所詮、噂というのは知らぬは当人ばかり。
だから、アリアは知らなかった。キンジも知らなかった。
――遠山と神崎がつきあっている。
そんな噂が立っていたとは知らなかった。
確かにパートナーとして組んでいるし、同じバスカービルのチームなので一緒にいることは多い。
だが、周囲からそんな風に思われているとは――そして、そんな風に見えるとは思ってもみなかった。
アリアは廊下に響くキンジの絶叫を聞きながら。勝手にニヤケる顔を押さえるのに必死だった。
両手で頬を押さえると熱いのがわかった。体中、熱を持っているのがわかった。胸の動機が早いのがわかった。うれしいのが――わかった。
でも――
同時にいつも漠然とした不安がそこにあった。だから、アリアは自分の気持ちはわかっていても、それをできるだけ出さないようにしていた。
あたし――どうしたいの?
すぅっと、一つ大きく深呼吸。頭の中で気持ちを切り替えて土佐を見る。まだ顔が少し赤い気がした。
「で、あたしには何の用なの?」
強引に話題を引き戻すアリア。
勝手に笑顔になりそうな顔を抑える、頬の筋肉がひきつりそうだった。
この際キンジは完全無視することにした、そうでないと――
腰に手を当てて土佐を睨み上げる。実は恥ずかしくてキンジが見れないので、視線を土佐に集中していただけだった。
「あー…なんだな…」頬か掻きながら視線を泳がせる土佐。
「まー…つまりだな。」何が言いにくいことを言おうとしているのはわかったが、煮え切らない返事。
「ちょっと…なによ?」少しいらついたアリアが先を促す。
「あー…まあ、つまりや」困ったような顔をする土佐。
そして、その口から飛び出した次の言葉。
――決闘や――
しばらくの沈黙。そして―――「「はい?」」キンジとアリア二人の微妙にズレたハーモニーが廊下に響いた。
先ほどのお祭りムードが一気に吹き飛ぶ。
『遠山と神崎つきあってます』にも驚いたが、さらに飛び出してきた”決闘”の二文字に頭がついてきていなかった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」開いた右手をつきだして土佐に”待った”を示すアリア。
見ず知らずのさっき会ったばかりの男にいきなり”決闘”といわれても困るは当たり前。
「理由…そう、理由聞かせてくれるんでしょうね?」
なんとか思考を取り戻したアリア。いまだこの展開に理解ができず、土佐を指をさして理由の催促をする。
「理由ね…」
土佐は視線を上に向けてなにやら思案する。そのにやけ顔がアリアのかんに障りイラつきを増長させた。
「俺んは、そうやな、”ケジメ”っちゅうヤツやな。」
そう答える土佐の一方的で理解しがたい理由にアリアは――。
「何よそれ?それってあんたの都合じゃない。そんなんで決闘なんてたまったもんじゃないわ。」とまくし立てる。
「だから、”俺んは”って言うたやん。」眉をひそめて少しあきれたように言う土佐。
「わけわかんないわ。もったいぶってないで言いなさいよ」
「だから、神崎ぃ」
突然、土佐の目つきが、赤黒く錆びた刃のような不気味な闇を宿す。表情そのものが変わった。お調子者のにやけ顔が、背筋がぞっとするような陰湿で狡猾な笑顔に変わった。
(なにコイツ?)
アリアは突然変わった土佐の迫力に押され、自分でも気づかず一歩下がっていた。
アリアを見下すように土佐は続ける。
「お前にも理由があるっていうとるんやけど…わからん?」
「わ、わかるわけないでしょ?」気圧されていることに気づくアリア。不気味な気配を放つ土佐に、声がわずかに震えていた。
「そうか、わからんか…ま、しゃーないか…」
そう言って土佐はアリアの耳に顔を近づけ――ボソと呟いた。
アリアの目が何かに驚いたように大きく見開かれた。
土佐は一言だけ呟いた。
だが、アリアはその一言だけで、土佐が何を言いたいのか、何故”決闘”なのか、どうして自分にも理由があるのか――全部を理解した。
土佐はアリアから顔を離す。アリアの赤紫色の瞳が土佐の顔を追った。まるで信じられないものを見るように。
土佐は再び見下すようなにやけた顔でアリアを見た。(どうだわかったか。)というような顔だ。
「あんた」
アリアは目をつり上げ、唇をかみしめ、両の拳を握る。その赤紫色の瞳を怒りに染めて、まっすぐ土佐を睨みつけていた。
先ほどまで気圧されていたアリアは、そこにいなかった。
アリアは体中に怒りが巡り、頭が沸騰しそうだった。こみ上げてきた、くやしさでどうにかなりそうだった。
そうなの――こいつもなんだ――
「神崎ぃ、可愛いお顔が台無しやぞ。」
なんで――?
余裕を崩さないにやけ顔。アリアを小馬鹿にしたように言葉を投げる。
アリアは土佐を睨みつけたまま黙っていた。怒りで小さな肩が震えていた。
なんで――お母さんを――?
「ま、ええけどな…お返事聞かせてくれるか?」
少し冷めた顔と投げやりな言い方。今のアリアの心情をわかった上での挑発。
(ふざけんじゃないわよ。そのにやけ顔、泣き顔にしてやる。)
アリアは荒ぶる感情を必死に押さえながら、つとめて冷静に言った。
「いいわ。やってあげる。いつ?あたしはいまからでもいいわよ。」
「オーケー。良い返事ありがとさん。まあ、またお知らせしますんで、じゃ」
そういって片手を挙げて背を向けると、土佐はさっさと行ってしまった。
「お、おい、アリア?」
キンジがようやく口を開く。アリアが怒っているのはわかったが、土佐の何に怒っているのかわからなった。
事情が飲み込めず、入り込む隙もなく、よって止めようもなく、ただひたすら成り行きを見ていることしかできなかった。
「あいつ…」
今のアリアにはそれがありがたかった。頭の中が冷えていなかった、体の中に怒りが巡っているのがわかった。
さっき『遠山と神崎つきあってます』と言われたときは違う意味で熱かった。それは全く逆のドス黒い感情の熱さだった。自分でも醜いと思ったがどうにもならなかった。
今、何かを言われても、何かを言ってもキンジを傷つけそうで怖かった。
だから――
「あいつ…イ・ウーよ」
とだけ短く言った。
熱くなったアリアの手の中。握りしめていた、土佐にもらった缶コーヒーだけがやけに冷たかった。
――俺はイ・ウーや――
それが、土佐の一言だった。
土佐のにやけ顔を思いだし、缶コーヒーを飲まずにゴミ箱へたたき込んだ。