田上は、タキオンをウマ娘寮の前まで連れて行くと、その前でタキオンが着替えて出てくるのを待った。しかし、なんとタキオンは着替えの体操服を片手に抱えたまま、ウマ娘寮の扉から出てきた。これは、田上の予想とは違ったので、少し眉根を寄せると、田上は聞いた。
「何で着替えてきてないんだ?」
「君と着替えようと思って。…ほら、抱っこ」
そう言うと、タキオンは田上に頭を打ち付けそうな勢いで飛びついて、しがみ付いてきた。田上は、それはもう諦めて、大人しくタキオンを抱っこしていたのだが、今の返答には納得が行かずもう一度聞いた。
「なんで、着替えてこなかったんだよ」
「君と着替えたいって言っただろ」
「なんで俺と着替えたいんだよ」
「別にいいだろ?女子高生の奇行くらい許してもらわないと困るよ」
「お前、それは奇行が目的じゃないだろ」
「…そうだけど、なにかあるかな?」とタキオンは開き直った。
「何かあるだろ。なんで俺がお前と着替えないといけないんだよ」
「君のその体を拝みたくって」
「ああ?一緒には着替えないからな?」
「着替えさせてもらうよ」
「嫌だよ」
「嫌って言っても、私は君と一緒に着替えるからね。着替えはトレーナー室にあるんだろ?早く進みたまえ!」
タキオンがしがみ付いてから全く動こうとしない田上に、タキオンは痺れを切らして叫んだ。それで、田上もタキオンには甘い人だったので、ぶつぶつと文句を言いながらも大人しくその命令に従うと、一歩一歩重いタキオンを抱えながら進んでいった。その途中で、着替えるためにトレーナー寮に行こうとしていたマテリアルと出会ったのだが、まるで子供のようにしがみ付いているタキオンを見ると、なぜかタキオンだけではなく、田上共々笑われた。この笑いに田上は不服そうな表情をした。
やっとの事でトレーナー室へ辿り着くと、次は着替えだったが、田上は「じゃあ、先に着替えててくれ」と一目散にその部屋から退散しようとした。しかし、タキオンがそれを許すはずもなく、田上の肩をガシッと掴むと、「逃がさないよ」と脅した。そう言われると、田上は、しかめっ面をしたまま大人しくパイプ椅子の一つに座って、そこの机に突っ伏した。そして、タキオンに「早く着替えろ!」と呼び掛けた。
タキオンが、田上を自分が着替えている間もここに居座らせるのに、特にこれと言った理由はなかったが、田上が居るだけでも良かったので、さっさと体操服に着替えると「着替えたよ」と呼び掛けた。そして、田上はやっと伏せていた顔を上げると、怪訝そうな顔をしてタキオンに「出て行けよ」と告げた。しかし、それを言われて「はい、分かりました」と返事をするくらいだったら、今頃、タキオンはこの部屋には居ない。「嫌だ」とタキオンは言うと、田上がいつも着替えを置いている所からいつもの服を持って来て、「はい」と手渡した。田上は、タキオンの行動を終始怪訝な顔で見つめていたが、もうどうしようもないので、そそくさと着替え始めた。
田上は、できるだけタキオンの視線から逃れようと、長机を挟んで着替え始めようとしたが、案の定タキオンは田上をよく見ようと長机を回って正面の方まで来た。だから、田上はじろじろと見つめられながら、上の服を脱いで貧弱な体を見せ、ズボンを脱いでまだ上半身よりはまだマシに筋肉が付いている足を見せた。そして、タキオンはそれに感想を述べた。
「君、あの寒さで死にかけた時も思ったけど、案外貧弱な体をしてるよね」
「悪かったな、貧弱で。行くぞ」
「ああ、待って。行く時も私を抱っこしないと、私は行かないぞ」
「ん?さすがに、お前を抱えながら階段は降りれない」
「じゃあ、おんぶだ」
「おんぶも…無理だろ。な?さすがに、お前も俺が怪我して入院するのが良いか、怪我しないで一緒に居るのが良いかくらいの判断はつくだろ?」
田上に冷静に諭されると、タキオンは少し不満そうな顔を見せた後に言った。
「仕方がない。けど、階段を下りきったら、また私を抱っこするんだよ。それじゃないと、私は階段の下で座り込みをするから」
「ああ、分かったよ」と田上は適当に頷くと、タキオンの方に手を伸ばして、一緒に歩く催促をした。すると、タキオンは嬉しそうに笑った後に、田上にベタベタとくっ付いて階段を下りていった。
