トレーナー室のドアを期待を込めながら開けると、マテリアルはやっぱりそこに座ってスマホをじっと見つめていた。もしかしたら、居ない可能性もあったので、とりあえずマテリアルが居たことで田上はほっとした。マテリアルは、田上がトレーナー室に入ってきたのに気が付くと、「タキオンさん見つかったんですか?」と聞いた。その質問は、先程、タキオンを探しに田上がやって来たから出たものだけれど、今、マテリアルが田上の顔をまじまじと見てみると、どうもタキオンがどこかへ勝手気ままに逃亡したわけではなさそうだという事を感じた。だから、「何かあったんですか?」と田上に聞いた。すると、田上は返答に暫く迷った後、長机のマテリアルの正面の席に座ると躊躇いながら言った。
「タキオンが、俺の顔を見ると逃げるようになっちゃったので…」
「なんでですか?」
これも答えに窮したが、あれこれ考えながら何とか言った。
「タキオンが、…いや、タキオンが、…悩んでいる事なので、あんまり深くは言えないんですけど、もう多分俺が電話を掛けても出てくれないので、なんとかタキオンに電話を繋げてもらえませんか?」
「…それ、私のスマホで田上トレーナーが話すって事ですか?」
「…いや、それは、…状況次第で、マテリアルさんが少し話してくれませんか?…あの、――俺は嫌ってない、って事を伝えていただければ幸いなんですが…」
「また喧嘩したんですか?」
「いや、喧嘩って言う程の物じゃなくて、タキオンが、どうにも落ち込んでしまって、話し合おうにも俺じゃ追いつけないから、逃げられたら無理なんですよ」
田上は、それを至極真面目に話していたのだが、マテリアルはそれを鼻で笑って頷いた。
「まぁ、立場が逆転したら、あなたがタキオンさんに話すのは難しいですね。…でも、話すって言っても、嫌ってないって事を伝えるだけでいいんですか?」
「いや、…このトレーナー室に来るまで誘導してもらえれば幸いなんですが…」
田上がそう言うと、マテリアルは「了解です」とだけ言って、すぐに電話をかけ始めた。
初めの一二分は、何の音沙汰もなく――やっぱりダメだったか?という空気が流れたが、ある時、不意にマテリアルのスマホから「もしもし」というタキオンの泣きつかれた声が聞こえて、マテリアルは飛び上がった。田上は、勿論それは聞こえていなかったので、マテリアルの様子でどうやらタキオンが電話に出てくれたらしいという事が分かった。
マテリアルは、タキオンが電話に出たのに驚きつつも、予め考えていた質問を言った。
「さっき、田上トレーナーが探しに来てましたけど、田上トレーナーと何かあったんですか?」
「……トレーナー君、そこに居ないかい?」
その質問をされると、マテリアルは横目で田上の事を見た。そして、それを果たして正直に伝えればいいのか嘘を吐けばいいのか迷った。これは、もしかしたら、悩みを打ち明けてくれるチャンスかもしれないが、逆に田上だけに話したいからこそ、こう聞いたのかもしれない。ただ、マテリアルには、タキオンの声色が田上がそこに居る事を期待しているように聞こえたから、敢えて、正直に答えた。
「居ます。俺はお前の事は嫌いじゃないって言っていました」
「ああ、…そう」
そう言うと、タキオンは動揺したのか、少しの間黙りこくってしまった。マテリアルは、その間に電話を切られたのじゃないかと思って、何度か自分のスマホの画面を見直したのだけれど、タキオンは電話を切らずに鼻水を少し啜ってから言った。
「私も嫌いじゃない」
「それを私に言ってどうするんですか」
マテリアルは少し笑った。
「……いや、圭一君に伝えてくれ」
そう言われたので、マテリアルは言われたとおりに田上に伝えた。田上は、頷いたのみで何も話さなかった。
「伝えましたけど?」とマテリアルが言うと、タキオンは次にこんなことを言った。
「じゃあ、愛してると伝えてくれ」
「なんで私が伝えないといけないんですか。言いたいなら自分の口で言えばいいじゃないですか。つい午前中までそうしてたでしょう?」
「…それがそうもいかなくなった。私は、彼に会わせる顔がない」
「冗談言わないでください。会わせる顔ならたくさんあるでしょう。あなたと田上トレーナーは恋人なんでしょう?それで会わせる顔がないっていうのは一体どういう事なんです?」
「…だって、会わせる顔が無いんだよ」
