ケロイド   作:石花漱一

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二十四、ファン感謝祭とその後①

二十四、ファン感謝祭とその後

 

 ファン感謝祭当日の朝が来ると、タキオンは早速田上の部屋に向かった。まだ、感謝祭は始まっておらず、正門も開いていないので、客の方は居なかったが、祭りの例として屋台の準備が多くなされていた。トレセン学園の道という道に屋台があるので、きっとタキオンと田上がいつも座っているベンチの周辺にも屋台が多く立ち並ぶのだろう。

 また、催し物を開く大きな白いテントも幾つか設置されていた。その白いテントの中の一つでサイン会が行われ、また、別のテントなどでは、グッズの販売などが行われる。サイン会は、別にタキオンがおらずとも成り立つ催し物だったが、タキオンが居ない事で多くのファンはがっかりとしたことだろう。しかし、それでも、他の短距離やマイルで活躍している選手もいるし、カフェもサイン会には出席するようだった。タキオンには、カフェがファンと話している姿などあまり想像できなかったが、あんな面倒臭そうなサイン会に出席するなど物好きだな…、と思いつつタキオンは田上の部屋まで行った。

 勿論、トレーナー寮やウマ娘寮、それに校舎などは部外者は立ち入ってはダメなのだが、トレーナー寮の前にもそれなりに屋台があったので、タキオンはあらかじめ自分の正体がばれないように着ていたパーカーのフードを被って、寮の中へと入った。

 寮に行けばすぐに田上が出迎えてくれた。タキオンが事前に『君の部屋に行く』とスマホで連絡しておいたので、わざわざ自分の部屋から出てきてくれたのだ。それで、タキオンは田上に付き添われながら、その部屋まで行った。

 

 ただ、田上の部屋に行ったところで、する事はあまりなかった。今の所、悩みらしい悩みもないし、話題らしい話題もないので、二人共スマホをいじるかパソコンをいじるか、時折、お互いのしている事を聞くか、という事だけだった。しかし、やっぱりそうしているうちに段々とタキオンの気持ちが田上の方に向いてきて、パソコンでぼんやりとゲームをしている田上に色々とちょっかいを出し始めた。初めは、田上の後ろから「何やっているんだい?」と聞くばかりだったが、その内に耳をいじってみたり、吹いてみたり。その次には、駄々をこねてみてようやく田上が反応した。

「何かしてほしいのか?」

「寂しいから一緒に布団に入ろうよ」

「寂しい?」

「寂しいぞ!折角君の部屋に来たのに、恋人らしい事何もやってない」

「俺の部屋に来ても恋人らしい事なんて一つもできないぞ?」

「できるさ。一緒に寝よう。恋人らしいぞ」

 タキオンが熱心にそう誘ったので、田上はまだパソコンの画面についていたゲームを消すと、タキオンと共に自分のベッドに寝転がった。寝転がると、タキオンが嬉しそうにクスクス笑いながら言った。

「今日のファン感謝祭はどうする?何を見に行く?」

「なんでもいいよ」

「何でもいい事はないだろう?なんか、トレーナー陣がレースをする催しもあるらしいぞ。君たち人間じゃ、2000メートルも少し苦しいんじゃないのかい?」

「お前らみたいに早くは走れないよ」

「…そうか。…君も走ってみたらどうだい?確か直前まで受付してるっていうのを見たぞ」

「ええ?」

「面白いだろ?一回走ろうよ」

「何時ごろから?」

「…それは分からないな。けど、ちょっと走ろうよ。君の走ってるところなんてそんなに見ないから、私も見てみたい」

 田上はそう言われると、難しい顔をして、唸りながら考え込んだが、不意に「応援してくれる?」と問い、タキオンが「ああ、するとも」と嬉しそうに答えると、「じゃあ、走ろうかな」と言った。

 それから、少しの沈黙があって二人は見つめ合ったが、少しするとタキオンが目を逸らして言った。

「君、あっちを向いてくれ」

「え、なんで?」

 田上が思わずそう返すと、タキオンが少し顔を赤らめて言った。

「なんだか、こうしているとちょっと恥ずかしくなってきた。…私も、なんだか君の顔をまともに見れないんだよ。だから、あっちを向いて」

 タキオンはそう言うと、田上の体を半ば強引にタキオンから背けさせ、彼女の顔を見れないようにした。そして、タキオンは田上が横向きに寝ている後ろから抱き着いて囁いてきた。