田上がいつもの運動場に来た時には、いつもより五分十分程遅れていたので、マテリアルもリリックも退屈そうにして、二人が来るのを待っていた。田上は、タキオンを正面に抱えながら現れた。その時のタキオンは少し泣いていた。途中でトレーニングはしたくない、と駄々をこねたからだ。田上もそれを頑張って説得しようとしたのだが、どうにも折れないのと時間が迫っていたので、とりあえず、タキオンを抱えながらここまで歩いてきた。
マテリアルは、田上の事をニヤニヤしながら見つめて言った。
「タキオンさん、どうしたんですか?」
それで、田上が事の顛末を話すと、話している間は神妙な顔で聞いていたマテリアルだったが、話が終わった後にだんだんと顔をニヤニヤさせて田上に言った。
「あんまり、からかうのもあれかもしれませんが、タキオンさんが田上トレーナーにくっついてるの凄く面白いですよ」
「だって。タキオン、お前トレーニングはしないのか?」
タキオンは、田上にしがみ付いたまま首を横に振った。それで、仕方がないので、一旦タキオンの事は無視して、田上はリリックに言った。
「じゃあ、リリーさんは、とりあえず、昨日のようにはしってもらおう。今回は、マテリアルさんが様子を見ててくれますか?昨日と同じことなので」
「はい」
「じゃあ、俺はちょっとタキオンとまた話をしないといけないので、今日はそっちをメインでいかさせていただきます」
「はーい」と二人共元気よく返事をすると、それぞれ持ち場の方へと行った。
残った田上は、自分にしがみ付いくるタキオンに言った。
「タキオン、俺、もうこれ以上一歩も動けそうにないんですけど」
「…動け」
「…ちょっとあの土手まで、自分の足で歩いてくれない?そこで、寝っ転がりながら話そうよ。お前ももう辛いだろ?楽な姿勢で話そうよ」
この言葉を受けて、タキオンは数秒黙り込んだが、その後に大人しく立ち上がると、今度は田上を後ろから抱き締めた。タキオンは何も言わなかったが、田上は、その行動を肯定と受け取って、タキオンを後ろに引き連れながら、土手を目指して出発した。そして、タキオンが田上の手を放し、田上が土手の上に横になると、次に、タキオンが田上の上に乗っかってきた。これは、まあまあ予想できた行動だったので、田上は苦もなくそれを受け入れると、田上の胸に顔を埋めているタキオンに聞いた。
「トレーニングをする気はないのか?」
タキオンは、田上の胸の中で微かに頷いた。
「…じゃあ、宝塚は出走するのか?」
これにもタキオンは頷いた。
「じゃあ、お前はトレーニングはしないけど、宝塚には出たいって事だな?……そんなに甘くないぞ、お前の居る世界は。お前以外にもたくさんの人が、そのレースで勝ちたいと思っているんだぞ。…お前、本当は勝ちたくないだろ?目的は、勝つ以外の事にあるんじゃないか?」
今度は、タキオンは何も反応を示さなかった。だから、田上はため息をフーーっと吐くと、言葉を続けた。
「どうにも、居る世界が難しかったな。俺たちに八歳も差があったのも簡単じゃない。…けど、この世界に俺もお前も身を置こうとしなかったら、出会う事すらできていなかった。…世知辛い。…世知辛ぇなぁ。…どうすればいいんだろ…」
田上はそう言うと、吹いてくる春の風をじっと感じながら、青い空を見つめていた。その視界の端には、時折ぴくぴく動く栗毛色の耳や風に吹かれて田上の鼻をくすぐる栗毛の髪の毛が映ってきたが、それらにはあまり気を留めないでじーっと空を眺めていた。青い空には、白い雲がふわふわと漂い、上空に吹く風に押されて西の方角へと徐々に徐々に動いていた。そして、また一つ風が吹くと、田上が肺を大きく膨らませて、「はくしょい!!」とくしゃみを一つ飛ばした。すると、タキオンが文句を垂れた。
「うるさい」
そう言うと、田上はハハハと笑って返した。
「お前、俺の小言の方がよっぽどうるさいだろ。…話してくれ。お前だって、俺にそう望んだだろ?なら、俺だってお前にそう望みたい。悩みがあれば言ってくれ」
「………悩みはない。……君が好き」
「それじゃあ、誤魔化せない。俺をおだてたって何も出さないからな」
「出せ」
「嫌だよ。なんも出す物もないよ。…悩みは、…無い事はないだろ?まず、トレーニングがしたくない悩み。それだけど、宝塚記念には出走するという悩み。ここら辺が挙げられる。で、さっきの話題に戻るけど、…聞いてる?」
