その日のアマネは上機嫌だった。
雨が降っていた。
もう肌寒い季節だった。
それでも、二人で傘もささずに歩く。
アマネが、こちらを振り返って濡れた髪が張りついた顔で笑っていた。
追いかける俺にも、大粒の雨が肌にバチバチと当たって、痛いぐらいだった。
雨の音が遠くに聞こえる暗い林道を抜けると、前にも来た河原にたどり着く。
小さな橋の上から増水した川を見下ろす。
普段は翠色に澄んだ静かな川だが、いまは茶色く濁った水が、地鳴りに似た激しい音を立てながら流れていた。
「すごいね………ひとつの生き物みたいだ」
アマネがそう呟く。
毛先から水が滴り、それが橋の下の濁流へ飲み込まれていく。
アマネが言うように、生き物が蠢くような水の流れをずっと見ていると、頭がぐらぐらとするような、吸い込まれるような感覚に襲われ、足がすくむ。
嫌な予感はした。
ただ、川の流れに目を回して、気がつくのが遅かった。
橋から身を乗りだし、前のめりにみていたアマネの身体が傾く。
そのまま、頭から落ちていった。
俺は声を出す間もなく、手を伸ばした。
アマネも手を伸ばした。
アマネの口元は、笑っていた。
俺は、その手を強く引かれた。
そこからは、あまりよく覚えていない。
天地が逆になったと思ったら、身体が水面に打ち付けられる衝撃。
沈みながらなすすべなく流れていく身体。
水の中の鈍く低い音、鼻から口から絶えず水が入っていく。
ひたすら、苦しい。
助けて。父さん、母さん。
もうタイヨウにいじわるな事言わないから。
一人でも、沢山我慢できるようになるから。
死にたくない。
暗がりから、徐々に光がぼんやりと広がっていくような感覚になる。
何だか騒がしい。
「おい、大丈夫かボウズ!!」
「意識戻った!救急車まだ?!」
色んな人の声がした。
咳き込むと、鼻や口から大量の泥水が出てきた。
身体が、酷く寒くて、重い。
首を横に動かす。
近くにアマネが横たわっていた。
そのアマネは、とても幸せそうな表情で瞼を閉じていて。
もしかして、死んでしまったんじゃないか。
ぞっとし、感覚が鈍い腕を無理矢理動かし、アマネの身体をゆする。
いつもひんやりとしている彼女の肌が、さらに冷え切っていて、氷のようだった。
「アマ……ネ」
声も思うように出ない。
長いまつ毛が、僅かに動く。
紫色の瞼が、薄く開く。
榛色の瞳が、小さく揺れている。
「アマネ………よかった…」
「あれ、わたし………」
アマネがぼんやりと、思考を巡らすように黙る。
そして、瞳の中に暗い陰を落とした。
「はは……なんだ…死ねなかったんだ」
そう小さく呟いた。
目が覚める。
白い天井。
もう大分見慣れてきた、病院の天井だ。
意識が徐々に覚醒すれば、思い出してくる悍ましい体験。
地獄。
本来俺たちが行くことはない場所。
そして、闇の悪魔。
見慣れた白い天井が、急に疑わしくなる。
本当に生きてるのか、俺は。
あの状況で、生きて帰ることができたのか…。
「…………アキくん」
声がする。
視線を横に移すと、ベッドの横に、アマネが座っていた。
俺を見つめる瞳が揺れている。
そして、小さく微笑んで、
「よかった………本当に、よかった」
震える声で、そう言った。
握られていた右手から、ひんやりとした感触が伝わる。
その右手を僅かに握り返すと、段々と身体の感覚と意識が結びついていく。
そこで、気づいた。
おかしい、左腕が動かない。
俺は左腕を失っていた。
「片腕だけでもくっついてよかったな。デビルハンターとして首の皮一枚繋がった」
「岸辺隊長……。貴方が見舞いに来てくれるなんて珍しいですね」
「馬鹿言え。アイツが行きたいって言って聞かねえから、一応同伴だ」
「入院している他の隊員の様子を見てくる」と言って出ていったアマネと、入れ替わる様に病室に入ってきた先生は、そうぼやいた。
