「岸辺の親って、どんな人だったの」
わたしの岸辺への質問は唐突にはじまる。
この空間で岸辺からわたしに語りかけることはない。
沈黙を破るのはいつもわたしだ。
「齢だからあまり覚えてない」
「親のことで齢とか関係なくない?……まあ、知らないけどさ」
わたしには親がいないから。
アマネの親の記憶はあるが。
「一説によると、子供の性格のほとんどは、親の遺伝子で決まるそうだ」
何やら違う話が始まったと思うが、耳を傾ける。
「育ての親が違おうが、親とは全く違う環境で育っていようが、根っこの部分は産みの親と一緒だ。蛙の子は蛙。イカれた奴から産まれた奴は一様にイカれた奴だ」
「………自分の話?」
冗談のつもりで言ったのだが、岸辺から返事はなかった。
ただわたしは岸辺が本当に"イカれた"人間ではないと分かっているからいいのだ。彼は自身で頭のネジを緩ませている、ただのへんなオヤジだ。
「蛙の子は蛙、か……」
その説は、否定したいものだ。
そうでないと、アマネはどこまでいっても、いくつになっても、アキくんじゃない人を好きになったとしても、普通の女の子で、普通の幸せを掴むことなんてできないと決めつけてしまう。
そんなことは、あまりにも悲しすぎる。
最近のアキくんは拍車をかけて忙しそうで、あの夜以来、同じ職場に勤めているというのに驚くほど顔を合わせない。
デンジも例のボムガールのいる喫茶店で昼食を済ませているようで、屋上に来なくなった。
たまに屋上に来ていた天使も勿論アキくんと一緒に行動しているからいる訳もなく、周りが慌ただしく動いているのにわたしだけ暇を持て余しているようだ。
「お前もおそらくだが、銃の悪魔討伐遠征に参加することになっている」
「えぇ〜〜……」
至極当然のように言われた言葉に肩を落とす。
いつもは職場でしか会わない岸辺だが、今日はこの男の家に連れてこられている。
何故なら、先日外出申請の時間を過ぎたペナルティとして、休日にも関わらず家事を押し付けられているのだ。
祖父母のことを思い出し、わたしがこういった家事が苦手ではなく寧ろ好んでやれる方だと気がついた。
だからといって、特訓を追加されることに比べたら幾分もましだが、何故わたしがこの男の身辺の世話をしなくてはならないのかという不服な気持ちに変わりはないが。
「銃の悪魔って、最も恐れられている悪魔なんでしょ?わたし、普通に嫌なんだけど…」
「人間は討伐実績次第にはなるだろうが、人外のお前らは有無を言わさず連れてかれるだろうな」
「ほんと畜生みたいな扱いだよねえ」
ベランダに干してある洗濯物を回収しながら言う。
隊長クラスになればどれだけいい家に住んでいるのかと思ったが、実際は寂れた住宅地の奥にあるボロアパートのワンルームだった。
長く住んでいるのか、壁や天井がヤニで黄ばんでいる。
置いてある物も必要最低限といった感じで、テレビすらない。
なんと寂しい中年男だろうと鼻で笑ってやったが、岸辺は気にせず煙草を吸っている。
「遠征はまだ先の話だが…、その前に明日少し遠出の任務が入った。お前にも同行してもらう」
「遠出?」
洗濯籠を持って部屋の中に入り、畳に座って膝の上でタオルを畳んでいく。
家の中には一人がけのソファ一つしかなく、わたしは床に座るしかない。
今日はデニムパンツを履いていてよかった。傷んだ畳はささくれていて、スカートだったら素肌に当たって座っていられなかっただろう。
「栃木で大型の悪魔による被害が拡大しているらしい。県内の民間では手に負えなかったそうだ」
「そっちの方って埼玉支部の管轄みたいなこと聞いたんだけど。なんでわたしたちが行かないといけないわけぇ?」
「最近はデンジを狙い、都内に強力な悪魔が集まる傾向にある。腕が立つ奴は本部に集められる所為で、支部が手薄な状態だ。下手な奴を行かせて犬死にさせるより、俺が行った方が早い」
「なにそれ、もっと人員強化した方がいいんじゃないの?」
「鍛える前にほとんど死ぬからな」
その言葉でわたしの口から文句は途絶えた。
特異課にいると感覚が鈍るが、大半のデビルハンターである人間は悪魔と契約してるとはいえ、打ちどころや刺しどころが悪ければ一発で死ぬような脆い生き物だ。
わたしは悪魔や人間関係なく、弱い物は淘汰され、それが普通なのだと考えて生きていたが、最近はどうも人間側に肩入れしてしまう。
