暫しの入院期間を経て、俺は幸いにも身体に何の後遺症もなく退院することができた。
アマネはまだ、入院してるらしい。
親は教えてくれなかったが、同じ病院に運び込まれていることは知っていた為、病院にいる人に聞き回り病室を捜し当てることが叶った。
だが、いざ病室を前にすると、緊張で手が震える。
意を決して、取手に手をかけた。
ガラ、と引き戸が開くと、風が流れ込んでくる。
開いた窓の外を眺めるアマネの、青白い横顔がみえた。
ゆっくりとこちらを振り返る。
少しだけ驚いている表情をしていた気がした。
「……親に言われなかった?わたしともう会うなって」
突き放すような声音に、少したじろぐ。
「言われたよ…!お前が、俺のことふざけて引っ張った。だから俺も溺れる羽目になったって。
なんでそんな、お前だけに非があるような言い方……!」
「だって、そうでしょ。事実」
違う。俺が落ちそうになったアマネに手を伸ばした。
それで、支えきれず二人共落ちてしまっただけだ。
懸命に記憶を書き直そうとした。だが、
「わたし、落ちる時に早川くんの手を引っ張ったよ」
それを、アマネが呆気なく掻き消した。
「どうして……そんな、こと」
アマネは、病室のテレビに目をやる。
リモコンで、音量を上げた。
「こんな田舎じゃ珍しいことだけど、世の中に悪魔がどんどん増えてきているんだって。悪魔に殺される人の数も、日に日に増えてっている」
ニュースがやっていた。
最近都内で起きたという、悪魔による大きい被害が報じられていた。
「わたし、わかっちゃったの。例えここから逃げられたとしても、結局悪魔に殺されちゃうんじゃないかって。
だったら、今死んじゃった方が、すぐに辛い事から解放されて楽になれるよね」
テレビに映る凄惨な光景。
泣き崩れる被害者遺族の悲痛な声が、静かな病室に響く。
「でも、やっぱり落ちる瞬間、怖かった。一人で死ぬことが急に怖くなった。…早川くんが腕を伸ばしてくれたとき、わたし、早川くんも一緒に死んでくれたら、寂しくないなって思っちゃったの」
何を言っているんだ、アマネは。
俺は自分の意思とは関係なく、死を共にされる考えを持たれていることに、恐怖を感じた。
いや、きっと今に始まったことではなかったんだ。
手紙を目の前で破り捨てられたときも、口に指を突っ込まれたときも、身体に手を誘導させられたときも。
日に日に増えていく絆創膏や痣も、感情のままに吐き出される怒りの言葉も。
美しかった彼女の瞳が、不幸で暗く濁っていくのも。
本当は、怖かった。
逃げ出したかった。
未知の性に対する好奇心。皆が見惚れるほどの女の子が、俺にしか知らない一面を見せることへの優越感。それよりも、いつしか恐怖心が勝っていた。
目の前にいる、この綺麗な顔で淡々と話す彼女が、悪意のない面持ちが、怖くて堪らなかった。
「俺は………死にたくないよ」
振り絞って声に出した、精一杯の意思だった。
「…………うん、知ってるよ」
アマネの大きな目が、ゆっくりと弧を描く。
病室の白いカーテンと共に、彼女の淡い栗色の髪が靡いた。
「ごめんね。もう会わない方がいいね、わたしたち」
「みんな、おかえり〜」
東京の最寄り駅につくと、改札の向こうから手を振るアマネが見えた。
「おつかれさま〜!どうだった?北海道」
「めちゃくちゃ楽しかったぜ!アマネも来たら良かったのに」
「いや〜わたしは岸辺が家にいない日、ニャーコの面倒見るように言われてたしさあ」
アマネはそう言葉を濁す。
「アキくんもおつかれ。二人と旅行なんて疲れたんじゃないの?」
「……ああ、散々だった」
アマネの祖父母の話を聞いた後だ。
上手く顔を見て話せない。
何も知らない彼女は、いつも通りにこにこと笑っている。
「聞いてくれよ!パワーの奴、あっちでもこっちでもゲロ吐きまくって大変だったんだぜ」
「腹の中の物は出る上に旨い物もない……最悪じゃった……。デンジの血も飽きたしのう。またウヌの血を飲ませろ」
「お前…散々勝手に飲んでたくせに、そういうこと言うかぁ?」
「そーだったのね〜。まあちょっとだったらいいよお」
