激しく揺さぶって
「もう失うものなど無い」と
1人にしないで
どうか夜が明けるなら
どうか夜が明けるなら
誰か言って
上手く信じさせて
「全ては狂っているんだから」と
1人にしないで
神様 貴方がいるなら
私を遠くへ逃がして
下さい
鬼束ちひろ 『Cage』
ある日の夕方。トレーニングが休養日だったこともあり、僕は色々と調査をしていた。
僕はパソコンのキーを打つ手を止めると、はあとため息を漏らした。
カレンダーに目をやる。秋の天皇賞と、ジャパンカップの日に赤い丸が描かれている。秋の天皇賞を乗り越えて、ジャパンカップをスペちゃんと走る。そのあと、アメリカに遠征をする。スケジュールはもう余裕がなかった。
「やはり、モンジューというウマ娘はどこにも存在しない……」
僕の記憶にあったモンジューというウマ娘はどこにも存在しないことが確定した。トレセン学園以外にも海外の新聞をネット上で見て確認してみたが、どこにもそんなウマ娘がいないのだ。経歴や出身が一致するのは『ブロワイエ』というウマ娘だけだ。まるで存在がそっくり入れ替わっているようだ。
この記憶の齟齬について、仮説はいくつか立てられる。
一つ。勘違い、記憶違いである。モンジューじゃなくて本当はブロワイエで、名前を覚え間違っていただけとか。これが一番大きい気がするのが困る。何せ元の本名さえ思い出せないからなあ。
二つ。並行世界説。
しかしなぜ混ざったんだろう。ウマ娘は、ウマという生き物の魂を継承した女の子だ。元が雄のウマでも例外なく女性になるとはいっても、人間の魂まで混ざるなんて話は聞いたことがない。
「わかんないや………三女神さまにでも聞いてみるとか?」
三女神様。始まりのウマ娘とか言われる三人の女神さまで、学園の中庭にデカイ彫像が立っている。ウマソウルなんてものがあるんだから、女神さまもいるんだろうなあ。答えをくれるとは限らないのが悲しいところだけど。
僕は、試しに三女神像までやってきてみた。トレビの泉みたいだなって思う。
僕は三女神像の前で手を合わせてみた。神社じゃないんだけど、まあ似たようなもんでしょ。
「教えてください、なんてさ………教えてくれるはずが………???」
視界が急激に暗くなっていく。立ち眩み? 貧血?
いたい、いたい………ふりおとしてはいけない、ふりおとしては……。
けがをさせてしまうから………。
いたい。いたい。ゆっくり、こーすから、はずれよう。
『オオケヤキの向こうを過ぎていきました!』
『サイレンススズカ、おーっとちょっとこれは手ごたえがどうなんだ?』
『さあここで抑えるような恰好、あーっと、ちょっと………』
『サイレンススズカに故障発生です!』
『沈黙の日曜日!!』
もう、たすからないとにんげんがいっている。
ウマは、骨がおれたら、しぬしかないと。
だから、ころさないといけないと。
わたしにのっていたにんげんは、泣いていた。わんわんと泣いていた。
みんなが、ないていた。
視点が変わった。
一人の老婆がベッドに寝転がっていた。酸素吸入器が付けられていて、苦し気な表情を浮かべている。頭部には一対の耳が生えている。
『あなた………わたしは、それでも走っていたかったの………わがままと言われるかもしれないけど………』
『ああ……』
『たとえ自分が速く走れなくなっても、走り続けたかった……もう一度立ち上がりたかったの………子供にも恵まれて、幸せだったわ、でも………わたしは……………トレーナーさん、わたしは……もう一度、怪我を治して、もう一度……』
『走っていたかったの』
『バイタル低下! 旦那さん、申し訳ありませんが出て行ってください。緊急処置を開始します!』
『ああ、くそ……どうしてこんなことに………』
『スズカ……』
『16時10分、心肺停止を確認。瞳孔の拡散も確認しました。ご臨終です』
『お母さん!』
『スズカ……すまない………僕が諦めたばかりに、力不足だったばかりに………』
『三女神様、どうか、スズカを救ってください』
『僕にできることならば、なんでもします。どうか、どうか』
『僕が悪いのはわかっています。それでも、運命に抗いたいのです』
『天皇賞秋…………そこで、致命傷を負った彼女の人生を、支えようと思いました。治るはずがないと、そう思いました。彼女と結ばれて、けれど、実は、もう一度走りたいと思っていた彼女の真意に気が付かないまま………』
『どうか、やり直しの機会をください……その為であれば、僕はどうなっても構いません』
ならば、お前が救うがいい。
「…………? ……?」
涙が止まらない。悲しい記憶を垣間見た。
一頭のウマ、一人のウマ娘が辿った人生と、それを支えようとした男――――――。
つまり、自分の記憶を。
気が付くと、三女神様の前で呆然と立ち尽くしていた。涙が伝って止まらず、呼吸も荒い。
しかしどうだろう、なぜか力が溢れてくる。すぐにでも走り出したい気持ちでいっぱいだった。僕は走り出した。あてなどない。学園の門を飛び出して、とにかく走る。ウマ娘専用道路を駆け抜けて南下、増水してごうごうと音を上げて流れる多摩川にかかる橋までやってきた。手すりに手を付くと、下を眺める。
「落ちたら………どうなるのかな?」
死ねるだろうか? 死ねるだろう。いくらウマ娘が人外のバリキを発生できるとはいっても、大雨で増水した川に身を投げれば死ぬしかない。
そして僕は、
「サイレンススズカさん!」
横合いから誰かが走ってくる音がした。緑色のスーツに身を包んだ駿川たづなが、驚異的な速度で駆け抜けてくる。確か校門前で待機をしていたはずだったが……ウマ娘の速度で走ってきたのに、追いついてきた。やはり、彼女は……。
息も切らさず隣にやってきたたづなさんは、橋の欄干に手をかけている僕を見て、両手でまあまあと落ち着かせるようなしぐさをした。
あ、これ自殺すると思われてるな。するつもりはないよ。いまのところは。
「早まってはいけません! 相談なら、なんでも聞きますから!」
「そんなんじゃありませんよ…………少し、悲しい夢を見ただけです」
僕は言うと、欄干から手を離した。たづなさんが近寄ってくると、抱きしめてくる。
「何か辛いことがあったんですか?」
「夢です、本当に、ただの夢なので」
「ウマ娘の見る夢というものは無視できない影響力があるものなんですよ。よければ、話していただけませんか?」
流石はウマ………じゃない理事長秘書。
「…………大丈夫です」
「そう、ですか………」
「一つだけ、相談してもいいですか?」
「はい、なんでしょうか」
僕はなんでも相談してという言葉を逆手に取ることにした。
「あなたの走り方を、詳しく見せてください」
僕は至近距離にあるたづなさんをまっすぐ見つめて言った。
因子
サイレンススズカ:天皇賞秋で散った名馬の因子
サイレンススズカ:天皇賞秋で再起不能に陥り引退したウマ娘の因子