絶対に百合に挟まらない司令の懐刀系性癖山盛りTSヤニカス不死リコリス 作:千年 眠
隙を見せる。思わずつつきたくなるような詰めの甘さを、目の前に垂らす。すると相手は自然と、こちらをその程度の相手と見くびってくる。
それが毒餌とも知らずに、食いついてくる。
──英語が日本訛りだ。他はどうだか知らねぇが、その程度じゃ俺の耳は騙せねぇ──
煙草に火を点けながら、ふと、真島のことを思い出した。
声音には絶対の自信があった。事実、今まで彼に見抜けない嘘は無かったのだろう。CIAの同胞も、奴には随分手を焼かされてきたと聞く。
アメリカの意図しない形で各国の諸問題に火を着けて回る紛争の指導者、真島。我が国の外交戦略における目の上のたんこぶだ。
──我が国といっても、アメリカに対する帰属意識なんて上等なものは持ち合わせていないが。
「この隠れ蓑も捨て時か」
独白は足元の黒い水に吸い込まれる。無人の埠頭には月明かりさえ届かない。見えるのは、煙草の先端の赤い光くらいなものだった。
二度、三度と、乾いた煙を吸い込んでは、肺で味を変えて吐く。灰の落ちる音すらも聞こえそうな静寂だけがあった。
「兄さん」
そこに、ありえるはずのない声がした。
幼い男の子の声だ。それが舌足らずな発音で、ついに一度も聞けなかった呼び名で、こちらに語りかけてくる。
幻だ。幻だった。わかっていたから、振り向かずに、足元の凪いだ海面を睨み続けた。
俺の、この世でたった一人の、命より大切な弟。
どうして助けてやれない、と思う。
それと同じくらい、レンを生かすために身体を奪われた少女、
自分の非情さに、吐き気を催さずにはいられなかった。
「分かってるさ、レン。俺は人でなしだ。たとえ全人類とお前一人を天秤にかけても、お前を選ばずにはいられない。俺はそういうクソ野郎だ」
レンに一目会うため、俺はすべてを犠牲にした。
リリベルとして、現政権を握る連合与党の政敵を暗殺した。DAが政府に取り入るための、ごますりの一環だった。おかげで政府のお偉いさんからの覚えはすこぶる良くなり、任期終了後、内閣情報調査室のエージェントとして採用されることが、一四の頃から内定していた。
当時、暗殺作戦で小隊長を務めた俺だけが、だ。他の仲間がどうなったのかは、誰も知らない。
政府の犬になってからも、俺は率先して汚れ仕事を請け負った。分裂し、いくつもの軍閥による泥沼の内戦が続いていたかつてのロシア連邦に、ヨーロッパ伝いで武器をばらまいたのは俺だ。
大勢の難民が軍を名乗るならず者たちの虐殺と陵辱の犠牲になることを知りながら、連中から対外戦争をするだけの力を奪った。日本を戦禍から遠ざけるため、俺は単純な殺人よりもずっと惨く、そして無責任な分離工作を繰り返した。
CIAからヘッドハンティングを受けたのは、
俺が重ねた罪業のすべては、DAによってアメリカに売り飛ばされた弟を救うためにある。
これからも、そうだ。
背中に幼いレンの気配を感じる。だがヒマリはいない。俺が過熱させた紛争の犠牲者たちも、そこにいない。
俺の中にあるのは、最初からレン一人だった。
あいつの幸福だけが、俺の価値で、俺の意味だった。
「タチバナ」
「……遅かったじゃないか」
自分が知る姿は、もうそこにない。
俺のせいだ。間に合わなかった俺が悪いんだ。
レンが不死身の兵器に作り変えられたのは、俺のせいだ。
「ネズミが嗅ぎ回ってる。撒いてきたから、手短に頼むよ」
「オーケー、いくつかニュースがある。まず、プルトニウムを真島にくれてやったのは俺だ」
「だと思った」
「だが密輸船が沈んで、残念ながら真島一派には届かなかった……というのは建前でな。プルトニウムなんて初めから存在しない。真っ赤な噓さ」
「つまり、CIAによる支援の体裁をとって、真島に取り入ったってことだ?」
「その通り。もちろんアメリカはこの件を知らない。真島はデカい後ろ盾が手に入ったと思って、DAを潰そうと派手に動くだろうが……それが命取りだ。動向は既に、内閣情報調査室を通して日本政府にタレ込んである。ライバルは早めに潰しておかないとな?」
「ついでにプルトニウムが俺たちの手にあると思わせておけば、延空木を奪った後も多少は楽になるだろうね」
「ああ。下手を打ちゃ高度六三四メートルから首都めがけて放射性物質が降り注ぐとなれば、政府もうかつに手出しできんだろう。在日米軍の秘密部隊が先走らなければ、だが」
「構わない。ミサイルでフロアごと吹っ飛ばされるのに比べたら、まだやりようはある」
俺なら勝てなくても負けはない。でしょ?