地獄に送られた際、偶然デパート内にいなかった先生と吉田ヒロフミ、そしてアマネ。
その3人は運良く難を逃れたそうだが…
「こっちはお前らに比べたら楽なもんだったが、アマネの様子が急におかしくなってな。アキくんアキくん煩えから途中から気絶させた」
「なんか、すみません」
「普段から訳のわからん奴だが、あんなアマネを見るのは初めてだった。……お前ら何があったんだ」
「………文字通りの地獄を見ました」
脳裏に焼き付いた光景。
思い出しただけで、情けなくも、背中に冷や汗が伝う。
それに、デンジとパワー……
二人が倒れ込む姿を見て、俺は何もできなかった。
頭の中が真っ白に染まって、思考が停止した。
また大事な人を目の前で失う恐怖で、身体が動かなかったのだ。
「ところで、なんで俺らは助かったんでしょうか。人間が…いや、大抵の悪魔じゃ到底敵うような相手じゃなかった」
「マキマだよ。アイツがお前らを助け出した」
「マキマさんが……」
また、俺はあの人に助けられたのか。
本当に敵わない。あの人ならやりかねないと疑わずに思えるのが凄い所だ。
俺の憧れで、俺が目指している人で………
いや、またってなんだ?
俺は以前、マキマさんに何故助けられたんだろう。
「ギャアアアア!!」
唐突に、病室の外から断末魔が聞こえてくる。
「闇の悪魔じゃア!!闇の悪魔が後ろからついて来ておるゥ!!!」
「いや、君の馬鹿でかい声にキレてる看護師さんだよ」
「あー、最近ずっとこんな調子なんだよ、コイツ…」
病室のドアが開く。
先程出て行ったアマネが、デンジとパワーを引き連れて戻ってきた。
「お、目ェ覚めてんじゃん。大丈夫か〜?」
「うぇえ、ワシを殺しに来たんじゃ〜!アマネぇ〜〜」
「みてみて〜アキくん。パワーがすごい懐いてくる!」
デンジもパワーも、動いているし、喋っている。
腕も、元通りになっている。
アマネもいつもと同じ調子だ。
「お前ら…病院なんだから静かにしろよ……」
俺もいつもと変わらない口調で叱るが、コイツらが元気に動いている、生きている…
それだけで、一気に肩の力が抜けた。
「今度北海道に帰るんだが、アマネも来るか?」
何でこんな事を言ったのか、よく分からなかった。
ただ何気なく口に出ていた。
早めに退院でき、仕事の復帰まで日にちが空いたため、墓参りに帰省することにした。
何故かデンジとパワーもついてくることになったが…。
二人が付いてくるならアマネも来るだろう。てっきり喜んで即答すると思っていたのだ。
しかし、アマネの顔は引き攣っており、どう答えるか考えあぐねているようだった。
「…悪い。お前こそ、いい思い出がないよな」
無神経な事を言った。
自分の軽率な発言を反省する。
「いや、うん。ごめん……大丈夫なんだけど……。わたしはやめとくよ。でも、誘ってくれたのはすっごく嬉しいよ〜!アキくんも変わってきたねぇ」
「あの馬鹿二人の面倒を一人で見きれないから、頼んだだけだ」
「いや、どう考えてもわたしも二人に加担する側でしょ。素直じゃないなぁ、もう〜」
細い腕に見合わない強い力で、背中を叩かれる。
鬱陶しい、言わなければよかったか……。
「いいね、うん。きっと楽しいだろうねぇ。気をつけて行ってきてね」
そう言われ、送り出された。
……が、楽しい訳あるか。
公共の施設で騒ぐわ、パワーは船で吐くわ、供物を食うわ………。
どっと疲れた。
腐った供物を食べてまたも嘔吐しているパワーに呆れながら、墓地を後にしようとする。
人の少ない墓地で、老夫婦が向かいから歩いて来るのが視界に入った。
「おいアキ〜!待てよ」
デンジが後ろから声をかけてくる。
それと同時に、向かいの老夫婦が此方を見てくる。
なんだ………?
