夜。ベッドの上でカチンカチンと蹄鉄をハンマーで打って調整するスペちゃんを尻目に、僕は自分の髪の毛を梳いていた。伸ばす以上は整えないといけないのが常識だ。
あんなにおしゃべりだったのに、今はカチンカチンハンマーを小刻みに動かすだけで、不安で潰れそうになっているのがわかる。
沈黙が痛い。とっとと寝てしまってもいいけれど、フジキセキと約束したからなあ。
「質問、いいですか」
「なんですか、スズカさん」
「トレセン学園に来て初めてウマ娘を見たって聞いたけど、それって………」
「私、北海道出身なんです。周りは山と川ばかりで、ウマ娘はいなくて………」
それからスペシャルウィークは話してくれた。
一人目の母親は死んでしまったこと。二人目の母親がいること。
『この子を、立派なウマ娘に……』
一人目の母親が、という遺言を遺して逝ったこと。
「そうなの……」
おおう、思ったよりヘビーだぞこれは。こういうのは僕の専門分野なんじゃない。両親も健在で健やかに育ったという記憶と、なけなしの男だった記憶の混ざった僕には重い話だ。この男の記憶の両親がどんなヒトだったのか、思い出すことすらできない。いつか、思い出す時が来るのだろうか。
話は続く。二人のお母さんは色々と手を尽くしてトレーニングしてくれたこと。
なるほど、トレーニングを全くやってないウマ娘が普通のメニューをこなすと疲労困憊で筋肉痛が酷いもんなんだけど、スペちゃんは疲れてはいても筋肉痛は起こしていない。お母ちゃんとのトレーニングもムダじゃなかったというわけだ。
「だから、日本一になりたいんです」
「…………ええ話や……」
不覚にもうるっと来て口調がバグったが幸い聞かれていなかった。と信じよう。
「二人のお母ちゃんの為に」
Vサインを作ると、微笑むスペちゃん。
単純に『走りたい』のみで走ってる僕と比べるとだいぶ話が重い。
Q.どうして山に登るんですか?
A.そこに山があるから
とある登山家が聞かれてこう答えたそうだけど、僕流に言いなおすなら、
Q.どうして走るんですか?
A.そこに道があるから
としか言いようがない。ある意味欲求に忠実とも言える僕の願い事と比べると天地程の差がある。
「明日のデビュー戦、頑張りましょうね」
「はいっ!」
元気よく返事をしてくれるのを見て、僕は一安心だなと思ったのだった。
翌日。
トゥウィンクルシリーズ。阪神競バ場にて。
ジャージを着込んだスピカの面々と一緒に、パドックを見下ろせる位置にいた僕たちの後ろで、飴を咥えた沖野トレーナーがマヌケな声を上げた。
「あっ、パドックでの見せ方教えるの忘れてた」
「オイ」
『続いて外枠十四番、スペシャルウィーク!』
パドック。要は待機場みたいなところだ。そこでは、背筋の伸び方、歩き方、表情、筋肉の仕上がり具合を見て、観客が、だれが勝つかを予測するわけ。パドックでは上着をばっと脱ぎ捨てる伝統芸があるわけだけど、そこんとこ把握してるんだろうか。僕のレースみてたってことはわかってるとは思うけどさ。
スペちゃんはカチカチだった。右手と右足が、左手と左足が交互同時に出てる。
「だはー! あいつ腕と両足一緒に出てやがるよ」
ゴルシが言う。観客もどこか生暖かい目で見ている。
沖野トレーナーがわざとらしくポケットからゼッケンを取り出した。パドックをちらっと見ると確かにゼッケンをつけていない。
「スズカ。ゼッケン渡すの忘れたから、渡してきてくれるか」
「オイ。はー、飴一本追加ね……追加ですね」
この男に限ってそんなへまをするとも思えないので、わざとだなこれは。
僕は沖野トレーナーの手からゼッケンと飴を取ると、とことこと早歩きでスペちゃんのいるところに向かったのだった。
「これでよし……」
ゼッケンをつけてあげた僕は、スペちゃんの肩をもみ始めた。くすぐったそうに尻尾を揺らしている。
「あ、あのスズカさん?」
「硬くならないでください。お母ちゃんと約束したんでしょ。日本一のウマ娘になるって。誰にでも最初の一歩はあるものだけど、一回限りしかないんだから」
「そういわれるともっと緊張してきました……」
「一回限りのメイクデビュー。楽しんで行ってらっしゃい。スペちゃん」
ぽんと背中を押して、それからポケットから出した飴を咥える。なんか最近コレ舐めてないと落ち着かないんだよね。なんででしょ。沖野トレーナーから毎日毎日とってるけど、最近顔を合わせると飴渡してくるようになってきて、なんか餌付けされてる気がしてイヤだ。
「はいっ! スズカさん、行ってきます」
僕は後ろを振り返らず手を振って、元気よくかけていくスペちゃんを送り出した。
戻ってみると、客席は超満員。こういう時スマートなボディは楽に通過できる。はは……。泣いてないんかないんだから。
「いい顔になったじゃないか」
ターフのスペちゃんはなかなか精悍な顔立ちになっていた。
「当たって砕けろ」
「砕けちゃ困るんだがな」
沖野トレーナーに突っ込まれたので、僕は逆に肘を突っ込んだのだった。
「行ってらっしゃい、スペシャルウィーク」
そして出走。ゲートが開いた。