、ねぇ?なんかニュースで見た時は、怖い人かと思ってた」
「モルモット君発言かい?」
タキオンが、ちょっとムッとしながら言った。
「そう、それ。あれってどうなの?本当なの?」
「残念だけど本当さ」
「へぇ、じゃあ、あの人って本当に実験されてるの?仲が良いようにも見えたけど」
「最低限注意を払って実験をしているよ。彼に死なれちゃ困るからね」
「え、じゃあ、実験はしてるんだ」
「そうだ。元々は、彼からやりたいと言い出した。私は元々この学園を去るつもりだったけど…」とそこまで言ったところで、今のタキオンの告白に「え、嘘!」とハナミが声を上げた。
「タキオン、ここ辞めるつもりだったの?」
「ああ、ここじゃ研究が上手くいかなさそうだったから、また別の場所に研究の拠点を移して、頑張ろうと思っていた。当時はね」
「ええ!?じゃあ、田上トレーナーがいなかったら、私たち今こうしてなかったって事?」
「そうなるけど、あれに必要だったのは彼だけじゃないよ。前の生徒会長の方も必要だった」
「え?あのクロス会長?」
「そう。私が、ここを退学する話を会長の方に持ちかけていた時に、彼女は私がここを立ち去るのがどうしても許せなくて、圭一君を連れてきたらしい」
「なんで田上トレーナー?」
「知らないけど、たまたまフリーでぼんやりしてそうなのを連れてきたんじゃないのかな。まぁ、それで、無事圭一君が私の薬を飲み干してトレーナー契約したわけだよ」
その景色を思い出しながら、タキオンは少し遠い目をしていた。
「じゃあさじゃあさじゃあさ」とあの人が、慌てて話に割り込んできた。
「じゃあ、田上トレーナーが、アグネスさんを引き留めたって事?」
「まぁ、そうだね」
「へえ!凄い。だから、手を繋げるまで仲が良いんだ!」
「あんまり大きな声で言ってもらうとね」とタキオンが迷惑そうに言ったが、そんな事には構わず、あの人はもう一つ言った。
「あと、思い出したんだけど、大阪杯でタキオンさん――生きてくれ、トレーナー君みたいなこと言ってなかった?あれ?圭一君?田上トレーナーの下の名前は圭一君?」
その人が、物事の真相に辿り着きそうになったので、タキオンは今度こそ焦って、少し早口でまくし立てた。
「あれは、彼が悩んでいたから、私も咄嗟に出たんだよ。それに、ストレスが溜まってしまって、私のレース中に倒れたんだ。そりゃあ、仲が良い人がレース中に倒れてしまったら、君も心配するだろ?」
「まぁ、心配するね」
「そうだろう?それで、あの人は聞かん坊だって事は私が一番分かっているから、あの人の為にあの場を借りたんだよ」
「へぇ、アグネスさん…タキオンちゃんって呼んでいい?」
タキオンは、これ以上この人に好まれるのはあまり良いとは思えなかったが、それでも、ここで無理にでも断ってしまうと、この一年間が面倒臭くなりそうなので、「好きに呼びたまえ」と返した。すると、向こうは「ありがとう」と笑ってから、言葉を続けた。
「タキオンちゃんって、本当にトレーナーさんと仲が良いんだね。なんか、私には今のトレーナーさんをそんな風には思えないし、そんな事までして悩みを解決してあげようとも思わない。…いっその事さ。タキオンちゃんが好きとか嫌いとか関係なくさ。付き合っちゃいなよ。それとも付き合う予定がある?」
「いやぁ、ないかもねぇ」と言いながら段々と面倒臭そうに進んでいく話に、苦虫を噛み潰したような顔をした。それで、その人が「いや、タキオンちゃんなら行ける!」と言ったところで、一時間目の始まるチャイムがキンコンカンコンと鳴った。だから、その人は慌ててタキオンに続けた。
「また喋ろう!行ける!付き合える!」
タキオンは愛想笑いもせずに迷惑そうな顔をしたのだけれど、それでも、向こうの方は鈍感だったようだ。特に、タキオンの表情で嫌がっている所を勘付きもせずに、自分の席へと慌てて戻っていった。