レンはそう言って不敵に微笑んだ。少女歌劇の男役のように凛々しい顔立ちが少年の感性のままに操られる様は、煙草の火の消え入りそうな暖色に照らされると異様なほど絵になった。
少し見ないうちに、彼は現在の体に急速に順応しつつあった。仕草や表情が女性らしさを帯びた、という意味ではない。ただ、ささくれだった空気感とでもいおうか。かつて、彼が時折見せていた不安定さは、すっかり鳴りを潜めて久しい。
まるで、男の女の狭間で揺れていた何かが、芯を捉えてぴたりと収まったような。
完璧に調律された強かさと美しさとが、今の彼にはあった。
「……そうだな」
確信した。弟はもう、友人殺しの罪に押し潰されることはないのだと。
「ねえ」
「どうした?」
「俺、生きて帰るよ」
「そうか……そうか。それが聞けて、嬉しいよ」
「だから兄さんも、死なないでね」
「……っ。俺を……俺を、兄と呼んでくれるのか」
弟を救ったのは、俺ではない誰かなのだ、と。
#9:In this Beautiful world
店内清掃につき臨時休業。そんな名目で店を閉めた平日の午後。
「先生と話したよ」
更衣室でブラウスに袖を通しながら、千束は言った。
「ヨシさんのこととか、私の心臓の話とか、色々」
僕はベージュの
たきなはちょうど、いなかった。
「へっ。深刻そうな顔すんなよぉ」
「……バーじゃ、もっとやりようがあった。俺が騒ぎを起こせば、あの人も黙ったのに」
「んーん、違うよ。きっとさ、私はいつか知らなきゃいけなかったんだ。それがたまたまあの日だったの」
ほーら、凛々しい顔が台無し。
むくれていたら頬をつっつかれた。僕は取り繕うように制服のボタンを閉め始める。
「ヨシさんとは色々、本っ当に、色々あったけど。ヨシさんは命をくれて、先生は私をここまで生かしてくれた。やりたいこともたくさんさせてくれたし……やっぱり、二人は私のお父さんなんだ」
着替えを終えた千束の手には、梟を象ったペンダントがあった。彼女はアラン・チルドレンの証であるそれをしばらく眺めて、丁寧な手つきでロッカーに戻した。
なぜか、千束がそのペンダントを身につけることは二度とない気がした。
「だから私はいいんだけど、先生ったらずーっとヘコんでてさあ! かわいそうだからサイトーからもなんか言ってあげてよ」
「ああ、そういうこと。いいよ、俺もミカさんにはお世話になってるし」
「男同士のほうが喋りやすいこともある! ……わかんないけど」
僕が言おうとして引っ込めた言葉を千束が引き継いだ。なんだろう、素直に頷きにくいな。
「男? まあ、そうだけど……俺って男枠でいいのかな……」
「見た目はJK、頭脳は男子! その名も!」
「名探偵かよ」
「だはは! マジメな話、サイトーはもう性別とか関係ないしなー、そのへん考えたことないや。素っ裸とか見られてもどーでもいいし」
あんまりな言い草に思わず笑ってしまった。いや、そうじゃない。じわじわと、痛みと温かさの間のような感覚が、心の芯に満ちる。
どうやら僕は安心しているようだった。
体は女で。脳だけが男で。どちらにもなりきれない僕だけど、千束は、みんなは。
「……ありがとね」
「よせやい」
ふざけた口調でも、声音は本当に優しかった。こんな人と友達になれてよかったと、僕はしみじみ思った。
襟のリボンを結ぶ。ロッカーの鏡を覗き込んだ。宝塚の男役みたいな女の子の顔が、相変わらず僕を見返す。ヒマリって美人だなぁ。そんな、他人事みたいな感想が漏れた。
サイトウ! と、表からミカさんの声が聞こえて、僕は鞄を背負っていそいそと更衣室を出る。
「休暇を入れるのは二週間後でよかったか?」
「ええ、忙しくなりそうで」
「楠木から話は聞いているが……誰も経験のない大仕事だ。困ったことがあれば何でも言ってくれ。向こうでも携帯くらいは使えるんだろう?」
「ありがとうございます。ま、その時は泣きつかせてください」