「だっても何も、あなた方恋人じゃないですか。タキオンさんがどう言おうと、田上トレーナーはあなたの事は嫌いじゃないと言っているんですよ?いや、むしろ、これは好きと言っているんですよ?私の手前、嫌いじゃないという遠回しな表現を使っていますが、これは、意訳すれば確実に『好き』です。あなたは、今一度、田上トレーナーに『好き』と告白されているんですよ?それなのに会わせる顔がない?あなた、何見て物言っているんですか。こんな好物件の男はそういませんよ?年収は悪くないし、顔も悪くないし、あなたの事は人一倍想っている。そんな男をどうしてわざわざ取り逃がそうとするんですか。そんなんじゃこの先一生結婚できませんよ?」
「…君の電話に出るべきじゃなかったかな…」
「嫌ですよ。出てくださいよ。いちゃいちゃされてると目に鬱陶しいですが、ぎすぎすされてるとこっちの方がもっと目に鬱陶しいです。…どうなんですか?あなたは、田上トレーナーの事は好きじゃないんですか?好きじゃないんなら私が取って食べちゃいますけど」
「…もう、彼は私の物じゃないよ…。煮るでも焼くでも好きにすればいい…」
そうタキオンは気落ちしながら答えた。マテリアルも、まさか自分の冗談にこんな風に返されるとは思っておらず、てっきり――彼は私の物だよ!とか言って、あわよくばトレーナー室まですっ飛んでくるものだと思っていたから、タキオンの返答に気まずくなった。けれども、そんなタキオンを放っておくことは、彼女の気性として無理難題に等しいので、こう言った。
「なんでそういう考えになるんです。今まで、――好きだ好きだ。――彼は私の物だからね!みたいなことをさんざん言ってきたじゃないですか。なんでそういう考えになったんです?」
「……だって、私って我儘だから、…圭一君を自分の物にしたかったからあの手この手を尽くしたんだよ。時には、キスで強引に私の下を離れないようにした。…元はと言えば、あのキスが始まりだった。私もあれは後悔をした。今も後悔をしている。…私は、彼の弱みに付け込んで、恋人になろうとしたんだよ…」
マテリアルは、またもや思っても無いような答えを返されて、頭がこんがらがった。一体、なぜこのような考えに至ったのかが分からなかった。本当につい先程までべたべたして仲良さそうにしていた若者たちが、一体何を理由に決別したのだろうか?マテリアルは、田上に問題があるのじゃないかと思って、訝しがりながら田上の顔を見た。田上は、白い長机をじっと見つめて、マテリアルに声をかけられるのを待っていたので、彼女とは目を合わせなかった。
マテリアルは、暫くの沈黙の後に静かに言った。
「……じゃあ、…あなたは田上トレーナーと別れたいというんですか?」
「いいや、別れたくないさ」
「じゃあ、別れなければいいじゃないですか」
「それはできない」
「田上トレーナーの方からタキオンさんの事を振ってほしいんですか?」
マテリアルがそう言うと、タキオンはそれきり何も言わなかった。だから、マテリアルが少し声量を上げて言った。
「あなたは、田上トレーナーの事が好きなんでしょう?田上トレーナーは、あなたの事が好きなんでしょう?なら、なんで別れたいんですか?私にはどうもそこが理解できませんよ」
「………理解できないなら仕方がない」
「いや、仕方がないで済んでたら、私はあなたと電話なんてしていませんよ。…言っておきますが、私、あなた方の子守りじゃないんですからね。補佐になって、あなた方から学びを得たいとは言いましたが、子守りになりたいとは一言も言っていません。だから、もう出てきたらどうです?田上トレーナーはあなたの事が心配なんですよ?」
「…こっちだって出て行くわけにはいかない。彼に会わせる顔が無いんだから」
「あります!!だから!……」
マテリアルは、次の言葉に「田上トレーナーはあなたの事が好きなんです!!」と言おうとしたのだけれど、これではあまりにも堂々巡りだったから、別の道を探った。そして、もう田上と直接話してもらうしかないと思うと、タキオンに強くこう告げた。
「今から、田上トレーナーにお電話お渡ししますからね!!切ったら承知しませんよ!!もし切ったら、あなたと出会う度に挨拶代わりに鳩尾に膝を入れますからね!!冗談じゃないですからね!!本当にやります!!体罰で捕まったってあなたに鳩尾入れてやりますから!!」
マテリアルは、一息にそう言うと次に「はい!!」と大きな声を上げて、机を見つめていた田上に電話を手渡した。田上の心地としては、少しぼんやりとした心地だったのだが、とりあえず、マテリアルから電話を受け取るとタキオンに「もしもし」と低い陰気な声で呼び掛けた。暫く、タキオンの声は聞こえなかったが、田上が電話を切られたのじゃないかと不安になっている時にタキオンが言った。
