思い返せば、長い道のりだった。
札幌を離れ、田舎の山中に身を隠し、美しい物しか食べてこなかったわたしはやがて空腹に負け、動物の血肉を食い、山中に踏み込んだ自殺志願者を食らい。
人を食うたびにそいつの衣服を利用し、人里に降りて、アキくんの手掛かりを探した。
それが、今や都会のど真ん中。
いや、今いるこの薄暗い空間がどこなのかは知らないが。
目を閉じて、東京に連れてこられた当初の事を思い返す。
アキくんを目にした時の、わたしの、この上ない高揚感。
あれは、どちらのものだったんだろう。
面倒くさい人捜しから解放され、アマネの身体を手に入れられることに対してか。
彼女の、望みに望んだ感動の再会に対する喜びか。
今となっては、どちらの物だなんて、到底分からなかった。
終わった、漸く終わった………!
漸く、本当の意味でこの肉体が手に入る。
と、思っていたのに。
「やっぱ、早川くんはわたしのこと覚えていてくれた…!思った通りの顔をしてくれた」
アマネの鼻声が頭の中で響く。
それに伴い、自分の意思とは関係なく鼻の奥がツンとして鬱陶しい。
身体もアマネの感情に左右されるなんて、おかしい。
早川アキと顔を突き合わせて数分経過。"何も変化がない"。
"早川くんに会った"契約を果たした筈なのに、アマネの自我が頭から消えない。
「言ったとおりでしょ。わたし、負けないって、分かってたもん」
アマネが得意気に言うが、負けないとかそういう問題じゃないだろう。
悪魔と人間の契約は、絶対だ。
いや、わたしたちの契約に対する認識の齟齬が生んだ結果なのか。
数秒、首を傾げ考え込んだが、まあいいかと再び歩き始める。
この子と過ごした時間は思ったより長くなった。
アマネは、人の血肉を口にしても動じない胆力がある癖に、わたしにとったらどうでもよい事で、急にどん底まで落ちたように不安定になることがある。
突然泣き出したり、自分の腿を殴り出したり肌に爪を立てたりして、癇癪を起こすのだ。
わたしの痛覚は鈍くはあるが、自傷行為が気にならないという訳ではない。
それでもその時のアマネの感情は、わたしにとっては体感したことのない新鮮なもので、なんだか面白くて、その時だけはアマネの赴くままに身を任せていた。
それがこれからも味わうことができるのは、そこまで悪いことじゃない、そんな気がする。
それに、この子もたかが人間。表に出てくる力は持ってないし、ちょっと頭ん中が煩いだけで、この身体はわたしの物のようなもんだ。
何より、早川アキとの再会で、アマネの心情が今までにないくらい大きく揺れ動いた。
早川アキも、アマネの記憶の中では、随分この子に肩入れしてたみたいだったし、加えてあの男、割合顔が良い。
どうせならこの子の身体を使って、揶揄って遊んでやろう。
そう考えると、これから愉しくなっていく予感がしてならない。
デビルハンターとして使役される生活は些か不満だが、それを上回る、胸躍らせる予感だ。
と、思っていたが。
「なんかアキくん、全然アマネに靡かないね……?」
「君が最初にふざけたことするからでしょ」
アマネがあまり覇気のない声ながら、ぴしゃりと言う。
まあ、それはそうか。と納得する。
ただ、アマネの記憶の中の"アキくん"とは、随分雰囲気が違うようだが。
見た目が成長したから、とはまた違う。
活気に満ちていた目は据わり、ころころと変化していた表情は、大体は眉間に皺を寄せ、気難しそうに口を結んでいる。
それよりも気になるのは………
考えている間に、執務室の前に辿り着く。
はあ、と一つ溜息を吐いた後、ドアノブを回す。
「ちゃんとノックしてから入らないと駄目だよ、アマネちゃん」
ドアを開けた先には、書類を広げたままのご立派なデスクに頬杖をついたマキマが、こちらに顔を向けて微笑んでいた。
既にデスクの上に置かれたペン。
ノックをしようがしまいが、わたしに気付いてる癖に、誰がそんなものするか。
「仕事のほうはどうかな。上手くやれてる?」
「報告書を見れば分かるでしょ。そんなことより」
報告書をデスクに叩きつけるように置いてから、睨みつける。
「あんた、既に早川アキに手をだしてたね」
そう、アキくんと数日一緒に行動して、気づいてしまった。
彼がマキマと対面したときにに向けられる熱視線……
マキマは、微笑んだまま首を傾げる。
「君は、早川君が殺されなければ、それでいいんじゃなかったの?」
「わたしの"条件"をそんなに軽く見られているっていうのが、むかつくんだよねぇ」
「ふふ、早川君が私に惚れていて、何でわたしには見向きもしないのっていう、所謂、嫉妬…なのかな?」
「はあ〜〜?」
かっと頭に血が昇る。対して、マキマは「かわいいところがあるね」と小馬鹿にしたように笑う。
「でも、随分な自信だね。早川君が君のこと…いや、茅森アマネさんを好いていたのは、十年以上も前の話でしょう?大人になった今、別の人を好きになっていても何もおかしくない」
