二人が、トレーナー室に入ると、マテリアルが居て、その横にまた同じようにリリックとその友達二人がいた。田上にとってその二人はほとんど見知らぬ人たちだったから、部外者を勝手にトレーナー室に入れるのも良くないだろうと思って、三人の方に声をかけた。
「リリーさん。その二人は友達?」
「あー、…ええ、こっちがイツモちゃんで、こっちがオータムちゃん」
そう言ってリリックは、淡い青色の髪の子と黒髪の子をそれぞれ指差した。そして、指をさされた子は自分の名前を呼ばれると、田上の事を少し警戒しながら「こんにちは」と頭を下げた。こう丁寧にされると、田上もやりづらかったし、部外者を勝手に入れないというのも、悪意がない人たちであれば別にいいように思えた。けれども、やっぱり名前は知れても人間性は知れないので、部外者はとりあえず外に出しておいた方がいいように思えた。だから、田上はタキオンを傍らに三人に告げた。
「あー、…イツモさんにオータムさん。すまないんだけど、ここはトレーナー室であんまりこのチームに関係の無い人が入ってもらうと困るんだよね。リリーさんも。だから、あのー、…ここには色んな資料があるとか分かるでしょ?だから、あんまりここに招いてもらうとちょっとあれなんだよね。…今日の所は大目に見てあげるから、ここでずっと喋っててもいいけど、ここは生徒が気軽に立ち入っていい場所じゃないんだ。…ごめんね。明日からでいいよ。明日からは、また別の所で話してもらえればいい」
田上は懇切丁寧にそう頼んだのだけれど、田上の言葉とは裏腹にすぐに立ち上がろうとしたから田上は慌てて止めた。
「ああ、待って。リリーさんのカラオケの話もあったから、せめて、リリーさんは残ってもらわないと」
すると、青髪のイツモと呼ばれた子が少し身を乗り出して聞いてきた。
「カラオケするんですか?」
「え、ああ。リリーさんがどうするかだけど…」
そう言うと、視線が一度にリリックの方に向いた。リリックは、そういうのがあんまり好きではなかったのだけれど、とりあえず何か言わないといけなさそうな雰囲気なので、「私は…」と言うとその後に黙りこくった。田上は、その間にタキオンに身振りで「椅子に座らない?」と長机の方を指差して聞くと、それを理解したタキオンと共に、隣同士で、田上がリリックの正面の席、タキオンがイツモの正面の席についた。そして、田上がリリックの顔を見ると、その顔がムムムと眉を寄せていて、一向に話しだしそうな気配がなかったので、こう聞いた。
「どうする?まだ少し考える?」
「はい」とリリックが頷いたのを見ると、田上はまだもう少し掛かりそうだと考えて、タキオンに声をかけた。
「じゃあ、先にあれをしておこう」
「ああ、分かった。…君のスマホから送ってもいいんじゃないか?」
「俺のスマホは電話番号しか知らないよ。LANEのアカウントは何もしてない」
「ああそうか。じゃあ、向こうの方に君とLANEを繋げておくように言っておこうか?」
「いや、いいよ」
「いや、考えてもみてくれよ。君は、…これからも一緒なんだ。それだったら、別に繋げておいても問題ないだろう?」
この言葉は、目の前にいる何も知らない中等部に大分配慮した言葉だったが、田上にはそれでもすれすれを行っているように見えて怖かった。だから、その言葉をもし耳に入れた中等部二人組が、それについて深く考えないように、田上は慌てて言葉を継いだ。
「いや、別にどっちでもいいから、お前のスマホでしよう。それに、その方法だと順番としてちぐはぐだから」
タキオンは、田上が部外者の二人を気にしている様子を見てとると、これ以上何か言ってもダメそうだと思って、仕方なくそれに従った。
スマホを取り出すと、まず初めにLANEのアプリを開いて、そこで田上に聞いた。
「どんな文面で送ったらいいんだい?」
二人は、一つのスマホを肩を寄せ合って見つめていた。
「……本日はお日柄も良く?」と田上が冗談交じりに言うと、タキオンが「ほ、ん、じ、つ、は…」と打ち始めたので、慌てて「冗談だよ、冗談」と止めた。それから、少し真剣に悩んでから、「ゴールデンウィークに俺と一緒に帰省するよ、みたいな感じでいいんじゃない?」と提案した。タキオンは何でも良かったから、その文字を代名詞だけ変えてそのまま打って送ろうとすると直前で田上が止めた。