「落ち込んでいるのかい?」
「…まぁ、落ち込むよ。どれだけ探してもお前を見つけられなかったんだから。…今どこに居るんだ?」
「…教えない。…君には見つけられない所に居る」
「…女子トイレ?」
「それも言わない」
タキオンが、そう言い終わった後にまた数秒の沈黙が流れたが、今度は田上が口を開いた。
「俺、別にお前の事嫌いじゃないし、お前に操り人形にされたとも思っていない」
「いや、君がそう思っていなくても、…私がそうしようとしたんだ。君が傍に居てほしかったから…」
「…なら、やり直す事はできないのか?まだ、付き合って一週間とちょっとだぞ。こんなに早く別れるなんて事、俺はしたくない」
「……私も…したくない」
「俺もしたくないよ。…お前の言いたい事も十分に分かるよ。…でも、俺はお前を探している時に、決して迷子の子供のように不安になってお前を探しているんじゃなかった。お前を助けたかったからだよ」
「でも、それこそが私が君を操ろうとした結果だとしたら?私はもう君の前には出て行けない」
「……いや、考えてみてくれ。お前と俺が初めて会った時どうだった?まだ、お前には操られるどころかそんなに話してもいない時だ。…どうだった?」
「……薬を三本飲んだ…」
「そうだよ。それが俺だよ。お前のためだったら何でもしてやれる。あの時そう決心したのが俺なんだよ。いつしか、それが『好き』になってしまって、お前の言うように常識に苦しんだけど、俺はあの時から変わらない。お前の為なら何でもしてやれる。その自信がある。お前が何と言おうと変わらない。お前だって俺が何と言おうと変わらなかったように、俺も変わらない。お前の事が好きなんだよ」
「………でも、……でも、…でも、どうしたらいいんだい?私はもう君とは会えない」
「なら、俺が会いに行くから。どこにいるんだ?」
「でも、言ったら君が来る」
「来てほしくないのか?」
「来てほしい…」
タキオンが素直にそう答えると、田上は思わずふふふと笑ってしまった。
「どこに居るんだ?」
「……体育館前の女子トイレ」
「そりゃあ、見つけられないな。二回目追いかける前もそこに居たのか?」
「……そう」
「オッケー。分かった」
そう言うと、田上はタキオンに「そっちに行くから」と告げて、電話を切りマテリアルに返した。マテリアルが、「大丈夫そうですか?」と聞いてきたので、田上はゆっくりと自信ありげに頷いてから、トレーナー室をそそくさと出て行った。
女子トイレの前まで来ると、田上は、辺りをキョロキョロと見回して、誰も自分が女子トイレに入る人が居ないか見回した。そして、誰も居ない事が確認できると、田上はえいやっとその中に入った。そして、「たきおーん」と恐る恐る呼び掛けたが、返事はなかった。田上は、他の生徒がいたらと思うと、とんでもなく恐ろしかったが、それでも、タキオンに会いたかったので勇気を出してもっと奥の方へ踏み込んだ。
女子トイレの一番奥のドアが鍵が閉まっているようだったので、田上はそこの前に立つと、これまた恐る恐る勇気を出して「タキオン?」と呼び掛けた。すると、鍵が開く音だけが聞こえた。田上は、これを「入れ」という合図だと思って、そのドアを開けた。タキオンは、蓋を閉めたままの洋式の便所に元気が無さそうに座っていた。そして、田上が入ってくると、その顔をぼんやりと見上げた。田上は、その元気のない顔に向かって言った。
「タキオン、行こう。こんな所じゃ息がつまるだけだぞ」
その言葉を言うと、田上はタキオンの頬をからかうように少しつついたが、タキオンはそれには何の反応も示さずに言った。
「息ならもうとっくにつまってる…。君に会わせる顔がないから…」
「でも、会いたいんだろ?少なくとも、さっきはそれを聞いた。…立てるか?とりあえず、外に出よう。こんなところにいるのが見つかれば、俺の職がなくなる」
「…なくしてくれと頼んだら?」
「無理にでもお前を引っ張り出すしかない。…どうする?自分で立って出るか?」
「私の為に職をなくして…」