怪訝な表情でいると、その二人が近づいてきて、おそるおそる俺に尋ねた。
「もしかして、早川アキさん、でしょうか……?」
困った。
全く見当もつかない人たちだ。
昔住んでたときに、近所に住んでいた人だろうか……?
「急にごめんなさい……私たちの娘の墓地の近くに早川さんのお墓があるのを前から知っていて……今、アキさんと名前をお聞きして、もしかしたらと思いまして」
「えっと、すみません。どちら様でしょうか……」
「私たち、茅森アマネの祖父母です。…アマネの事は覚えていらっしゃいますか?」
その後、アマネの祖母を名乗る女性が、俺に語った事は、俺が知らないアマネの半生だった。
あの日。
俺の家族が銃の悪魔に殺された日、アマネの両親も同じように亡くなっていた。
そして、俺の前にいる老夫婦…アマネの母方の祖父母に、彼女は育てられることになったそうだ。
ただ、アマネは高校生の時に……元交際相手から刺されて、重症を負って脳死状態になってしまった。
その後、動ける筈のないアマネが急に行方不明になる。…この時に悪魔に身体を乗っ取られ、魔人になったのだろう。
二人は捜索願を出していたが、今から数ヶ月前に公安から連絡が入り、"アマネが魔人として処分された"事を告げられたそうだ。
「あの子は、私たちの所に来た時、本当に表情の乏しい子でした。
娘とは縁を切っていたので、アマネとはその時初めて会ったのですが…あの子がどんな環境で育ってきたか、その顔を見ればある程度想像できました。
今更かもしれない。それでも、これからは沢山幸せな思いをして育ってほしい。
私たちはその一心で、あの子に愛情をかけて育てました。
病気の方も良い治療法が見つかって、あの子の笑顔も増えてきて……これからって時だったんです。
それなのに………あんな最期になるなんて…」
言い終えて、お婆さんは嗚咽をもらし、言葉を詰まらせた。
代わりに、お爺さんが話し出す。
「……あの子がこの故郷を離れる日、近くの公園のブランコに座って、梃子でも動こうとしなかったんです」
俺らがよく過ごした、小さい公園。
その光景が目に浮かぶ。
「挙句泣いてしまって、こう言ってたんです。『アキくんに会いたい』と。
あの子が泣いたところを見たのも、その時だけでした。
僕らが思っているより、君はアマネの辛い人生の中で、心の支えになっていたのかもしれません。
死ぬ前に、会うことができなかったのが、本当に可哀想ですが……」
「結局、あの子の遺骨すら戻ってきませんでしたが、今度札幌の私たちの家に、線香でもあげに来てくれませんか?あの子、きっと大喜びする筈ですから」
そう言って、住所と電話番号が書かれた紙を渡される。
「…………はい」
「それでは、僕たちはこれで。
今日は早川君に会えて、…本当に会えてよかった」
お爺さんは、涙を堪えた目で、俺を見る。
その目をみて、俺の喉元まで出かけた言葉。
それを、苦渋の思いで呑み込んだ。
「……よかったのかよ。アマネが実は生きてるってこと、言わなくて」
「公安の機密事項だ。……言える訳、ないだろ」
デンジの言葉に、そう返すしかなかった。
二人の丸まった背中を見送りながら、アマネが前に寝惚けながら言っていたことを思い出す。
『やっぱ、生きててよかったぁ』
アマネは、生前もそう思えるようになっていたのか。
『死にたくない』と思ったのだろうか。
あんなに、苦しそうに生きていたのに、そう思えるようになっていたのか。
それが、俺の存在のお陰だっていうのか?
俺は何もしていないのに。
ただ、アマネと一緒にいたくて、俺の為に過ごして。
挙句、彼女から逃げたのに。
綺麗な思い出だけしか憶えていなかったのに。
アマネがどんな気持ちでいたか、ずっと解ることができていなかったのに。