「……でも、アマネはアキくんにとって特別な女だ、絶対に」
アマネとの再会に、アキくんが強く動揺したのは確かだ。
茅森、とわたし名前を呼んだときの、急に幼い子供に戻ったような表情が忘れられない。
「子供の脳はね、嫌な記憶を扉の向こうに隠しておく事ができちゃうんだよ」
「は?」
突然何の話を始めだすんだと訝しむが、構わず、マキマはわたしの背中越しの、執務室のドアを見つめながら続ける。
「早川君のご家族が銃の悪魔に殺されていることは、知っているよね?」
その言葉で、思い返されるアマネの記憶。
瓦礫の山と化していた、アキくんの家。
死亡者・行方不明者リストに載っていた、早川姓の三人の名前。
わたしもアマネも、"どうでもよく"思っていたことだった。
「さぞかしショックだったろうね。でも、早川君がデビルハンターとして今日まで生きてこられているのは、そのときの恨みが原動力になっているんだよ」
ドアに向けられていた円模様の瞳が、こちらに向きなおる。
「その前の幸せな記憶は、今の早川君にとっては覚悟を揺らす…、ドアの向こう側に閉じ込めておきたいような、邪魔な記憶なんじゃないかな」
人気の少ない階段を登り、その先にあるドアへ向かう。
ドアノブを捻りながら押すと、ドアが軋んだ音を立て開き、雨ざらしにされてところどころ塗装が剥げたままにされている屋上へと辿り着く。
室内にいて気づかなかった。先程まで雨が降っていたのか。湿った空気が身体に纏わりつく。
容赦なく迫害の視線を向けてくる人間が巣食うこの施設は、ひどく居心地が悪い。
馬鹿みたいに広いこの建物は、いくつかこういった、外の空気が吸える場所がある。
幸いここは奥まった場所にある為か、あまり人が寄り付かないので、わたしの休息スポットとして利用していた。
ひんやりとしている錆びた鉄柵に寄りかかりながら、目の前に広がる景色に目をやる。
日が傾きかけ、街明かりがちらちらと点り始める。
北海道から、随分遠くまで連れてこられたものだ。
車のヘッドライトに目を凝らしていると、屋上にいても、排気ガスの鼻につんとくるにおいが鼻を掠めた気がした。ああ、やだやだ。唯一落ち着ける場所なのに。
「……早川くんは、今はもう、あの女の人のことが好きなのかな」
アマネが低い声で、溢す。
それは、悪魔のわたしでも背筋が凍るような冷たさを孕んでいた。
ヘドロのような物が腹の中心に渦巻くような感覚がする。
まあそうだろうね。マキマの言う通り、これだけ何年も会っていなければ、他に好きな女が出来ていても当然だろう。
と、普段なら揶揄ってやりたいところだが、どうにもこの気持ちの悪い感情に引き摺りこまれそうで、柄にもなくフォローをいれる。
「いや、多分違うねえ。アキくんはマキマのことを恋愛対象としては見ていない。あの子がマキマに意識が大きく傾くのは、あの女と対面しているときだけだ」
「……なんでそんなことが分かるの」
不信感を隠さないアマネに、得意気に鼻を鳴らす。
「悪魔っていうのは、一様に鼻が利くんだよ。わたしのような強い悪魔は殊更ねえ。
それに、アキくんだけじゃない。ここに来てから会った奴らは、異様にマキマのことを慕っていたでしょ〜?きっとこれは、あの女の悪魔の力だ」
嘘は言っていない。"手を出している"というのは、この事を言ったのだ。
アマネは何も答えなかったが、先程の腹の中が渦巻く感覚が徐々に引いていったのを感じ取り、息を吐いた。
十代の少女というのは、たかが色恋事で、ここまで必死になれるものなのだろうか。
たかが人間と思っていたが、身体を共有しているからだろうか。偶に、華奢な身体のどこからそんなエネルギーを溜め込んでいるんだと思う、黒い泥水の波のような感情に呑み込まれそうなときがある。
しかし、わたしとしてもあのマキマの言い分が、どうにも気に入らない。随分と舐められたものだ、と憤りを覚える。
アマネにつられている訳じゃない。彼女とは別の、早川アキに対する執着がふつふつと沸いてくる。
「まあさ、まだ再会したばっかりだしぃ。気長にやろうじゃないの〜」
とりあえず、いつまでも暗い気持ちでいられると、わたしの気分も悪くなってる。
だが、わたしが明るく言い放つのにも関わらず、アマネはまだ臍を曲げているのか無言でいる。
面倒臭い奴だな、と溜息をひとつ吐き、続けた。
「わたしが何者かお忘れ〜?誘惑の悪魔サマだよ。あんな小僧の一人や二人、簡単に落としてみせるさぁ」
「そんなの、嫌」
アマネの声が遮る。
「わたしのことを、思い出して、ちゃんと好きでいてくれなきゃ、嫌……。そんなの、早川くんじゃない」
……‥面倒くさ。
という悪態は呑み込んでおいた。
雨が作った水溜りに、アマネの顔がうつる。
アマネの感情に呼応して浮かび上がる、打ちひしがれた切ない表情の、なんと美しいことか。
わたしはそれだけで、彼女の身勝手さを赦せてしまうのだ。