そうタキオンが力なく言うと、田上は仕方なさそうに微笑しながら、「分かった」と言った。それから、タキオンに「お姫様抱っこしてあげるから、とりあえず、広い所に行ってくれないか?」と言うと、タキオンにトイレの個室の外に出るよう促した。タキオンは、にわかに嬉しそうな微笑を浮かべ、大人しく立ち上がると、広い所へ行ってすぐに田上に抱っこするように両腕を広げて催促をした。田上は、それをまた微笑しながら抱っこすると、タキオンの重みに少し眉を寄せながら、女子トイレの外まで運び出した。そして、そこで「降りるか?」と聞いたのだけれど、タキオンが「嫌だ」と言って田上の体にひしとしがみ付いたので、田上は少し嬉しそうな笑みを浮かべながら「じゃあ、あのベンチの所まで連れてってやる」と言った。
ベンチに行くまでに「授業には出ないのか?」と聞いたが、タキオンは当然否定して、また田上の体にしがみ付いた。この状況をタキオンは少し楽しんでいるようだったが、それを言ったら田上も少し楽しかった。勿論、誰かに見られるんじゃないかというのが頭のどこかでチラついていたが、今はどうでも良かった。誰かに見られていようが、噂されていようが、今は、タキオンと一緒にその愛おしさを楽しむ事だけが最優先事項だった。タキオンは、始終、田上の顔を喜び七割、悲しみ三割といった具合で見つめていたが、時折、思いついたように頭も田上の体に預けて、使いやすい左手で田上の喉仏を撫でた。少し強く押されると田上も苦しかったが、くすぐったさなどは特に何も感じなかったので、タキオンが撫でるのに任せて自分は熱心にベンチの方へと向かった。なぜ熱心に向かっていたのかと問われれば、やっぱりタキオンの体が重たかったからで、ベンチが見えてきた頃には今すぐにでもタキオンを地面に下ろしたいくらいには、田上の腕は疲れ果てていた。
ベンチの前に立つと、田上もさすがにそこで下ろそうとしたのだが、どうやらタキオンは田上から離れたくないようだった。それでも、田上は、タキオンを探すために歩き回った上にタキオンを抱えてここまで歩いたので、芯から疲れ果てて、タキオンを抱えたままベンチの上にどさりと座った。当然、タキオンを抱える手は休ませたが、タキオンは田上の膝の上に乗り続け、落ちないように田上の体にギュッとしがみ付ていたし、しがみ付くことに関しては、落ちない以外にも、田上の甘えたくてしがみ付いていたという物もある。
田上は、暫く「あ~、疲れた」とか「あ~、良かった」とか疲れを紛らわす言葉を吐いていたのだけれど、それも一段落するとタキオンに言った。
「…どうして、…どうして、会わせる顔が無いんだ?」
「………君を操り人形にしてしまったと言った…」
「でも、それを言えば、俺だって心無い言葉をタキオンに浴びせかけた。…あの頃のお前はどうした?俺を一人にしないと言っただろ?」
「いや、私が一人になりたくなかった。君は覚えていないかもしれないけど、君に――私を一人ぼっちにするのか!と詰め寄った事がある。私には君しか居ない。…今もそうだ。私は、せっかく手に入れた君と離れて、また振り出しに戻るのが怖かった」
「俺だって、お前の立場だったら、お前の事を必死でこの場に繋ぎ止めようとするよ」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃない…。私は、…君を殺してでもその場に繋ぎ止めたかったんだよ」
「うん?」と田上は、タキオンが言った言葉の意味が良く分からずに聞き返した。すると、タキオンは暫くの間言葉を発するのを躊躇った後に、ようやく言った。
「君の……全てが欲しい。……私の薬を喜んで飲んでいる時が…、懐かしい…。私は、薬を作るのをやめた後から、少し後悔していた。けど、あんまりそれに気付けるようなものではなかった。何よりも、君と傍に居れる時間が増えたのが、あの時の私には嬉しかった…。…もうダメかもしれない。…操り人形にしようとしてしまった挙句の君を私は信じることができない…」
「俺じゃないだろ…。信じることができないのは。…自分の事が信じれないんじゃないのか?」
田上がこう聞いても、タキオンは何も答えず、ただ田上の肩の上に乗っけた頭が、鼻水を啜っただけだった。
「お前が何と言おうと、今の俺は今の俺でしかないよ。お前に助けられて何とかやってこれた俺だよ。俺としてもこの手はあんまり放したくないのが本音なんだけど、タキオンは放してほしいのか?」
次にこう聞くと、タキオンは田上の肩の上で頭を振り振り言った。
「放さないで…」
「なら、その心に従っちゃダメなのか?」
「………ダメ。君を放したくない」
「…放さなければいいんじゃないか?」
「放したくないのがダメ…」
「俺もお前の事は放したくないけど、これとお前のは何が違うんだ?」
「……邪念が混じってる…」
「邪念?」
「……君を独り占めにしたい…」
