絶対に百合に挟まらない司令の懐刀系性癖山盛りTSヤニカス不死リコリス 作:千年 眠
亜麻色の髪に櫛を通す。細くて柔らかい、長毛の猫のような手触りは、僕のそれとは正反対だ。力の有り余っている僕では加減を誤って傷つけてしまいそうで、最初は何をするにも緊張したっけ。
もちろん、今していないと言ったら嘘になるけれど、ずいぶんこなれたのは確かだ。
耳上の横髪を一房とって、右と左でそれぞれ三つ編みを編む。その二つを結び、毛先を結び目の下にくぐらせる。いわゆる、くるりんぱってやつ。
あとは三つ編みを軽くほぐして、ボリュームを出してあげれば、
「……よし」
三つ編みで作るハーフアップの完成だ。部屋の時計を見れば五分も経っていない。副隊長に乞われて髪を結ううちに、こればかり上手くなってしまった。
僕も髪を伸ばしたら、この人に触れてもらえるんだろうか。女の子らしい格好は苦手だけど、もしそうだとしたら、悪くない。
そういう未来も、あったんだろうか。
「どうですか」
「うーん、いいね! 今日もかわいい! ありがと!」
彼女は卓上の小さな手鏡で自分の頭をしげしげと眺め、振り返ってはにっこりと笑った。
「じゃ、交代」
「はい」
椅子に掛けると、彼女は机上のメイクポーチからてきぱきと道具を出し、慣れた様子で僕の顔にファンデーションを乗せ始めた。
今までメイクのメの字も知らなかった僕だけど、最近になって化粧下地までは自分でやれるようになった。そこから先は、副隊長がどうしてもやりたいというから素直にお任せしている。
おかげでこの、顔の上に薄皮が張ったような独特の感覚にもすっかり慣れてしまった。カーラーでまつ毛を引っ張られようが、上瞼の縁ぎりぎりにアイライナーを引かれようが、今となってはなんとも思わない。
ああでも、リップグロスで唇がべたつくのは、あまり好きじゃないかもしれない。任務中、うっかり舐めてしまったことも一度や二度ではないし。
「……うん、いいよ、すごくいい」
それでも僕がこうして化粧を受け入れているのは、この人が喜ぶからだ。
「かわいいね」
彼女は立ち上がった僕をおずおずと抱擁した。体格が違いすぎるせいで、僕の胸に顔を埋めるような格好だ。
「……いい?」
初めてそれを聞いた時の緊張と羞恥は、彼女にはない。その一線までは、僕が拒まないと知っているからだ。
彼女の細い腰と背中に腕を回した。
温かい。それだけで多幸感に溶けてしまいそうだった。
腕の中で彼女が僕を見上げる。髪が揺れて、いい匂いがした。それがいつもの合図だった。上背を合わせるように、頭を下げる。
彼女は僕の首筋に口づけをした。柔らかい唇に肌を食まれる感触がこそばゆい。じわりと、お腹の芯に痺れるような熱が湧いた。
やっぱり、これは駄目だ。帰ってこられなくなる。
僕はこの人を、本当に、
「ごめんね」
彼女は、心の底から罪悪感を覚えているかのような、か細い声で呟いた。
理由はわからなかった。けれど僕の答えは決まっていた。
「先輩にされて嫌なことなんかありませんよ」
それこそ殺されても構わない。いや、分隊の仲間なら、誰が放つ銃弾であっても受け入れられた。言葉にはしないが。
それより、言外に首より上へのキスを求めたことに、彼女は気づいただろうか。
気づいてくれなくていい。むしろ気づかないでほしい。自分から求めておいて、変な話だけど。
僕にこれ以上、あなたを愛させないで。
「……もう行きましょうか?」
「……そうだね」
抱擁を解いて、自分から彼女の手に指を絡めた。僕の方から手を繋ぐようになって、どれだけ経ったか。
三〇分後には出発だ。僕らF1分隊の、いつも通りの任務が始まる。
そこで僕は、みんなを殺す。
§
現場に向かうステーションワゴンのカーラジオが、無感情なAI音声で避難勧告を読み上げている。
東京は豪雨だった。
「歩道に人が全然いないよ。ターゲットも今頃避難所かねぇ」
ステアリングを握る
「先輩」
「ん?」
ウィンドウ越しに灰色の空を眺める僕の横顔に、彼女の視線が一瞬だけ向いた。
「逃げるって本当ですか」