「え、本当にそれでいいのかな?」
「いいだろ。…これに――そっちに行ったら話したい事がある、でいいんじゃないか?」
「……まぁ、それでいいのか…」
田上は、少し躊躇いつつ頷いた。ここで、田上にも少し緊張が走っていた。――タキオンのお義父さんとお義母さんに結婚の事を相談したら、いよいよ俺たちの間柄が世間に公表されたことになる。
そして、――逃げられない、とまで思った。タキオンはそんな田上をお見通しだったけれども、今更あれこれ言ってもしょうがないので田上に「じゃあ、送るよ?」と聞いた。田上は、少し渋い顔をした後に目を瞑って、「送ってくれ」と痛みを我慢するかのように言った。タキオンはその様子に半ば呆れながらも母にそのメッセージを送信した。すると、すぐに母からピロンと返信が来た。田上は、戦々恐々としながらその返信を見た。
『え、田上トレーナーと?』
これはこれで当然の反応だった。それに、タキオンは田上の指示を仰ごうとはせずに文字を送っていた。それを田上は、隣で黙って息をのんで見つめていた。タキオンはこう送り返した。
『そっちに行ったら言いたい事がある』
すると、また返信が来た。
『え、え?決まったの?』
この返信が来るとタキオンは田上に目配せをした。その目は、――案外大したことなかったろ?と言っているようだったが、田上としてはまだ終わっておらず、ただ、またタキオンがメッセージを送り返すのをじっと見つめた。
『決まったかどうかはそっちに行った時に話す』
『了解。日程は?』
そこでタキオンが田上の事を見つめてきたので、田上は自分のスマホを取り出して、そのカレンダーで日程を確認しながら言った。
「五月の二日から六日まで、ゴールデンウィーク一杯は行けると思う。けど、お前の授業があるから、六日の昼には帰る。で、行く時は、二日の朝に出掛けると思う。朝の方がいい?帰省ならなるべく長くが良いと思ってるんだけど」
「私はそれで構わない。その日程で良いんだね?」
「いいよ」といったタイミングで、今まで悩んで友達にあれこれ言われていたリリックが田上に言った。
「すみません。イツモちゃんとオータムちゃんも一緒に…ってことはできますか?」
「ん?二人?一緒に行きたいの?」
「行かせてもらえるなら行きたいです」とイツモが言った。それで、田上は少し考えてから、「いいよ、ね?」とタキオンの顔を見ながら聞いた。別にタキオンもカラオケなんて知っている人が混じっていたって、どうせ知らない曲が入ってくるので構わない、それに田上さえいればどうとでもなると思っていたので、「いいよ」と答えた。その答えを聞くと、今度は田上はマテリアルの方を向いて、「マテリアルさんも良いですか?」と言うと、今までスマホを見つめてぼーっとしていたマテリアルが急に覚醒して、「いいですよ」と答えた。そして、次いで「で、何日に行くんですか?」と聞いてきたから、田上はまた自分のスマホのカレンダーを見つめた。トレーニングの休みの日は基本的に日曜にとってあるけれども、今週の日曜はファン感謝祭だし、土曜はタキオンの誕生日なので、そこをカラオケで埋めるというのはどうにも微妙だった。だから、「二十か二十一日かな…」と呟くと、マテリアルが「どっちです?予定はしっかりと決めたほうが良いですよ」と言っていた。今や、視線は田上の方に集まっていたので、田上もリリックと同じようにこの状況が少し嫌だった。けれども、まぁ、そこまで悩むほどの内容でもないので「二十一日…かな?」と答えると、また、「それでいいんですか?」と強めにマテリアルから聞かれた。恐らく、自分が頼りなかったのが強く聞かれた原因だと田上が考えると、少しやけになって「はい。二十一日で行きます!」と少しの元気を込めて答えた。すると、タキオンが横から口を挟んできた。
「私もカフェとか誘いたいんだけど」
「カフェさん?…あの子歌うの?」
田上が訝しんで聞くと、タキオンは平然としながら返した。
「歌うよ。君も見たじゃないか。菊花賞の時のウイニングライブを」
「いや、見たには見たけど、…進んで何か歌うの?」