マキマから釘を刺されたとはいえ、ボムガールの件であまり東京から離れたくはないが、
岸辺に来いと言われれば、平のデビルハンターよりもよっぽど立場が弱いわたしに拒否権などない。
車に乗って二時間程。
到着したのは初めて足を踏み入れる土地、栃木。
とは言っても、わたしは北海道と東京という極端な場所にしか訪れたことがないが。
高速道路を走る最中、連なる山々やぽつぽつと点在する民家を見て、田舎の風景とはどこも似たようなものなのだなと思ったが、目的地に近づくと、ホテルや旅館が立ち並ぶ景色へと変わった。
「普段なら賑やかそうなところだねえ」
しかし、先程見かけた規制線から、ここも今は立ち入り禁止区域にされているようだ。
夏休みの人も多く、かき入れどきだろうに。
「現場はもう少し先だ」
そこから数分も経たず、コンクリートで舗装されていない道に入り、車ががたがたと揺れ始める。
窓を開けて顔を乗り出すと、道路の横は崖になっていて、崖下には川が流れていた。
景色も、煌びやかな装飾の施された宿泊施設とは一変、今にも崩れ落ちそうな廃ホテルが渓谷沿いにひしめいている不気味なものへと変わった。
岸辺が車を停めたのは、廃墟群の中でも一際大きいホテルの前だ。
外壁は黒ずみ、ところどころ鉄骨がみえている箇所がある。火事に遭ったのだろうか。
「こういった人が寄り付かない、薄気味悪いところは悪魔にとって恰好の巣になる」
言いながら、岸辺は臆することなくホテルの中に踏み入る。
ひと昔前は、こういった場所が心霊スポットと言われて騒がれていたんだろうなと思いながら、わたしも後に続く。
幽霊よりも、今にも建物が崩れないかが心配だ。
ロビーを抜けると、客室のある階へと繋がる螺旋階段が見える。
依然として悪魔の姿は見えず、気配も強くならない。
「建物の劣化が激しい。下手に動き回らない方がいいな。……アマネ」
「はいはい、言われなくても分かってる」
一度拓けたロビーに戻る。そのほうが闘いやすい。
「おいで」
吹き抜けになっているロビーに、わたしの声が響く。
すぐ横に流れる川の轟音で徐々に掻き消されていく声に反し、先程まで微かにしか感じ取れなかったにおいが、急に色濃くなった。
「……岸辺、くるよ」
岸辺は返事の代わりに足を止める。
エレベーターがあったであろう空洞から、小さい影が動いたのが見えた。
岸辺がナイフを投げる。
それは見事に影の頭部と思しき場所に命中した。
「ア………ァア………」
それは呻き声を上げながら、よろよろとこちらに歩を進め、やがて暗がりから姿を現した。
「……赤ん坊?」
現れたのは、漸く立って歩けるようになったぐらいの年頃の、小さな赤子だった。
額に刺さったナイフからは血が溢れ出し、やがて地面に倒れた。
「……チッ、胸糞悪ィ」
「結構数いるよ、これ」
しかし、一体一体に強い力は感じない。
人の形に近いっていうことは…、人間に友好的な悪魔ということか?
「余計なことは考えるなよ。犠牲者数からして友好的とは言えない。俺らがやる事はひとつだ」
「そんなこと分かってるッ……よ!」
上から降ってきた赤子の悪魔を蹴飛ばす。
壁に当たってぐしゃり、と音がした。
悪魔のわたしでもあまり良い気分はしない。
殺してもまたどこからともなく湧いてくる。
はいはいしてくるもの、おぼつかない足どりで向かってくるもの、ぐずってその場から動かないもの、笑顔でこちらに駆け寄って来るもの。
それらを無慈悲に殺していく。
こんなのを人間にさせたら気が触れるだろう。
岸辺を盗み見るが、いつもと様子は変わらない。
しかし、内心どう思っているか……。
「はあ、きりがない……!」
頬に飛び散った血を拭うと、どこかから助けを呼ぶ声が微かに聞こえた。
「岸辺!人間の声!!」
「行方不明の民間の奴か……?方向は」
「こっち!」
先程の螺旋階段の方へ向かう。
今にも崩れそうな階段を、なるべく着地数を減らしながら昇り、客室のあるフロアへ行く。
下を見ると、赤子の悪魔が階段を昇る事ができず立ち往生していた。
こちらに向けて手を上げて、助けを求めているように見える。
本当にただの赤子みたいだ。
「た………けて、誰か…………」
声が近くなってきた。
廊下の方へ歩を進める。
声の在処はひとつの客室からだった。
わたしは顎をしゃくり、岸辺に示す。
岸辺は頷くと数歩下がり、勢いをつけてドアを蹴飛ばした。
わー、物凄い馬鹿力。と今更感心することはない。
