ふいに、あの光景がフラッシュバックした。
泣き叫ぶ人々、転がる死体。
彼だった者によって殺された人々。
そして、地面に広がる、彼の血。
身体が小刻みに震え出し、自分を掻き抱くように膝を抱える。
「……ねえ、わたし、あの後のこと何も覚えてないんだけどさぁ。誰か、殺した?」
冷え切った唇をおそるおそる開き、尋ねる。
「誰も殺してない。俺が直々にお前の脳天をぶっ叩きに行ったんだ。感謝しろよ」
岸辺はこちらには目もやらず、いつもの仕草で煙草に火をつける。
岸辺が止めに来たなら安心だ。
それに、この男は気を遣って嘘を吐くなんてことはないし、本当に誰も殺していないんだろう。
普段は鬱陶しい筈の甘苦い煙のにおいが、今は妙に心を落ち着かせる。
二の腕に食い込んでいた指がゆるんだ。
「うん……感謝してる。ありがとう」
「……お前が素直に礼を言うなんて気色悪いな。その辛気臭い顔、どうにかなんねえのか」
岸辺が毒づくが、返す気力もない。
心底ほっとしているのが、情けない。
人なんて、何人も殺したし、何人も食べた。
なのに、今更それが怖いだなんて、おかしな話だ。
空気の逃げ場のない空間に、煙草の白い煙が揺蕩う。
煙草を見ていると、彼だけではなく、彼女のことも思い出す。
ショートカットの黒髪、右眼に眼帯をつけた、背の高い女。
数回……いや、言葉を交わしたのは結局一度切りだったか?
それでも、あの朗らかな声音が記憶に残っている。
今なら思う。
彼女の命も、慈しむことができる。
今更そう思ったところで、何が変わる訳でもないし、謝る相手も誰もいない。
それでもわたしは、情けなくも自分自身の為に、弔いの言葉を宙に向けて唱えることで、誰かに赦しを乞うのだ。
いらいらする。何も上手くいかない。
アキくんを含め、わたしの今後の動向をマキマから正式に伝えられた。
執務室を出ると、デンジとパワーがいた。
デンジは、この間の事があってか、わたしを見た瞬間、視線を右往左往させ、挙動不審になる。
「あの、アマネ……。こないだの事なんだけどさ」
「ごめんデンジ。あれ、なかったことにして」
「え」
わたしは通り過ぎ様に吐き捨てる。
呆然とするデンジを置いて、ずかずかと廊下を突き進む。
腹の虫が治まらない。
アキくんがわたしを制止しようとしたのも、今は腹が立つ。
しかし、こういった時に、嫌なことは立て続けに起きるものだ。
角を曲がった拍子に、人とぶつかる。
結構な勢いでぶつかったが、こんな事で倒れるほどやわじゃない。しかし、相手は「おっと」と、わたしの腕を掴んで支えた。
「ごめんね、大丈夫?」
頭上から声をかけられ、視線を上げる。
背が高い、女だった。
短く切り揃えた黒髪に、右眼に眼帯をしている。
「あれ、君。もしかして、新しく入った魔人ちゃん?」
ボーイッシュな見た目に反して、柔和な話し方だ。
大体の公安の人間は、わたしに怯えるか蔑むか。しかし、この女はまるでごく普通の人間に対するように、接してくる。
答えずにいると、女がにこりと笑いかけてきた。
「はは、噂通りすごくかわいいけど、すごく無愛想だ。アキ君にしか懐かないんだってね」
朗らかに"アキ君"と呼んだその一言に、眉根が寄る。
「誰、あんた」
「私は君と同じ、特異4課の姫野だよ。よろしくね。で、君はアキ君の何なの?」
姫野が、笑顔のまま詰め寄る。
「君が来てから、アキ君の様子がおかしいんだよね。ぼうっとしてる事が増えてる、今までこんな事はなかったのに。……君、アキ君になんかした?」
ぼうっとしてる事が増えた。そうか、そうだったんだ。
アキくんは、そんなにもアマネのことを考えてくれる時間が増えたのか。
この前も、煙草を奪ったわたしの事を強く叱りつけて、アマネの身体を気遣ってくれた。
彼の中で、アマネの存在がどんどん大きくなっていくのを確信した。
すると、途端に自信が漲ってくる。
「わたし?わたしは、アキくんの元カノで〜す!」
急に機嫌よく声を弾ませたわたしに姫野はたじろぐ。
「ハァ?!ほんと〜?」
「うっそぉ、初恋の想われ人で〜す」
「……もっとタチ悪いじゃん」
その時、僅かに姫野の表情が曇ったのを見逃さなかった。
察してしまった。
こいつはアキくんの事が、好きだ。
その後、合流したアキくんと姫野のやり取りを見て、気の置けない間柄だというのはすぐに分かった。
同じピアス。同じ煙草のにおい。
アマネと離れていた数年間を、濃い密度で埋めるような、割って入れない二人の深い信頼関係が、その一瞬で見てとれた。
マキマといい、邪魔な女ばっかりだ。
寧ろマキマより厄介かもしれない、この女。
アキくんがマキマに惚れているのは、あいつの能力によるものだ。
しかし、例えばそれがなかったとしたら、きっと、アキくんはこの女と……。
「やめて、それ以上考えないで」
アマネの悲痛な声が、思考を妨げる。
