【牟田美紀(むた・みき)】
少尉。第92戦術機甲連隊第12中隊所属。コールサインはイツマデ4。
訓練課程を終えたばかりの新人衛士。撃震や不知火に搭乗できないことを不満に感じていた(23話)。九州防衛戦を戦い抜くが、その過程で先輩衛士たちの死と直面。さらにその先輩衛士たちが撃墜されたことさえ戦闘中には気づけず、自身の無力感に打ちひしがれるのであった(28話)。
1998年8月。
四国地方の避難民を九州地方へ脱出させる西部方面司令部主導の“出梅作戦”は、成功に終わった。第92戦術機甲連隊をはじめとする西部方面隊の諸隊が参戦してから、四国から避難できた市民の数は約50万人。400万はいる四国四県の総人口からすればこの数字は約12%にすぎないが、“出梅作戦”の発動がなければ確実に失われていた生命であった。
明るいニュースに飢えていた帝国政府も大手マスメディアもこれを“宇和島の奇跡”と持て囃し、西部方面隊の健闘と勝利を称えた。
そして帝都防衛戦生起からひと月を迎えようという日本帝国国防省は、九州の西部方面隊と帝都の中部方面隊を以てBETAを挟撃して逆転勝利を収めようと、本気で考え始めていた。
が、その大戦略は8月中頃に瓦解した。
畿内における人類軍の損耗は著しく、帝国政府の閣議で帝都の放棄と東京への遷都が決定。一方、BETAの勢いは衰えず、彼らは北陸方面・東海方面の二群に分かれて東侵を続けた。これにより九州地方に立て籠もる日本帝国本土防衛軍西部方面隊は、本州の戦いに参戦する機を完全に逸した。
否、タイミングもそうであるが、日本帝国本土防衛軍西部方面隊の損害も決して楽観できるものではなかった。
西部方面司令官は、自身が切り札と位置づける第92戦術機甲連隊の損耗をみて、渋い顔をした。
■ 第92戦術機甲連隊:作戦機数(74/108機)
● 第11中隊:F-14N(12/12機)
● 第12中隊:J-8(6/12機)(※1)
● 第13中隊:F-4EJ改(12/12機)
● 第21中隊:F-5C(5/12機)
● 第22中隊:F-8E(10/12機)
● 第23中隊:J-8(9/12機)
● 第31中隊:G.91Y(0/12機)
● 第32中隊:F-5FS(8/12機)(※2)
● 第33中隊:F-4UK(12/12機)
(※1)殲撃八型
(※2)シュペルエタンダール
実際には予備機があるため八代基地に存在する戦術機は74機よりも多く、第22中隊や第32中隊は、即座に予備機を充てて定数を満たせる。また9月には台湾からFC-1閃電が、済州からは韓国仕様のMiG-29SEKが到着する予定になっており、機体という点だけでいえば質・量ともに戦力回復は可能であった。
問題は、戦術機よりも衛士の補充だ。
日本帝国国防省は本土防衛軍中部方面隊・東部方面隊へ優先的に衛士を供給することを決めており、西部方面隊の優先順位は第3位であった。
“出梅作戦”で主力となった第92戦術機甲連隊の戦力は69%で損耗著しいが、他の西部方面隊の戦術機甲連隊もまた戦力は80%前後にまで下落している。西部方面司令官は第92戦術機甲連隊のことだけ考えていればいいわけではなく、こちらの手当も考えなければならない。
西部方面司令官と東敬一大佐以下第92戦術機甲連隊幹部の協議の結果、9月に第92戦術機甲連隊の再編が実施された。
■ 第92戦術機甲連隊:作戦機数(84機/定数108機)
● 第11中隊:F-14N(12/12機)
● 第12中隊:FC-1(12/12機)
● 第13中隊:MiG-29SEK(12/12機)
● 第21中隊:一時解散(所属衛士は12中隊へ)
● 第22中隊:F-8E(12/12機)
● 第23中隊:J-8(12/12機)
● 第31中隊:一時解散
