それから俺は、アマネに会うことはなかった。
川に溺れてから病状が悪化し、暫く入院することになったらしい。
もう季節は冬になり、俺らが住む地域には雪が降り出す。
締め切った教室はストーブの生暖かい空気が篭っており、眠気を誘う。
授業中、揺れることのないカーテンと、結露した水がゆっくりと流れ落ちていく窓をぼんやりと見つめていた。
曇天を見上げると、どこか物悲しい気分になる。
思い出すのは今年の夏の出来事だ。
目を閉じると、聞こえる筈のない蝉の鳴き声が耳の中で鳴り響く。
雲一つない、青い空。
その中で、白いボールが緩やかに放物線を描く。
細くて白い腕に似合わない、年季の入ったグローブの中に、それはすっぽり収まった。
「おお〜!吸い込まれるみたいに入った!早川くん、ボール投げるの上手いね」
「まあな」
アマネが大袈裟に歓声をあげるものだから、照れ隠しにぶっきらぼうに返す。
今度はアマネがボールを投げる。
すると、ボールは緩やかに放物線を描き、俺のグローブを通り過ぎ……
ガシャン
広場の横にある駄菓子屋の窓に、命中した。
「うわ、やば」
「何してんだよノーコン!!」
中から犬の吠える声が聞こえ、追って駄菓子屋のオッサンの怒鳴り声がする。
「逃げるぞ!」
俺はアマネの手を掴み走り出す。
アマネはその間も能天気に、けらけらと笑っていた。
「うぅ……もう無理走れない…げほ、げほ」
「おい、大丈夫かよ……」
立ち止まり、アマネが俯き咳き込む。
俺は慣れた手つきで背中をさすり、いつの間にか俺が持たされるようになった吸入器をポケットから取り出そうとすると、俯いたままのアマネが、右手でブイサインを向けてくる。
「ふふ、またやってやった。正直、一回ガラスを割ったぐらいじゃ物足りなかったんだよね」
「お前……もしかしてわざとやったのか?!」
「ううん、全然。たまたま。球だけに〜ってね」
ぜえぜえ息を吐きながら、くだらないダジャレも言ってきた。
呆れて声も出ない。
本当に、最初の印象とは全然違う。
顔は綺麗だけど、暗くて喋らなくて、陰のある女だと思ってた。
実際は、気分屋ですぐキレる、突拍子もない事をしだす。
でも、よく笑う。笑顔が似合う女だった。
「あ、シロツメクサだ!」
アマネが、道路脇に生えているシロツメクサの前で足を止める。
「どこにでも生えてるだろ。そんなに珍しいか」
「いや家の周りにいっぱい生えてるけど。いいから見てて」
そう言って、白い花を咲かせた茎を摘みはじめる。
「足りるかな……」
そして、それを器用に編みはじめた。
器用に動く指先を、横でじっと眺める。
「ノーコンだけど、手先は器用なんだな」
「うるさいなぁ……できた!シロツメクサの指輪。これを、もう一個作って………」
そうやって、2個指輪を編み終えると、一つを俺に渡した。
「……?なんだよ」
「えっとね、……こうするの」
アマネは手に持っている方の指輪を、俺の薬指に嵌めた。
「結婚指輪!」
「はぁ〜?なんだそれ、ガキくせぇ!」
俺は、つい馬鹿にした口調で笑う。
照れ隠しだった。寧ろよくそんな恥ずかしげもなくできるなと感心してしまうくらいだ。
「なにそれ、だって早川くんわたしと将来結婚してくれるでしょ?」
「誰がいつそんなこと言ったんだよ……」
「だって早川くん、わたしのこと好きだから」
アマネは信じて疑わないといった目で、俺を見つめる。
開いた口が塞がらない。
徐々に顔に熱が集まってくるのと共に、言われた事の意味を漸く理解した。
俺が何と返そうか頭を混乱させていると、「はやくつけてよ」と悪戯っぽく急かす。
アマネは俺の事をどう思ってるのかと、その時聞く事ができなかった。
心臓が煩くて、恥ずかしさに居た堪れなくて。
どうせ子供の飯事なんだ、はやく終わらせてやろう。自分にそう言い聞かせ、アマネの薬指に指輪を嵌める。
飯事だ。それなのに、顔が熱い。
「ふふ、嬉しい……。わたし、生きてる中で今日が一番嬉しい」
「大げさなんだよ………」
アマネは首を横に振る。
「わたし今日のこと、一生忘れない」
そう言って、榛色の瞳をキラキラ輝かせ、アマネは歯を見せて笑った。
