Ⅰ
ダリル・シンクレア(仮名)という老人がハイネセンのマルヌ市で亡くなったのは、ちょうど第2次ティアマト会戦から戦後30年を数えた宇宙歴775年の夏のことだった。
享年81歳。ヤン・ルイタンはその人物に直接の面識はない。後に調査したところ、シンクレアは長年に渡って教職を勤め、引退した後はいくつかの名誉職を転々としていた。その一方、地元では郷土史家、もしくは戦史家としても知られた存在だったという。
シンクレアは自宅に膨大な量の蔵書を所蔵していた。シンクレアの死後はそれを守る者もなく、一部はマルヌ市の図書館に受け継がれた他は大半が遺族の手によって処分されて散逸した。
以来13年。所有者が亡くなった後にどのような経緯を辿ったのかは不明だが、宇宙歴788年の秋にシンクレア蔵書の一部がテルヌーゼンの古書店からネットオークションに出品された。
何とはなしにヤンはオークションサイトに掲載された蔵書の写真を眺めた。目録は『第2次ティアマト会戦関連書籍』と題され、計10冊ほどの貴重な古書の表題が並んでいる。ほとんどの古書が宇宙艦隊総司令官ブルース・アッシュビー元帥に関連するものだった。
ブルース・アッシュビーは43年前、第二次ティアマト会戦で同盟軍を完勝に導き、自らは戦死した人物である。小学生でも知っている同盟軍史上の英雄である。
ヤンはこの古書群の入札に参加することにした。表題にヤンが持っていない書籍が多数あったことが一番の理由だったが、理由はもう一つあった。ヤンは副業で「フリープラネッツ・ヒストリカル・レビュー」という歴史雑誌に寄稿するライターを勤めていた。来月から開始する新連載でアッシュビーをテーマに選んでいたのである。数人の入札者と少し競ったが、どうにか落札できた。落札価格は古書の時価として適切なものだったが、ヤンの想定よりも少し値が張ってしまった。
落札できてホッとした反面、これで給与日まで節約せざるを得なくなる。ヤンはため息をついた。学生の頃から自炊や料理の類が苦手であるヤンはレトルトなどの出来合いの物で満足するほど貧乏な舌でもない。日々の食事はハイネセンポリスで行きつけの「
外食の回数は今後、減らさなくてはならないだろう。それにしても、カフェでミンツ元大尉が淹れてくれる美味しい紅茶が飲めなくなるのは惜しい。有能な貿易商だった父タイロンの言葉が脳裏に浮かんだ。金さえあれば嫌な奴に頭を下げずに済むし、生活のために節を曲げることもないのだ。ヤンはため息をついた。
数日後、荷物がヤンのアパートに届いた。宅配便が地面に置いていった段ボール箱数個の前でヤンが佇んでいる時、彼女に挨拶してきた人物がいる。
「お久しぶりです。ヤン先輩」
ダスティ・アッテンボローは私服姿にも関わらず、控えめな仕草で敬礼した。ヤンの士官学校の後輩である。来年6月卒業予定の4年生で将来を有望視されること、同時期のヤンと比較にならない。
「たしかに『美味いバイトがあるけど、やらない?』と声はかけたけど、本当に来るとは思わなかったわ」ヤンは言った。
アッテンボローは片方の肩だけをすくめてみせた。
「いやいやというわけではありません。先輩が可愛い後輩に何か恵んでくれないかと喜び勇んで参上したわけです」
「タダ飯にありつきたいのなら、まずは対価を払ってもらいましょうか」
ヤンは後輩にアパートの3階にある自室に古書が詰まった段ボール箱を運ばせる。重い段ボール箱を担いでフラフラと階段を上がるアッテンボローはエレベーターが無い建物を罵り、家賃の安さだけで棲家を選んだ不肖の先輩にぶちぶちと文句を言い続けた。
荷物をしっかり運んだアッテンボローに、ヤンは「三月兎亭」で夕食を奢った。その後はアパートで後輩の成人の前祝いとして、彼女が初任給で買って今まで開けていなかった高価な洋酒を2人で嗜んだ。
ロックでアルマニャックをちびちびと口に含む内に自然と口許が綻ぶ。ヤンは呟いた。
「甘いわね、このお酒は」
アッテンボローは眼元をほんのり赤くしている。
「これは誘惑の話をする時に飲むものですよ、きっと」
2人はそっと肩を揺らして笑った。