● 第32中隊:F-5FS(12/12機)
● 第33中隊:F-4UK(12/12機)
九州防衛戦で中隊長以下多くの死者が出た第21中隊は解体、所属衛士はみな第12中隊へ廻し、問題児の集まりである第23中隊は本州の攻防戦で問題行動をみせた衛士を拾う形で定数を満たす。
そして第22中隊・第32中隊はこの夏に訓練課程を終えた新米衛士7名を迎えてなんとか定数を満たした。
「九州と四国に散った仲間たちに、献杯」
新たに着隊した衛士や本部要員、整備兵、警備兵、軍属のための歓迎会は、東敬一大佐のそんな音頭で始まった。第92戦術機甲連隊の払った犠牲は、衛士34名だけではない。整備兵・警備兵からも29名の戦死者が出ている。衛士以外の死者のほとんどは、宇和島市内の戦闘によって生じたものであった。
故に歓迎会は、もの寂しい雰囲気で始まった。
が、アルコールが回るとともに、じきに盛り上がりをみせていった。
その空気に耐えきれず、第12中隊の牟田美紀少尉は食堂を抜けた。
針みほ少尉をはじめとする先輩たち、全滅の憂き目に遭った第31中隊を思えば、どうしても明るい気持ちにはなれそうになかった。
明後日からはFC-1の機種転換訓練が始まる。
九州防衛戦前はF-4J撃震や94式不知火に乗れないことに不満を抱いていた彼女だが、いまやもう殲撃八型だろうが、FC-1だろうが、文句を言うつもりはさらさらなかった。
(戦術機は、刀でしかないんだ。重要なのは銘じゃない――)
木刀を持ちだした牟田美紀少尉は兵舎の外に出て、片手素振りを始めていた。
実のところ、心穏やかではないのは彼女だけではない。誰もが上官、先輩、同僚、後輩を失い、あるいは四国・本州に住む肉親、友人、知人を失い、そしていまや国土の過半を失おうとしていた。
……。
最前線が帝都前面から東日本に移動したこともあり、日本帝国本土防衛軍西部方面隊将兵の中で盛り上がっていた“対岸の消火”論は下火になりつつあった。
心情としては救援に向かいたいものの、自身の職場をみれば諸隊の戦力回復が途上であることは実感していたし、周囲の状況がそれを許さなかった。
8月中も九州北部へのBETA強襲上陸が散発的にあり、第92戦術機甲連隊は参戦しなかったものの、9月上旬には下関市を発した旅団規模のBETAが北九州市に侵攻。対する西部方面隊は、第8師団と二線級師団を協同させて山間部に大型種を誘い出し、これを殲滅した。
完全勝利である。
が、西部方面司令部の人間は素直には喜べなかった。
向かってくるBETAを撃退するのは“対症療法”でしかなく、西部方面隊が中国大陸・朝鮮半島・中国地方・四国地方によって、BETAに半包囲されている現状は何も変わらなかった。
戦力回復と海を挟んだ睨み合いが続いている間に、東日本の戦況は悪化の一途を辿っている。
9月末には佐渡島が陥落し、同島においてハイヴ建設が始まったことが確認され、続いて関東地方に侵入したBETA群は横浜にハイヴを築き始めた。
これによりBETA群の動きは停滞をみせたものの、日本帝国は国内に――しかも直線距離で300kmしか離れていない間隔で2個のハイヴを抱える格好になってしまったのである。
帝国政府は東京に引き続き仙台に首都機能の一部を移転させていたが、仙台市にしても佐渡島ハイヴから約200km、横浜ハイヴから約350kmの距離でしかない。
加えて米国政府は日米安全保障条約を破棄、在日米軍を戦線から離脱させるに至る。
まさに日本帝国は、窮鼠であった。
窮鼠であれば、眼前の仇敵を噛まねばならぬ。
国際連合・日本帝国は甲22号目標横浜ハイヴ攻略を目標とした“明星作戦”を計画。
そして日本帝国国防省・帝国軍参謀本部は、本土防衛軍北部・東北・東部・西部方面隊に明星作戦に向けた作戦準備を命令した。