僕はサイレンススズカ   作:キサラギ職員

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あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
コリント人への手紙 第一 10章 13節


34、サイレンススズカ

 

『まもなく3コーナー! じゅっ、十バ身! 十二バ身! どんどんと差が開いていきます!』

 

 それは異常な光景だった。他のウマ娘が後方にいるというのに、まるで別のレースをしているかのようにサイレンススズカだけが先頭をポツンと走っている。全く違う映像を合成したかのような違和感はしかし、観客を熱狂の渦に巻き込むには十分すぎた。

 

「誰にも、誰にも……ッ!!」

 

 それは雄たけびに近い。一頭の獣が嘶いている。この世界には存在しない、馬と呼ばれる種族の幻影を、観客は垣間見る。四本の足を襲歩(ギャロップ)させる、緑色のメンコを嵌めたそれは、一人の男性を背中に乗せて、誰よりも速く駆け抜ける。もう一つ、それに重なって見えるのは、ウマ娘としての彼女の姿、それに重なるように、亡霊のような影が付き添っている。

 しかし、それは幻だ。実在などしない。そのはずだったが、確かにそこに何かが見える。少なくとも、後方を行くウマ娘達は、それを見た。

 

『もうどれだけ差が開いているのかわからない! 1000mの通過タイムは……57秒2! このハイペースを維持できるのか!?』

『こんな快速で走るウマ娘、今まで見たことがありません……』

 

 そのタイムは、馬が存在する世界よりも、ウマ娘が存在するとある並行世界でたたき出したタイムより、わずかに早かった。

 アドレナリンが脳髄を浸している。自分の呼吸音が見え、あるいは聞こえ、芝の模様までもが色分けされているよう。どこに足を付けば、もっとも速く走ることができるのかがわかった。

 指先をピンと伸ばし、風を切り裂き走り抜ける。理論上、もっと速く走ることは可能だ。しかしそれは、飛ばし過ぎれば体力を使い切って後半で失速するということ。

 しかし、失速しない。失速するであろう距離に入っても、むしろ加速する。

 

「スズカ………」

 

 沖野はその驚異的なタイムを見ても、浮かない顔をしていた。

 

『天皇賞秋で、たとえ僕が故障しても、途中で止めないで』

『故障? お前まさか足が痛むのか?』

『いいや、そうじゃないけど…………約束して。絶対に、止めないで。走りぬいてみせるから………』

『………スズカ、本当にいいんだな?』

『うん』

『わかった。その決断を俺は止めない』

 

 ウマ娘(サラブレッド)はガラスの足とも言われる。人類には到達できない速力を発揮する反面、とても脆いのだ。故にちょっとしたことでその膨大なバリキが体内を破壊してしまう。

 

『さあオオケヤキを超えて………』

 

「まだ、行ける………!」

 

 一息つく、数を数える、そして、差す。

 逃げて差す。異次元の逃亡者の本領が発揮される。

 かすかに減速したのもつかの間、スズカの肉体はさらに前傾し、速力を増す。風を引き裂き、すべてを置き去りにして、あらゆるものから逃げ続ける。

 そして、その様子を観戦していたシンボリルドルフが唐突に叫んだ。

 

「だめだ!」

 

 

 

 

 

 

 ―――ピキリ。

 肉体(からだ)が壊れる音がした。

 

 

 

 

 

 

 サイレンススズカの姿勢が一瞬崩れ、上半身がたわむ。

 

 

 

 

 

『どこで、それを………』

『たづなさん、いえ、トキノミノルさん。僕は、あなたの走り方を使ってでも、運命(レース)を乗り越えて見せます。たとえ故障しても』

『いけません! そんなことをしたら、本当に死んでしまいます!』

『もう一度、死んでます。一度目は馬で。二度目はサイレンススズカ(わたし)が。三度目は、サイレンススズカ(ぼく)が。だから三回かな。四回目かも。いや、どうだったかな? ……三女神様に約束したんです。ここでしくじれば、また、最初からになっちゃうと思います。本当の意味で』

 

『…………………しかし、それは………』

 

 

 