果たして、中には人がいたが。
「たひゅけて………、あすけて………」
声の主は、無数の赤子の悪魔に囲われ、身体中を喰われていた。
「痛い…いひゃい………」
わたしたちに気がついた一匹の赤子がこちらを向く。
「あぁぶ、だぁ…………」
血がべっとりとついた口を横に開き、あどけない笑顔を向けてきた。
ぞっと背筋が粟立つ。
次の瞬間、横から風を切るような音が聞こえ、その赤子の首にナイフが刺さった。
赤子の笑顔は消え、恨むように空虚を睨むと静かに倒れた。
「アマネ、さっさと動け」
岸辺が男に群がる赤子を蹴り飛ばしながら、わたしを冷たく睨む。
わたしは奥歯を噛み締め、先程の赤子の首に刺さったナイフを引き抜き、群がる奴らの首を掻き切っては投げ捨てていく。
食事に夢中な赤子たちは、わたしたちを一切気にしていない。
一方的な虐殺に思えるこの行為が、胃の中をむかむかとさせる。
貼りついていた全ての悪魔を殺したが、男の身体は至る所が食い散らかされ、脚は骨が剥き出しになり、腹部も大きく抉れていた。
そんな状態だが意識は微かにあるようで、苦しげな呼吸を繰り返している。
「……助かるかな?」
「どうだろうな」
後ろからガチャ、とドアノブが回される音がした。
悪魔の気配はなかった。
岸辺もわたしも咄嗟に構える。
開いたのはユニットバスの扉。
中からは、派手な恰好の女が出てきた。脚を怪我している。
「あ………け、ケン君…………」
脚を引き摺りながら、倒れている男に向かう。
「ごめ………あたし、一人だけ、隠れて………こんな……」
「おい、あんたら民間のデビルハンター……、ではなさそうだな」
民間のデビルハンターは私服で一般人と見た目は変わらないが、彼らは武器を持っていないし、雰囲気からして違って見えた。
「何でこんな所にいる。ここは今、立入禁止区域だ。規制線が見えなかったのか」
「あ、あたしたち…、肝試しに来てて……四人で。こ、こんなことになるなんて…………ごめんなさい、ごめんなさい」
女は頭を垂れながら泣き出した。
このご時世に肝試しなんてやりたがる馬鹿がまだいたとは。
呆れて声も出ない。
「他の二人は」
「先に捕まって………悪魔たちに連れ去られた……」
岸辺の質問に、女はしゃくりあげながらも答える。
どうしたものかと頭を捻らせていると、入り口のドアが、小さく叩かれる音がした。
「あ……ぁあ、ぶぅ」
「だぁ、あぶ」
「ええええん………」
先程の赤子の悪魔が集まってきたようだ。
「あの、……あたしがこんなお願いするの間違ってるのかもだけど、あとの二人のこと、助けてください…!一人が、あたしの彼氏…彼氏なんです!こんなお別れなんて、絶対嫌……。お願いします、お願いします……!」
女は泣きながら、切に懇願してくる。
自業自得だろうと一蹴してやりたいところだが……。
岸辺をちらと見る。そんな風には言えないよな。
あまり考える時間はない、今出せる答えはひとつだけだ。
「岸辺、この二人を連れてここから出て。わたしは残って行方不明者を捜す」
「え……」
女が、期待に顔を上げる。
アイラインやらマスカラが取れて、目の下が真っ黒だ。
「車、あんたしか運転できないでしょ。さっき通った観光地まで下りたら電話が使える所もある筈。この人間の救護と応援を呼んで」
「……報告されている被害状況からして、ここにいるのはこの赤ん坊の悪魔だけじゃない。おそらく強力な悪魔が潜んでいるぞ」
「なに、心配してくれてるの〜?」
岸辺の表情はいつもと変わらない。
ちぇ、と顔を逸らす。
「生憎、あんたと違ってわたしは死ぬことがないからねえ。それにここなら"餌"が腐るほどある。血が足りなくなることはないでしょ。」
言いながら、赤子の悪魔の死骸に目をやる。
「それに、わたしが言わなかったところであんたはそう指示を出したでしょ。今考えられる最善の策は、これしかない」
岸辺はわたしの言葉を聞き終えると、無言で男女二人を担ぎだした。
男は痛みに声を漏らし、女の方は困惑している。
「お利口さんな犬としては、百点満点の回答だな」
「はっ、そりゃど〜もぉ」
壊れないおもちゃから犬へ昇格か。至極光栄だこと。
口を尖らしたわたしを一瞥すると、岸辺は部屋の窓を開け何の躊躇いもなく飛び降りた。
ここ二階なんですけど。という心配は、この化け物ジジイには必要ない。
女の悲鳴が聞こえる。窓の下を見れば、人間二人を担いでも難なく着地した岸辺の姿が見えた。