「こうするのはいいね。昔、父さんと寝ていた時の事を思い出す」

「……まだ、俺をお前の父親代わりだと思っているのか?」

 田上も小声でそう返した。

「まさか。君は私の愛すべき人だよ。確かに、父さんの…というよりも君が、…何て言えばいいのかな?……君の背中は、私の父さんを彷彿とさせるんだよ」

「お義父さんを?」

「そう。だけど、やっぱり君は紛れもなく私の愛すべき人なんだよ」

「じゃあ、俺も正面を向いていいんじゃないか?」

「それは、ちょっと待ってくれ。もう少しこうしていたいんだ。父さんじゃない。君の背中が私は好きだ。……でも、少し寂しいかもしれない」

「…寂しい?」

「…あんまり君は気に入らないかもしれないけど、…ちょっと寂しい。真正面からだと、君とこんなに体を密着できないだろ?だから、こうしていれば、君を放さずに済むし、君の温もりも感じられる。…」

 その後にタキオンが言葉を続けようか続けまいか口ごもったのだが、先に田上が言った。

「俺だったら正面から抱き締めてもいいけど」

「……それは、…分からない。…」

 そして、またもやタキオンが口ごもったのだが、その様子に田上は全然気付かずに言った。

「なら、抱き締めてあげる。タキオン手を放して。抱き締めてあげるから」

 そう言われると、タキオンの手は一瞬強張り、次いで、緩めてから田上の体から離れた。そして、田上がまたタキオンの正面に向き直ると、腕を広げて言った。

「来いよ。寂しいんだろ?」

 その田上の腕の中にタキオンは恐る恐る入り込むと、タキオンは田上に布団も被せられて、すっぽりと包み込まれ、彼の匂いしか感じなくなった。けれども、あまり寂しさは紛らわすことができない。勿論、嬉しいには嬉しいのだけれど、タキオン心にはぽっかりと穴が開いていた。タキオンは、それを感じて何も言えずにいると、田上が聞いてきた。

「どうだ?寂しさはなくなった?」

「……なくなっていないかもしれない」

「じゃあ、なくなるまで暫くこうしているか。…子守歌は?」

「……少しだけ」

「じゃあ、…何にしよう?楽しい歌が良いか?」

「それで…」

 タキオンの胸は、田上に抱きしめられていて、少しドキドキしていた。これまでにも何度か田上には抱き締められたが、今日のは、また格別にドキドキして不思議な心地だった。

 田上は、「じゃあ…」と考えながら、こんな曲を歌った。

「 楽しいお歌が聞こえるよ

  ララララーラ ラララララ 

 

  うさぎちゃんが跳ねている

  ピョコピョコピョンピョン ピョピョピョピョピョン

  

  子猫が一匹鳴いている

  ニャニャニャニャーニャ ニャニャニャニャニャン

 

  たぬきがお腹を叩いてる 

  ぽこぽこぽんぽん ぽこぽこぽん

 

  小さい女の子が泣いている

  おや?あれは誰かな?

  あ、タキオンちゃんだ!  」

 田上は、保育園で歌っていた記憶をそのままに歌いきると、最後の歌詞の所でタキオンの脇をくすぐり始めた。途端に、少しのどきどきに安心感を覚えていたタキオンは、笑い転がされることになった。これが、中々田上がくすぐる事をやめないので、タキオンは思わず本気で田上の頭をぶちそうになった。勿論、ウマ娘の本気でぶってしまうと取返しのつかない事になってしまうので、タキオンはひいひい言いながら「もうやめてくれ!」と笑顔で悲鳴を上げた。それでようやく田上もくすぐることをやめて、笑い疲れてしまったタキオンをハハハと笑った。タキオンは、くすぐりが終わった後も暫く息を整えるために、じっと動かないでいた。その時に彼女が息も絶え絶えに言った。