「はははっ!」
「え、何何、なんの話?」
ずぼっ、と僕の脇の下から千束が顔を出してくる。
「仕事だよ。政府の要請……っつーか圧力? で
「総理って、あの総理?」
「うん。内閣総理大臣」
「……えぇぇぇぇぇー!?」
時間差で事の重大さを理解したらしい千束が、腰に引っ付いたままそれはもうすごい形相で叫んだ。ミカさんと僕は顔を見合わせて苦笑いした。絶対こうなると思ったよ。
「すっげーじゃーん! 逆に今までなんで言わなかったの!」
「……たきながどう思うか」
そう言うと、千束は奥歯に物が挟まったような、なんともいえない顔をした。
実際、今回動員されている人員の規模は、一〇年前の旧電波塔事件を軽々と超えている。少数精鋭の僕たち
組織への忠誠心もクソもない僕にとっては普段の仕事の延長に過ぎないが、国家元首の護衛任務なんて、リコリスからすればこれ以上ない晴れ舞台だろう。
DAに戻りたがっているたきなには、劇薬だ。
「それでも言うべきだ」
「ミカさん……」
「誠意だよ、サイトウ。誠意だ。この件は確かにあの子を傷つけるかもしれないが、それを恐れて、すべきことをしないのはもっといけない……」
ミカさんの声はどんどんすぼんでいった。なんだろう、今だけはこの人の大きな体がやけに小さく見える。僕にアドバイスしているようで、一緒に自分をグサグサ刺しに行ってないか。
「んあーはいはいはい先生そこまで! ネ! そうだ壮行会! 来週壮行会しよ、ここでさ! 私、絶対楽しくする!」
僕はその瞬間、心底千束に感謝した。危うくお通夜ムードだよ。
「……ありがとう。ご飯どうする? 出前? 作る?」
「フフフ。腕によりをかけて千束さんが作っちゃるよん」
「じゃ俺、前日にでもミズキさんにお願いして車出してもらうよ。足りないのあったら買っとくから、レシピ決まったらスマホに共有しといて」
「ちょ、この主役バリバリ働く気だわ。いいのよゆっくりしてて?」
「一人だけ何もしないなんて、逆に落ち着かなくてヤだよ……」
「ワーカーホリックめ」
「違いますー。ここがDAじゃなくてリコリコだからですー」
「オッうれしいこと言うねー!」
「まーね。じゃ、そういうわけで行ってきます。ミカさん」
「あ、ああ! 気を付けてな!」
「っしゃー! 今日もバリバリ働くぞー!」
§
「宅配便でぇす」
嘘だ。今まで対面受け取りを指定したことは一度もなかった。背中にじっとりと嫌な汗をかく。
アラン機関の依頼で組んでいる真島とかいう男のように腕っ節が強ければ、この状況もどうにかなったのかもしれない。あるいはブラックマーケットで銃の一丁でも買っておけば、結果は違っただろうか。
所詮はIFの話だ。今更、何ができるわけでもなかった。デスクのペン立てにたまたま入れていた小さなカッターナイフを、まるでお守りのように握りしめた。
刺す度胸なんかなかった。喉を掻き切って死ぬ勇気もなかった。ただ、武器になりそうなものを手元に置いて、安心したかっただけだ。
足音。
「ひっ……!」
ドア越しに悟られるわけでもないのに、ゲーミングチェアの上で膝を抱えたまま、慌ててPCの電源を落とした。モニターが暗転すると、遮光カーテンで自然光の一切をシャットアウトされた自室は、完全な暗闇に包まれる。
玄関の向こうで、何かが動いている。
どん、どん、と重いノックが聞こえた。
絶対にカタギの叩き方ではなかった。
息をひそめる。数十秒か、数分か、数時間か、どれだけの間そうしていたのか、自分の掌さえ見えない暗がりの中では分からなかった。
ノックの音が止む。耳鳴りがするほど静かになったかと思えば、足音がゆっくりと、ゆっくりと遠ざかっていき、そして消えた。
椅子の上で体を丸めたまま何度か深呼吸をした。恐怖が身体を縛り付けて動けなかったという方が正しい。いなくなったふりをして、張り込まれているかもしれなかったからだ。