呑気にその後ろ姿を見送ってる場合ではない。
ドアがミシミシと音を立てはじめている。そろそろ限界のようだ。
「よぅし、いっちょ頑張りますかぁ……!」
独り言でも口に出せば、不思議とやる気が湧いてくる。
わたしはジャケットの袖を捲り、ナイフを持ち直して気合いを入れた。
どのくらい経過しただろうか。
グリーンの絨毯が敷かれていた廊下は、悪魔の血で真っ赤に染め上がっている。
本当に、いくら倒してもきりがない。
ただひとつ分かったことがある。
この悪魔たちは、一方向からしか出現してこない。
つまり、その先を辿れば……
「大元の悪魔がいるってことかな」
わたしの能力で誘き寄せたいところだが、一人のときに雑魚悪魔が集まってきても困る。
今更ながらわたしの能力って精度悪いなぁ。
力もそれなりにあるつもりでいたけど、特訓で岸辺に一回も勝てた試しがないし。
わたしって自分の能力を大分傲ってたのかもしれない。
しかし、いくら似たような能力とはいえ、マキマの力を防げているのは何故だろう。
公安にいればいるほど、マキマという存在がいかに強大であるかを思い知る。
悪魔を倒しながら奴らが来る方向を辿っていたら、最上階まで辿り着いてしまった。
目的の悪魔がいる場所は、一目でわかった。
「なに、これ………」
"大広間"と書かれた札が掲げられた大きな襖は、街灯に群がる蛾のように、赤子の悪魔で埋め尽くされていた。
その奥から、母乳の甘ったるいにおいを腐らせたような強烈な臭いがする。
民間で手に負えないどころの話じゃない。公安のデビルハンターですら人を選ばなければ、即死レベルだ。
応援を待つか?いや、時間が掛かりすぎると行方不明者の生存率が下がる。ここで足踏みしている場合じゃない。
固唾を呑む。
襖に群がる悪魔たちは相手にしてられない。
渾身の力を込めて襖ごと蹴り飛ばす。
先程とは比にならない臭いがし、思わず息を止める。
奥に蠢く何かは、拍子抜けするほど想像より大きくはなかった。
「あ…ア………私が必死で産んだ、かわいい赤ちゃんたち………」
美しい声だ。
一瞬気を抜いてしまった。
脇腹を何かに殴られ、そのまま吹き飛び壁に激突する。
内臓が潰れた感覚がして、口から血を吐く。
「なんてことするのォ……ひどい………!」
その美しい声は、怒気に満ちていた。
しかし、その声の主の姿形はまごう事なき悪魔だった。
カマキリのように小さな頭、それに合わないふくよかな図体、先程わたしを殴り飛ばしたと思しき腕のような触手が千手観音のように生え、身体には胸から腹の部分にかけていくつもの乳房が垂れ下がっている。
大きさはニメートルほどで他の悪魔と比べると小型だが、妙な迫力があった。
「しかも、オンナ……、人間のオンナは必要ないの……」
「はぁ………?」
わたしは血の混じった唾を吐きながら立ち上がる。
悪魔の後ろの方に並ぶ何かが視界に入った。
悪魔から伸びる管のような物と、下半身を結合された人間の男たち。おそらく行方不明者たちだ。
「男がいれば、私は何度だって子供を産める……!そうして、子供たちに囲まれて、いっぱい愛してあげるの!沢山食べて、寝て、おっきくなろうねェ」
悪魔は無数に生えた腕の数本を使い、己に寄ってきた赤子を愛おしそうに抱き上げた。
「うぐっ…………」
穏やかに我が子を見つめていた顔が急に歪み、呻き声を上げる。
何が起きているのか理解できないが、臨戦体勢をとる。
「ゔぅ……………ゔぁあああっ」
悪魔は苦悶の表情で身を捩り出した。
触手に包まれた赤子が締め上げられ、やがて空気を入れ過ぎた風船のように爆ぜた。
悪魔が脚を開く。股の間に穴があいている。
そこから丸い何かが液体と共にゆっくりと出ようとしていた。
赤子の頭だ。
「ふーーっ、ふーーーっ、………ぃいいい」
悪魔は這いつくばって、声を上げる。
きっと今が攻撃の好機だ。
しかし、悪魔の出産という凄絶な光景を前に、足がぴくりとも動かない。
ものの数分で、羊水と共に赤子が滑るように出てきた。
目も開いてない産まれたてのそれは、僅かな沈黙の後、大きな産声を上げた。
「あ……あぁ……、私のかわいい赤ちゃん………。無事に産まれてきてくれて、ありがとうねぇ」
悪魔は小さな顔についた豆粒ほどの目から涙を流し、産まれたての赤子に纏わりついた胎盤を舐めとりはじめた。
いきんだときに捻り潰した、もう一人の我が子には目もくれずに。