「はぁ…。独り占めにしたかったら邪念なのか?」
「邪念」
タキオンがそう言うと、急に田上の首周りにかけていた腕に力を入れて、田上を万力込めて抱き締め始めた。さすがに、田上の体に配慮した力の入れ具合だったが、それでも、ちょっと田上には苦しくて「どうしたんだ?」と慌てて聞いた。すると、タキオンはその数秒後に言った。
「本当は、もっともっと強く君を抱きしめたい。…壊れたって何したっていいから、私の気が済むまで抱き締めたい」
「壊れるのは、あんまり気が進まないな」
「…だろう?…私も君を壊すのは気が進まないが、私の中にその欲望がある。…止まない欲望だよ。もっともっと君を抱きしめたい。抱き締めて抱き締めて使い物にならなくなるまで抱き締めてそれでも抱き締めて、ずーっと抱き締めて、永遠に傍に居てほしい」
すると、田上はある時タキオンに言った永遠の話を不意に思い出して、それをタキオンに言った。
「永遠が、まだ欲しいのか?」
タキオンも田上と同じことを考えていたようだった。田上の問いに黙ってコクリと頷いた。
「君との永遠を作りたい。キスをするときもできるだけ長くするようにしている。一緒に居る時間もできるだけ長くするようにしてる。こうしている時間もできるだけ長い方がいい。授業になんて出たくない。君と永遠に話していたい。君が私を甘やかしてほしい。ずっとずっと私の頭を撫でててほしい。私を愛してほしい。私の愛の奴隷であってほしい。あれが欲しいと言ったら、あれを差し出して、これが欲しいと言ったら、これを差し出してほしい。ずっとずっとキスをしていてほしい。私に時間という物を忘れさせてほしい。君の愛に溺れたい。私をどうか溺れさせて…。君の愛で…」
「……気持ちは良く分かる。心底分かる。でも、…難しいよなぁ。永遠は、誰でも欲しいもんだよ。…かと言って、タキオンのその言い分は、ちょっと大変なようにも思うしな。…単純に甘やかして済むなら俺も存分に甘やかすけど、…どうなんだろうね?俺もタキオンを甘やかしたいよ。砂糖ででろでろにしてやりたいけど、それだと、…難しいよねぇ。…難しい。本当に難しい。どうやって解決できる?……心は静まりそうか?」
「君とずっとこうしていたい」
「…それで、もし俺とこうすることができたとすると、また不登校のような状態になるわけだ。今度は状況が違う。薬を作っていた頃は、まだ自分の足の為、レースの為と自分を騙す理由があったけど、今度は本当に不登校だ。…お前はどうするつもりなんだ?」
「……それでも、君と一緒に居たい。もう君以外は何もいらないんだ…」
こう言われると、田上も困ってしまったが、ここで無理にタキオンを授業に送り出しても本人の気持ちを辛くさせるような気がして、お節介を焼くことはしなかった。その代わりに、こう聞いた。
「じゃあ、不登校になるのか?」
「……うん」
「……あれはどうする?……部屋からは出てくるのか?」
「……君に会いたいから行く」
「…じゃあ、宝塚記念はどうする?…厳しいこと言うけど良い?」
「…んん」
曖昧な返事だったが、田上はこれを肯定と受け取って話を続けた。
「今のお前の心理状態じゃ、多分宝塚は勝てない。それでも、トレーニングだけ続けて、挑むのか?」
「…んん」
「お前の他にも宝塚記念を走りたい子は居るんだ。お前の枠が一つ空けば、それを感謝する子も出てくる。……それでも、勝てないと分かってて走るのか?…それとも、お前はこれでも勝てると思っているのか?」
「……勝ちたい」
その言葉が耳元で呟かれると、田上は困ったように宙を見上げた。タキオンは、決して田上の物じゃない。タキオン自身の物だ。その行く先を決めるには、田上には少し自分が部外者のように思えた。もうすぐ十八と言っても、まだ親を当てにする年齢ではある。不登校なんかに関しては、タキオンの両親に連絡して相談するのが一番だろう。だが、それをタキオンが喜ぶかどうか…。田上はその様な事を考えたので、タキオンに聞いた。
「今まで、お前がやる事やると分かっていたし、お前のお父さんとお母さんの方もそれを把握していたみたいだから、何も言わなかったんだけど、ただ単に不登校になるって言うんなら、お前の事を一応お義父さんたちに連絡しておかないといけない。…あれは?…これまで通り最低限の授業に出たりはしないのか?」
「……最低限の授業には出る予定はある…」
あんまり無さそうな元気のない声で言われたから、その言葉が本当なのかどうか信じることは難しかったが、ここで否定してしまっては元も子もないので、田上は「そうか…」と呟くと、次の言葉を言った。