いつの間にか、わたしは自室のベッドの上で膝を抱えていた。
暗い室内に鉄格子の影が、味気のない白いベッドリネンとわたしの身体に縞模様をつくる。
意識がはっきりとすれば、二の腕に鈍い痛みが走った。
爪先を見ると、血がついている。また肌に爪を立てていたのだ。
「嫌だ、わたしを忘れないで、早川くん。遠くへ行かないで……」
アマネの声に、徐々に脳が支配されていく。
まただ、また来た。
この身体はもう健康な筈なのに、どんどん気道が狭くなり、息苦しくなっていく。
呼吸が浅くなり、酸素が脳に充分に行き渡っていない感覚がする。
胸を掻きむしる。わたしが感じている痛みは遠ざかり、やがてアマネの痛みへ変わっていく。
"忘れないで"か。
アマネの中で渦巻く黒い物の正体が、分かった気がした。
それは、忘れられる事への恐怖だ。
確かに、忘れられるのは怖いよね。よくわかるよ、わたしも忘れられたくない。
ただ、わたしは誰に忘れられたくない?人間たちに?人間を食い脅かす存在であるわたしたち悪魔が、そんな理由で救いを求めるなんて、虫が良すぎて鼻で笑いたくなる。
わたしは人間も悪魔もどうでもいい。好きでも嫌いでもない。ただ、美しいものが好きなだけだ。
なのに、なんと間抜けで、浅はかな願いだろうと思いつつも、アマネの叫びは、情けなくも本能で共感してしまうのだ。
それからほどなくして、特異課全体が、何者かによって銃で襲撃される事件が起きた。
特異課の人間の大半が殺された。
その中の一人に、姫野も含まれた。
呆気なく、邪魔な女が一人減った。
それを聞いたときの、喜びと来たら、なんと表現すれば良いか。
わたしは…いや、アマネは二回も銃の悪魔に助けられた!やはり銃の悪魔様様だ。
ここ暫く、ずっと苛立っていた所為で靄のかかった心が、すっと晴れ渡ったようだ。
見舞いの花束を片手に、病院の廊下を鼻歌混じりにスキップしていく。
床を踏むたびに、ローファの底がカツン、という小気味良い音を響かせる。軽やかにプリーツスカートの裾がはためく。腕を振るたびに手に持った花から、廊下にぱらぱらと花弁が落ちていく。
アキくんの病室の前に辿り着き、ドアを開ける。
驚いたように顔を向けたアキくんは、目が僅かに腫れて、鼻の頭が赤くなっていた。
アキくんはわたしの怪我の心配をしてくれたけど、そんな事より、姫野の死に打ちひしがれているようだった。
床に転がった煙草を見つめて、瞳を潤ませている。
先程までの晴れやかな気持ちが、また曇りだす。
「あの"姫野センパイ"がいなくなったのが、そんなに悲しかったんだ……」
アマネの自我が、身体の底からふつふつと沸騰するように、湧き出てくる。
沸点に達したように、他の女を想ってそんな顔をするアキくんを見たくないと叫ぶアマネと、わたしの悪魔としての加虐心が嬌声を上げた。
「きゃは!あ〜、せいせいした!
あの女、人間の癖に純粋なアキくんに色々刷り込んでくれたみたいで、ほんとにうざかったんだよねぇ〜!」
湧きあがった悦びは、内に留まらず、声となって溢れ出た。
「ほんと、死んでくれてよかった〜〜!!」
久方ぶりに、"本来の自分"が放出されたようだった。
悪魔のわたしも、アマネも。
アキくんの呆然とした顔が、笑いすぎて涙の滲む視界にぼんやりとうつる。
それが次第に、目がつり上がり眉間に皺がより、怒りの表情へと変わっていく。
「黙れ!!」
わたしの胸ぐらを掴んだアキくんの手は、怒りのあまり振るえていた。
先日の煙草のときだけじゃない。
アマネの幼少期の記憶の中でも、アキくんはアマネを怒鳴ったことがあった。
ただ、そのときはアマネの事を思って叱ってくれたなと、ぼんやりと思う。
今はどうだ。
他人を侮辱するわたしを、そんなのはアマネじゃないと否定の言葉をぶつけてくる。
わたしは、早川アキに憤りを覚えた。
こんなにも自分へ捧げられる、ひたむきな愛に気づかない。
幼い君の中途半端な優しさが、アマネの心を支配したのにも気づかないなんて。
アマネの綺麗で表面的な部分だけ都合良く取っておいて、本当のアマネの、黒い殻に守られた本当の姿など、すっかり忘れてしまっている。
贅沢で、滑稽で、なんと羨ましい人間。
「アキくんさぁ、アマネの事、記憶の中で美化しすぎじゃなぁい?」
可哀想なアマネ。大丈夫、わたしがどうにかしてあげる。
「茅森アマネがどんな人間だったか……
思い出したくなくても、駄目だよ。君の大大大好きなアマネちゃん、怒っちゃうんだから………」
アキくんの耳元で囁く。
愛だとか、好きだとか、呪いに似た言葉だ。
しかし、営みを知らない悪魔にとって、それは縁遠く、それでいて甘美な響き。
早川アキが、欲しい。
そうすれば、わたしはまだ知り得ぬ欲を、埋められるかもしれない。
黒い膜に覆われた、底なし沼に似た空洞がついに埋まり、わたしは本当に美しい存在へ昇華できるかもしれない。
そんな可能性を、信じていた。