またタキオンは次の休み時間が憂鬱になった。タキオンの予定としては、二時間目の休み時間こそは田上の所へ遊びに行く予定だったのだ。それが、あの調子では一時間目の時とは違い、授業が終わった途端にすっ飛んでくるだろう。そして、もうその目的の人と付き合っているタキオンに対して、どうやって付き合うかを熱弁するだろう。面倒臭くて面倒臭くてしょうがなかった。あの人の話をどう断ってやろうかと考えても、結局、自分と田上が交際していることは隠さないといけないので、どうやってもあの人の話を聞かないといけないもののように思えた。それか、もう真っ正面から断るか。そのどちらかだったので、タキオンは、もう後者を選ぼうかと思った。先程の話を黙って聞いてやったのが、タキオンとしては最大限の譲歩なのだ。これ以上戯言を聞いてもしょうがない。そう思って、タキオンは授業中に眠りに就いた。
当然の事ながら、何度か先生に注意されたのでタキオンは起き上がった。そして、そのまま今度はぼーっと外の景色を見ながら、授業の時間を過ごした。その目線は主に、田上がいるであろうトレーナー室の方に向けられた。――圭一君は今何をしているんだろう?とか、――圭一君も私の事を考えていてくれているのかな?とか、まるで以前のタキオンらしくない乙女チックな妄想をしていた。――これは本当に丸くなったな、と思ったのは、不意に我に返って、自分の考えていたことを見つめ直していた時だった。以前の自分の事はしっかりと分かっているつもりだったから、頭の中に研究の事しかないのもちゃんと分かっていた。それで、田上と付き合い始めた途端にこれだったから、タキオンもさすがに心の中で苦笑いした。だからと言って、田上の事を考えるのはやめなかった。最早、田上の事を考えるだけで楽しかったからだ。それに今は、田上のネックレスが添えてある。
タキオンは、二時間目の休みになって田上の下へ行ったら、あの話しかけてきた人の事を、どう彼に話してやろうかなぁ、と考えていた。
そして、二時間目の休みが来ると、タキオンは早速断ってやろうと身構えたが、その前にあの人の方が別の友達に捕まって話しかけられていた。それで、これ幸いとタキオンはそそくさと田上のトレーナー室へと小走りで行った。
「おはよう、圭一君!」とタキオンは元気よく挨拶をしながらトレーナー室に入った。そこには当然田上がいて、タキオンが挨拶をしてくると自分も微笑みかけながら「おはよう、タキオン」と返した。だが、その部屋にはタキオンの計算違いな事もあって、マテリアルも一緒に居た。勿論、田上にはタキオンという恋人がいるため、それなりの距離は保っていたが、それでも、タキオンが来ない間は二人きりで話していたりするだろう。タキオンは少量の嫉妬が湧いて、少しだけ顔を不満に曇らせた。そして、その後に気を取り直すと、田上の下に駆け寄って、「さっきは面倒だったよ」と話し始めた。
「さっき、知らない子に何か色々質問されたんだよ」
「質問?」
「君と私の関係だよ。君のネックレスを掛けてたから、目を付けられたみたいでね。多分気付かれてはいないみたいだけど、どうも向こうの方が私と君をくっつけたがっているみたいでね。どう思う?」
「大変だな。…俺からも何か言った方がいいのかな?」
「いや、次何か言われたら私はきっぱりと断るつもりだから、君は出てこなくていいよ。これはただの愚痴だ」
すると、パイプ椅子に座っていたマテリアルが唐突に口を挟んできた。
「あ、はいはい!私も愚痴あります!」
タキオンは折角田上と二人で喋っていたのに、それを邪魔されて少し腹が立ったので、眉を寄せた。しかし、マテリアルはそれに気付くそぶりは見せずに言った。
「さっき、田上トレーナーに――誰かいい男紹介してください、って言ったら普通に無視されたんですけど!」
「それは聞く君が悪い」とタキオンが返した。
「圭一君に男を紹介しろって、嫌がるのは分かっているだろ?」
「いやぁ、こっちだって人生掛かっていますからね。ここで田上トレーナーに男を紹介されなかったことによって、私が結婚できなかったらどうするんですか?」
「そんな事私に言われてもしょうがないけど、君の結婚なんて圭一君にも私にも関係の無い話だよ」