悪魔は皆、名前を持って生まれてくる。わたしもそうだ。
おそらくこいつは、"母の悪魔"。
「人間が思い描く"母への恐怖"ってこんな歪なの?はは、こっわ〜……」
思わず笑い声が漏れる。
軽口でも叩いていないとおかしくなりそうなほどの狂気が、目の前で繰り広げられている。
とにかく奴は今、産まれたばかりの我が子を気にかけて、こちらに攻撃してくる様子はない。
倒す、まではいかなくとも、後ろの人間を解放するだけでも何か変わるかもしれない。
強く床を蹴り飛び掛かる。
「邪魔しないで!!」
悪魔の叫び声が鼓膜に響いて痛い。
産後の雌という生き物は、一様に気が立っていて恐ろしいものなのだ。
そんな奴に攻撃なんかしたくない。戦いたくなんかない。でも、やるしかない。
こちらに伸びてくる触手をよけ、それに飛び乗る。
あまり認めたくないが、岸辺との特訓の成果が確実に出ている。
身体の使い方が自分の物になっている感覚だ。
触手の上を駆け抜け悪魔の頸を蹴り飛ばし、そのまま落下の勢いを使って、尻尾のように生えた管をナイフで切り裂いた。
「ギャアアアァア!!」
管にも痛覚があったのか、悪魔が叫び声をあげる。
男たちは、管から解放されてもすぐに意識が戻りそうな気配はない。
先程のケンと呼ばれていた男のように身体を食いちぎられた痕がある者は、出血が酷い。
中には局部が酷く腫れがっている者もいる。
素人目で見ても酷い状態だが、助かるだろうか。
先程の女が、恋人の安否を思い泣く姿が脳裏に浮かぶ。
今はそれよりも目の前の敵に集中だ。
悪魔は咽び泣いていた。
「どうして………こんなこと…ォ……、これじゃ、赤ちゃん、作れないじゃない…………」
切られた管の断面を見て、泣いている。
大事な生殖器官だったのだろうか。
その泣き声は実に哀しげで、妙に同情を誘う。
緊張感を持てと自分に言い聞かせるように、ナイフの柄で太腿を一度殴る。
「なんで……ママにこんなことォ、できるの………?ねぇ……!」
「……さあ、わたしは母親ってものがいないから、さっぱり想像がつかないね」
「ねえ、………なんで、イイ子にできないのォ?」
悪魔がしゃくり上げながら、ゆらゆらと立ち上がる。
何か、様子がおかしい。
「………ねえ、お母さん言ったよね。いい子にしてないと、悪魔に食べられちゃうよ」
声が、違う。
その瞬間、耳鳴りがした。
頭が痛い。何か、汚濁したものが津波のように、内側からわたしの意識に向かって押し寄せてくる。
記憶だ。
アマネの記憶。わたしがまだ知らない、アマネが遠く、遠くに追いやった記憶。
「なに、……なにした?あんた……!」
「なぁんだ、貴方、母親いるんじゃない」
悪魔の小さい口が左右に大きく引き伸ばされ、歪な笑みを作る。
記憶を読んだ?アマネの……。
先程の余韻で気持ち悪い。足がふらつく。
触手が飛ぶような速さでこちらに向かってくる。避けなければ。
しかし、無理に動かそうとした脚の膝ががくりと折れる。
避け切れない。ナイフでいなせるか。
脇腹に痛みが走る。
貫通は防げたが、それでもかなり抉り取られた。
出血が酷い。
わたしは床に転がっていた赤子の頭と首を掴み捻り切ると、首の断面から直接血液を飲んだ。
「あぁ!私の赤ちゃん!!」
暫く人間の血すらも飲んでいなかったから、悪魔の血なんてドブ水のように不味く感じる。
具合が悪くなりそうな味に反して、腹部の傷はみるみるうちに回復していく。
良薬は口に苦しというが、滅多に飲む物ではないな。
死んでた個体を選んだとはいえ、目の前で赤子に惨い事をされた。
また激昂させてしまうかと思っていたら、悪魔の顔からは怒りの色が消え、わたしを唖然とみている。
「傷が…治っている………?」
服が破れ、剥き出しにされた肌は傷一つ残っていない。それを角度を変えて何度も凝視する。
「なんて……ことなのォ………!」
悪魔が頭を抱え出す。
今度は何の前触れだ?後退りをする。
「こんな、普通だったら死ぬような傷でも回復するなんてェ……!貴方こそ、私が望んでいた理想の子供………!」
「は……?」
「私の子供たちは可愛いけれど、弱い……すぐ死んでしまう……。でもそれじゃ意味ないのォ。大きくなって、強くなって、人間を沢山たーっくさん殺してくれなきゃ意味がないのォ!!!」
地響きを起こす程の咆哮。
劣化した床がミシミシと嫌な音を立て、鉄骨にぶら下がった天井が揺れる。
