なお使い魔でして   作:ptagoon

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魔女のお掃除

 明け方は嫌いだ。

 

 熟れた柿のような真っ赤な太陽が、待ってましたとばかりに地平線から顔を覗かせる。誰もお前なんて待っていないというのに、さもこの世界は自分の物だと言わんばかりの傲慢さで世界を照らし始める。

 

 人里もそうだ。少し明るくなった他端、俄に周囲がざわめき始める。音はしない。気配もない。だが、確実に何かがもぞもぞと動いている。生命の息吹が震えている。これから営む新しい生活に希望を抱き、明るい明日への準備を始めている。まったくもって気に入らない。

 

「何だよそんな暗い顔をして」

 

 徐々に日が差し込んできた大通りを歩いていると、すぐ前から声をかけられる。赤い光が金色の髪に反射して眩しい。強いて言うのであれば、その黒い帽子が日陰になっているのがありがたいが、それ以外は最悪だった。「こんな清々しい朝だってのによ。しゃきっとしろよしゃきっと」

 

 あの女性の死を目にしてからというもの、随分と辛そうな顔を隠せていなかった彼女だったが、今では随分と落ち着きを取り戻していた。きっと信じているのだろう。あの女性は大丈夫だと。まだ生きているのだと。きっとそう信じているに違いない。そう思うと余計に憂鬱になってくる。絶対にそうはならないからだ。なってはいけないからだ。

 

「仕方が無いでしょ。魔女はいつだって憂鬱でしけた表情をしなきゃならないのよ」

「それはお前だけだろ」

「誰が根暗よ」

「まだ言ってねえよ」

 

 人里の真ん中を通る大通り。甘味屋や呉服屋が立ち並び、昼間は人で地面が見えないほどごった返す場所だ。時折鴉が新聞を配っていたり、弱小妖怪がふらふらと寂れた蕎麦屋に入っていったりしているが、さすがにまだこの時間には人間の姿はなかった。

 

「何だか少し昔は思い出すわね」

 こういう、腹立たしいほどに澄んだ朝の日に起きた下らない事件を思い出す。いえ、事件というのも烏滸がましい。「前も主従でこうして朝一に人里に来たことがあったのよ」

「パチュリーとダエモンでか?」

「そうよ」

 

 あれはたしか、レミリアに「お前らは揃いも揃って夜更かししすぎだ」と煽られた時だった。当然私たちは「魔女と悪魔が規則正しい生活はしない」「早起きの吸血鬼の方がよっぽど気持ち悪い」と言い返したのだけど、レミリアはどこ吹く風だった。「早起きしないと大きくなれないぞ」とまったく説得力のないことさえ言っていたような気もする。

 

 とにもかくにも、全く呆れるほど幼稚な挑発を受けた私たちは互いに向き合い「そんな話、誰が真に受けるのか」と呆れていた。が、次の日の朝には、どちらが言い出すでもなく紅魔館を出て、早朝の人里に駆け出していたのだ。

 

 その時の人里も今のような雰囲気だった。つまり、閑散としていて、空気が澄んでいて、もの悲しくも同時に胸が高鳴るような、そんな清々しい朝だった。

 

「やっぱり早起きなんてするべきじゃなかったわね」

 

 そこまで考えたところで、自然と記憶が蘇る、その時の会話さえ鮮明に思い出せた。ああ、と声を漏らしてしまう。私はそんなに、あの時嬉しく楽しかったのか。まったくもって馬鹿馬鹿しい。ただ従者で外を散歩する日々を良い記憶だと判別していたなんて。

 

「これじゃあ日に焼けちゃうわ」

「魔女の丸焼きですか。いいですね」

「そこまでは焼けないわよ」

「それは困ります。豚は半生だと危ないんですよ。寄生虫がいますから」

「あなたのことかしら」

 