「ええ!?酷くないですか?まぁ、別に良いんですけど。…何か、出会いが無いんですよ。…赤坂先生って人はいつ紹介してくれるんです?」
「ああ、…どうしようかな。…保健室に居るから勝手に行ってみたらどうだい?」
「えー、そんなんじゃ何も話せませんよ。タキオンさんがお出かけ企画してくれるって話でしょう?」
「えぇ?私も日曜に圭一君とお出かけしたから、それで満足してしまったよ」
「それじゃあ、私の友達が居ないままじゃないですか」
「いるだろ?友達くらい」
「そんな事はないですよ!こっちだって誰彼構わず話しかけるわけじゃないですからね。それに、あんまり部屋からも出ないですし」
「…えー、何だか面倒臭くなってきたなぁ。もう、圭一君とお出かけしてしまったからなぁ」
「じゃあ、私は、あなたが田上トレーナーとお出かけをする出汁に使われそうだったって事ですか?」
「…まぁ、そうだね」
「腹黒じゃないですか!腹黒!」
この言葉にはタキオンもムカついた。隣には自分の恋人がいるというのに、自分の悪口を言われてはしょうがない。けれども、お出かけをしようと言ったのは事実だし、その過程で田上とのデートも楽しみたかったのは事実だったので、立つ瀬はなかった。だから、それを補おうと思って、次のように提案した。
「なら、カラオケはどうだい?」
「カラオケ?」
しかめっ面で面倒臭そうにしているタキオンに、マテリアルは不思議そうに聞いた。
「カラオケだよ。もう、ショッピングデートはしてしまったから、やるなら別のが良い。カラオケするかい?」
「カラオケですか…。その赤坂先生は、歌は聞くんですか?」
「聞かない事はないんじゃないか?あそこには、遊びに行く子供たちもあるし、それなりに歌好きの女子高生とも話せるくらいの情報量は持っていると思う」
「そうですか…。メンバーは、じゃあ、田上トレーナーと赤坂先生と私とタキオンさんって事ですか?」
そう言うと、田上が自分の名前が出たのに驚いて、「え、俺も行くの?」と言った。すると、タキオンが直ぐにこう返した。
「君も行かなくちゃ。私だけじゃ面倒だよ」
「分かった」と呟くように言いながら、田上はまた黙った。その後にマテリアルが言った。
「カラオケ四人ですか?ちょっと少なくないですか?」
「四人で十分だろ」とタキオンはきっぱりと返したのだけれど、マテリアルはそれでも不満そうな顔をして、「もう一人二人増やせませんかね?」と言った。
「もう一人二人?…増やせるかな?カフェと松浦トレーナーか?…リリー君は?どうするんだい?」
「ああ、あの子もいますね。…どうします?また、省かれたくはないんじゃないでしょうか?」
マテリアルが田上にそう聞いてきたので、田上も神妙な顔をして考えた後に言った。
「まぁ、聞いてみたらいいんじゃないか?歌うのが嫌だって人もいるし。これに関しては本人の意思も尊重してみて良いと思うけど…、いつか皆でお出かけもしないとな」
「まぁ、そうですけど、今は赤坂先生と仲良く…できますかね?」
今度は、マテリアルはタキオンの方に聞いた。
「できそうだ、とは前に言っただろう?そんなに相性は悪くなさそうだから、後は、趣味が合うか?とかだね」
「その人の趣味って?」
「…私の科学の話を熱心に聞いてくれるくらいだから、まぁ分からない人じゃないし、…そうだなぁ。ファッションとか…じゃないかな?分からない。けど、多分、聞き上手だからいいと思うよ」
「その人って彼氏持ちだったりしますかね?」
「彼氏は…聞いた事はないけど、多分、居ないとは思うよ。独り身だと思う。手に指輪も着けていないし。…君は、彼氏が欲しいのかい?」
「いや、彼氏と言うより…心の許せる人が欲しいというか、親しい人が欲しい?別に、あなた方が親しくないとは言わないんですけど、…あなた方ってもう恋人じゃないですか。言わば、二人だけの世界じゃないですか。その中にお邪魔はできないですよね?」
マテリアルにそう問われたタキオンは、躊躇いつつも「まぁ…」と肯定した。
「だから、何か親しい人が欲しいんです。愚痴を駄弁っても構わない様な、気を遣わなくて済むような人が欲しいんです」