「欲しい………、欲しい欲しい欲しいィ!!」
悪魔から無数の触手が飛んでくる。
速い分には見える。しかし、手数が多すぎる。
「私の子供になりましょォ!!なってェ!なりなさぁアイ!!!」
「っ……、誰が、なるかぁ、カマキリ女ぁ……!お前みたいなブサイクな母親死んでもごめんだね!!」
悪態を吐きながらも、息は切れ始めてきている。
一方悪魔の攻撃は衰えるどころか威力を増すばかり。
しかも攻撃が段々と乱雑になっていき、触手が建物のいたるところにぶつかっている。
触手がぶらさがっていた天井板に当たった。
「やば、落ちてくる!」
天井板が落ちてくるのに気を取られていて、下が疎かになっていた。
ひび割れた床から触手が飛び出し、わたしの身体の中心を貫いた。
口から大量の血が出る。
「やったぁ、捕まえた〜〜ァ」
悪魔はわたしを串刺しにしたまま、顔の近くに持ってくる。
酷い臭いだ。血も大量に流れ落ちていき、どんどん気分が悪くなっていく。
悪魔はわたしの顔を暫くいろんな角度から観察した後、横にいた自分の赤子を自らの手で潰した。
先程まで可愛がっていた我が子を呆気なく殺した。
理解のできない行動というのは、恐ろしい。
捕らえられた自分がこれから何をされるのか、全く想像もつかないのが恐ろしかった。
「今日から私がァ、貴方のママ、いいえ…お母さんだからねェ。貴方のステキな母親よりも、うんと可愛がってあげる。沢山食べて、大きくなろうねェ……」
赤子を何度も潰し、細かいミンチ状にすると、それを触手の先にある人間の手と酷似した器官で掬い上げる。
それを、わたしの口の中にぶち込んだ。
突然のことに驚く隙も与えられず、喉の奥に押し込まれたそれを飲み込んでしまった。
肉がぬるりと食道を通り、内臓に蓄積されれば、貫通したままの部分が再生しようと収縮しはじめた。
「いっ…………いたいっ、い、っひ」
普通に回復するときと比にならない激痛が身体を襲う。
「すごォい、本当に回復してる。もっとたくさん食べなきゃねェ〜〜」
「いっ………ぅううぐう」
また次の肉が口に運ばれる。
赤子の悪魔の肉。
人間の赤子、そのもののような。
耐えられず嘔吐する。
悪魔の顔に笑顔が消えた。
「なんで……ッ、ちゃんと食べないのよォーー!!!」
わたしを串刺しにした腕を思い切り振りかぶり、地面に叩きつけた。
脆い床はいとも容易く貫通して、わたしは何階か下のフロアまで落ちていった。
背中が痛い?いや腹が痛い?
全部痛い。感覚がよく分からない。
串刺しにされて身体の中心にできた穴が、それでもじわじわと塞がろうとしている。
「ほらァ、食べて、いい子だから。大きくなれないよォ………?」
上から悪魔の顔が近づいてくる。
カマキリのような顔が、別の女性の顔に見えてきた。
アマネに似ている顔だ。榛色の瞳をしてして、栗色の髪の色。しかし、アマネと比べるとやや面長で出っ歯だ。それでも十分綺麗な女だった。
「ほら、口を開けて。好き嫌いしちゃ駄目よ」
「嫌だ……、わたし、それ嫌い」
譫言のように口から溢すと、頬を叩かれた。
「これを食べないと、強くなれないの。悪魔に食べられちゃうよ?折角綺麗で可愛く産んであげたんだから、強くならなくちゃ。ほら、口を開けて!」
無理やり顎を掴まれる。
生っ白い手に持たれた匙の上には、赤黒い肉。
それを口に運ばれる。
食べないと、怒られる。
食べないと、失望される。
食べなきゃ、食べなきゃ。
どろりとした感触が舌を伝い、喉へ流れ込む。飲み下す。
生々しい肉の食感、どこの臓器だろうか、苦い。生臭い。
もう食べられない、食べたくない。
わたしは耐えられず顔を背け、地を這いどうにか逃げようとした。
「どこにいくの?」
腕を掴まれた。そして、何度も床や壁に叩きつけられる。
「まだご馳走様してないでしょ?!悪い子!!悪い子ォ!!ワルイコ!!!!」
肩の関節が外れ、その次に皮膚が千切れる感覚がした。
右肩から離された胴体が吹っ飛ぶ。
飛ばされた先にあった剥き出しの鉄骨に刺さって、治りかけた腹の穴がまた拡がった。
ああ、不死身ってなんて便利な身体なんだと思ってたけど、こんな辛いこともあるんだなあ。
痛みがとめどなく続く。
どこかでぷつりと痛覚が切れてしまえば楽なのに。
鉄骨からずるり、と身体を引き抜き、あてもなく歩き出す。
しかし、すぐに足がふらついて倒れ込んだ。
