子供のときの記憶など、少ない。
家族を失った日より前のことは、すっぽり抜け落ちしまったかのように思い出すのが難しいのだ。
あの忌まわしい記憶は、グローブを取りに家に戻る直前のタイヨウの顔は、はっきりと憶えているのに。
なのに、唯一それ以外にも、残っているものがひとつだけある。
教室。一番後ろの席。
斜め前、少し離れた窓際の席に座る女の子。
窓から流れ込む風。揺れるカーテンと共に、栗色の柔らかそうな髪を靡かせる。
鉛筆を動かす、細い指。
陽の光を反射しそうなほど、白い肌。
教師の詰まらない話が遠く聞こえる中、目が離せず、じっと見つめる。
ふと、彼女が振り返る。
人形のように大きな瞳と、俺の目が合った。
平和だった、普通の子供だったときの、僅かな記憶。
一人の、クラスメイトの記憶。
そんな一人の少女の記憶だけが、何故かずっと頭にこびりついていて、離れない。
今は何をしているのか、どこにいるのか、生きているかすらも知らないのに。
最悪の出会い
「特異4課だけど、もう一人魔人を入れることになったの」
横を歩くマキマさんの唐突な言葉に、唖然とする。
正直、また面倒な奴が増えるのか。という気持ちだが、マキマさんの前だ。口が裂けてもそんな事は言えない。
「大丈夫だよ。すごく強い悪魔が憑依した魔人だから、即戦力になると思う」
「いや、戦力になるかという問題よりかは…」
魔人は、人間じゃなくて悪魔だ。
どいつもこいつも、人間性が足りなくて、正直手に負えない。
戦力云々以前に、別の仕事が増えるだけだ。
「まあ、会ったほうが話がはやいかな」
そう言って、マキマさんは会議室の前で足を止め、ドアを開ける。
そこにいたのは、一人の少女。
後ろ姿を見ただけで、身体に一本、針金が通ったように硬直した。
淡い栗色の髪。癖がなく細くて、さらさらと揺れる。
そこから覗く、雪のように白いうなじ。
プリーツスカートから伸びる、白いハイソックスを履いた、折れそうなほど細い脚。
彼女が振り返る。
人形のように大きい瞳と、俺の目が合った。
「彼女は『誘惑の魔人』。人間のときの名前が気に入ってるみたいだから、アマネちゃんって呼んであげてね」
「この子はパワーちゃんと同じで、…いや、パワーちゃん以上に知能や理性が備わった魔人なの。新入りさんだから、色々教えてあげて。本来は岸辺さんとこの仕事なんだけど、先の件で人手不足だからね」
マキマさんは、いつものように有無を言わせない、にこやかな笑顔で命令した。
横を歩く、この女。
アマネ。
下の名前も一致している。
ただ、かつて同級生だった筈のアマネのいまの姿は、あの時から顔立ちも背丈も成長はしているものの、俺と同い年の20代には見えない。デンジと同じくらいか。
本来、パンツスーツの筈の公安の制服が、何故かプリーツスカートを履いているというのも相まって、学生に見える。
そして何より違う点が、栗色の髪から僅か覗く、特徴的な耳。
軟骨部分が上に向かって尖っている。人間にはあり得ない形だ。
「これからよろしくね、えっと、早川さん?」
耳触りのいい、すこし高めの声。
記憶が押し寄せるように蘇る。
確かに。ああ、確かにこんな声だった。
本当に、アマネなのか?
本当に、魔人になったのか?