 特に当てもない散歩だったけど、それでも普段紅魔館から滅多に出ない私たちには新鮮だった。人間が少ないというのもよい。いくら幻想郷が妖怪の楽園とはいえ、真っ昼間に人里に行けば奇異の目で見られることは間違いなかった。なるほど。たしかにレミリアの言うことも間違いではない。感謝はしないけど。

 

「でも、あれですね。我が主が人里を歩いていると何だか心配になりますね」

「何でよ」

「いえ。こけて大腿骨を骨折して寝たきりになりそうで」

「私を何だと思ってるのよ」

「言っていいんですか?」

「やっぱ言わなくていいわ」

 

 そんなことを言いながら、たしか私たちはいつの間にか人里の端へとやって来ていた。そのまま人里を横断し、ついでに霧の湖でのんびりしてから帰ろうと思っていたのだ。が、そこで奇妙な屋台を見つけた。既に商店街は抜けており、寂れた土道しかなく、そこにぽつんと佇むそれはよく目立った。打ち捨てられた関所のようにも見える。

 

「我が主様のような建物があるではありませんか」

「どういう意味よ」

「ボロくてひとりぼっちで、そして何より魅力がない」

 

 その建物の正体はすぐ分かった。というよりも、初めから分かってはいたのだ。腐った木でできた屋根に『玩具屋』と書かれているのを見れば、すぐに分かる。が、俄には信じられなかった。こんなボロ屋にある玩具など、気味悪がって誰も取らないだろう。

 

「ご自由にお取りください、ねえ」立てかけられた木には墨で無料と書かれていた。「コア、なんかもらっていきなさいよ」

「嫌ですよ。私はそんな安い女ではありません」

「ならいくらで買えるのかしら?」

「悪魔を金で買おうという魂胆が悍ましいですね。私の価値はプライスレスですよ。夢とか希望と同じです」

「おこがましいわよ」

 

 言いながら、私は玩具屋に置かれていたよく分からない物体を適当に二つ手に取り、一つを投げ渡した。何これ、と怪訝そうに首を傾げる姿が面白く、つい笑ってしまったのをよく覚えている。

 

「何ですかねこれ」

「さあ。南国の土産屋で売ってるんじゃないかしら?」

「南国の土産屋なんて行ったことないくせに」

 

 主従らしく、大きなトーテムポールのような木製の人形を主が、小さなモアイ像のストラップを従者が手にしている。魔力的なアイテムでもない。それこそ、本当にただのお土産品だった。

 

「こんな物ゴミにしかなりませんよ。でもこのモアイの不細工さ加減はお前に似てますね」

「モアイ、そんなに気になったのかしら」

「どこをどう聞けばそうなるんですか」

「まあいいじゃない。普段のお礼と言ったところよ。そのモアイを私だと思って可愛がりなさい」

「それは甚振れということでしょうか」

「悪魔の発想ね」

 

 とはいうものの、結局は懐に入れたのだった。「まあいいでしょう。ならばお前もそのトーテムポールを持っていてください。死にそうな時に身代わりになってくる可能性があるかもしれないかもしれませんよ」

「絶対ならないでしょ。まあいいわ。私もこれをコアだと思って可愛がるから」

「そんな安っぽい土産物を私と思うだなんて傲慢ですよ」

「いいじゃない。プライスレスなんでしょ。ぴったりよ」

 

 結局、あの謎の土産物は単に引っ越した人間が捨てるのを面倒くさがったのだと知ったのはそれからすぐのことだった。そのあまりに馬鹿馬鹿しい企みにはまったことよりも、レミリアに散々弄られた事の方が癪だった。

 

 記憶の氾濫が収まると、不思議と視界が澄んだように思えた。ごちゃごちゃとしていた感情がまとまり、脳内がすっきりする。浮かぶ感情はたった一つ。そしてやることも一つだった。今更になってあんなことを思い出す自分にうんざりとする。まさか、彼女のことを気に入っていたのだろうか。あり得ない。そんなはずはなかった。これは自分のためにやっている。そのはずなのだ。