「……セクハラだぞ!」

「ああ、ごめん。もうやらない方が良かった?」

「…別にやるなとは言ってない」

「じゃあ、もっとやればいいの?」

 田上がそう言って、タキオンの方に手を伸ばそうとすると、その手をぴしゃりと叩いてタキオンが、嬉しそうに笑いながら言った。

「やるなよ。…まぁ、恋人だからそんなに気にしないけど。…でも、ちょっと今は疲れた。…今度は普通に抱き締めてくれ」

 タキオンは、その後にベッドの上に座って胡坐をかいている田上に近寄って、正面からをの体に抱き着いて、体重を預けた。田上ももうさすがにタキオンの脇をくすぐるような事はしなかったが、それでも、何度か悪戯したそうに手がタキオンの脇まで伸びそうになる時があった。

 タキオンは、そんな事は露知らず、田上の耳元で疲れた声を出して言った。

「あんまり大声を出してしまったから、隣の部屋の人に聞こえたかもしれないね」

「…それは不味いかもしれないけど、…まぁ、そんなチクりそうな人では無かったような気がする」

「そうか、それは良かった。……好き」

「俺も好きだよ」

「……これも、また落ち着く年になれば、あまり言わなくなるのかな」

「…子供ができたら、もう言わなくなるかもな」

「…それは、寂しいな。…できるなら、君とこうしてずっといちゃいちゃしていたい」

「…どうなんだろうな。…それを言ったら俺も少し寂しいかもしれない。…なぁ、タキオン」

「なんだい?」

「俺ってどう思う?……なんか、……お前とこうしているのって……、凄く、…凄く…、なんだろうな?…こう…、…お前と恋人同士でいるのって、…不釣り合いというか、……なんかちぐはぐだよな。…別に、お前が嫌いだって言うんじゃないけど、…こう、俺が子供でいて良いのかな?…お前と一緒に居て良いのかな?って。…自分に自信がない事に…関係しているのかは分からないけど、…お前と…こう、…好き同士でいるのが、……。言葉にするのが難しいな」

「…私も感覚としては多分分かると思う。……だから、…現状に満足してそこから離れたくない君と、満足したらダメなんじゃないか?という君が居る。そんな中でせめぎ合っているわけだ。――満足してるんだからいいだろ?なにをわざわざ状況を動かす必要がある?って人と、――お前、これで満足してちゃ駄目だろ。紛いなりにも生徒だぞ、みたいな感じだろ?」

「多分、そんな感じ」

「……私も君に下手に動かれると、少し寂しいからな…。君が私の事を想ってくれているのであれば、下手に動けない状況にあるし、また、君自身も満足しているんだろうからね…。難しい…」

「難しいよね…」と田上が呟くように言ったタイミングで、祭りが始まる号砲の音がパンパン、パンパンと鳴った。それで、田上たちの注意は外へと向いた。

「窓を開けてここから外を通る人を眺めようよ」とタキオンが提案すると、田上は、その言葉に従い窓を開け、自分の椅子を持って来て、それに座って外を眺めた。タキオンは、ベッドの端に座ると、そこから外を眺めた。トレーナー寮の近くに屋台には、学園に入ってきた人波の第一波が来ていた。また、生徒やトレーナーたちも寮からぞろぞろと出てきていて、田上とタキオンは、それを上からほとんどの人に気づかれることもなく、見下ろしていた。時折、偶然頭上を見上げた人と田上たちの目が合うことがあったが、特にこれと言った反応をする事もなく、田上たちが静かに窓枠に顔を隠したり、目を逸らしたりするだけだった。

 暫くはあんまり話さないでそうしていたが、ある時、タキオンが人混みの中に父親と母親と小さな男の子の親子連れを見ると、小さく指をさして言った。

「私たちもあんな風になれるのかな?」

「……どうだろう?…なれたら…いいかもな」

「そうだね」

 そう答えると、タキオンはふふふと吐息を漏らすように笑いながら、田上が座っているその膝の上に自分も座った。田上は唐突な事で戸惑いこそしたが、すぐにそれを受け入れて、膝に乗ってきたタキオンを愛おしさを込めて抱きしめた。それから、椅子を少し移動して、二人で窓の外が見えやすいような位置に移動すると、また、下の方を見つめ始めた。

 

 それから、また暫くすると、二人はそっと自分たちの部屋から出て、食堂の方に朝食を食べに行った。少し遅かったような気がしたが、田上たちはぎりぎり滑り込みで食べることができた様だった。修さんたちが、「あんたたち、仲がよかねぇ」とにこにこしながら食事を渡してくれた。