「聞かない」
「ええー…。…何にも聞かないじゃ、立ち行かなくなるんだけど…。…さっき、マテリアルさんが言ってた言葉聞いた?…凄く面白いって。お前バカにされてるんだよ。マテリアルさんをぶん殴ってやりたい気持ちは湧かないのか?」
「…君が好き」
「だから、それで誤魔化そうとするなよ。…ダメだな。これに反応したらダメなんだ」
すると、この言葉に少しタキオンは出来心を抱いたのか、また「君が好き」と言った。田上は、少しの間黙って堪えようとしていたのだけれど、遂に堪え切れなくなって言った。
「ああー!!お前、悪い女だぞ。本当に悪い。お前みたいなやつに好きって言われて嬉しくない男がいるか?いないよ!」
田上がそう言うと、タキオンはふふふと笑って、少し顔を上げた。
「君は陽気になったね。表情も以前からすると、大分明るくなった」
「逆にお前は少し暗くなったな」
すると、タキオンはまた田上の胸に顔を埋めて言った。
「君のせい。君が、私に多大なる心労をかけたからこうなった」
「ぐうの音も出ないようなこと言わないでくれ。でも、絶対に俺のせいってわけでもないからな。…いや、俺のせいであるっちゃあるんだけど、遅かれ早かれだからな。…いや、俺のせいなのか?」
「君のせい。…君が私を愛してくれたせい。…大好き」
そう言うと、タキオンは殊更に田上の体をぎゅっと抱き締めた。田上だって勿論悪い気はしないが、タキオンに言った。
「お前はそれをやめたかったんじゃないのか?強引にキスをする事を後悔してただろ?今のお前が言ってることは、俺を強引に黙らせることとあんまり大差はないぞ」
「どこが?」
「好きっていえば、俺が大人しくなると思っているだろ?お前、俺だって心を鬼にするぞ」
「しなくていい」
タキオンがきっぱり言うと、田上も少しは厳しくしてやろうという意気が萎んでしまって、代わりに苦笑が口からこぼれ出た。
「ははは…。もう、どうしたらいいのか分からないよ。…でも、本当にトレーニングだけは絶対にしないといけないぞ。じゃないと、宝塚記念の出走は俺が取り消す。今日はいい。今日はいいけど、明日からちゃんと考えろ。お前の他にも走りたい人はたくさんいるんだ。それに、近くなってくるとお前もダンスレッスンがあるからな。…しゃんとしないと。…頑張れ」
そう言ってから、田上はタキオンの肩をぽんぽんと叩いた。タキオンの肩は小さく震えるだけだった。
その後は、できるだけタキオンの気を落ち込ませないように、田上は明るい話題を何個かした。しかし、タキオンの調子はあまり変わっていなさそうで、トレーニングが終わってカフェテリアで食事をしてウマ娘寮の前に来た時までは、ぐずって中々部屋に帰ろうとしなかった。だから、わざわざデジタルまで呼んで、頑張って説得してから田上は自分の部屋へ戻った。
今日は疲れる一日だった。自分の生まれた時から今までで一番頑張った、もしくは、体を酷使したかもしれない日だった。半日、人一人を抱え続けたから、多分そうだろう。田上の体はもう疲れ切っていて動きそうになかったが、この疲れは風呂に入れば大分和らぐことを知っていたので、田上はトレーナー寮の風呂に入りに行く事にした。その結果、大分、にこにこできるくらいには回復したので、田上の判断は間違っていなかった。
田上は、――明日もタキオンと一生懸命話をしよう、と思うと、深く安らかな眠りに就いた。
翌朝起きると、まるで田上が起きるのを見計らっていたかのように、タキオンから電話がかかってきた。
「迎えに来てくれ」
開口に一番にタキオンはそう告げたが、だからと言って、そんなに無茶振りされても田上は困るだけだった。
「無理だよ」と寝ぼけの混ざった声で田上は言った。しかし、タキオンはそんな言葉で引くような女ではなかった。
「嫌だ」と言うと、次にもう一度「迎えに来い」と言った。田上は電話口で「ええ…?」と困り果てた声を出したが、タキオンは一向に引きそうになかったので、とりあえず、対話を図ろうとしてこう聞いた。
「よく眠れたか?」
「君が居なかったからあんまり眠れなかった」
「そんなはずはないだろ。なんで、今までできてたことが、急にできなくなるんだ」