目の前の信号が黄色に変わったのを認めた彼女は、アクセルを踏み足して強引に通過する。エンジンが苦しげに唸った。
「盗聴器は外しました。僕しか聞いていませんよ」
「……たはは」
先輩は真面目な顔を不意に崩して、困ったように眉を下げた。
「わかっちゃったか。隊長から聞いたの?」
「……はい」
「んもう。あの人、口が軽いんだから。誕生日プレゼントその二だったのに」
「プレゼント、ですか」
「そ。今日はヒマリちゃんの誕生日でしょ? 本当はサプライズにしたかったの」
彼女がいうそれは、F1分隊潜入のために用意された偽りのプロファイルに記されている登録日のことだ。僕から教えたことはないのに、知っていてくれたなんて。
心臓が場違いにも小さく跳ねた。
「偽造書類を作ってもらったんだ。全員分ね」
「それで、一体どこへ?」
「ユジノ・サハリンスク経由でアメリカに。移民が多いから紛れやすいかなって」
彼女は新天地でのプランを嬉々として俺に聞かせた。
住まいはここ。仕事はこんな。自由の女神に上りたい。ブロードウェイでミュージカルを見たい。メジャーリーグを生で見よう……無邪気でかわいらしい、ずさんな計画だ。
叶うはずがなかった。
「ねぇ、ヒマリちゃん」
車は左折して大通りを外れた。ひび割れたアスファルトの轍に溜まった水をタイヤが踏んで、白い飛沫が立つのが助手席からでも見えた。目的地は近い。
「一緒に来ない?」
現場の前に車を止めた彼女は僕に微笑んだ。
必死に抑え込んでいた感情の箍が、ひときわ大きく軋むのがわかった。
手に掛けるその瞬間まで、何も見ず、何も考えず、道具らしくありたかったのに、この人はいつも僕の心を乱す。憎しみにも似たどす黒い愛情が胸の奥から湧いてくる。
……
「やり直そうよ、全部」
僕は彼女の瞳が、かすかに濡れたような光を放っていることに気がついた。
「あたしたちは、幸せになっていいはずでしょ……?」
気持ち悪い。ああ、気持ち悪い。
「……そう、ですね」
これから殺す相手に笑える自分が。
「僕も──」
こんな嘘を平然とつけてしまう自分が。
「──僕も、ついて行かせてください」
全部全部気持ち悪い。
「ヒマリぃ……」
何も知らない彼女の顔が歓喜にくしゃりと歪んだのと、玉のような涙が光りながら落ちていったのは、ほとんど同時だった。
滝のような雨がステーションワゴンのルーフを殴り続けている。僕はそのくぐもった打撃音に包まれながら、そんな資格もないくせに、センターコンソール越しに抱きついてきた彼女の華奢な背中をさすり続けた。
彼女も、彼女の仲間も、無事に逃してやれるような力は、僕にはない。
自分が憎い。
背中に回された腕の感触を、半身に伝わる体温を、彼女という存在の尊さを、愛おしいと思う感性さえ憎い。
離したくない。
殺したくない。
ずっとこうしていたい。
「僕、僕……ずっと先輩と一緒がいいです」
彼女の矮躯をかき抱く。心はどこまでも満たされながらじくじくと血を流す。
これから失う幸福が、僕に消えない傷を刻む。
「うん……約束」
顔を上げた先輩は滂沱の涙をそのままに、僕より一回り小さな小指を差し出した。
彼女は僕を信じている。
事実がすとんと腑に落ちる。
息が詰まって声が出ない。
肺が罪に押し潰されたかのようだった。
僕はどうしても、指を絡めることができなかった。
彼女の手を、自分の手で包み込むことしか。そうやってうやむやにすることしか、できなかった。
「もう、なんであなたが泣くの……」
彼女はコンソールボックスを乗り越えて、僕の膝の上に座り直した。今まで見下ろすばかりだった彼女を、僕は今、初めて見上げている。
困ったように笑う彼女は、僕の頭を抱いて自分の肩に埋めさせた。
知らない。
こんな安心、僕は知らない。
知りたくなかった。
僕は聞き分けのない子供みたいに、無様に泣きついた。
押し殺した嗚咽に寄り添うように、彼女は古い歌を優しく口ずさんだ。
同名の映画の中で、恋に酔いしれる一人の男が土砂降りの中で踊り歌った、軽やかで陽気なナンバー。
彼女は可憐な声で囁くように歌いながら、赤ん坊をあやすような手つきで僕の背中を叩く。