デスクの下のPCに触れて、手探りでスイッチを押す。最新規格のハイエンドSSDにインストールされたOSが瞬時に立ち上がり、マザーボードの拡張スロット四段に渡って鎮座するAIプロセッサーカードの冷却ファンが筐体にゆるゆると風を運び始める。
新車を買えるほどのマシンがいつものように動き出すと、ようやく緊張の糸が切れた。
所狭しと並ぶ大型モニターが部屋を照らす。
「よ、ロボ太クン」
そこに奴はいた。まるで無から出現したかのように。
えらく背の高い女だった。
「ひ、ひぃっ──」
悲鳴を上げる間もなく、突き付けられたのは、銃。
「完全防音。両隣と真上、それから真下の部屋も別名義で借り上げてる。いくらわめこうが誰も助けに来ない。そうだろ?」
サプレッサー付きの拳銃をロボ太の眉間に突き付けて彼女は言った。何もかもその通りだったが、満足な返事はできなかった。この女が指一本動かすだけで自分は死ぬ。
わかるのだ。血腥い空気が教えている。彼女はあの真島のように、息をするように人を殺せる人種であると。
「安心しろ、何も問答無用で消そうってんじゃない。お前にぴったりの仕事を持ってきたのさ」
「し、仕事……?」
しかし彼女は唐突に威圧を緩め、妙な仕掛けがついたサッチェルバッグに銃を収めた。
ロボ太は知っていた。その鞄も、学生服も。
リコリスだ。
「お前はウォールナットを殺し、国内最高の特A級ハッカーの肩書きを手に入れた。だが満足はしていない。なぜなら、お前は電脳戦で奴に勝ったわけじゃないからだ。いわば不完全燃焼、お前はまだ、自分の力量を心の底から信じきれていない」
違うか?
ロボ太は首を横に振ることができなかった。彼女の見立ては自分の頭の中を覗いているかのように正確で、薄気味悪いほど反論の余地がなかった。
何より、DAに素性を知り尽くされていることへの恐怖が、口をつぐませる。
「そこでお前が次に目を付けたのはラジアータだった。きっかけは真島がDA本部の所在を知りたがったからだが……それでもお前は、あれの解析を進めるにつれてこう思ったはずだ。ウォールナットさえついに突破できなかったプロテクトを、この手で破りたいと」
ブリキのロボットを模したマスクの中がいやに蒸れるが、不快感を覚える暇もない。目の前の大女が次は何を言い出すのか、あるいは何をしでかすか。反抗心などすっかりへし折れて、ただ受け入れる事しかできなかった。
その心境は災害を前に立ち尽くす様に似ていた。ついに年貢の納め時が来たのだと、一周回って神妙な気持ちでさえいた。きっと、何かとんでもない無理難題を押し付けられ、成功しようが失敗しようが、使い捨ての手駒としてみじめに死ぬのだ──
「ラジアータを落とせ。手引きしてやる」
「──へ?」
§
結論から言えば、ロボ太に持ちかけた交渉、もとい脅迫は円満に成立した。そりゃそうだ。断ったが最後、あいつが住むこのアパートと予備の隠れ家全部に僕の通報を受けたリコリスが押し寄せるんだから。
振り返って奴の部屋を見上げてみた。ベランダの窓にかかる分厚いカーテンの隙間から、パトランプの赤い光が一瞬だけ漏れた。大方びっくりして飛び退いたんだろう。馬鹿め。覗いてるのはお見通しだ。そのまま引っ込んでな。
「おかえりー」
「ういー。留守だったから豆はポストに入れといたわ。ネット通販分の配送は外注したほうがいいかもね」
嘘だけど、なんて心の中で呟いた。同時にさりげなく千束たちの後ろにつき、自分の広い背中で二人をロボ太の視線からすっぽりと隠す。もし写真や動画を撮影されれば、そこからフェイシャルデータを抽出されてしまうからだ。そいつを使って警察の監視カメラ網から僕の居所を特定し、報復をしようというならそれは一向に構わない。だが、他の誰かに手を出すことは許さない。
もしそうなれば計画を捨ててでもロボ太を殺す。それが僕なりのけじめだ。