「偏見で物は言っちゃいけないよ。たまに研究室に居る時に隣の部屋から何かを口ずさんでいるのが聞こえるから」
「へぇ…、じゃあ、歌うのかな」
「どうだろう。皆の前で歌うかは知らない」
「じゃあ、進んで歌わないのと同じじゃないか」と田上がタキオンの頬をぐりぐりと押すと、タキオンは嬉しそうに笑いながらこう続けた。
「でも、一応誘ってみるよ。同年代の子がいないとカラオケって味気ないだろ?知らない曲ばかり流れてきたって私も困る。多分、松浦トレーナーを巻き込んで誘ってみれば成功するような気はする」
それで、田上は「分かった」とタキオンに返すと、他の皆の方を見て言った。
「じゃあ、それでいいかな?」
すると、イツモがリリックの隣から田上に言った。
「お金ってどうすればいいでしょうか?持っていった方がいいですか?それとも、前日くらいに渡しておいた方が良いんですか?」
その言葉で田上は少し悩んだ後に、「じゃあ、俺がお金を回収する、で、どこに行くかもそれまでに連絡して金額も連絡するので、その連絡係はリリーさんがやってくれる?」
「あ、はい。了解です」とリリックは急に呼びかけられて、びっくりしながら答えた。すると、タキオンが横から田上の袖を引っ張って言った。
「私はどうするんだい?君が奢ってはくれないのかい?」
口調としてはよくある我儘のように聞こえたが、田上を見つめるその目は「私たち恋人だろ?」と言っていた。ここに部外者がいるのでそれを言っていないだけで、部外者がいなければ確実に口に出していただろう。これは、田上もタキオンのお金は自分が出すものとして当然そうであるように考えていたのだけれど、面と向かってそう言われると、田上は答えに窮した。ここで、タキオンだけを優遇してしまえば、確実に不信感が生まれることは間違いない。リリックは、事情を知っているのでいいが、他の二人が怪しむだろう。幾ら噂が立っていたとしても、目の前で「奢るよ」という場面を見てしまえば、これは確実に恋人同士だと勘付かれてしまう。――面倒臭い質問をしてくれたな、と田上は思いつつ、答えを頭の中から捻り出して言った。
「……お前…だけを優遇する訳にはいかない。皆金を出すんだからお前も出さないと」
田上は、これを言うのに心が痛んだが、後でタキオンに金は出さなくていいと伝えようと思った。タキオンも――ちょっと不味い質問をしてしまったかな、と考えたから、その後の諸々の話が終わった後に、スマホに文字を打って田上にその画面を見せた。
『ごめん。今の質問はするべきじゃなかった』
すると、田上はそれをしかめっ面で見た後に「ちょっと貸して」と言うと、タキオンのスマホを受け取り、それに文字を打った。そして、それが終わるとタキオンに見せた。
『許す。それと、さっきのは嘘。お金は俺が出す』
それを伝えられると、タキオンは少し嬉しそうな顔をして、田上の事を見つめた。それから、話題は元のアグネス家への帰省に移った。タキオンが不意に「で、ゴールデンウィークはどうするんだい?」と聞いたからだ。田上は、少しの間黙った後、タキオンに小声でこう言った。一緒に長机に座っている中等部たちはもう話に夢中になっているものの、できるだけその耳に自分の声を入れるのは避けたかったためだ。
「二日の朝に出掛けて、六日の昼に帰る。それでいい」
「オーケー」とタキオンが返事をすると、すぐにその内容を母に送った。すると、母の方は少し時間が空いたのにもかかわらず、スマホの前でずっと待っていたのかと思えるほど素早くこう返してきた。
『分かった。田上トレーナーの好きな料理とか知ってる?』
その文面をタキオンが読むと、少しニヤニヤしながら田上にもそれを見せてきた。そして、こう言った。
「私が帰る時よりも歓迎されているんじゃないのかい?」
「…好きな料理?」
「作りたいんだろう?せっかく娘が初めて連れてきた男なんだから、そりゃあ、大歓迎にしなくちゃ。多分、今頃、このやり取りの裏で父さんとも話しているはずだよ。母さんはそういう人だから」
「へ~」と田上は頷きはしたものの、あんまり頭は働かなくなってきた。少しの恐怖が次第に募ってきた。その為に体を強張らせたり、緊張で怖い顔をしたりしていたので、タキオンは仕方なさそうに笑いながら、田上の頬をつついた。