熱い雫が額に触れた。彼女の慈しみに溢れた微笑はきっと、今も新しい涙で濡れ続けていた。
「ねえ」
彼女の両手が頬を包む。顔を持ち上げられて、目と目が合った。
彼女の潤んだ瞳は、他の誰に見せたくないくらい綺麗だった。
止まっているのか、動いているのかもわからないくらいゆっくりと近づいてくる顔を、僕は滲んだ視界をそのままに見つめ続ける。
前髪と前髪が触れ合ったところで、彼女は止まった。
僕の唇にかかる吐息はかすかに震えている。
彼女はあるはずのない拒絶を恐れていた。
目を閉じて、すべてを委ねる。
衣擦れの音。首筋をくすぐる柔い髪。
顎を少し上げて。
一秒。
二秒。
三秒。
「……は」
どちらからともなく唇を離すまで、息さえ止めていた。お互い初めてのことで、勝手がわからなかった。
額を合わせたまま、一緒に肩で息をした。呼吸が荒いのは、止めていたためだけではなかった。
幸せだ。生きてきた中で一番幸せで、一番悲しい。
だから終わらせなきゃ。
ずっとこうしていたら、きっと、心が引き裂かれてしまうから。
「……そろそろ出ないと、怪しまれちゃいますよ」
「……うん」
「早く、済ませましょう?」
「……そうだね」
僕たちはもう一度唇を合わせてから、ドアを開けた。
雨音は一気に強まった。頭も肩もずぶ濡れだ。でも、涙の跡を洗い流して、火照る心を冷ましてくれた。
決心はつかない。
それでも、やらなきゃ。
「風邪引いちゃう。早く帰ろう」
インカムを装着する。チャンネルは事前に通達のあった、秘匿回線に合わせた。
「
『一〇分後に残りの対象二名が到着する。キルゾーンに誘導し、速やかに排除しろ』
その通信を最後に、オペレーターが無線を封止した。このエリアにいるリコリスは──僕たちの隊は、誰も助けを呼べなくなった。
「ターゲットは単独だそうです」
「オッケー。あたしが前、ヒマリはカバーお願いね」
「はい。いつも通りですね」
古いアパートの解体現場だった。
鍵のかかっていない、目隠しの板が張られた重いゲートを二人で開ける。建物自体の解体はほとんど済んでいて、鉄筋コンクリート製の柱や梁は、一階から三階の一部までしか残っていない。
左手にはプレハブの現場事務所、二階建て。反対側には空荷の大型ダンプや、アームの先端にコンクリートブレーカーを取り付けられた油圧ショベルといった種々の機材が放置されている。
現場一帯に敷かれた鉄板をかつかつと踏む音は、僕と先輩のふたつだけ。
広いばかりで誰もいない現場の四方は背の高い目隠しに覆われて、外から見られることはありえない。
「あれ? だーれもいないじゃん」
学生鞄に隠された機構を、ゆっくりと、ゆっくりと展開する。激しく打ち付ける雨が作動音を隠す。
グロックのポリマーフレームには温度を感じない。
サプレッサーを取り付けて、スライドを引く。
意志に反して、腕は銃を持ち上げる。
「はっ、はあっ……は……」
彼女の背中に合わせられた照星が俺をあざ笑うように震えている。心臓の拍動がひどくうるさい。
「はっ……! はっ……! はぁっ!」
「ねぇ、あっちの事務所に──」
振り返ろうとする彼女の横顔。
サイダーの栓を開けたような、押し殺した銃声。
亜麻色の髪が、ぱっと弾けた。
震える手で照準がつけられるはずがなかった。
弾は体を逸れて、彼女の髪の、三編みにした一房に当たっていた。
ハーフアップがほどける。濡れそぼつ豊かなロングヘアが、重力に従って下に流れる。
彼女は怒るでも怯えるでもなく、銃と、それを向ける僕とを順繰りに見た。
「ヒマリ?」
目が、合って、
「──あぁぁぁぁぁぁぁ!」
銃を握り潰さんばかりに力んで、もう一度撃った。
瞼を固く閉じていた。薬莢が敷鉄板の上で、何度か跳ね、そして。
人の倒れる音がした。
掌に残るリコイルの残滓が脳を揺らす。
じん、と痺れるような感触が、思考さえ麻痺させる。
「ひゅっ、す、かひっ、はっ」
僕はそれが自分の呼吸音だということを、数秒遅れで理解した。
そうだ。
手当てだ。
血を止めなきゃ、先輩が死んじゃう。
「はっ、はっ、はっ、はっ……!」
なのに、足が縫い留められたみたいに動かない。
なんでだよ。