 その朝食を食べている途中でタキオンが言った。

「…もしかして、今日がチャンスなんじゃないのかい?」

「なんの?」

「君とお弁当を作るチャンス。君、今日は暇だし、今も暇だし、今日一日を私に捧げてくれるし、私も暇だし、君と作れるチャンスがある。今日以上に良い日は無いんじゃないか?」

「…そうかもね」と田上は肯定しつつも、その顔は少し嫌そうに眉を寄せていた。タキオンは、その表情をみて苦笑しながら言った。

「ダメかい?」

「ダメじゃないよ。ダメじゃないけど、少し面倒臭いなってだけ。…修さんにちょっと聞いてこようか?二人共キッチンを使う時間じゃないから、もしかしたらダメかもしれない」

 そう言いながらも、田上は、朝食を急いで食べ終わり、一人で席を立って修さんに聞きに行った。そして、帰って来ると、やっぱり嫌そうに顔をしかめて言った。

「良いって。お前、エプロンとか三角巾とか持ってないだろ?」

「ああ」

「それも節子さんが貸してくれるってよ」

「おお、本当かい?それはありがたい。…いつ頃作りに行けばいいんだい?」

「昼食を作るつもりだろ?」

「ああ」

「昼食を作るんだったら、十時頃から作っても良いと思う。修さんたちに声をかければいつでも使っていいって」

「ふぅん。感謝感激雨霰だね、こりゃ。これを返すときに礼を言いに行こう」

「そうしておけ」というと、田上は残りの朝食を食べるタキオンをじっと見つめていた。

 

 朝食をタキオンも食べ終わると、二人で一旦外に出た。外は人でごった返していたが、タキオンたちの存在に気付く人は居なかった。例え気が付いたとしてもすぐに人の波に押し流されていっただろう。だから、二人は逸れないようにしっかりと手を繋ぎながら歩いた。

 外に出た訳は、トレーナー杯、トレセン学園、芝、二千メートルのレース詳細を確認するためだった。トレーナー杯は、午後三時半からの出走で、人数の制限は無かったし、それに出走する人もあんまり居なかった。これは、例年、観客から野次が飛ばされるのが原因だと思う。それに、ゴールには、担当しているウマ娘が待っているのが通例であった。田上は、その受付の人に自分が出走する事を告げた。ただ、そこに居たのが、あのタキオンと田上トレーナーのペアだったので、受付の人は、話している間中ニコニコして二人を見てきていた。田上は、そんな見られ方をするのは、あんまり気に入らなかったが、帰り道にタキオンが甘い物一つ二つを屋台で買って、それを田上に分けると、その人のニコニコ顔は忘れてしまった。

 それからは、二人で部屋にまた戻ると、修さんたちのキッチンを借りて料理を作るまで、同じように田上の膝にタキオンを乗っけて、下の群衆を見ながら、今度はクレープを一口一口食べていた。最終的に田上のクレープは、半分程タキオンに上げることになった。

 

 予定していた十時なると、タキオンは意気揚々と田上を後ろに引き連れて食堂の方へと向かった。修さんには、事前にこの時間に来ると知らせておいたので、二人の事をニコニコしながら待っていた。そして、タキオンと田上が料理を始める準備を整えている間に、周りをうろちょろしながらこんなことを言ってきた。

「こげんこゆーたら迷惑かもしれねっが、圭一君とタキオンちゃんお似合いかもしれねぇげ」

 田上は、修さんの方言を理解するのと、その意味を頭に入れて返答するのに数秒の時間を要したが、その間にタキオンが言った。

「お似合いとは言われますね」

 すると、これも近くをうろうろしていた節子さんが言った。

「二人共、付き合ったりしてないの?そんなに仲良さそうなのに…」

 今度は、タキオンも田上も少し返答に詰まった。タキオンは、別に口を開こうと思えば開けたのだが、田上はどうも誰に自分たちの交際している事を言ったらいいかの線引きが曖昧なようだった。だから、そのようならタキオンは、せめて田上が居る時は田上の判断に任せようと思って黙っておいた。田上の方は、この人たちが前にタキオンにも言った『内輪』に入るのかどうか判じかねていた。