 オオケヤキを越えた点で、臨界点を迎えた。左足に走ったクラックが加速度的に、鼠算的に、疲労破壊を起こす。

 速力に、体が耐えきれなかったのだ。

 

「え?」

 

 呆然とした声。スペシャルウィークの声だ。

 姿勢が崩れ、急激に速力を失うサイレンススズカの姿を見て、唖然と口を開く。

 

 

 

 

 

「まだ、まだ………ッ!!」

 

 くきり、と力み過ぎて口内が傷つき、出血する。血をまとった泡が口から噴き出て衣装を汚す。

 

「スズカ、ぼくに、力を……!」

 

 徒競走染みた走り方から、右足の推力を最大限発揮するいびつな走り方に変更する。かすかに走ったクラックの臨界を見極めながら、第4カーブを切り抜ける。重量を乗せれば、クラックが破滅的な断裂を起こす。足を振り回すようにして、足にかかる重量と遠心力の釣り合いを図りながら、速度をほとんど落とさずに走る。

 その様子はむしろ飛んでいるようであった。

 

「驚愕! あれは、たづな………トキノミノルの走り方ではないか!?」

 

 その様子を現地で見ていた学園理事長は扇子を取り落として座席から身を乗り出した。

 見ていられないと、横合いに控えていたたづな―――トキノミノルは、大写しになっているモニタから目を離した。

 

『教えてくれなければ、ここで身を投げます』

 

 真顔でそう言い、ひょいと橋の欄干の上に飛び乗るサイレンススズカ。たづなは、トキノミノルはそれを見て、かつての己を思い出す。傷を抱えながら、事実上一本足で走っていた頃のことを……。

 だから、教えた。その結果が、これだ。彼女が選んだのだ。もう封印したはずの名前をもう一度だけ使った。誰もいない河川敷で、一度見せただけだ。それをあろうことかほぼぶっつけ本番で負傷しながらやっているのだ。

 時折上半身が揺らぎ、それでも下半身と腕の振りは、止まらない。

 

『さ、サイレンススズカに故障発生……!? し、しかし走っています! 躓いただけでしょうか!?』

『これはどういうことなのでしょうか……? 確かに故障したように見えましたが……!?』

 

 混乱する実況とは裏腹に、サイレンススズカは走っていく。

 左足の蹄鉄は地面にほぼ痕跡を残さず、右足の蹄鉄はまるで刻印されたように地面にUの字を残しながら……。

 

「スズカ……お前は……」

 

 沖野は口から飴を滑り落した。

 

 

『二十バ身は差をつけて今ゴールイン! 一着は異次元の逃亡者サイレンススズカ………』

 

 

「スペ! 行け!! 左足を抱え込め!」

 

 沖野が叫ぶ。

 スペシャルウィークが、疾駆する。柵を乗り越え、いまだかつて見たことのないペース配分もへったくれもないスピードで駆け抜けていく。徐々に減速しついに徒歩になって、口から血の泡を吹いているスズカに駆け寄っていき、体を支える。

 

「スズカさん!」

 

 左足を抱え込むようにしていき、地面に横たえる。

 

「スペちゃん、やったよ……勝ったよ…………」

 

 サイレンススズカは笑いながら泣いていた。わんわんと泣きながら、口角を吊上げていた。

 

「スズカ、やったんだ…………ぼくは、かったんだ………」

 

「救護班を早くっ!!」

 

 あとからたっぷり数十秒は遅れて沖野が追い付き、コース横で待機していた救護班を要請する。言うまでもなく、既に救急車がターフへと踏み込んできていた。

 

「かったよ………!」

 

 サイレンススズカは、一声叫ぶと、失神して、何も言わなくなってしまった。

 

「スズカさん! スズカさん!」

 

 スズカを抱えたスペシャルウィークの声。沖野の悲鳴のような大声。救護班を乗せた救急車がターフへと入ってくる様子。その場面は、日本全国に放映されることになった。

 サイレンススズカ。一着でゴールするも、故障によりライブは不参加。ライブそのものの是非が審議された結果、その日、ついにライブは行われなかった。嘆き悲しむファンたちのもと、救急車は病院へと直行していく。

 沈黙の日曜日(サンデーサイレンス)

 その日はそう呼ばれるようになったという。




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