辛い、痛い、帰りたい。
どこに帰りたい?死にたい?帰るところは何処?アマネ、教えて。わたしは……
「よくやった。もういい」
聞き慣れた、低い声がした。
地面に伏せたままのわたしにコートがかけられる。
コートの心地よい重み。煙草とアルコールのにおい。
直後、母の悪魔の断末魔が聞こえた。
「アマネさん!すぐに救護を……」
よく見知った顔の隊員がかけ寄ってくる。
「いい……、わたしは後で、いいから…。奥に民間人、恐らく重傷。そっちを優先して………!」
そいつはわたしの顔を心配そうに窺い、躊躇った様子だったが、わたしが首で促すと素直に従い走っていった。
その後ろ姿を見て、漸く緊張の糸が切れる。
母の悪魔が倒れ、床が揺れる。
岸辺がやったのだろうか。やっぱり全然敵わないな。
その後すぐに悪魔の死骸の確認作業に入り、捕われていた男たちが次々と運び出されていく。
そんな光景を痛みに耐えながら見ていると、段々と意識が途切れ途切れになり、視界や周りの音がぼやけていく。
意識を完全に手放す直前、アキくんの声が聞こえた気がした。
すすきや、三つ葉や、シロツメクサ、たんぽぽ、ぺんぺん草なんかもある。
それらで地面が埋めつくされている場所に立っていた。
ここは何処だろう。
でも知っている場所だ。これは夢で、夢は見たことない場所でも既視感を覚えさせる。
生い茂る草を踏みしめながら歩くと、どんどん視界が狭くなっていき、やがて辺りが黒く塗り潰したような暗闇へと変わっていった。
引き返したいけれど、振り返ることさえ叶わない。
踏み締める草の感触が変わらない事だけが、心細い身体を前に進めさせる。
やがて目の前に現れたのはひとつの扉。
木枠が傷んでひび割れた、古めかしい磨りガラスの引き戸。
そうだ、これは立て付けが悪くて、こつを掴まないとなかなか開かないのだ。
でも、なんでそんなことを知っているんだろう。
わたしはその扉を開けることを躊躇った。
アマネの声は聞こえないが、彼女は酷く恐がっていたから。
飛び起きる。
呼吸が荒い。目の前の白いシーツに、額から流れ落ちた汗がぽたぽたと垂れ、染みを作る。
大丈夫、いまは現実。夢から醒めたばかりだ、落ち着け。
自分自身を宥め、徐々に心拍数が整ってくる。
大きく息を吐けば、汗で濡れた服が背中にべったりと貼り付いていることに気づき、急に寒気が襲ってきた。
右腕が視界に入る。
手を握る動作をしたりして、正常に動くか確認する。
臍のあたりも触る。いつもの柔らかく吸い付くような、アマネの皮膚の感触だ。
左肘の内側に、小さな正方形の絆創膏が貼られている。輸血を既に終えたあとのようだ。
どのくらい意識を失っていたのだろう。
ベッドを仕切るカーテンの外は暗いが、夕方なのか夜なのか明け方近くなのか。
近くに時計がない為分からない。
「やだ…、ショウ君!死なないでぇ……」
女の悲痛な声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声だった。少し甲高い声。
カーテンの隙間から覗くと、廃ホテルの中で会った派手な女がベッドの前で膝をつきながら泣き喚いている。
ベッドに横たわっているのは男。
管に繋がれていた男の一人だ。
そういえば彼女は、彼氏が悪魔に連れ去られたと言っていた。
助けられなかった。
その横でも、女、初老の男女、そして子供が二人、ベッドを囲んで泣いている。
「彼はデビルハンターとして、立派に役目を全うしました……。同僚として、誇りに思います」
傍らに立っていた男が声を震わせながらそう言うと、ベッドで横たわっている男を囲む、家族と思しき人たちが声をあげていっそう泣いた。
わたしはカーテンを閉じ、耳を塞いだ。
聞きたくない、今は、何も聞きたくない。
身体が全て元通りになったというのに、全身が重怠い。
口に入れられた肉の食感を思い出すだけで、胃液が迫り上がってくる。
上体を起こしているだけで辛く、再度横になったときだった。
わたしの仕切りカーテンに影がうつる。
看護師が様子でも見に来たのだろうか。
「……誰?」
なかなか入る様子がないので声をかける。
すると、静かにカーテンが開けられた。
「あれ、……アキくん」
ドアから顔を覗かせたのは、予想もしていなかった人物だった。
未だに強張る顔を無理やり動かして笑顔をつくる。
「どうしたの?東京から来るの、大変だったでしょ。向こうにいなくて大丈夫そうなの?」