 

「どうした? 大丈夫か」

 どうやらしばらく呆けていたらしく、心配そうに声をかけられる。「体調悪いんだったら教えろよ。お前に死なれたら困る。本当に困る」

「そんな簡単に私が死ぬとでも?」

「意外と簡単に人は死ぬぜ。病気とか寿命とか」

「靴擦れでも死ぬかもしれないわね」

「さすがにそれは人間を舐めすぎだぜ」

 

 私の手を不躾にも握った彼女は、行く先も告げずにずんずんと人里を進んでいく。己の道が正しいと信じて疑っていない。というよりも、今更引き返すことができないのだろう。自分の身の危険を無視し、目的のために突き進む。なるほど。そういう意味では魔女に通ずるところはあるのかもしれない。悪魔としては三流だが。

 

 連れられてきた先は大通りを突き進んだ中頃、桜の木の影になっている木造の建物だった。そこそこの大きさがあり、扉は開きっぱなしにっている。その、開けっぱなしになった扉から男性がこちらの様子を窺っていた。見覚えのない男だ。実のことを言えば、大通りに出た時点で嫌に目立っていたので気づいてはいたが、さすがにそれを指摘するほど私は野暮ではなかった。

 

「ここ、何屋だか分かるか?」

 建物の前で突っ立っていると、にやにやと嫌みに笑いながら訊ねられる。「何を売っているか分かるか?」

「喧嘩」

「それはお前だろ」ケラケラと指をさして笑われる。お前にだけは言われたくない、と血が溢れそうになるが、何とか我慢した。「ここで売ってるのは情報だよ」

「情報?」

「気になるあの子の好きな食べ物から、ケネディ暗殺の真犯人まで、ありとあらゆる情報が買えるんだ」

「ケネディ暗殺の真犯人は誰なのよ」

「そうちゃんだよ」

「誰よ」

「夏目漱石」

「絶対違うでしょ」

 

 情報屋。あまりに胡散臭い。期待すらできなかった。そもそも、この幻想郷において情報屋をやっていること自体が怪しかった。

 

「ねぇちゃん、大袈裟すぎっすよ」

 

 扉の前で佇んでいた男は、照れくさそうに頭を掻きながらもしきりに私を気にしていた。さて。どうしてやろうか。初めましてとお礼をしてやるのも面白そうだし、久しぶりだと手を振るのも笑えるだろう。が、今は楽しんでいる暇はない。戦うべき相手は時間だ。

 

「我が仕入れてる情報はそんな大層なもんじゃないっすよ。人の弱みとかだけっす」

「いい性格してるわね」

「パチュリー様ほどではありませんって」

 

 ほんと、良い性格している。いったい私たちのことについてどこまで把握しているのか。「それならレミリアの弱みでも教えなさいよ」

「いくらパチュリー様でも無料とはいかないっすよ。こっちも商売なんで」

 その商人はぱっと見は若く見えた。黒々とした短髪と切れ長の目は勇ましく、筋肉質な身体はよく鍛えられている。均整が取れていた。取れすぎているといってもいい。むしろ不自然なくらいに。

 

「お金かそれ相応の情報をもらわないと駄目っすよ」

「それ相応の情報ねえ。イギリスの繁栄が終わった理由とかでいいかしら」

「駄目っすよ。そんなの教科書に乗ってますし」

「あれはコアがまだ英国の絶望と呼ばれてる時に王女と契約して」

「だから駄目だって……なんすかそれ。ちょっと面白そうじゃないっすか」

 軽薄さを隠そうともせず笑った男は、その口調とは裏腹にやけに鋭い視線を向けてきた。元々切れ長の目はそれだけで迫力がある。蛆虫のような迫力だ。

 

 彼が出てきた建物の中を横目で一瞬見る。綺麗に整頓された建物は清潔だった。多少埃を被っているものの、ゴミや食器が散乱していたり、あるいは布団が敷いてあったりはしない。いい部屋だ。