「それくらい、君が一番分かるはずだろ。精神病になったんだ。私の献身的な愛のお陰で君はそこまで元気になれたんだから、君ももっと私に献身的に尽くしたまえ」
「…そりゃあ、分かるけど、…できないもんはできないよ。…どうするの?」
「君が来る」
「…どこまで」
「私の部屋まで!」
「そりゃ、もっとダメだ。フジさんに許可取らないと」
「じゃあ、今から取ってくる」
「は?」と田上が言っているうちに、何やら衣擦れの音が聞こえて、その後に足音とドアの開閉音がすると、人がざわざわしている所に出た。恐らく、タキオンの部屋から出たのだろう。田上は、電話口でこの電話は切ればいいのかどうすればいいのかと悩んでいた所だったが、今切ったらタキオンはもっと怒るだろうから、田上は何もしないでいた。
タキオンは、色んな人に「フジ君はどこか知っているかな?」と聞いて回っていて、どこそこを巡っているうちに、玄関で今にも出て行こうとしているフジキセキを呼び止めた。
「ああ、フジ君。圭一君をちょっと野暮用で私の部屋に呼びたいのだけれどいいかな?」と電話の向こうでタキオンがフジキセキに聞いているのが聞こえた。
「圭一君?」とフジキセキは聞き返した。恐らく、田上の下の名前を知らないものと見える。
「ああ、私のトレーナー君だよ。ちょっとした野暮用だし、生徒たちをじろじろ変な目で見ないのは君も知っているだろ?だから」
「ああ、ごめんね、タキオン。幾ら君の頼みでも、あんまり大した用事じゃないのにトレーナー君をここに入れるのは少し不味いかな」
「じゃあ、大した用事だ」
「…どんな用事だい?」
「……私と彼の大事な話だ」
タキオンは大きなはったりをかましたが、そのはったりをかます場所がいけなかった。ここは、ウマ娘寮の玄関で、人がたくさんいるにもかかわらず立ち話をしているし、その話を小耳に入れれば二人の話をもっと聞きたくなって、多くの生徒は立ち止まってしまうだろう。そんな中で、タキオンはこの事を言ったのだ。群衆の中からどよめきが起こったのが、田上の方にも聞こえた。そして、到底ひそひそ声とは言えないひそひそ声で、隣の人隣の人にどんどんと今の話を伝播させて言っているのが聞こえた。田上は、タキオンがこの場でも冷静でいれるのが不思議でならなかったが、フジキセキとタキオンの二人の話し合いはまだ続いていた。
それを言った事の重大さは、フジキセキも十分に把握しているようで、暫くタキオンの顔を無心に見つめていたが、不意にこう言った。
「やっぱりダメだね。幾ら大事な話でも、ここでするのはやめてほしい。ここは、残念ながら君だけの場所じゃないんだ」
そう言い置くと、フジキセキはタキオンから顔を背けて玄関から出ようとしてしまった。田上は、事の成り行きをハラハラしながら見守ったが、ある時不意に、「先輩危ない!」という女学生の悲鳴が聞こえて、田上のスマホからゴッという鈍い音が聞こえた。それから、フジキセキであろう声が「痛っ」と言い、タキオンであろう声が唸り声を上げていた。田上には、状況が把握できずに思わず、心配そうな声で「タキオン?何かあったのか?」と聞いた。しかし、返答は聞こえずにそのままドサッ、ドスッという重い物が落ちる音と、タキオンの唸り声と、群衆の悲鳴だけが聞こえた。
それに田上は怯えた表情を見せ、切羽詰まった声で「タキオン、どうした!何かあったのか!」と聞いた。すると、フジキセキの声が聞こえた。
「その声は、君のトレーナー君だね?電話を繋げながら来たのかい?…なら、君にとっては都合が悪いと思うんだけど」
フジキセキは、必死に力を込めているような声で話していた。タキオンの唸り声は相変わらず聞こえる。
「ははっ、君がこんなに好戦的だとは思わなかった。…電話に繋がっているのはトレーナーさんで大丈夫かい?」
この問いかけは、田上に来ているようだったから、田上は神妙な声で「はい…」と答えた。
「この子、私だけではどうしようもない。私には、君も居てくれた方がいいように思える」
「呼ぶな!!!」と電話口でタキオンが叫ぶのが聞こえた。その声で田上は、恐ろしくなって、次に自分が何をすればいいのか分からなくなってしまった。しかし、フジキセキがまた「トレーナーさん、聞こえているのかな?」と問うと、田上は「今すぐ行きます!」と答えて、慌てて寝間着の姿で靴もしっかりと履かないで、トレーナー寮の外から出て行った。