眩しくて、絶えず輝いていた夏の記憶。
けれど、"一生忘れない"という言葉の響きは、愛に溢れていて、それでいて暗い重みがあった。
「アキくん、覚えてるよね」
アマネが俺の前に立ち塞ぐ。
俺は何を言ってるのか分からず、首を傾げる。
「デートだよ!こないだわたし、ゲームで勝ったでしょお」
俺は数秒、思考を巡らせる。
ああ、そういえば以前家に来た時に、デンジとパワーとなんかやっていたな。
「泥酔してた割によく覚えてるな……」
そもそも俺は関係ないんだが……。
「まあ…いいよ。行くところはお前が決めろよ」
アマネは驚いたように目を丸くする。
その後、心底嬉しそうに、顔を綻ばせた。
俺の事なんかで、一喜一憂しているアマネを見ると、罪悪感と、その中に隠しきれない喜びの感情が渦巻く。
「うああぁ〜〜!!ここが!あの若者の街!!」
アマネは目の前の光景に目を輝かせる。
場所は原宿。小さい駅に見合わない夥しい数の人の中を通り抜け着いたのが、これまた夥しい数の人でごった返す"竹下通り"という場所だ。
東京に来てもう長いが、観光地などに赴いたことはない。
巡回でたまに訪れるくらいだ。
「すごい人だね!札幌でもこんなに沢山人がいるの見たことないよ?!」
「北海道と一緒にすんなよ……」
既に人酔いしかけてぐったりしている俺の手を、冷んやりした手で握られる。
アマネは人だかりも奇抜な格好の若者たちにも恐る事もなく、人の間を縫うようにずんずんと歩いていく。
「すごいねえ。"タケノコゾク"とかテレビで見たことあるけど、もういないのかな?やっぱ制服着てる子はほとんどルーズソックスなんだねえ、かわい〜」
わたしもあんな感じの方がいいかな?と聞かれたが、それこそ学生のような格好に見えるなと想像し、かぶりを振った。
「アキくん!あれ!!」
唐突に、アマネが一層興奮した様子で指をさす。
「プリクラ!雑誌で見た時から気になってたの!!」
俺は顔を顰める。
ビビットピンクに彩られた、アーケードゲームに似たような形の機械。
俺も何かで見たことある、プリント倶楽部とかいうやつだ。
その周囲には、学生服を着た女子たちがわらわらといる。
その中に20代男の俺が入るのは、いかがなものだろうか。
うん、嫌だ。
「今日絶対やりたかった事なんだよねぇ〜、寧ろこれがメインと言っても過言じゃないくらい楽しみにしてたんだよねぇ〜わたし……」
「…俺はいい、ここで待ってるから一人で行ってこい」
「はぁ〜?!一人でプリクラ撮ってどうすんの?いいからやろう!実際やってみたら絶対楽しいって……!」
そういえば繋いだままだった、手を強く引かれる。
「ぜっっっっ………たいに嫌だ………!」
アマネの馬鹿力に必死で抵抗する。
そうやって押し問答をしている間にも、行き交う人に見られて恥ずかしい。
「そっか…そんなに嫌なんだ………」
アマネの手の力が緩むんだ。
かと思えば、急に瞳に涙を浮かべ出し、ぎょっとする。
「じゃあ仕方ないね……残念だけど、諦めるよ………」
アマネが踵を返す。
その背中が小さく丸まっていて、心もとない。
俺は舌打ちをし、アマネの肩を掴んだ。
「キャハハ!!アキくんもデンジに負けず劣らずちょろいよね〜」
「クソッ、嘘泣きだったか……」
結局、根負けしてしまった。
並んでいる間も、どれだけ周りの視線が痛かった事か。
プリントアウトされるのを待っているこの時間も、かなりの苦痛だ。
「あ、出てきた。ふふ、アキくん全然笑ってない」
漸く出てきた写真を覗き込む。
ファンシーな柄の枠の中、歯を見せ満面の笑みでピースするアマネの横で、俺は引き攣った顔をしていた。
「これをね、ハサミで半分こにするんだよ」
「いい、いらない。全部やる」
「え〜記念にとっておいてよお」
「遠慮しておく」
居心地が悪く、逃げる様にその場を去る。
「まあいいや。わたしがありがたく全部頂戴しま〜す」
駆け足で横に並んでくるアマネ。
歩いている最中も、それを見てにやにやとしている。
「ふふ、ほんとに嬉しい。…わたし今日のこと、一生忘れない」
