「ママ、これ落ちてたよ。大事なものじゃないの?」
娘が手にしたのは、小さな布の袋。
母がいつも首元に掛けているそれが、今日に限って抜け落ちていたようだった。
「あら……ありがとう」
娘が興味深そうに袋を覗き込む。
「ねえママ、それ、よく身につけてるけど中身って何? お守り?」
母は少しだけ目を細め、袋の紐を解く。
「これ? そうね……ママにとってはお守り。トレセン学園に入る前に貰ったものなの。ママの、初恋の人からの贈り物、ね」
「え!? ママってトレセン学園卒業だったの!?」
「ええ。重賞には縁がなかったけどね」
「すごーい。トレセン学園に入れただけでもすごいよ。じゃあその初恋の人って、トレーナーさん?」
母は首を横に振る。
「違うの。これはトレセン学園に入る前の、中学校のクラスの先生からもらったもの」
「中学校の先生から? 珍しいね、先生が生徒にプレゼントするなんて。ね、ママ、そのお守り、見せて?」
母は袋の中から一枚のカードを取り出した。古びて少し黄ばんだそれは、テレホンカード。
「これが、そのお守りよ」
「これってなに? カードみたいだけど……」
「あなたはもう知らないわね。これはね、テレホンカードって言うの。携帯が今みたいに便利じゃない頃、公衆電話で電話をかけるときに使うものだったの」
公衆電話って滅多に見かけないよね。それで使ってたんだ。と娘がテレホンカードをしげしげと眺める。
その娘が何気なく口にした一言が、母の記憶をやさしく揺らした。
「でもさ……トレーナーさんじゃなくて、クラスの先生が初恋の人なの? 珍しいね」
母は、ふっと微笑んだ。
「そうね、ウマ娘としては少し変わってるかもしれないわね」
そして、窓の外を見ながらそっと言葉を継いだ。
「卒業間近の、最後の授業だったわ」
母は少し目を伏せながら語り始める。
「先生が、一人づつみんなの名前を呼びながらカードと紙を渡してくれたの。紙には、先生の電話番号。そしてこのカードが、可愛い袋に入ってた」
「かわいい袋?」
「そう。先生らしくないくらいの。……でも、その言葉は忘れられない」
母の声が少し震える。
「先生は、みんな、死ぬんじゃないぞ。これから挫折や失敗がある。苦しくて、もう耐えられないって思う日もある。どうしてもダメな時は必ず電話してこい。そう言ってくれたの」
娘はじっと見つめている。母は続ける。
「私にはわざわざ、どうしてもダメな時は必ず電話してこい。時間なんて気にするな。って、繰り返しね。私はトレセン学園に入学が決まっていたから特に心配だったのかしらね。先生はトレセン学園の事も良く知っていたから」
娘はじっと見つめている。母は続ける。
「その言葉がね、ママの中にずっと残ってたの。トレセンに入ってからも、何度も思い出したわ」
母が小さく溜息を吐いた。
「一度だけ、本当にダメだと思った夜があるの」
娘が小さく息を呑む。
「ママ……」
「トレセンに入ってすぐにデビュー戦。同期は凄い子ばっかりで、全然勝てなかった。その後の未勝利戦でも私はいつも掲示板の外。やっと出られた地方交流戦では……転倒して脚を痛めちゃって」
「怪我……?」
「ええ。リハビリには時間がかかった。でもそれ以上に心が折れそうだった。同期たちはもうオープン戦とか早い子はGⅢ。本当にすごかった子はGⅡとかに出走だったから。それなのに私は走るどころか療養と寮の雑務ばかり。私はなんのために走ってるんだろうって」
「それって……すごく、辛そう」
痛ましそうな娘の表情に軽くその頭を撫でる母。
「リハビリを始めて半年位した日だったかしら。私と同じように未勝利戦を走ってた仲の良かった子が訪ねてきて、オープン戦で一着とれたって報告してくれたの。その子に悪気はなかったって事はわかってたんだけどね。その夜、寮の外に出て、公衆電話の前で泣いたわ。もうダメ。私は何のために生きてるのって」
母は、胸元のカードを見つめる。
「でも、その瞬間に思い出したの。先生の、どんな時間でもいい、必ず電話してこいって言葉を。手が震えてたけど、カードを入れて先生にかけたの」
「先生、出てくれたの?」
「ええ。深夜だったけど、すぐに、ね」
「先生は何て……?」
「名前を呼んで、ただこう言ってくれたの。大丈夫か? って」
「それだけ?」
「うん。……それだけで、張り詰めてた糸が切れて、泣きじゃくったわ。どんなに泣いても、先生はずっと黙って私の話を聴いてくれた。最後に、お前は大丈夫だよって言ってくれたの」
受話器をそっと戻したあと、私の手は震えていた。
何を話したか――あまり覚えてない。
ただ、泣いた。たくさん、泣いた。
先生は何も否定せず、ただ受け止めてくれた。それが、すべてだった。
