ヤンは静かに日記帳を開いた。
三十数年もの長い沈黙を経て、著者の息吹が目覚めたような錯覚があった。頁は背表紙が外れてバラバラになっている。ただの紙の束のように綴じられていた。その1枚1枚から古い紙特有の黴の臭いが立ち昇る。泥水か油脂か、もしくは人の血か涙かも判別がつかない染みの中に、細かく丁寧な鉛筆の文字で綿々と文章が綴られていた。
日記は宇宙歴745年10月21日から始まる。パザルジク星に到着した翌日のことらしい。輸送船の船上の風景から始まっている。
『何とものんびりした風景だ。海辺に椰子の葉を葺いた小屋が並んでる。あれが、俺たちが上陸する村だろうか。
それにしても、この星は暖かい。暖かいというより暑いぐらいだ。小便も凍りつくほど寒かったアルルとえらい違いだ。こうして裸になり甲板で日光浴をしてるのが噓みたいだ。ここにはまだ、帝国の影すらもない。激戦のルメリア星から行き先変更になったのは、幸運だったと神に感謝せねばなるまい。
おれの恋人、村長の娘。肌は黒いが、ここじゃ美人。
誰かがそんな歌を陽気に唄いだした。この星には、旨い果物があると聞いてる。眼の前に広がる青い海は魚も釣れそうだ。早く上陸して喰ってみたいもんだ』
いかにも長閑な光景が脳裏に浮かぶようだった。ヤンは日記を1頁ずつスキャナーにかけてはデータのキャプチャをノートPCに取り込んだ。筆記体で書かれた文章を翻訳アプリで解析にかけて解読を進める。クラークの日記に見える明るさは彼自身の性格に依るところもあるが、彼が所属する艦隊の雰囲気にも通じるところがある。
「先輩も1つどうです?」
アッテンボローが紅茶を入れたマグカップを持ってきた。実家では年長の姉たちに囲われて生活していたためなのか、ヤンはこういう気配りが自然とできる後輩が好ましかった。紅茶をひと口含んで眉間にしわを寄せる。
「苦味が少し強いわね」
「紅茶の淹れ方は学校で習わなかったですよ。我慢してください」
ヤンは第4艦隊の記録も並行して調査する。艦隊司令官はフレデリック・ジャスパー。精悍で鋭敏で直線的な男でダイナミズムに富んだ用兵ぶりから「
『艦隊司令官の
「おれは中途半端なやり方は主義じゃない。勝つか負けるかは結果に過ぎん。何事も全力で取り組むように。以上」』
だが、日記に示される長閑な雰囲気とは裏腹に、人類社会における二大軍事勢力は100年以上続いている衝突の歴史に新章を書き加えようとしていた。新章の舞台に選ばれたティアマト星系はイゼルローン回廊の同盟側の入口あたりに位置する関係上、帝国軍が「辺境の叛徒」を討伐する名目でたびたび侵攻を図ってきた経緯がある。なお、この時期においては回廊内に巨大な要塞はまだ建設されていない。
クラークが所属する第72宙雷戦隊がパザルジク星に展開した時期は、ルメリア星で悲惨な包囲戦が始まる10日前ということになる。展開する前の段階で命令が変更されていた点から、同盟軍統合作戦本部はすでにルメリア星の防衛を見限っていたことになる。
この情勢判断はブルース・アッシュビー元帥によるところが大きい。ヤンはそう思った。同盟側の入口には、補給・索敵・通信などの機能を持つ2ダースほどの軍事基地が散在しており、パザルジク星もルメリア星もその1つである。要員としても最大で4000名を超える基地はない。アッシュビーは軍事費を要塞や基地の維持・建造より艦隊の戦力強化を優先させていた。基地で失われる少数の犠牲も、大艦隊で帝国軍を殲滅することで帳消しに出来る。そんな大胆なことを考えていたのかもしれない。