歯を見せて朗らかに笑うその表情、その言葉。
それが、過去のアマネと重なる。
「……お前、それわざとやってんのか?」
「え?なにが」
俺の質問にその顔をきょとんとさせる。
何も企んでなさそうな、無垢な表情をしていた。
「いや、なんでもない……」
「4課は、銃の悪魔討伐遠征に、不参加にさせてもらうことにした」
「………え」
途中休憩する為に入った喫茶店の中で、俺はそう告げた。
パフェを食べていたアマネの手から、スプーンが滑り落ちる。
カラン、と固い音が響いた。
「なんで。だって、アキくん。あんなに銃の悪魔を恨んでたのに。自分の手で殺したいって……」
「お客さま、よろしければ新しいスプーンをーー……」
スプーンが床に落ちたことに気づいた店員が割って入った事により、アマネの声が遮られる。
その間、アマネは思考を巡らせるように目を右往左往させていたが、
「いや、…よかったあ!だって、銃の悪魔って強いんでしょ?!またアキくんが怪我しちゃったり、……最悪死んじゃうかもしれない。そうしてくれるなら、わたしも嬉しい限りだよ。てかわたしもぶっちゃけ参加したくなかったしね!」
そう言って曖昧に笑った。
思いの外、時間はあっという間に過ぎていった。
家にはデンジとパワーが待っている。
晩飯を作らなければ、そろそろ帰ろうか。とぼんやり考えていた。
アマネも最初の方こそ元気だったが、やはり人混みに目を回しはじめ、俺たちは自然と人混みを避けて進んでいた。
賑やかな通りとは一変してアパートやマンションなども立ち並ぶような静かな道につく。
橋があった。コンクリート護岸に囲われた橋下には、水嵩のないドブ水がゆっくりと音を立てずに流れている。
確か渋谷川だったか。
同じ川でも故郷のものとは全然違うな、と記憶をたぐらせた。
「お前、前に"アマネを記憶の中で美化している"って、俺に言ったよな」
記憶をたぐれば、そんな事を思い出して、口に出した。
「確かにそうだったな。言われてから思い出したよ。自分勝手で我儘で、すぐキレるし、情緒不安定だし……滅茶苦茶な女だった」
「わ〜すごい言われ様だあ」
アマネが苦笑いを浮かべる。
「でも、それ以上に綺麗な奴だった。綺麗で…繊細で、ずっと辛そうだった。……茅森は逃げた俺のこと恨んでるかもしれない。それでも、俺は茅森と会えてよかったって思ってる」
アマネのへらへらとした表情が、形をひそめる。
「アキくんは今…わたしが、茅森アマネに見える?それとも誘惑の悪魔に見える?」
真剣に、どこか不安気な視線が突き刺さる。
アマネの中で、茅森アマネは生きている。
きっとそうだと思った。真似ているだけではない、背筋が凍るような冷たい表情や横暴さ、そしてよく笑うところは、"茅森"だった。
けれど、どこか違う。何か違う。
話し方も、笑い方も、怒るときも、泣く姿も。
茅森が成長したからなのか、誘惑の悪魔が変化していったのかは分からない。
「お前は……"アマネ"でしかないよ」
それが俺が出せる答えだった。
相手が魔人でもなんでもいい。
俺はデンジやパワーのように、いつの間にか、目の前の彼女が大切な存在へとなっていた。
俺の言葉に、アマネは哀しそうな、嬉しそうな。どちらともとれない表情をして、微笑んだ。
橙色の夕陽に焼かれて溶けていってしまいそうな、儚さだった。
「わたしが……公安で、わたしがアキくんと会ったときに言ったこと、覚えてる?"アマネが早川くんのこと、どう思っていたのか知りたくない?"って」
久しぶりに彼女の口から出た"早川くん"という呼ばれ方には不快感はなく、しかし妙な緊張感が走った。
「君の事、恨んでなんかないよ。寧ろ、アキくんに感謝してる。君はわたしが生きる目的そのものだったから」
アマネが真っ直ぐに俺の目を見据える。
水を抱えた榛色の瞳が蜂蜜色の光を捉え、キラキラと輝いている。
アマネは絶えず微笑んでいた。
その優しい表情は、全てを赦してくれるような、とても"悪魔"がする表情には見えなかった。
「わたしは君に会いに、ここまで来たんだよ。大好きな早川くんに会いにね」
ーーーー過去を偲ぶ 前編 完ーーーー