「これ以上の量を私たちだけで届けるのは、確かに厳しいかもしれませんね……後で法人向けのサービスを探しておきます」
「あはは、がんばれー経理部長」
「千束はもうちょっと商売っ気を出してください。サイトウさんが頑張ってなかったらリコリコはとっくに赤字なんですよ?」
「うっ、ハイ……業務用食洗機様にはホントお世話になってます……」
「いいのいいの。小遣い稼ぎは俺の趣味だから」
「サイトウさん、なんか千束に甘くないですか……?」
「え、そう?」
戦術鞄の側面ハッチに手を突っ込んで、中に仕込んだ軍用のドローンジャマーをこっそり起動する。ロボ太も今頃、家中の通信機器が麻痺して心底ビビってるはずだ。電波法違反どころの話じゃないが、それはさておき。
「そうですよ。この間だってほら、千束が真夜中に急にアイスが食べたいって言い出した時」
「せっかくだからカラースプレー山ほどかけて食おうぜって言ったね」
「それでわざわざ錦糸町北口のドンキまで車出して」
「絶対いらねー猫耳カチューシャも買って」
「バケツみたいなアイスを三人でなんとか食べきった日です」
「ネコミミサイトーかわいかったなァ!」
「うっせぇバーカ!」
「それです。サイトウさん、よく折れてくれたなと思ったんですよ。確かに千束の土下座は見苦しかったですが」
「たきなさぁん!?」
「ん、確かにそっか……」
たきなと知り合ったばかりの……あれは四月か。尖りに尖ってた自分を思い出してげんなりした。あの頃の僕はどうしようもなく疲れていた。銃取引現場の事件の一月前に、国外脱出を企てたリコリスをまた一人、虎杖に命じられるがまま暗殺してしまったことも災いした。
あの子で二一人目。誤射の件でたきなのことも傷つけた。それで相当自棄になっていたんだと思う。そりゃ、まともに遊ぶ余裕なんかあるわけなかった。
それに、
「何年か前、すっごくしんどかった頃に、千束が色々助けてくれてさ。だからつい甘やかしちゃうのかもね」
僕は僕が思うよりずっと、このやかましい看板娘に恩を感じているのかもしれない。
「ほどほどでお願いしますよ? 最近の千束、ますます神経が太くなってきてるので」
「はーい、気ぃ付けまーす……」
「ガハハ! 教育方針で揉める親か」
「とか言ってんぜ、ママ?」
「アイス事件のせいで千束の体重が増えてるの知ってますから。ビシバシ絞りますよ、パパ」
「よーし! やらかした責任は取んないとな。久しぶりに俺と合トレしよーぜ、娘」
「ッスー……お手柔らかにお願いしゃっす……」
「たきなも格闘訓練追加で」
「え!?」
たきなは成長への期待と、僕のスパルタ教導への恐怖が半々に混ざった壮絶な顔で振り返った。それを見た千束がここぞとばかりに彼女に絡みついては何やら得意気に煽り始め、たきなが言い返し……いつもの夫婦漫才だ。こうなると僕の出番はもうない。しばらく放っておこう──
「だってそれは、千束が急にお腹一杯っていうから!」
「アーアーアー聞こえなーい!」
「こ、こいつッ……! サイトウさあん! 千束がー!」
「んあーわかったわかった! ケンカすんなお前ら!」
──なんて、日和らせてもくれねぇ。ハハ。本当、二人といると退屈しなくて楽しいや。
「じゃあさ、二人で協力して俺より早く店に帰れたらトレーニングの負荷半分でいいよ。車でも何でも使ってよし、ハンデとして俺は徒歩だけ、かつ五分待つ。やる?」
「やるー!」
「おっけー。いーち、にーい」
「サイトウさんが待つんですか? それじゃ簡単すぎるんじゃ」
「走れたきな!」
「千束!? えちょ、引っ張らないでくださいよ!?」
「サイトー走ると車より速いんよ! 本気出さなきゃ絶対負ける!」
「噓ぉ!?」
残された時間を、心の中で指折り数える。
自分でも驚くほど軽やかに。
けれど一つだけ。
いつか見たミズキさんの涙が、あのきらめきが、頭から離れないでいる。