 その三秒にも満たない硬直した時間の中で、節子さんも色々と察することができたようだ。喜んで笑い出したいのを堪えている表情で言った。

「え、本当なの?」

「圭一君、君が言いなよ」とタキオンが促すと、田上も仕方なく白状した。

「あんまりどこそこに広めてほしくはないんですけど、本当の事です。本当にあんまり他人に話さないでください。学生と恋愛しているって言うと、茶化してくる輩がいるでしょう?」

「そうね。分かってるわ。修さんも気を付けないさいよ」

 そこでみんなの視線が修さんに行くと、びっくりして口が開いている老人の顔が見えた。

「たまげたなぁ~。付き合っとんけ?」

「そうです。大阪杯の時にそうなりました」

 田上は、修さんの表情を笑えばいいのか、それとも、自分たちの関係を明かしてしまった事を悲しめばいいのか分からない面持ちでそう言った。

「へ~~、もっと早くに言ってくれても良かったとになぁ」

「あんまり自慢できることでもないですから」と田上が言うと、節子さんがまた言ってきた。

「自慢できることたい!タキオンちゃんも圭一君の事好きげな?」

「…まぁ、そうですね。好きです」と自分の飛び火してくるとは思っていなかったタキオンが、少し動揺しながら静かに言った。

「…好きだったのなら十分に自慢できることではあるけどね」と思わず興奮して方言を出してしまっていた節子さんが、少し落ち着きを取り戻しながら言った。

「今まで一生懸命にお弁当を作ってくれていたからねぇ。こんなにいい旦那さんはいないよ。タキオンちゃん、ちゃんと結婚までこぎつけるんだよ。こんなに優しい男の人は、滅多に居ないから」

「そのつもりです」とタキオンは、顔に微笑みを浮かべながらそう答えた。田上は、それを聞いて少し苦々しい気持ちになったが、はっと思い出すと、タキオンの後ろの紐をちょうちょ結びに結んであげた。

 

 それから、田上たちはお弁当作りに取り掛かった。タキオンと田上は、それぞれエプロンを着けてそれに挑んだが、作るのは主にタキオンだった。修さんも節子さんも食堂の昼食に向けて、下準備などを忙しくしていたが、田上がタキオンに調理の仕方を懇切丁寧に教えているのをニコニコしながら見守っていた。

 お弁当の内容は、予め部屋に居る間に決めておいた。大体、作る難易度はあまり高くない普通のお弁当を今日はタキオンに作らせることにした。タキオンは、張り切って包丁を持ち、野菜を切ろうとしていたが、田上にはそれが危なっかしくて危なっかしくて見ていられなかった。だから、たまにタキオンの手を取って、この野菜はこう切るんだよ、と教えてあげる事をした。すると、タキオンが小声で「こうしてると、夫婦みたいだね」と言ってきた。田上にもその自覚があったから少しニヤリと笑うと、タキオンに「手元をしっかり見ろ」と言った。

 卵焼きやきゅうりやレタスや白飯を作り、最後にメインとなる唐揚げをタキオンに作らせた。じゅうじゅうと鳴るフライパンの上で踊る鶏肉を見ながら、タキオンはその完成を想像し、田上に「まだかな?」「まだかな?」と何度か呼び掛けてきたが、その度に田上は「まだだよ」と微笑しながら返した。それで、ようやく二人分の唐揚げを作り終わると、それをお弁当箱に詰め始めた。

 その時に二人は、どこでこれを食べるのかを話した。今日はどこも人で溢れているから、二人で落ち着いて食べれるような場所はどこにもない。例え、あのベンチでも今日は、人が座っている確率が高いだろう。だとすると、大きい方の芝の校庭のどこかの隅の木陰で食べるしかないかなぁ、という話になった。二人共、限界まで落ち着けそうな場所を絞り出そうとして見たが、確かにそこらへんの『隅』しか場所は無いように思えた。少なくとも、そこが使えずとも道の脇などではなく、どこかの壁を背後にしたような隅でなくてはならない。そこで意見がまとまると、二人は、お弁当に具材を詰め終わることができた。