「まぁ、分からない事はないけど、そんな人欲したとして手に入るものなのかな?」
タキオンがそう言うと、マテリアルは少しむっとした表情になって言い返した。
「だって、あなただって、そういう物を手に入れたじゃないですか。田上トレーナーは違いますか?」
「いや、勿論その通りなんだけど、圭一君と私は奇跡的な出会いと言ってもいいし、そんなに簡単でもなかった。私は、その奇跡的な出会いを頑張ってつなぎ止めた。だから、さっき私が言いたかったのは、――そんなに簡単な事なのかな?という事だよ。君は今は、言わばゼロというわけだ。ゼロから何か最上の物が欲しいと言っているんだ。それは簡単な物じゃないと思うけどねぇ」
タキオンの言う事は尤もな事だったので、マテリアルは一度口を噤んだ。それから、またこう言い返した。
「じゃあ、なんですか?私は、一人のままで良いと?」
「いや、そんな事じゃないよ。ただ、望んでも直ぐには手に入らないものってあるだろ?そりゃあ、懸命に努力すれば手に入るものかもしれないけど、今回のお出かけでそれを期待されても私は絶対にそれには応えられないんだよ」
これもまた正論により、マテリアルは一度口を噤んだ。けれども、やっぱり納得いかずにこう言い返した。
「そりゃあ、もう恋人を作ってしまったタキオンさんには分からないかもしれないですけどね。一人って辛いですよ」
「分かるさ。私だって君に辛いと零した事があるだろ?」
「…ありましたけど、もうそうじゃないでしょう?」
「いや、そうだったという事は明確に覚えている。…圭一君」
田上はこの話を聞いていて、いつか自分に火の粉が飛んでくるんじゃないかと思っていたから、タキオンに声をかけられた時はやっぱりと思って、緊張した面持ちで「何?」と返した。
「そんなに怯えなくてもいいけど、大阪杯の前に君は言ったね?――お前が一人で進んでいったから、俺にトレーナーは無理だと思った、って。どうかな?」
「そう言った」と田上は自分の愚行を苦々し気に思い出しながら返事をした。
「それを言われた時の私の気持ちが分かるかい?」
「分かる。もう、本当に悔やんでも悔やみきれない」
「そう思ってくれているなら嬉しい。けど、以前の君を敢えて取り上げさせてもらうと、…今君を責めたいって訳じゃない。今もこれからも一緒に仲良く過ごしてほしいんだけど、敢えて!取り上げさせてもらうと、君は、私の反論できない事を盾にして、自分の言葉の槍で私を突いてから逃げ去ったんだ。…今はいいよ。私は現状に満足している。君とは恋人だ。あの論争が無かったら、今でも君と私は恋人ではなく、君は鬱病者として実家の方へと帰っていたかもしれない。…マテリアル君、私がどんなに辛かったか分かるかな?君の辛さがこれより劣っているなんてバカげたことは毛頭言うつもりはない。しかし、今の圭一君のような顔をしたくないのなら、私に過度な期待を寄せるのはよしてくれ」
この言葉は田上も交えた上でだったので、相当強烈に効いたのか、今まで躓いたとしても反論を重ねていたマテリアルも、大人しくなって「分かりました」と言った。それから、少し雰囲気が悪くなった状態が続くのかに思えたが、これはもう気を取り直したマテリアルが言った。
「あーあ、でも、頼れる人が欲しいなー」
「…君、この部屋でそれを大声で言えるって事は、もう十分に気を遣わずに生活しているじゃないか」
その言葉を受けると、マテリアルはタキオンの事を恨めしそうにじっと見つめた後にこう言った。
「じゃあ、言い直します。なんか満足したいなー。理想の自分だったら、今頃、彼氏とかできて、タキオンさんとこんな話をせずに、むしろ、タキオンさんの方に教えを説いたりしてもっと優越感に浸れたのになー」
「…私は優越感に浸りたくて言ったわけじゃないよ」
「分かってます。でも、何か理想の自分が欲しいなー」
それで、やっと話を終えたタキオンが、田上を見て言った。
「一昨日も確か、それで君を少し苛めたばかりだったのに、また苛めてすまないね」