「君、緊張し過ぎだぞ。…ここじゃあれだし、外の方で話をしようよ。外の方がもっと簡単に話せる。…行かないかい?」
「ああ、そっちの方がいいかも」と田上が言うと、二人は揃って立ち上がった。そして、手を繋ぐとトレーナー室から出て、外を目指し廊下を歩いて行った。
二人はやっぱりいつものベンチに座った。もしかしたら、人が居るかもしれないとも思ったが、こんなにいい立地のベンチなのに不思議と人はあまり近寄っていなかった。やはり、少し校舎から遠ざかっているのがいけないのかもしれない。しかし、田上とタキオンにとってはその方が都合が良かった。あまり人が居なくなれば、二人は人の目を気にせずに話をすることができる。特に、人の目を気にしがちな田上にとってはそれが良かった。
タキオンを先に座らせて、田上もその横に座ると、タキオンがまたスマホを見せて今度はあまり憚りもせずに言ってきた。
「どうする?君の好きな料理は何だい?母さんは作ってくれるつもりだよ」
「…料理ぃ?……ん~~…」
田上の緊張はまだ溶けていないようだった。緊張の籠る面持ちで地面の上にそよぐ草をじっと見つめている。それだから、タキオンはまた仕方なさそうにその頬をつついて言った。
「そんなに緊張するのかい?私は、喜ばしい限りだけど。…やっぱり、結婚についてまだ何かあるのかい?」
「……いや、あるわけじゃぁ……、あるのかな?」
「どうだろう?私にはあんまり分からないけど、緊張する気持ちは分かるよ。そりゃあ、娘さんを貰いに行きます、って言いに行くんだから緊張するに決まってる。そんな気持ちなのかな?」
「…まぁ、そんな所かな…。ちょっとビビってるし、…言わない方が良いかもしれないっていう気持ちもある」
「ふむ、言わない?なんで言わない方が良いんだい?」
「……戯言かもしれない」
「なら、ちょっと戯言なら戯言で深堀してみようよ。言わなくてもいい道があるならそれを考慮に入れなくちゃいけない。…言わなくても良い理由って何だと思う?」
「……この、…二人の関係が難しいから…?」
「まぁ、難しいのは説明に手間取るしね。…難しいって具体的にはどうなんだい?」
「………うーん、……難しい?……俺たちみたいに他人に言えないような関係…」
「…人に言うのを憚る節はある。立場もそれを面倒臭い物にしているが、…私たちの親にはそれを言っても構わないんじゃないか?」
「…言っても構わない。それはそう。……ただ、常識ってあるだろ?…言ってしまえば、俺たちの関係は常識にはそぐわないわけで、……なんだろう?」
「言葉にできないかい?」
タキオンがそう語りかけると、田上は首を横に振った。
「いや、もう少しで…できる。ちょっと頭の中を整理させて…」
そう言われると、タキオンも別にそれを邪魔する理由もないので、田上の様子を少しだけ心配そうに観察しつつ、視界に映る草花をそわそわとしながら見つめた。
そして、ある時田上が「タキオン」と呼び掛けると、タキオンはすぐさま「ん?」と嬉しそうに言って、田上の話を聞いた。
「多分、……常識があるだろ?」
「そうだね。箸はこのように持て。人とはこのように話せ。みたいなものかな?」
「そう。…そういう物が、俺の前にあるだろ?そして、その後ろにタキオンが居る」
「常識の後ろに私が…。ふむ」
「それで、一度はお前を俺の方に引き寄せて、手を繋ぐことができた。でも、いざ、そういう夫婦とか恋人とか現実の物になってこようとすると、その常識が俺の目の前にやってきて止めようとする。…それが少し苦しい」
「ふむ。…君と私の間柄は、世間とはかけ離れているからね。そのように思うのも無理はない。私は、君と一緒になるというのが目標だから、そこに常識なんてものを入り込ませる余地はない。もし、常識という物が入ってこようとしても、すぐに追い出してしまう。だって、私の目標には邪魔なものだから。…君は、今まで常識という物と深い付き合いをしてきた物と推測するけどどうだい?」
「…常識は、…お前と出会うまで常識しか信じていなかった…」
「んん?それじゃあ、私と出会って君の常識が塗り替わったのかな?」とタキオンは嬉しそうに言った。