死んでしまったのか。
混乱のあまり、返事をすることもできない。
魔人相手に情けない。
だが、今の俺はこいつを目の前にして冷静に判断することができない。
「……悪いが、指導の方は後日でもいいか。今日はあまり体調がよくない。マキマさんには、俺から伝えておく」
「あ、あの」
困惑するアマネを置いて、早歩きで立ち去る。
何も考えずに歩いていたら、いつの間にか人気のない通路に辿り着いていた。
「早川くんだよね?」
声がする。
足元には、俺ともう一人の影。
勢いよく振り返ると、突き放した筈のアマネが、窓から射し込む夕陽を背に、にこやかな笑顔で立っていた。
「……は?」
「早川くんだよね?北海道、○×小学校の。わたし、あなたとクラスメイトだった茅森アマネだよ。……‥覚えてる?」
「……本当に、茅森なのか」
アマネは頷く。
いや、でもこいつは、魔人だ。
魔人になった人間は、悪魔に人格を乗っ取られる。
「……何故、茅森の時の事を知っている」
「うーん、知っているっていうか…わたしが"茅森アマネだから"かな」
呆気にとられる俺を他所に、アマネはクスクスと笑う。
「わたしは魔人だけど、人間のときの人格を失ってないの。勿論わたしの中に悪魔はいる。でも、今のところ"誘惑の悪魔"より、"茅森アマネ"の理性の方が勝ってるみたいなんだよね……さっきは他人面してごめんね?ちょっと驚かせてみたくって」
そんなこと、あるのか?
そんなこと、ありえるのか?
ただ、目の前にいるこの少女の、悪戯っぽい表情、話し方、悪いと思っていない癖に謝るとき、あざとく小首を傾げる姿。
全てが、かつての記憶の彼女と重なった。
「ほ、本当に…茅森なのか……?」
「そうだよ、久しぶり」
ずっと、記憶の隅に、けれどはっきりと残っていた少女。
全て消えたと思っていた故郷の、記憶の忘れ形見のような少女が、いま目の前にいる。
「茅森……俺………」
アマネの大きく、潤んだ瞳に、俺の情けない顔がうつる。
「俺は…………」
「ぷ」
唐突に、アマネが口に手を当て、ふき出す。
「きゃっはははは!!あ〜、おかしい。もう我慢できない!」
アマネが、腹を抱えて笑い出す。
俺が唖然としていると、一通り笑ったアマネは、再度俺に視線を向ける。
「悪魔の言葉に簡単に惑わされちゃ駄目じゃん、早川アキくん?」
「なっ………」
顔がかっと熱くなる俺を、尖った耳に髪をかけながら、こいつはにやにやと見てくる。
油断した。
こいつは魔人だ、悪魔だ。
"誘惑の悪魔"だ。
悪魔に気を許すなんてことは、絶対にあり得ないことなのに。
この上ない屈辱だ。
普段デンジにも再三言っている癖に、気を緩めてしまった。
……何故よりによって、アマネの身体に憑依しているんだ。
「は〜笑わせてもらった。……って、ちょっと待ってよ〜"早川くん"?」
「二度とその呼び方で呼ぶな。気色悪い」
足を止めずに睨みつけるが、当然悪魔は怯むことはない。
「ちょっとしたジョークじゃん、怒んないでよぉ。これから一緒に働いてく仲なんだから」
へらへらと笑い続けるこいつは、アマネの顔だが、アマネとは似ても似つかない。
はらわたが煮え繰り返りそうだ。
しかし、あまり熱くなってはこいつの思う壺だ。
「でもさ〜、なんでアマネの生前のこと、こんなに知ってると思う?」
俺の足が止まる。
革靴特有の、床を踏むときの硬い音が、ゆっくりと近づいてくる。
「わたし、他の悪魔と違って身体の持ち主のこと気に入っててさ。アマネとは仲良しなんだよねえ。だから、アマネの記憶をたくさん知ってるの」
足が動かない。
立ち止まったまま俯く俺の視界に、上目遣いのアマネが入り込む。
「アマネが早川くんのこと、どう思っていたのか知りたくない………?」
そう、耳元で囁かれる。
悪魔の甘言だ。耳を貸してはいけない。
けれど、俺はそいつを突き飛ばすことも、その場から立ち去ることもできず。
足が地面に貼りついたように、その場から動けない。
「ま、兎にも角にも、これからよろしくね〜はやか……えっと〜、アキくん?」
そう言うと、プリーツスカートの裾を軽やかに翻し、スキップで立ち去っていく。
悪魔の言葉だ。
絆されてはいけない。
しかし、俺の視線は、立ち去っていくアマネの、夕陽をうけてキラキラと揺れる彼女の髪から目を離せずにいた。