「いや、いいんだよ。俺は悪い事をしたんだから」
「そんなに思いつめないでくれよ。一番は、私が現状に満足できているという事だ。君と過ごせたらそれでいいんだ」
そう言いながら、タキオンは座っている田上に近づいてきて、最後にはその膝の上に自分も座り、椅子が重みにギシシと悲鳴を上げた。タキオンと田上は、向かい合いながら座りお互いの顔を少し微笑み合いながら見つめ合った。そして、そこで三時間目の始業を告げるチャイムが鳴った。タキオンは、そのチャイムが鳴るとほとんど同時に、田上とその唇と唇を重ね合うと、パッと立ち上がって言った。
「じゃあね。また次の休み時間にも来れたら来る。さっき言った面倒が、もしかしたら、もっと面倒になってるかもしれないから」
そう言うと、タキオンはさっさとドアの方に行き、そして、ドアを閉めるタイミングに田上にちょっと笑いかけると、上機嫌そうに立ち去って行った。
その気配がなくなると、マテリアルはぼそりと呟くように言った。
「田上トレーナー、…タキオンさんの事好きですね…」
「え?」と若干戸惑いながら田上は聞き返した。あんまりマテリアルらしくない物の言い方だったからだ。すると、その後にマテリアルはもう一度繰り返した。
「タキオンさんの事好きですね…。なんで好きなんですか?」
これは昨日も聞かれた事だったが、これと言って昨日と違う事を田上が言えるはずもないので「なんでって聞かれても」と戸惑いながら返すしかなかった。すると、マテリアルは質問を変えて田上に挑んだ。
「じゃあ、ちょっとニュアンスを変えるんですけど、『なんで』田上トレーナーはタキオンさんの事を好きになれたんですか?『どこが』ではなくて、『なんで』。どうしてタキオンさんの事を好きになれたんですか?」
「それは、…年の差とかって事ですか?」
「それもありますけど、別にそれとは限りません。なんでタキオンさんを好きになれるんですか?」
「………えぇ?なんで…?…うーーん、と…。多分、向こうが好きでいてくれたから?」
「うん?」
「…だから、僕も別にタキオンの事は嫌いじゃなかったんですけど、……さっきも言ったようにタキオンを突き放してた時期もありまして、…で、それでも好きでいてくれたからタキオンを好きになった?」
「うん?…つまり、二度好きになったって事ですか?」
「二度、って訳じゃないですが、マテリアルさんも知っての通り、僕は正真正銘のヘタレですから、…別にタキオンが好きじゃないんなら俺も好きじゃなくていいかなーって事…かな」
「つまり、…告白されなかったら、そのままでいるつもりだったと?…確か、タキオンさんからはキスをしたと聞かされましたが」
「あー、…キスはされましたけど、…それが無ければもう俺はさっきのタキオンの発言の通り、鬱病で実家に帰っていたかもしれません」
「じゃあ、キスで鬱病が治ったと?」
「いや、…それこそタキオンが自分の事を好きで居続けてくれたおかげで、鬱病を免れたというか、タキオン自身も言っていましたけど、タキオンが僕の事を繋ぎ止めてくれたからここに居る…。だから、むしろ、好きと言うよりは、僕の事を大切に思ってくれていたから、そうなったんじゃあないかなと思います」
「大切に思われていたから、あなたも心を開いた…と」
それから、マテリアルは少し考え込んだ後にまた質問をした。
「つまり、お互いが想い合っていないと恋人同士にはなれなかった?」
「えー…、まぁ、そういう事になるとは思いますけど、誰もがそうなんでしょうかね?」
「…多分、誰もがそうだと思いますよ。少なくとも、私には、想えるような相手じゃないと、とても一生を過ごせそうにはありません。大切に…想えるからこそ、離れがたくはなりますよね。…でも、いつか心変わりをする日が来るのでしょうか?」
「それは、僕には分かりませんけど、そうなってはほしくないですね…」
田上がそう言って、視線を下の方に落とすと、マテリアルは不味い質問をしてしまったかな、と思った。ただ、これ以上何か言っても仕方がないので、次の休み時間にタキオンが来るのを待った。