「…そう…だけど、俺は本当にこれが正しいのか分からない。…俺はとんでもない間違いを犯しているんじゃないか?熱に浮かされてお前を好きだと勘違いしているだけなんじゃないか?常識が常識としてあるべきものだと考えると、俺はお前を好きになるのが怖いんだよ」
「ふぅん。……中々重症だね。…これには私も中々手が出しにくい。…どうしたらいいと思う?…つまり、君の価値観的には私と付き合ってはダメなわけだ。でも、私と付き合ってしまった。それはなぜなのかと考えた時に、君の中にある私への『好意』を無視して、価値観だけで考えてしまうと、――俺は熱に浮かされていたんじゃないか、という考えに至る。これは、今までよりも一歩踏み込んだ大きい悩みだよ。つまり、ちょっとやそっとじゃ解決が難しいという事だ。いや、これは前から知っていた。人の心は難しい。これは常識…というよりも事実だ。…その価値観の中で君はどう私への好意を認知するか、だよ。…君は、私の事は…好きなんだろ?」
タキオンは少し不安になりながら聞いた。田上もそのタキオンの声に混じる不安を感じ取ったが、それに配慮して何か優しい言葉を言う余裕はなかった。
「…分からない」と田上は答えた。「……こう、…矛盾の中から正解を捻り出す方法が分からない…」
「ふむ。……君は常識という物を『理解』してしまったからね。幾ら考えても常識と親交の深い君は常識を切り離せないでいるわけだ。…どうしたものかな?…つまり、私たちは、この感情が正解の物である、という答えを導き出そうとしているんだよ。難しいよ。とても難しい。前にも君に言った事があると思う。――今は混乱の時代だ、と。――目まぐるしく行き交う価値観に自分自身を見失いそうになる、と。今は、価値観が混乱を起こしている時代だからね。つまり、価値観が政治的に利用されていたり、商売に利用されていたりする。価値観を利用するのはあんまり芳しくないね。価値観とは、価値観としてあるべきだ。つまり、その価値観には実際の暮らしに直結した物がないといけない。暮らしから離れた価値観は、果たしてそれが誰のための価値なのか分からない。つまりだよ。つまり、今君の暮らしに繋がっているものはなんだ?」
この質問には、田上は少し考え込んでから言った。
「タキオン?」
「そう言ってくれると嬉しいが、勿論、私だけじゃない。…でも、少しは私であってほしいというのは、私の我儘だ。けど、それは私だけじゃなくて、君の暮らしには様々なものが関わってくるだろ?君には、立場もあるわけで、年齢も私とは違うわけで、…本来ならば私の様な女の子は好きにはならない…はずだ。……もし、君が私を嫌いって言うのなら、私はショックだけど…」
そこまで言ったところで、タキオンの声が次第に震えてきたので、田上はタキオンを元気づけてあげようとその話を遮って言った。
「いや、嫌いじゃない。…大切だから傍に居るんだよ。…やっぱりお前とは簡単に離れる事はできない。…だけど、少し怖いんだよ」
「…なにが?」
タキオンはまた不安そうな声で聞いた。
「離れる可能性は目の前にあるわけだ。どうしたって可能性があるわけだ。これは、前に話してくれたけど、どうにも無理なんだよ。常識がその考えを生み出してるかもしれないけど、もう後戻りはできない気がするんだよ。…どうやったってどうやったってその考えが俺に結び付いてくる。…お前と一緒に居たいんだけど、…辛いんだよな…」
「……私たちは、何が本当に大事なのかを改めなければいけないけれど、答えという物が見つかっていない以上、その想いに悩まされる事になるかもしれない。…君の不安は解消されないけれど、私が大切だって言うのなら傍に居てほしい。だけど、君はそれでは不安だ。いや、多分どこに行っても不安だと思う。絶対的に確証にたる信じる事のできる『答え』が欲しいのならば、例え、望んだものを手に入れたとしてもその不安が解消されない。……圭一君、私…、思ったんだけど」
タキオンがゆっくりと語りかけてきたが、田上は返事をせずにただ黙ってその話を聞いていた。
「私、…君が居なくなったら大泣きすると思う。君が私の事嫌いだと言ったら、もう私は生きていけないかもしれない。それにくらいに君の事が好きだ。…君はこの言葉を信じないかもしれない。ただの女子高生の戯言と頭の中で理解して、私の事を嫌いになってしまうかもしれない。……行かないで」
