「トレーナー君。……キスしてくれないか」
2人の最初のキスはそんな言葉がきっかけだった。
ジャパンカップで心身ともに傷つき絶不調になった彼女からの言葉だった。
互いに告白したとはいえ、トレーナーと生徒という立場故に躊躇う男に言葉が紡がれる。
「
男が皇帝にふさわしくない不安に揺れる瞳を見た時、気がついたら二人の影は重なっていた。
2度目のキスは天皇賞(秋)の後。
後一歩が届かず、惜しくも二着になった後。練習にも身が入らない彼女の気分転換にと郊外の山に出かけた帰り道だった。
人影もなく互いに無言で歩む二人。
自分の所為で。と気まずい空気の中、しばらくしてからの一言がきっかけだった。
「キス、して?」
頬を微かに赤く染めながら女が相手のことを見つめずにそう呟いた。
直視すると一層赤くなりそうであったから……。
尤も、その台詞を口にした時点で無駄な努力であるとは気が付かない。そんな、恋には未だ未熟な年頃であった。
「えっ? ……いや、しかし……何を突然……」
困惑する男。
「
前も同じ事言われたな。そんな事を考える男。
だが、顔を向けた女の瞳が心なしか潤んでいた。男の唇を欲している。なぜかは判らぬが男はそう感じた。
「……いいのか?」
返事のわかっている質問をする男に対して返事の代わりに瞼を下ろす女。
男の顔がいつもより輝きが薄い彼女の顔に近付き、2人の唇が重なり合う。
互いの鼓動だけが確かに聞こえた。
「ねっ、キス……しよう」
3回目のキスは、それから少し経った最優秀ウマ娘の表彰式の後。二人でのんびり帰った道の暗がりで。
普段は強気な女の顔が愛しく思えた。
少し警戒しながらもその唇の怪しい輝きに魅せられ、返事もなしに唇を奪った。
その強引さに多少驚き、目を見開く女。だが目を閉じその甘い一時を楽しむ。
どちらからともなく終わった長いキス。2人をつなぐ銀の掛け橋に少し頬を染めるも、いつも通りの微笑み。
「帰ろうか」
いつもの調子だった。
その口調は普段より若干早かったが。
「ねぇ、……」
続く言葉の前に、唇は既に塞がっていた。
突然唇を塞がれた事に当惑する女。抱きしめる男の力強い腕を振り払おうとする。しかし……。
まぁいいさ。言の葉に出すかださないかの違いだからな。
そんな言い訳で自分をごまかす。
男のキスはいつのまにか上達していた。
「……トレーナー君、私はまだ何も言ってないんだがな?」
「……そうして欲しかったんだろう?」
最近少し強引になった男。
出会った時からの性格が少しだけ変わったような気がした。
いつのまにか逞しくなったんだな。
男の強い腕に抱かれながら、女は思う。
まぁ、この方が男らしいし、頼りがいがあるからいいかな。
決して口に出さない感想。
「頼りがいなかったらどう思う?」
唐突に出る男の台詞。
何で判ったんだろう?
「長い間一緒に居れば、考えている事くらいわかるよ。何時までもからの取れないひよっこじゃないさ」
誰かさんの為に変わったのさ。と口に出さずに付け足す男。
面食らった女の表情が愛しく思え、再度素早く唇を塞ぐ。
最後にもう一度だけ、キスしたかった。
抱かれたら決意は揺らぐ。だから……。
悟られないように、昔の口調で。
「キスしてくれないか」
戸惑う男とやり取りを流暢に交わす。
昔の様に胸をときめかせる訳ではない。それでもいつも新鮮な気分を味わえるキス。
でも、それも今日が最後。
現役の頃も卒業してからも、傍らに寄り添う男に頼ってきた。
いつしか男の支えも傍らに寄り添う女になりつつあった。
それに気づき愕然となる。
私がいたら2人ともだめになる。だから……私は逃げ出す。この家からも、男からも。
お互いに自分自身の力で生きていきたいから。
だから……。
唇を離し、
「さ~てっと。今日の夕食は何かなっと」
立ち去る男。
男の背中に掛けられた、女の「さよなら」の言葉は届かなかった。