気を利かせたのか空気が読めないのか、デンジが話に割って入ってきて助かった。
駅の外に出ると、辺りはもう暗い。
人もまばらの道を、4人で歩き出す。
「あ、わたしは施設から直接来たから、ニャーコはまだ岸辺ん家だけど。わたしが迎えに行こうか?」
「いや、いい。岸辺隊長に話もある。俺が行く」
「そ?まあ、今日は遅いし明日にしなよ〜」
「うう、はやくニャーコに会いたい」
「今晩だけ我慢だねえ」
アマネはいじけるパワーの頭を撫でる。
以前はあんなに威嚇していたのに、今となってはすっかり懐いてしまった。
思えば、アマネも出会った当初より随分丸くなったというか…
人間らしくなってきたように見えるな。
ただ、記憶の中のアマネとも違う。また別の誰かへと、変化しているような。
前を歩く三人を、数歩後ろから眺める。
その姿は、楽しそうで、平和で、穏やかで。
ずっとこんな時間が続いてほしい。
こいつらには、幸せに生きてほしい。
俺は後日、先生に『銃の悪魔討伐遠征に、4課は不参加にしてほしい』という意向を示した。
先生は「驚いた」と言いつつも、快諾してくれた。
これでいい。
これでよかったんだ。
俺は今まで、復讐に心を支配され続けて、ここまで来た。
それが間違いだったとは思わないが。
それでも、それ以上に大事なものができてしまった。
怖気付いてしまった。
壊したくないと思った。
俺が死んだ後も、この平和な時間を壊したくない。
「な〜に、ぼうっとしてるの?」
視界に広がっていた自宅の天井に、アマネが入り込む。
休日の昼下がり、リビングに寝転びながら思い耽っていたところだった。
「いや……」
「眉間に皺がよってたよお。また難しいこと考えてたでしょ」
ふわ、と柔軟剤の香りが鼻を掠める。
時々俺の家に入り浸るようになったアマネは、最近何故か洗濯が"マイブーム"らしく、溜まった三人分の洗濯をすすんでやり出す。
施設でもアマネのように社会性の備わっている悪魔や魔人は、自分の世話は自分でするらしい。
干したり畳んだり、アイロンをかけたり、シャツに糊付けしたりする一連の流れが好きらしいのだが、家事がそこまで苦痛にならない俺でもよく分からない。
そういった人間生活の営みが、悪魔たちにとっては珍しく面白いものなのだろうか。
今日はデンジとパワーはいない。
二人がいない日にアマネが来るのは、初めてじゃないだろうか。
二人きりになる機会は度々あったが、今となっては不快な感情はなく、寧ろ妙に落ち着いた空気が流れている。
アマネがベランダを開けると、爽やかな風が頬を撫でる。
髪を後ろに一つに括った彼女の髪が、光を受けてキラキラと輝いた。
綺麗だな、と思った。
公安制服を着ていないアマネは、いつもより大人びて見えた。
「俺、あと2年も生きられないんだ」
言うつもりなんてなかった。
けれど、その後ろ姿を見ていると、どうしようもなく切なくなって、気づいたら口から発せられていた。
同情してほしかったのか。困らせたかったのか。
俺は、自分の死に方になんて興味がなかった筈だった。
宿敵を殺すことができさえすれば。
でも今は、困った。
死にたくない。
昔、アマネと共に川に落ちたときの、水中での抗いようのない恐怖感を思い出した。
俺は、死にたくなかった。生きたかった。
家族を失ったときに、雪が降り頻る故郷のあの場所に、置いてきてしまった。すっぽりと抜け落ちてしまった感情だ。
あれからずっと、自分の命を軽んじていた。
今のアマネは、どんな顔をするんだろう。
今だったら、俺の命を慈しんでくれるのだろうか。
そんな事をわざわざ試さなくとも、分かっているのに。
アマネは振り返るでも、何かを言ってくることもなかった。
揺れるレースのカーテン越しに、震える肩が見える。
小さくしゃくり上げる声が、聞こえた。
俺の中には、罪悪感。
それを上回る、俺のすっぽりの抜けた部分が満たされるような、充足感があった。
風が強く吹き、カーテンが捲れる。
アマネの丸い曲線を描く頬に伝う涙が、光を受けキラキラと輝いている。
それがとても美しくて、悲しい色をして見えた。