動けよ。
動け──違う。僕は、先輩を殺すんだ。
僕があの人の元にいたって、何もしてあげられな、
「ヒマリ」
雨音を突き抜けて耳朶を打つ声。
それは、同じベッドで身を寄せ合い、無邪気な内緒話に花を咲かせたいくつかの夜に、まどろみながら僕の名前を呼んだ時の声付きにそっくりだった。
「来て。お願い」
平衡感覚と視界がそれぞればらばらに、歪み、ねじれ、回っている。僕はほとんど転んでいるのと変わらない格好で彼女に駆け寄った。
彼女の胸元を赤黒く染める血液が、雨に溶けて際限なく広がっていく。
命がこぼれていく。
「……今、手当てしますから」
銃を放り捨て、震える手で学生鞄の中身をひっくり返して敷鉄板の地べたにぶちまける。止血ガーゼのパッケージを鷲掴みにして力任せに引き千切り、彼女の制服のボタンに手をかける。
「ヒマリ」
彼女が僕の目を見て、たったもう一度、名前を呼んだ。
「いいの」
それだけで、僕はまた、動けなくなった。
「いいのよ」
良いわけないでしょう。
血を吐くような声を絞り出した。
「顔を見せて。なんだか、暗いの」
彼女の背中に腕を通して、そっと上体を起こした。頭を胸に預けさせると、彼女は愛おしげに頬を擦りつけた。雨に濡れ、血を流し続ける体は、痛みを覚えるほど冷たかった。
「あたし、幸せだ」
力無く投げ出された青白い手を取る。するとかすかに動いた。意図を察して僕の頬まで持っていくと、彼女は小さい吐息を漏らした。笑う余力さえ、残っていないようだった。
「先輩」
「……うん」
決着を。
すべてに、決着を。
「僕、あなたに会えてよかった」
雨も涙も太い筋を引いておとがいから滴る。もはや区別はつけようもない。
続きを言おうとして、息が勝手にしゃくり上がった。
必死に抑え込んで、なんとか絞り出した。
「大好きです」
彼女は目を閉じて、満足げに微笑んだ。
小さな掌が僕の頬を撫でる。
目尻に届いた細い人差し指が、涙滴とも雨滴ともつかないものを拭って──力尽きた。
引き裂かれた花の片割れみたいに、自然な形に指を曲げて動かない手。
手首に回していた指で脈をとった。
死んでいた。
「……違う」
僕が、殺した。
彼女の鞄を下ろして、仰向けに寝かせた。腹の上で組ませた手はひどく重く、まるで鉛でできた抜け殻に触れているようだった。
鞄を亡骸のそばに置くと、中で何かがかさりと鳴った。
偽造パスポートは、誕生日プレゼントその二。
なら、その一は。
「……ごめんなさい」
死体漁りは、冒涜だ。けれど彼女が最期に僕の腕に抱かれることを選んだ、その意味を考えた。
鞄の留め具を、ぱちりと外す。
グリーンのラッピング袋が、諸々の支給装備と少しの私物に混ざって一つあった。貼り付けられたメッセージカードには丸っこい字で、ハッピーバースデー、と書かれている。
金色のリボンをほどいて、手を入れる。革の感触がした。
雨に濡れないよう、袋を高く持ち上げて下から口を覗く。
入っていたのはナチュラルレザーの小ぶりなポーチだった。
最近、彼女はメイクを教えてくれていた。だからだろう。堅すぎず、かわいらしすぎず、そんな僕好みのデザインだ。
何でもお見通し、か。
閉じ直した袋を胸に抱いて、茫然と暗い空を仰ぐ。
なぜか涙が出なかった。だから雨が代わりになってくれると思った。悲しいはずなのに、穴の開いたバケツに水を注いでいるように、すべての感情が素通りしていく。正面から受け止めるより遥かに苦痛だった。
遠くで何かがきしむ音がした。
知らないうちに一〇分が経っていたらしかった。
甲高い声が先輩の名前を呼んでいる。
足音が一つ、近づいてくる。
「ヒマリ! ヒマリ!」
肩を強く揺さぶられて、プレゼントを取り落とした。
「何があったの!? ──嘘」
悲痛な声だった。
僕にはもう、そんな声は出せそうになかった。
銃を抜いて周辺を警戒する彼女は、工事現場が無人であることに間もなく気づいた。もちろん、地面に転がったままの空薬莢にも。
「……ひどいことを聞くわ」
視界の外。左の方でスライドを引く音がした。
感情が一周回ってか、声音は凪いでいた。
「殺したのはあんた?」