「どうする?最低限の授業に出れるのなら、お義父さんたちの方にはあんまり連絡は飛ばないと思うけど、俺から連絡しておいた方が良いか?」
「……何て?」
「えー、…――タキオンが、悩んでいるので少し不登校になっています。みたいな感じで?」
「…あの人たちは、君に託してくれると思う。どうしようもなかったら、また、動きはすると思うけど、君が私の面倒を見る意欲を見せたら、多分、二つ返事…」
「…俺もタキオンを頑張って助けるつもりではあるけど、お前の親の方にも連絡はしておいた方がいいからな…。連絡はしてもいいのか?」
「いいけど、向こうからの連絡は受けるつもりはない」
「……じゃあ、タキオンの不登校が落ち着いた頃に連絡してみるか。…トレーニングはするんだよな?」
「んん…」
「どっちなんだ?」
「…する。けど、君と一緒に居たい」
「さすがに、俺も併走はできないぞ」
「して」
「いや、無理だよ。さっきもお前に全然追いつけなかったのに」
「じゃあ、君に合わせる。君と手を繋ぎながら走る」
「それじゃあ、トレーニングにならないよ。…本当にトレーニングはするんだよな?」
「する。けど、君と一緒に居たい」
それをもう一度繰り返されると、さすがに田上も笑って言った。
「ダメだよ。どっちか一つだ。トレーニングをしながらもちゃんと見てるからいいだろ?」
「ダメ。私だけを見て。君は、リリー君も見るから信用できない」
「…でも、俺も仕事なんだけどなぁ」
「私を見るのも君の仕事だ。付きっきりで私の隣に居て。寝る時も、歩く時も、授業に出る時も、寮に居る時も、お風呂に入る時も、シャワーを浴びる時も一緒に居て」
「お風呂はさすがに不味くないか?」
「不味くない。ずっと一緒に居てほしい」
その言葉に呼応するように、田上にしがみ付くタキオンの手の力が、少しだけ強くなった。
「…タキオン、お前、昨日――落ちるのなら、どうか君と一緒に落ちたい、って言ってただろ?お前、本当に俺を落としたいのか?」
「落としたい。もし、君を刺し殺すときが来れば、私も同じように死ぬ」
「…それじゃあ、何の解決にもならないからなぁ。…全部、お前も分かっているはずなんだけどね。あんなに一生懸命俺を励ましてくれたのに。…どうしてなんだ?」
「全部、君を操り人形にしたかったからできた」
「それだけじゃないだろ?お前もさっき言ってただろ。俺を助けたかったのは本当の事だったって。…それが難しい。…お前の気持ちも十分に分かるんだよ。けど、難しいよなぁ。俺もお前を甘やかしてやりたいけど、……俺もそんな気持ちがあるけど、…今の心の動力はお前を助けたいって気持ちなんだ。…お前もそんな感じだったんだろう。だから、お前が俺を操り人形にしたがっていたのは、つい最近の事なんじゃないか?俺が大分落ち着いてきたときに、その欲がふつふつと湧いてきたんじゃないか?」
タキオンは何も答えなかった。
「…俺もお前と一緒に落ちる覚悟はあるけど、わざわざ落ちると分かってて落ちたくはない。…お前は、昨日こうも言っていたよな。――君となら私はそんなに大事には至らないと思う、って。…多分、俺が助けてくれるのを当てにしてるんだろうな。…まぁ、実際に当てにしてるんだからあの言葉が出たんだろうけど、…俺をそんなに当てにされてもな。…傍に居る事しかできない」
「傍に居てくれさえすればいい」
「傍に居るっていうのも中々に難しい話だけどな…。…もうそろそろ授業も終わるな。…こんなところ見られたら、俺たちももうそろそろやばいぞ」
「私たち、付き合っていないからやばくない…」
「ん?それ冗談?本気?」
「…どっちだと思う?」
「冗談にしておいてほしいね。少なくとも、俺はお前とまだ付きってるもんだとばかり思っていたけど、会わせる顔がないとその関係もなくなるのか?」
「なくなりたくない」
「じゃあ、変な事言うなよ。わざわざ自分を自分で傷つけているようなもんだぞ。…それにしても、ここじゃあな。話しづらいし、トレーナー室に帰らないか?」
「抱っこのまま連れて行ってくれるんだったらいい」
「ええ?…さすがに、さすがにだぞ?さすがに、抱っこしながらは無茶がある。そもそも俺がそこまで持っていけない。階段とか絶対に上がれない」
「なら、このままずっとここに居る」
「それじゃあ、ちょっと大変だよ」
「でも、君も嬉しいだろ?ここにこのままずっとのんびりとしながら、話しているんだ。私の事好きだろ?」
