ヤンは廊下を歩きながら、参事官が自分を呼び出した理由を考えてみる。参事官は士官学校の先輩に当たる人物で何かと世話を焼いてもらったことはあったが、最近は何か迷惑をかけた覚えはない。
参事官室の前に来る。ヤンはドアをノックして声をかけた。
「ヤン中尉、入ります」
「入れ」
部屋の主がぶっきらぼうに返事をする。ヤンは入口を塞いでいる衝立を回り込む。
アレックス・キャゼルヌはデスクについて事務作業をしていた。統合作戦本部の参事官を務めるキャゼルヌは後方任務の重責を担っている。階級は中佐。ヤンにとっては頭の上がらぬ先輩の一人である。キャゼルヌは書類に眼を落としたまま口を開いた。
「ソファで座って待っててくれ。すぐに終わるから」
ヤンは広々とした部屋の中央に配置された応接セットのソファに腰を下ろした。ヤンの向かい側にキャゼルヌが座ったのは、それから5分ぐらい経った後だった。目の前に置かれたテーブルにファイルを1冊置いてから、キャゼルヌは口を開いた。
「お前さん、この前にブルース・アッシュビー元帥の件で記事を書くって言ってたよな」
「ええ」
「なら、元帥の名を知らないってことはないよな」
「そこまで無知だと思われるのは、さすがに心外です」
ヤンは苦笑を浮かべる。
「アッシュビー提督がどうかしましたか?」
「戦死ではない、という者がいる」
「戦死じゃなきゃ何なんです」
「謀殺だ」
キャゼルヌはさりげない口調で言った。ヤンは10秒ほど士官学校の先輩を見つめる。その間に4回は瞬きをした。
「聞き捨てに出来ん話だろう」
「歴史に異説はつきものですよ」
「だが、こいつは軍部にとって無視できない異説なのさ」
「話が良く見えませんね。アッシュビー提督の死を今さら問題にする理由は?」
キャゼルヌはファイルをヤンに向けて差し出した。
「そもそもの発端は、統合作戦本部に投書があったことだ。過去36週間に36通。毎週火曜日に届くので、おれたちは《火曜日通信》と呼んでいたがね」
ヤンはファイルを開いた。同じ内容の投書が何枚も挟まれている。投書は手書きではなく、エディタで書かれていた。文面は「アッシュビー提督は謀殺された」という一文のみ。
「反復される投書には、それなりに説得力と根拠があるだろう。それで軍首脳部は形式を整える気になった」
キャゼルヌは要点を説明する。アッシュビー提督の死が間違いなく戦死であり、謀殺の可能性などない。それを証明することが調査の目的だった。
「そこで、おれが新進気鋭の歴史研究家であるヤン・ウェンリー氏を非公式の調査委員に推薦したというわけだ」
「なんで私が?」
「いつも記事ネタで困ってるだろう?」
「ネタで困ったことは一度もありません」
ヤンはわずかに胸を張って断言した。キャゼルヌはさりげなく後輩の反応を無視した。
「正式な調査委員会は、まだ発足するかどうか未定でな。お前さんの調査次第で、発足するか潰れるか決まる」
「へえ、そうですか」
「やる気のなさそうな返事だな」
「お偉方から言われてやることに、あまり労力は割きたくありませんから」
ヤンとしては、このような投書を取り上げて非公式に調査するという軍首脳部の思惑について考えざるを得なかった。究極的には、情報統制の一環になるだろう。英雄の虚名はすなわち軍部の名声であり、必要なのは常に真実ではなく、輝かしい伝説である。何か都合の悪い事実が出てきた場合は隠蔽か隠滅する。自分はその下見をさせられるというわけだ。
キャゼルヌは人の悪い微笑をたたえた。
「ここである程度の業績を挙げておけば、素質ありということで、戦史編纂所の研究員になれるかもしれんぞ」
「ほんとにそう思いますか?」
「いや、これはお前さんを釣る餌だがね」
キャゼルヌはごく穏やかに言った。あやうくヤンは成程と感銘を受けるところだった。
「分かりました。拝命します」
今回で第1章は最終回になります。