 時刻は、もう十二時前だった。今からお弁当を食べていても、全然問題の無い時間である。だから、田上たちはもうお弁当を手に持つと、食べる場所を探しに行く事に決めた。そのキッチンを出て行く際には、しっかりと二人でお礼を言って出てきた。修さんと節子さんは、終始ニコニコしていた。

 

 校庭の木陰には、すでにたくさんの人がピクニックを楽しんでいたが、田上たちが座れないという程ではなく、少し人と人の隙間が大きく開いている場所を探すと、直ぐにそこに座ってお弁当を食べ始めた。出来立てのお弁当だったので、温かく美味しかった。また、今日もぽかぽかとしたいい日和で、木陰に座ればその下を通る心地の良い風と少し汗ばむ気温が、二人のお弁当をさらに美味しい物へと変えた。ピクニックには絶好のお日和で、人も多くいる。その様子が、田上には自分の小学校の時の運動会を彷彿とさせた。――あの頃はまだ良かった。別に、今が悪いというわけではないが、あの頃は何も考える事をしなくてよかった。恋人との未来も自分のすべきことも何も考えずに、ただ親が言っている事をやっていればよかった。それに多少の不快感を感じる事は有れど、今よりもずっと何も考えなくてよかった。ただ今日の放課後に友達と遊ぶとか、宿題を何時までに終わらせるとか、そんな些細な事だけを考えておけばよかった。

 田上は、タキオンからあの日の面影を思い出すように、その顔を見つめた。ただ、それは、あの日が懐かしかったからだけではなく、タキオンと過ごす今が途方もなく大きな物のように感じる事でもあった。この一生懸命お弁当を食べている小鳥のような女の子、女性と自分が共に生きねばならない。歓迎すべきことではあったが、田上にはどうしてもどうしてもあの日が懐かしかった。覚悟だけではどうしようもない。ただ、届かないあの日に手を伸ばしている自分がいるのだ。タキオンもきっとそうだろう。そのために寂しくなって自分に抱き着いたりしたのだろう。

 そこで田上がため息を浅く吐くと、タキオンがお弁当を食べていた手を止めて聞いてきた。

「物憂げだね?」

「…ん?」

「物憂げだよ。何かあるのかい?」

「…いや、…こんな感じの風景を小学校の時にも見たなぁって」

「いつだい?」

「…運動会の時」

「ああ、私もこんな感じだったな。今日は君と一緒だけど」

 タキオンが嬉しそうにそう言うと、田上も微笑み返した。その顔を見ると、タキオンはじっと田上の顔を見つめ、何か考えているように見えたが、その考えは口には出さなかった。ただ、田上の肩に寄り添って、そこから見える景色を楽しんだ。

 

 昼ごはんが終わっても二人はそこに居た。特にどこに行くという予定もないし、ここの居心地が良かったからだ。たまに、そこに居るのがタキオンと田上だという事に気が付かれて、声などを掛けられもしたが、大抵は良い人で二三言話しかけるとすぐに田上たちが二人きりでいたい事を察して、別の所に行ってくれた。

 胃袋の中の昼食が落ち着くと、二人は木陰の下で寝転がった。ここでタキオンは、田上の腕を枕にして、田上の体に目一杯寄り添って寝転がっていたのだが、たまに声をかけられても特にそれを咎められることはなかった。

 二人は寝転がりながら話し合った。まず初めに、タキオンが聞いた。

「君の運動会はどんなものだった?…聞いても良いのか分からないけど、その時はお義母さんがいたんだろ?」

「別に、母さんの事は全然聞いていいよ。十年も前の事だから心の整理くらいはついてる。写真が無かったら、顔も朧げになってるくらいだよ」

「それはないだろう?亡くなったのは、君が中学生の時だろ?中学生の時なら、もうしっかり記憶に焼き付いているんじゃないか?」

「それは、知らないけど、あの中学生がもう二十五歳だよ。時間って早えなぁ…」

「…私は、君が中学の時は、なんか好きな人が居たという事しか聞いていないけど。…高校時代はどうだったんだい?好きな人とかいたのかな?」

「居た事には居たけど、……別に告白なんかはしてない」

「じゃあ、君は、付き合ったのは私が初めてという事だね?」

「そういう事になる」

「なら、いいよ。スタートラインはほとんど一緒なようなものだ」

「…あんまり大人としてリードしてやれないのが悔しいな」

「リードしてやれない?君、ちゃんとリードしてくれたじゃないか。私は、君が居なかったら、あのお弁当を作り上げるのは不可能だったよ。むしろ、手順は君がほとんど教えてくれて、私はただそれに従って野菜を切ったり、肉を揚げたりしていただけだよ。それに、こうして君が私に優しくしてくれているだけでも、君からの安心感は十二分に得られるけどね」