最後の言葉は、絞り出すように発せられた。タキオンは、縋るように田上の肩に寄りかかった。田上は、何か優しい言葉を掛けてあげたかったが、やっとのことで口を開いたところで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。それ故に田上は話す気力を無くして、ただ目に映る草木をぼーっと見つめた。その間にも田上の頭はぐるぐるぐるぐると回転していて、果たして、タキオンを授業に送り出せばいいのか、それとも、抱き締めて優しい言葉を囁いてやればいいのか、必死に考えたが皆目見当はつかなかった。それでも、田上はタキオンに何かしてやりたかった。頭を撫でたり、安心させてあげたりしてあげたかった。そうしたかったのは、本当の事だったが、こうも頭の中で色々と考えてしまうと、田上の体は微動だにせず、遂にタキオンが口を開くまで何もしなかった。
「ごめん。……我儘言って」
その言葉を聞いた途端に、田上の口から咄嗟に言葉が出てきた。
「我儘じゃない。俺もお前の事が好きなんだから、一緒に居るのは当然の事だ」
田上がそう言うと、タキオンは悲しげにふふっと笑って返した。
「いや、…君の言う事も分かるんだよ。…私も君が離れていってしまう可能性を感じる。…でも、離れてほしくないから、多少強引にでも君を繋ぎ止めているんだ。…これは、少し…、いや、結構利己的なんだよ。…なんとしてでも君を傍に置いておきたいんだ。…我儘だろう?」
田上は何も反応できないでいると、タキオンは震えた声でまた続けた。
「確かに君を助けたい気持ちもあった。けど、…それ以上に私は君を傍に置いておきたいんだ。君のその優しさと弱さに漬け込んで、自分の隣へと必死に繋ぎとめる事を選んだんだ。…いっその事君が私の事を嫌いだと言ってくれたら嬉しい。私は、非常に独善的なんだよ。…こんな事を思ってもまだ君と一緒に居たい。君がもし離れてしまうと言ったら刺してしまうかもしれない。私も怖い。私が怖い。いつか君を自分の操り人形にして、良いように使って殺してしまうのじゃないかと思うと、怖いんだよ。…君はもしかしたら、私に対して心の奥底で警戒信号を発しているのかもしれない。その様に思うのならその様にしてくれ。今なら君を刺したりしない。どうか私を見捨ててやってくれ。悪い女なんだ、私は。君に嫌われてもしょうがないんだよ」
そう言うと、タキオンは尚も田上の肩に縋るように寄り掛かりながら、しくしくと泣き始めた。田上の頭は混乱を極めた。ここまで言われてみると、さぁ、何を言ってみたらいいのか分からない。慰めの言葉だって、そのままタキオンを嫌ってみる言葉を投げかけたって、田上にはそれをしてみたらどんな結果になるのか分からない。でも、少なくともタキオンを傷つけるような結果にはしたくなかった。タキオンがここまで内心を吐露してくれたのは初めてのような気がした。いつもタキオンの心に触れるにはあと一歩のような気がした。それをしてくれたからには田上もそれに報いねばならない。この思いが色濃く田上の心に焼き付いたが、できる事については迷いしかなかった。それで、結局、タキオンの泣き声を聞きながら一頻り考えた後に、隣のタキオンにこう言った。
「俺と同じ考えだよ、お前の考えは。とんでもない間違いをしているような気がするんだろ?」
「いや、違うんだ。私は、悪い奴なんだよ。君を操ろうとしている。君を操ってでも傍に居てほしい。これも泣き落としだ。バカだ!ごべん!じゃあ!」
タキオンはそう言うと、急に立ち上がり、泣きながら正面の道の方を走って行った。それで、田上も置いて行かれたら堪らないと思って、その後ろを追いかけ始めた。タキオンは、見る見るうちに遠ざかって行ったが、田上はその背中に必死で呼びかけた。
「おい!泣くなよ!嫌いじゃないよ!お前の事好きなんだよ!!」
