彼女の耳に見知らぬ、だがどこか懐かしい呼び声が聞こえた気がした。
集中力を高めるために瞑目していた金色の瞳が、夜明け前の静寂を破るように開かれた。
まだ誰もいないターフを、柔らかな朝焼けが染め始めている。
そこに一人たたずむ小柄で細身なウマ娘の姿があった。
アイルランド王家の血を引く留学生、ファインモーション――そんな彼女も、ここではただの一人の学園生。自由な走りを夢見る一人の少女だった。
「あれ? 誰もいない……? 確かに聞こえたんだけど」
(誰だったんだろう。でもあの声は――)
自然と、この異国の地で自分を導いてくれたトレーナーの顔が浮かぶ。
王族としての誇りと、一人のウマ娘としての純粋な願い。その狭間で揺れる心を、あの人はいつも優しい眼差しで受け止めてくれた。
祖国へ帰る日が近づくたび、胸の奥で静かに育っていた感情が溢れそうになる。それは、このトレセン学園で過ごした、かけがえのない日々への愛惜。そして、トレーナーという存在へ抱く、特別な憧れ。
『この手を伸ばしたら、届くのかな。勇気を出せば、この想いを伝えられるのかな』
普段の自分ならば、淑女としての分別がきっと邪魔をするだろう。けれど、トレーナーと二人三脚で挑んだレースの日々が、自分の中に眠っていた「本当の想い」にはっきりと気づかせてくれたのだ。
レース後の夕暮れ、二人きりでカウンターに並んでラーメンをすする、ささやかな時間。そんな、遠い故郷では決して味わえなかった温かく尊い「日常」が、何よりも宝物だった。
『もう少しだけ、このままで。もう少しだけ、きみの声を隣で聞いていたい』
そう願ってしまうのは、きっと名残惜しさだけではない。
きみは私を、王族という運命から解き放ち、ターフの上で輝く一人のウマ娘にしてくれた恩人。この感謝が、いつしか恋慕の情に変わっていた。もう自分に嘘はつけない。それでも王族としての私はこの特別な感情を胸に秘めておかなければならない。王族は心に特別な人を住まわせてはならないのだから。
でも、きみと私の新しい夢は、ふたりの未来。そう信じていたい。私の使命が、いつか再びきみと交わる未来を。日本とアイルランド、どれほど遠く離れても、きみがくれた勇気と感動は、決してこの胸から消えないのだから。
選抜レースで勝利した日、震える私を信じて、その温かい手で背中を押してくれた。ゲートに入る直前、ターフを駆け抜ける瞬間、いつも人波の中からきみの姿を探していた。気がつけば、夕暮れのスタンドで、練習を見守るきみの横顔ばかり見つめていた。
『きみのその手が触れた想い出を私はいつまでも忘れない』
そして、祖国への帰国を告げる日が、やってきた。
「トレーナー。私がここに来て、初めてきみに会った日のこと、決して忘れないから」
きみの前では、悲しい顔は見せない。それが、私が選んだ「誇り高きウマ娘」としての、精一杯の感謝と愛情の示し方。
『さようなら。もう二度と戻らない、愛おしい日々よ』
過ぎ去った時間は、心の中で永遠に輝くダイヤモンドになる。
「トレーナー。ありがとう、どうか悲しまないでね」
どうか、私の夢の続きを、笑顔で見守っていてください。
『いつだって、振り向けばきみの笑顔があると信じていた。……もう、それも今日で最後なのね』
そう思った瞬間、目の前のきみの優しい笑顔が、堪えきれなかった涙で滲んで遠くなる。
しかし、別れは終わりではない。
『また会えるよね、いつの日か』
日本とアイルランドを繋ぐ、新しい「親善大使」としての道。それが、私を再びきみのもとへ導いてくれると信じている。
あの夜明けに聞こえた懐かしい呼び声は、きっとこの未来へと続く道標だったのだと、今はそう思えるから。
私ときみだけの、もうひとつの「夢」の始まりなのだと。