 

「随分と整頓された部屋ね」

「パチュリーの部屋が汚すぎるんだぜ。ちゃんと掃除しろよ」

「あら。こう見えて私は掃除が得意なのよ。それこそ、人の痕跡を完全に消すことだって訳ないのだから」

「怪しいな」

「人呼んで歩くモップ」

「それは悪口じゃないか?」

 

 心底失礼なことを言った彼女から顔を背ける。単にあほ面を見ることに飽きただけなのだけれど、何を勘違いしたのか彼女は「情報屋に聞きたいことがあったんだ」とまるで私が望んでここに来たかのような言い方をする。

 

「私たちがここに来たのはエミのことを知りたかったからだよ」

「エミ?」

「さっき会っただろう。あの綺麗で無邪気で馬鹿な女性だよ」

「褒めてるのか貶しているのか」

「私は死者を愚弄しない。お前と違ってな」

「生者も愚弄しないで」

 

 早朝の人里でやんややんやと叫ぶことなど、彼女自身も望ましくないだろうに。別に気を利かせた訳で

はないだろうが、男が「よければ中に」と手招きしてくる。良くないから外で待っていたかったが、さすがに不自然か。まあ、彼の方がよっぽど不自然だったけど。

 

「エミさんは素敵な人っすよ」

 部屋へと入りながら男は説明する。木目にいっぺんの欠片もない床は固く、冷たそうだったが、座布団

すらない。靴も脱がずに部屋へと入った彼らに続き、私も部屋の中で座り込む。畳が部屋の奥に見えたが、大きな箪笥に押し潰されていた。

「凄い優しい人だったんすよ。困っている人がいたら、その身を切ってまで助けるような人で。まあ、そのせいでいくら金を稼いでも本人は貧乏だったんすけどね」

「あら。金も情報も払っていないのに、そんなぺらぺらと。いいのかしら?」

「ねぇちゃんの頼みは断れないっすからね」

「顔なじみなのかしら」

「そんなもんだ」

 

 茶の一つも出す気配のない男は、そのエミなる女性によっぽど入れ込んでいるのか、息を荒くしながら語り始める。明らかに男は情報屋としてではなく、個人的に話したいが為に喋っていた。「可哀想な目に遭っている奴を見捨てられない性格だったすよ。人里の端で打ち捨てられてる妖怪を拾ってきて、元気になるまで看病したり」

「危ないことしてんのね」

「まあ、その分強かったすから」

 

 なぜか男は自分のことのように得意げだった。他人の強さを誇るなどあってはならないことだというのに。

 

「魔女を目指してたくらいっすからね。使い魔だって何匹かいたし、何より魔道具に対するこだわりはそれはもう強かったんすから」

「魔道具で思い出したのだけれど」

 前のめりになる男から距離を取りながら、訊ねる。「あなた、移魂を残さない君3号って知ってるかしら」

「はい?」

「人間の魂を他の物に移すことができる道具ですよ」

「魂だなんてそんな曖昧な」男は冗談めかしていたが、くすりともしなかった。「魂が移るとどうなるんすか」

「私は以前、魂が入れ替わった男達を見たことがあるわよ。たしか伊勢と日向の奴らだったかしら」

「それ、昔話の奴だろ」

「そこで始めて知ったわ。魂が入れ替わると、肉体だけがそのままで、中身が全部入れ替わるのよ。見知らぬ旦那が当然のように帰ってきた妻は慌てふためいたそうよ」

「私たち入れ替わってるってやつか? 早苗が好きそうだな」

「気に入らないのはそれが神の仕業と伝わっていることね。人間に利益をもたらす不条理は全部神のおかげになる。腹立たしいわ」

「それも早苗が喜びそうな話だな」

 