しかし、タキオンは立ち止まらなかった。そのまま全力で走って行って、建物の陰に消えた。田上も勿論後を追いかけた。ウマ娘寮の前にいるウマ娘に今栗毛のウマ娘が通らなかったか聞いたが、その人は通っていないと言ったし、研究室やトレーナー室の方にも行ったが、そこにも誰一人いなかった。今は授業中だったので、もしかしたら、教室の方へ行ったのかもしれないと思ったが、それでもあれだけ泣いていて教室に戻るのかは怪しい物だった。けれども、見てみない事には始まらないので、一度、教室の方を覗いてみた。タキオンが窓際の一番奥の席に座っているのは知っていたので、ちょっとそこを覗いてみた。その際にタキオンの友達のアルトだかハナミだかのどちらかと目が合ったが、向こうは不思議そうに田上を見てきただけだった。
ここで、もう田上は降参だったので、あまり望みの無い方法である電話で、タキオンの居場所を探ろうとした。しかし、これはやっぱり意味はなかった。あの状態でタキオンが電話に出るはずはないだろう。田上だって出たくない気持ちは分かる。けれども、それ以外に頼みの綱があまりないから、田上は、五分十分ずっとタキオンにかけ続けた。それも、何の音沙汰もなかった。だから、田上は今度は校舎裏などのあまり人気のない所を探しに行った。ここも勿論居るわけではないが、色んな場所色んな場所を探っているうちに、昼の一番目の授業が終わるチャイムの音が聞こえてきた。昼からの授業はあと一つで終わりだ。田上は、もうそんなに時間が経ってしまった事に驚いたが、それ以上に、タキオンをそうなるまでずっと見つけられなかったのがどうしようもなくやりきれなかった。きっとどこかで落ち込んでいるのだろうと思うと、どうにか慰めてやりたかった。それでも、見つけられないのならば意味はない。一度、マテリアルに頼んでそちらから電話を掛けてもらおうかとも思ったが、そうは言ってもタキオンは落ち込んでいるのだから、誰が電話を掛けても同じような気がするのでそれを頼むことはしなかった。しかし、それをしないならしないで時間はどんどんと浪費されていき、昼二時間目の授業も始まって三十分ばかりになっていた。田上は、タキオンが女子トイレに隠れているものじゃないかと思った。ただ、それをされては厄介だ。トレセン学園内には何個も何個も女子トイレがあるので、その一つ一つを調べていこうと思うと時間がかかるし、それに、女子トイレの前をうろうろしている男がいたら、不審者にしか見えないのは田上も分かるので、どうしようか悩んでいた。その悩みを抱えたまま、またウマ娘寮の前まで行き、休憩がてらそこのベンチで戻って来るかもしれないタキオンを待った。すると、田上が疲れに体を俯かせて、また目を上げたその道の先に、タキオンのような栗毛のウマ娘が俯きながら歩いてきているのが見えた。いや、もう田上にはそれがタキオンだと分かっていた。歩きの所作や体形やそのふんわりとした栗毛で分かる。分かった途端に田上は立ち上がってこう呼んだ。
「タキオン!」
少々必死だったので、あまり優しい声色は出なかった。その声を出したかったのなら、もっと近づいてからの方が良かっただろう。しかし、田上が立ち上がった時にはもうタキオンを見つけた喜びから、声をかけるのは止められなかった。当然、タキオンは呼び掛けられれば顔を上げて、その声のする方を見た。そして、その田上の顔をしかと確認すると露骨に嫌そうな顔をして、回れ右をし、一目散に駆け出した。――またかよ、と少し疲労し、冷静になった田上は思ったが、それが追いかけない理由にはならなかった。今度は、何も言わずに無言で追いかけた。勿論、追いつけるはずもないが、所々の曲がり角を曲がる瞬間の尻尾を微かに捉えることができたような気がした。だから、途中までは何とか追跡もできたのだけれど、やっぱりウマ娘の脚力に田上が敵うはずもなかった。見失って困り果てた。しかし、今度は電話の作戦が通じるような気がした。と言っても、田上が電話をするのではタキオンを刺激するだけだ。ここで、タキオンが電話に出そうな相手と言えば、マテリアルが微かに望みがあるような気がした。しかし、これはただ『気がする』だけで全く確証があるわけではない。だが、ここでマテリアルから電話が来たのなら、タキオンも田上の意図を汲み取ってくれるかもしれない。田上は、そんな淡い期待を心に抱きながら、マテリアルがいるトレーナー室に向かった。