「……東京は昨日、銃の悪魔の仲間の襲撃があったが大丈夫だ。先程本部に電話をかけたが、天使が片をつけたと報告があった」
銃の悪魔の仲間、ボムガールの事だろうか。
向こうは向こうでそんな事になっていたとは。
ただマキマの言った通り"大丈夫"だったようで何よりだが、マキマはそれほどデンジの実力を買っているのだろうか。
「そっか、それはよかった。今回は怪我してないの?大丈夫?」
アキくんの腕に触れようとしたら、手を引かれ避けられた。
アキくんは、ベッドに横たわっているわたしなんかよりも、よっぽど青ざめていて、強く握りしめている拳は小刻みに震えていた。
「そんなことより、自分の心配しろよ……!お前、あんな状態になって……」
……見られちゃってたか。
意識が落ちる前に聞こえた声は気の所為ではなかったようだ。
あんなに惨い状態のアマネを見て、さぞかしショックを受けただろうな。
「うん、完全に油断した」
布団から腕を出し、感覚を確かめるように握ったり開いたりを繰り返す。
「なんか最近調子悪くてさ〜、力が出なくて。本調子じゃないんだよねえ。ま、この通り身体は元に戻るからさほど問題ではないんだけどさ」
わたしはなんてことないように笑ってみせるが、アキくんの顔は晴れない。
「……大丈夫だよぉ、アキくん」
彼の手をとり、両手で握る。
また避けられると思ったが、よかった。
触れた彼の手は、冷えきってまだ震えていた。
「……確認、してみる?」
わたしはそんなことを口走っていた。
わたしは今どうしようもなく、わたしの瞳や身体から目を逸らし続ける、彼の視線を捕らえたかった。
病衣の結び目を解き、前をはだけさせる。
裸は、ただの皮だ。
美しいその皮に拘るわたしがそんな言い方をするのは妙だが、皮を見せても羞恥心はない。
しかし、アキくんにとってはそれを見ることは、きっと意味のあることだ。
血の通ったアマネの身体に触れ、確かめることが重要なことだ。
再びアキくんの手を取り、わたしの身体にその手を這わせる。
浮き出た肋骨を撫でさせ、傷跡ひとつ残ることのなかった白く柔い腹部に誘導する。
置いてきたアマネへの恐怖心も、向き合えなかった後悔も、欲も、全てぶつければいい。
そうさせてほしい、そうすればアキくんもわたしも、きっと苦しい今よりずっと楽になる。
楽になりたい。
アキくんの掌は徐々に熱を帯びてきた。
行き場を失った熱は、やがて彼の目から零れ落ちた。
アキくんは、泣いていた。
「えぇ〜……なんで泣くのお」
「……いや、すまん。これは」
アキくんは顔を逸らし、手の甲で顔を隠し、それでも洩れるしゃくり上げる声と、彼の顎から、指の隙間から温い水がぽたぽたと止めどなく溢れていた。
人間は弱い。
刺しどころが悪いとすぐ死ぬし、血が足りなくなっても死ぬ。当たりどころが悪ければ血が出なくとも死んでしまう。
この病室のベッドにある数人の死体のように。
それを悔やみ涙する、生きてる人間も一様に皆弱い。
アキくんだって同じだ。
他の人間と同じ身体の作りで、ちょっとしたことですぐ死んでしまう、ただの人間だ。
なのに、不死身であるわたしの無傷の身体を見て、触って出した答えが、涙だ。
「もぉ〜、仕方ないなあ……」
わたしは自然と笑みが溢れて、アキくんの頭を抱き寄せた。
抵抗しない彼は尚も泣き続け、やがてわたしの背中に腕を回した。
「アキくんのどんなところが好きなのぉ?」
以前わたしがアマネに問いかけた言葉だ。
わたしはこのときアマネが思い浮かべた言葉を感じ取ることができなかった。
そんなわたしに、
「君が知らないなら、これはわたしだけの特別な感情だ」
とアマネは笑った。
今なら分かる気がする。
アキくんは優しくて、人を想って泣ける子だ。
そんな彼が、愛おしい。
アマネの"愛おしい"は、わたしの考える"愛おしい"とは、色も形も違うのかもしれない。
でもきっと声に出して表すのなら、アマネもわたしと同じ言葉だという自信がある。
わたしはアキくんの髪を撫でながら、
「いとおしい」
と、声に出さずに唇でその言葉をなぞってみた。
その言葉はおまじないのように、わたしの中にぽっかり空いた底なし沼の空洞を、綺麗な水で満たしていく。
そうなれば、触れている肌が温もりを持って、泣き声が響く病室の中でも冷たい檻に閉じ込められない。
わたしは安心しきって彼の髪に顔を埋め、目を閉じた。