田上が、ウマ娘寮前に来ると、玄関の所に人だかりができていて、そこから少し離れた所にフジキセキと数人のウマ娘が固まっていた。フジキセキは、自分の服についた砂なんかを払って落としていたが、田上が来たことにすぐに気が付いて呼び掛けた。
「まだ、彼女暴れてるよ。他の子が、取り押さえてくれてる」
「な、…何が?何があったんですか?」
「分からない。私が断ったら、彼女が急に私に襲い掛かってきたんだ」
そして、フジキセキが自分のおでこのあたりを指差した。そこからは、血がじんわりと滲んできていた。それに、他の場所も見てみると、膝の少し上からも血が滲んで、ソックスを少し汚していた。
「彼女の事、早く助けてあげたほうがいいよ」
フジキセキは、田上に優しく呼びかけたが、田上の混乱は落ち着かず、ただ口元でぼそぼそと「なんで…?」と繰り返すだけだった。だから、痺れを切らしたフジキセキが「行きなさい!」と怒鳴ると、田上はその声に押されるようにして人混みの中にそろそろと近づいた。
田上が来ると、人混みは自然と割れていき、次第に静かになった。そして、タキオンの唸り声と女学生が叱りつけている声だけが聞こえた。田上は、人混みの中心部の方へ出てくると、そこに組み伏せられているタキオンを見た。田上に気付くまでは唸り声を上げて、組み伏せてくる女学生になんとか抵抗しようとしていたが、田上に気が付くと、一気に静かになった。誰かが口を開く当てもない沈黙が、その場を支配したが、その沈黙は徐々にタキオンのすすり泣く声に変わった。その頃には、もうタキオンも抵抗をしなくなったので、組み伏せていた女学生はそっとタキオンの体から離れた。
田上は、何も話すことができずに、ただすすり泣くタキオンを見下ろしていたが、人混みの中から一人、飛び出してくるウマ娘がいた。アグネスデジタルだった。田上を恐る恐る見つめながら、タキオンの背中に触れ、言った。
「タキオンさん、…トレーナーさんが来ましたよ」
その言葉を聞くと、タキオンのすすり泣きは勢いを一層増した。それで、助けを求めるようにデジタルが田上の事を見ると、田上はしゃがみこみ、まだうつ伏せになって泣いているタキオンに向かって言った。
「なんであんなことをしたんだ?」
タキオンの返答はなかった。
「…なんで、フジさんを怪我させた?お前の大事な友達じゃないのか?」
タキオンの返答はなかった。
「……タキオン、…起きて」
タキオンは動かなかった。だから、田上はらしくもなく声を大きくして言った。
「起きろ!タキオン!!」
そう言うと、タキオンはすすり泣きながら、のろのろと立ち上がるまでは行かず、床の上に座り込んだ。田上には、タキオンの顔が見えればそれでよかったので、そのタキオンに向かって言った。
「なんであんな事したんだ?つい、カッとなってやったのか?」
タキオンは、首を横に振った。
「じゃあ、なんでなんだ?」
田上がそう聞くと、タキオンの泣き声はいや増し、苦しそうに息をしながら、やっとの思いで言った。
「全部、……全部私が悪い。…もうダメだ」
「ダメなんかじゃない。……場所を変えよう」
田上はそう言うと、昨日の今日で筋肉痛で体が悲鳴を上げているのにもかかわらず、タキオンをひょいとお姫様抱っこすると、人混みに向かって言った。
「ご迷惑かけてすみませんでした。デジタルさんもありがとう。…本当にすみませんでした」
そう言って頭を下げると、田上は泣いているタキオンを抱えたまま、人混みを掻き分けて出て行った。そして、人混みからようやく抜けると、まだ、フジキセキがそこに立っていて、事の行く末を見守っていた。だから、田上はフジキセキにも言った。
「本当にすみませんでした。足の怪我は大丈夫でしょうか?捻挫とか、どこか痛むとかありませんか?」
「ああ、大丈夫だよ。私の擦り傷くらいだからへっちゃらさ。それよりも、君の彼女の方が酷いんじゃないのかい?何かったのかな?」
「……苛立ってるみたいです…」
田上は静かに、物事の輪郭をぼかしつつ言った。フジキセキの方も察しのいい人だったので、あまり踏み込まれたくない事を感じると、「ああ、そうかい」と頷いた。それから、田上はその場も後にして、また、あのベンチへと向かった。