「好きだよ」
「なら、このままでいい。私は君に自分の身を預けて、ずーっと君に甘えているんだ」
「……反論できないのがな。…難しい所だよ。いや、勿論、理性的に反論しようと思えばできるんだけど、それって理性でしかないからな。感情に訴えかけるまでの理性的な反論じゃないと駄目なんだよ。…どうすりゃいいんだろ」
「考える事を止めたまえ」
「嫌だよ。ずっと、このままで居れないってのは分かっているんだから。お前も分かっているだろ?」
「分かりたくない」
「…俺も分かりたくはないんだけどなぁ。…そりゃあ、ずっと寝っ転がって空見て暮らせてたら幸せなんだけどなぁ。そうもいかないのは重々承知だよ。…あんまり甘やかしたらダメなんだろうな。…でも、甘やかしてやりたいよ。俺も永遠が好きだから」
「そうだろう?なら、私と一緒に永遠の中で暮らそう」
「…ただ、永遠なんてないのは知ってるだろ?」
「知らない。無いなら君が作れ」
「……どうしたもんかな。…お前と一緒に暮らしたい…」
田上はぼそりとそう呟くと、タキオンが不意に顔を上げて、その赤い瞳を田上の黒い目に合わせた。
「…私も君と暮らしたい」
「…難しいんじゃないか?さすがに、まだお前も学生だ」
「…そうだよね…」
タキオンは、妙に田上の言葉に大人しく従うと、また田上の肩に頭を乗っけた。そして、そのままタキオンが言った。
「君と一緒に暮らしたい」
「…俺もお前と一緒に暮らしたい。…ここでガツンと一発、怒ってやれる奴がお前の恋人だったらお前ももう少し気を強く保てたのかな?…でも、俺はお前の事泣かせたくないからな…」
「泣かせてくれなくて結構だよ。君が良いんだから」
「………あんまり俺たち相性は良くなさそうだよな…」
「なんで?」
「…だって、二人共お互いに甘えたがっているんだから、そんなのただの悪循環だろ?お互いをお互いで慰め合って、二人だけの世界を作ろうとしてる。…マテリアルさんが言いたかったのはこれか…」
「他の女の話をしないでくれ」
唐突にタキオンがそう頼みこんできたから、田上も少し驚いて言った。
「お前も凄いメンヘラみたいな人になったな…。普通の人じゃ、あんまりお前の相手はしたくないかもしれない」
「だから、私をずっっと抱き締めていてくれ。離さないでくれ。メンヘラなんだ。いつリストカットしだすか分からないよ」
「そりゃあ、不味い。リストカットは傷跡が残るって聞いた事があるぞ」
「残るなら残ったで、それも永遠だ。君が私と一緒に永遠を愛さないって言うんなら、私はリストカットしてその傷跡を君の記憶に一生刻み付ける」
「そりゃあな…、大変だよ。大変だけど、俺を脅したってどうにもならないぞ。絶対にお前の事は愛してるから」
「……嬉しい」
そう言って、タキオンは田上の首筋に少し頬を擦りつけ、ついでにその擦りつけた所をぺろりと舐めた。そして、田上が「うわっ」と首筋に当たった舌触りに悲鳴を上げたのだが、そこで丁度、今日の最後の授業が終わるチャイムが鳴り、田上の悲鳴はそれにかき消された。田上は、自分に顔を見せようとしてくれないタキオンに迷惑さを含んだ眼差しを投げやった後、ため息をついて言った。
「もう、今日の授業も終わったよ。…トレーニングだよ」
「……休みは?」
「今週の土日は、お前の誕生日とファン感謝祭だから休み。…ファン感謝祭はどうする?本当に出るのか?」
「…出ない。ずっと君と一緒にお祭りは回る」
「俺も回んないといけないの?もう、お前がサイン会に出ないなら、俺も部屋から出なくていいと思っていたんだけど」
「ダメ。…いや、君が部屋にいるならそっちの方が好都合だ。君とまた布団の中で話したい」
「…まぁ、人の出入り多いし、お前が来るのもそんなにばれないか。…じゃあ、とりあえず、ファン感謝祭はキャンセルって事で、ファンからの反発があったりしないかな?」
「しないさ。私たちのファンは理解ある人が多い」
「けど、理解ある人だけじゃないからなぁ。…あれだ。せめてトレーナー寮に入る時は、何かフードとか被ってから入ってこい。見つけられて、それが騒がれると本当にここに入ってこれなくなるぞ」
「…どうかな。ここの理事長は、気にしないと思うよ」
「気にするよ。さすがに、あの奇人でも気にする事には気にする。だって、ウマ娘がトレーナー寮に通い詰めているって事が、ばれるかもしれないんだよ?そりゃあ、さすがにそこまで行くと不味いよ。原則、この学園では恋愛事はウマ娘とトレーナーだとしても禁止はされていないけど、トレーナー寮にウマ娘が入る事は禁止されているんだ。ここまで、自由な学園がそこを禁止にしているって事は、そこが認められる最後の関門って事だよ。だから、本当にばれないようにしろ。ただでさえ、寮長にはバレてるんだからな。黙認されているだけだぞ」