しばらくその場に立ち尽くしてから、ふと視線を落とす。
テレホンカードの度数が随分と減っていた。
(……使っちゃった)
それなのに――不思議と、心の中に灯がひとつともった気がした。
痛みは消えてない。未来の不安もある。
でも……それでもいい、と初めて思えた。
誰か……いいえ、先生―初恋だったあの人が、自分に【生きろ】と願ってくれている。
それを、声じゃなく、心で受け取れた気がした。
その夜の空は、雲がちぎれて、月がぽつんと顔を出していた。
小さな光。それでも、確かにそこにある小さな光。
それから必死でリハビリを行い予定より一月ほど早く退院できた。
その翌日、私は練習場に戻った。
当然のことながら、速く走れなかった。みんなと肩を並べることもできなかった。
だけど、走った。
誰かの期待に応えるためじゃない。
自分の、生きる。という選択を、肯定するために。
あの日の先生の声が、風の中にまだ響いていた。
「それからね、そのカードはママのレース用ジャケットのポケットにずっと入れてたの。使い切ることはなかったけど……それが、支えだった」
「ママのトレーナーさんは……?」
「トレーナーは、走ることに対しての支えをくれる存在だった。調整も、フォームも、戦略も……みんな彼が導いてくれた。私が一歩でも速くなれるように、技術と知識で背中を押してくれたの。競技者として、私の体を、走りを見てくれる人だった。先生は、私の心を見てくれていた人だった」
「ふたりとも、ママを助けてくれたんだね」
「そうよ。ママの人生を支えてくれた大切な人」
そう懐かしむような顔の母親に娘が問いかけた。
「どっちが大切な人だったの?」
「どっちも同じくらい大切な人。でも、先生は【生きる】ってこと、そのものを支えてくれたわ」
娘が小さく目を見開く。
「生きること?」
「ええ。あの頃のママは、自分が走る理由を失いかけていて。怪我をして、レースにも出られない。周りはどんどん進んでいくのに、私は取り残されている気がして……もう、誰にも必要とされてないんじゃないかって――そう思ってた」
母は、胸元の袋にそっと触れる。
「でも、このカードがあった。死ぬんじゃないぞって言葉が、心の奥にずっと灯ってたの。本当に苦しかった夜、先生の声を聞いて、初めて、生きたいって思えた。だからね、このカードはお守りなの。走るためじゃなくて、立ち上がるための、ママの……う~ん、根っこってところかしらね」
娘は無言でうなずいた。母の言葉が、胸に沁みるように届いていた。
母が娘の髪をそっと撫でた。
「……今のママがどんなふうに見えるか分からないけれど、昔は、けっこう危ういところにいたのよ」
娘が母の顔を見上げると、そこには少しだけ苦笑が浮かんでいた。
「だから――あなたに対して、たぶん少し過保護かもしれないわね」
「え?」
「失敗してもいいって言うけれど、ほんとは転ばせたくない。泣いてもいいよって言うけど、泣かせたくない。走る前に、怖いならやめてもいいって言ったこともある。……それはね、あの頃の私が、誰にも頼れなかったから。あなたには、最初から逃げる場所を知っていてほしいの」
娘はぽつりと答えた。
「でもママ、今まで誰からも、逃げるなって怒られたこと、ないよ」
「……それなら、よかったわ」
ママの手が、娘の肩をやさしく抱き寄せる。
「ママね、走ることよりも生きることの意味を、あの人から教えてもらったの。だから、あなたの夢も、痛みも、ちゃんと見ていたい。必要なら、何度でもあなたの声を聞くから」
娘は、胸の奥で何かが灯るのを感じた。
「ママの声が逃げ場所?」
「うん。トレーナーや仲間に背中を預けるのも大切。でもね、誰にも言えない心の痛みは、声にしてもいいの」
娘が母の手をぎゅっと握る。
「じゃあ、もし私がすごく辛くて泣いて電話したらずっと私の話を聴いててくれる?」
「もちろんよ。……ママがもらった言葉を、今度はあなたに返すから」
ママ。と、娘の目にうっすらと涙が浮かんだ。その涙をそっと母の指が拭う。
「あなたもこれから色々なことがあるけれど、どんな時も、生きている限り道は開けるの。このお守りが教えてくれたことよ」
小さな袋にしまわれた一枚のカード。
それは、呼び出すための道具ではない。心に火をともす、命の証だった。
「遅くなったけど、トレセン学園合格おめでとう。そして、これはママからあなたへの贈り物。しっかりと持っていなさい」
母はそれを、娘にそっと手渡す。
お守りのテレホンカードは、もう使えない。
でも、言葉は生きていた。
人を支え、人を繋ぎ、人を立ち上がらせる【言葉の証】として。
そして今――。
その言葉は、次の世代へと走り出す。