「ついに……」
十一月一日、天皇賞秋の日がやってきた。
『本日は十一月一日、東京レース場第十一レース、一枠一番に入ります一番人気のウマ娘、サイレンススズカ!』
『こんなに一が並ぶなんて、運命的なものを感じますね』
運命。サイレンススズカという子にとって、それは運命を決定付ける日であることは間違いない。
『スズカグッズは全て完売だそうです! 彼女の美しい走りを期待して多くの観衆が詰めかけているここ東京レース場は、大いに盛り上がっております!』
実況の声も、ほとんど聞いていなかった。彼女は前を見据えて、地下通路を他のウマ娘と一緒に歩いている。
ドス黒いオーラまでを幻視してしまうほど、彼女の気迫はすさまじかった。獣のように呼吸を使いながら、話しかけられても聞いているのか聞いていないのか、ああ、とか、うんとか、それしか言わない。
隣を行くメジロライアンも、その気迫に当てられた一人だった。話しかけようとしたのだが、氷のような表情を浮かべている彼女のプレッシャーに、尻尾を股の間に挟み込んでしまっている。
「はー、はー、はー………」
「す、スズカ?」
「なに?」
「その、靴の留め具が取れてるよ、左足の……先に行ってるね!」
びくっとスズカの小さい体が震えあがる。ゆっくりと視線を下げ、屈みこんで留め具をつけなおした。
「お先に……」
レースに参加するナイスネイチャが横を通り過ぎていく。
皆一様に気合が入っており、ネガティブな感情を想起させているものは、一人もいない。スズカを除いて。
エルコンドルパサー、ウイニングチケットが横を通り過ぎていく。エルは一言も発しなかったが、ウイニングチケットは体を掻きながら気の抜けた声をあげていた。
「うわー緊張してきたぁー! 体が痒いよー!」
留め具をつけなおしたスズカが姿勢を上げると、横で腰に手を当てて自信ありげに佇むヒシアマゾンと目線があった。
「タイマン、逃げんなよ?」
「………」
口を聞かない。視線と視線でつばぜり合いをして、やがてお互いが前に向かって歩き始める。
『さあ、最後に登場したのはサイレンススズカ! 割れんばかりの声援です!』
歓声があがった。熱狂的な声がわんわんと会場を包み込む。
サイレンススズカは、その声が存在しないかのようにターフに進んでいく。
「すごい人気! スズカさーん!」
スペシャルウィークが声をかけた。チームメンバーが揃っている。
スズカは、その声に手を軽く振ると、ゆっくりと歩み寄っていった。
「スズカさん!」
「大舞台での活躍、拝見させていただきますわ」
「うん」
「スズカさん、これ、持って行ってください!」
スペシャルウィークがそれを取り出すと、差しだした。みんなで作った幸運のクローバーのしおりだった。
「うん。勝ってくる」
一言短くまとめると、そのしおりを取り、ポケットにねじ込んで踵を返そうとする。
「スズカ」
沖野が声を上げた。スズカの体を包んでいたオーラがかすかに色合いを失う。
沖野は、普段のふざけた軽い空気は纏っておらず、真剣な顔立ちをしていた。手を挙げると、スズカもそれに応じて手を合わせ、手を握って、胸元に引き寄せた。一瞬沖野はたじろいだが、にこりと笑った。
「約束は守る。どうなってもいい、思い切り走って来い」
「ありがとう、沖野さん。祈ってて、僕の走りに」
スズカは沖野に向かって頷くと、手を離し、今度こそ踵を返してゲートに向かっていった。
G1のファンファーレが鳴り響く。
ゲート前で待機していたスズカに、いつもの甲高い調子ではない、低めの、恐らく地の声のエルが声をかけていく。
「スズカさん。私は同じ人に二度も負けません! 今度こそスズカさんに勝って、堂々と凱旋門賞にチャレンジします!」
「…………
短く、英語で挑発染みた返事をする。真剣勝負の世界に甘えは許されない。手を抜くことももちろんしない。お互いがお互いに全力を出し切るのみなのだ。
ゲートイン。出走の準備が整った。
『今、ゲートが開きました!!』
先駆ける!
他のウマ娘より明らかに前傾姿勢のきついスズカが先頭を奪取する。英語で挑発した通りに、まさに捕まえられるものは存在しないのではないかという、圧倒的な加速性。他のウマ娘がレースをしているならば、まるで人間の徒競走でもやっているかのような振る舞いであった。
「よし、いいスタートだ!」
腕を組んだ沖野は、理想的なスタートを切ったスズカを見つめ、声を上げた。
『サイレンススズカが先頭! 二番手の位置をエルコンドルパサーが追跡する!』
「ううううううっ! そんな!」
しかし、追跡者は、逃亡者の余りの速度についていけなかった。ついていこうと思えばいけるだろうが、その速度を出そうものならば失速は確実。故に速力をセーブするしかない。
エルコンドルパサーは必死の形相を浮かべていた。
「速い!」
「タイマン勝負もさせてくれねぇのか!」
ヒシアマゾンも、エルコンドルパサーの後方でぎょっとしていた。あれではまるで自分自身、どうなってもいいとでも思っているかのようではないか。
実際には逆だ。
「壊れても、構わない!!」
サイレンススズカが吠えた。一人の女性と、大型の動物の影が、その後から彼女の背中を押す。
その時、サイレンススズカは一陣の風となった。