「分かったよ。そんなにうるさく言わないで」
すると、タキオンがそう言った後に田上のポケットに入っていたスマホが電話の着信音を奏で始めた。田上は、その電話をかけてきたのが、マテリアルだと思って急いで電話に出ようとした。しかし、そこでタキオンが田上のスマホをひょいと取り上げて言った。
「言ったはずだぞ。私以外の女の話はするなと」
どうやら、タキオンも電話を掛けてきた主がマテリアルだと分かったようだ。ただ、それだと田上はどうしようもない。だから、最早、顔を俯かせることをやめて、こちらを独占しようとしてくる狂った赤い瞳を見つめながら言った。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「君のスマホなんていらない」
タキオンはそう言うと、目の前の石畳の道を越えた芝生の方に、田上のスマホを放り投げた。これには、さすがの田上も仰天して大きな声でタキオンに言った。
「何するんだよバカ!俺のスマホだぞ!」
「君は私のだ!」
今度は、タキオンは田上にひしとしがみ付いて、その顔を田上から見えなくさせた。もしかしたら、自分のやってしまった事に怖気ついたからかもしれない。そのしがみ付き方が、力があるにはあるのだけれど、あまりにも頼りなかったから、田上の怒りと驚きはすぐに引いて、代わりに心底困った声でタキオンに言った。
「どうするんだよ、タキオン。…ちゃんと考えてくれ。少なくとも、昔のお前は人の物を勝手に投げるような奴じゃなかった」
「………分かってる。……別れるなら今の内だ」
「お前、…それは卑怯だ。別れるつもりがないと分かっててそれを言ってるんだから。…まぁ、俺もそうだったんだけどさ。……タキオン、まだマテリアルさんが電話かけてきてる。動けない。せめて、どくか何かして…」
田上がそう言うと、タキオンは数秒した後に不意に立ち上がって、そのまま田上のスマホを取りに行くと、渡すときに「ごめん」と顔を俯かせて言った。そして、ベンチに座っている田上に正面から抱き着きながら、その膝の上に座った。田上は、笑えばいいのか、許せばいいのか分からない複雑な表情を作った後、マテリアルの電話に出た。
「もしもし」
「ああ、ようやく出ましたね。タキオンさんは見つかりましたか?」
「見つかったのには見つかったんですけど、大分、大変かもしれません」
「大変?」
「…まぁ、やってることは前とはあんまり変わらないんですけど、最低限の授業しか出席しないみたいです」
「…前と変わらない?」
「…ああ、マテリアルさんは、タキオンが研究を止めてから補佐になったんでしたっけ?」
「…多分、そう?」
「うん。多分そうですね。マテリアルさんと出会う前は、専らタキオンは研究室にいたんですけど、今回は、もう俺の傍から離れたくなくて授業に出ないって言うんですよ」
「へぇえ、どういうことですか?」
「…やる事だけやって帰る不登校みたいなもんです。トレーニングはする。宝塚はちゃんと走るそうです。だから、今日のトレーニングもしっかりあるので、そのように。…リリーさんももう何も聞いてきませんでしたか?」
「はい。今日もいつもの場所で?」
「はいそうです。じゃあ、電話切ります」
そして、田上とマテリアルはそれぞれ「ありがとうございました」と述べて、電話を切った。それから、今度はタキオンの方に田上は呼び掛けた。
「タキオン、もう俺も仕事があるんだし、お前もトレーニングがあるんだから、着替えて運動場に行かないと。これはどうする事もできないぞ。お前もトレーニングはするって言ったんだから」
「…運んで」
「どこまで?」
「寮まで。そして、私が来るまで待ってて」
「え、俺も着替えないといけないんだけど」
「別に、君は着替える必要はない。それに、着替えたかったとしても私が来るまで待って」
田上は、そこで少し時計を確認したが、まだ始まるまでに時間はそれなりにあったので、仕方がなさそうに「いいよ」と答えると、タキオンを前に抱えたまま寮まで運び始めた。
その二人が去った後のベンチに一枚の緑色の葉が舞い降りた。そして、そのまま風に吹かれながら、ベンチの上をかさかさと移動すると、また別の所へ行き、やがて見えなくなった。