 タキオンはそう言って、田上のチクチクする顎髭を撫でた。田上は、それに不快感を示して、蠅を追い払うように首を横に振ったが、それについて何か言うことはせずにタキオンの話に返事をした。

「…まぁ、リードはしてるのか」

 そう言ってもタキオンは田上の顎鬚を撫でるのをやめようとしないので、田上は遂に首だけをタキオンの方に向けて「やめてくれ」と迷惑そうに言った。タキオンは、それに反応してもらえて嬉しかったのか、顔ににこりと笑みを浮かべた。

「やめてあげるけど、君の髭じょりじょりしてて、触ってて気持ちいいね」

「俺は触られるのは気持ち良くないね」

「そう言わずに、もうちょっとくらい私に触らせていたっていいんじゃないか?何て言ったって、恋人だよ?」

「恋人だって髭を触られたら不快だよ」

「おや?男性は皆そうなのかい?それとも、ただの君のコンプレックスかな?」

「……分からんけど、お前も顎を触られ続けたら不快になるだろ?だから、人間が皆不快だ。顎を触られたら」

「んん?……撫でてみてくれよ、圭一君」

 タキオンが唐突に突飛な事を言い出したので、田上はそれを面倒臭がった。だから、「手が届かないから無理」とタキオンの枕になっている自分の右手と、その反対側にある左手を上げて届かない事をアピールしたのだが、そんなことくらいで止まるタキオンではなかった。

「じゃあ、私が…、ほら、手を届くようにするから、触ってみてくれよ」とタキオンは言うと、その半身を起こして田上の胸元辺りに持ってきた。そこであれば、田上の右手も左手もタキオンの顎に届くようになる。そうなれば、田上も断るほど野暮な男でもないから、タキオンのお後に手を伸ばして、その小さな顎の肉をぷにぷにとし始めた。初めの内、タキオンは触られている事に不快感が湧いてくるかどうか判断しようと、難しい顔をして触られていたが、段々とそんな不快感が湧いてこないと分かると、ニコニコ顔になって言った。

「いやぁ、これ以上は無駄だね。君で不快感を測ろうとしたのが間違いだった。私も他人の男であれば不快になるが…、おや?それだと君が私の事を他人と思っている可能性が浮上してきたな」

「じゃあ、俺のコンプレックスでいいよ。お前は他人じゃないし」

 田上がそう言うと、タキオンは、一瞬田上の顔を何とも言えない面持ちで見つめたまま黙った。それで、田上も見つめ返したのだが、途端にタキオンは笑顔になって、田上の首に抱き着くと言った。

「良い子だねぇ。君がこんなこと言えるようになるまで、正直にするのは、中々骨が折れたよ」

 そういうタキオンの手は、田上の頭をよしよしと撫でていた。それが不快であるか愉快であるか田上には判じることが難しかったが、少なくとも、顔に出そうになっている笑いをかみ殺すことはしていたし、それをするタキオンを撥ね除けようともしなかった。その代わりに、田上もタキオンの背中をよしよしと撫でながら言った。

「良い子にさせてくれてありがとうねぇ」

「…その『良い子』が、私の操り人形じゃないのかってのは、未だに若干不安が残っているんだけどね」

「…別にいいんじゃない?少なくとも、俺は自分の意思で動けているように感じるし、考える事もしてる。タキオンは、考える補助をしてくれていただけだと思うけど」

「…それには、少なくからず君を私の物にしたいという想いがあったからなぁ…」

「…これを蒸し返してもしょうがなくないか?俺は、お前の事が好きで傍に居るんだけど」

「…ありがとう」

 タキオンは、そう言った後に、殊に強く田上の体を抱きしめた。その様が、田上にはなんだか不安そうに見えて、田上もタキオンを安心させるようにそっとその栗毛の頭を撫でてあげた。ただ、タキオンが不安だと田上もちょっぴり不安だった。

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