 つまらなそうに聞いている男の目を見つめる。ぎょっとした彼だったが、すぐに取り繕ったかのような笑顔を浮かべた。その目には明らかに恐怖が浮かんでいる。私が怖かったのか、それとも別の何かを恐れているのか。それとも罪悪感か。きっと、その全てだろう。

 

「さあ。私はとっておきの情報を提供したわよ。ほら、あなたも早く教えなさいよ」

「教えるって」

「知ってるのでしょう? 移魂を残さない君3号について」

「変な名前っすね」

「否定しないのね」

 

 はぁ、と心底嫌そうに目を伏せた男は、「分かったっすよ」としぶしぶ頷いた。私がここまでしつこいと思っていなかったのだろうか。だとすれば見当違いもいいところだ。私はしつこさで言えば誰にも負けない自信がある。それこそ油汚れにだって勝てるだろう。

 

「兎の死体で作った道具っすよ。黄金色の球状で、一時的に魂を保存できて好きな物に魂を上書き出来るっす。たしか、元々は壊れそうな付喪神の魂を、新品の道具に移すために造られた物だったっすね。エミが半泣きで造ってたからよく覚えてるっす」

「へえ」

 

 はっと男が分かりやすく動揺を露わにしていたが、今は追求する気にもなれなかった。毒にも薬にもならない情報だ。まだプラナタリアの将来の夢の方がよっぽど興味深い。

 

「そういうや、ねえちゃんはなんで急にエミさんの話なんか聞きにきたんすか」

 男はよっぽど焦っているのか、分かりやすく話を変えてきた。あまりに憐れ過ぎて、指摘する気にもなれない。同情すらしてしまうくらいだった。

「何かあったんすか」

「いや。パチュリーが妙なことを言うんだよ」

「それはいつもじゃ?」

「初対面でしょ」

 

 私の言葉を無視した不敬者たちは「なんか前世がなんだこうだとか言ってな」とまるで私が変人であるかのように言ってくる。「それでエミのことを知りたいんだと」

 

 私は別に前世がなんだこうだとか、それでエミとやらのことを知りたいだとか、一言も言っていないにもかかわらず彼女はまるでそれが真実であるかのように話す。そう信じたいのだろう。いつだって希望は瞳を曇らせる。そんなことも分からないなんて。

 

「奇妙なことがあるもんっすね。前世の記憶だなんて、ロマンチックじゃないっすか」

「そんなんじゃないのよ」私とロマンチックだなんて、それこそ対義語と言ってもいいくらいかけ離れていた。「ただ、私の中での『パチュリー・ノーレッジとしての記憶』がね、もうないような感じがするのよ。別の誰かの記憶の方がな気がして」

「それは面白いっすね」

 

 何も面白くないというのに、男は心底嬉しそうだった。その場で手を叩き、ガッツポーズをしてもおかしくないな、とどこか冷めた思いで男を見ていると、彼は実際にその場で手を叩き、ガッツポーズをし始めた。こらえきれず噴き出してしまう。可愛らしさすら覚えた。なんて単純なのだろうか。片腹痛い。

 

「エミさんの話ならどれだけでもできるっすよ。近所の子供に飴を配ってたら、飴おばさんって呼ばれ始めて凹んだこととか、私服のセンスがなさ過ぎて、婦人会のおばさま方に買い物につれてかれて、やけにお洒落な服で帰ってきたこととか。それ以降、子供達に飴おばさんじゃなくて飴お姉さんと言われるようになったって喜んでいた話とか」

「微笑ましいわね。でも」

「でも?」

「なんだか恥ずかしいわ」

 

 部屋の中の空気は、いつの間にか生暖かいものへと変わっていた。弛緩しきった柔らかい雰囲気になっている。まるで旧友同士が可能の再開を果たしたかのような、異様な空気だ。

 

 そんなむず痒い空気に耐えきれず、私は部屋から飛び出した。飛び出すといっても、それはあくまで比喩で、ゆっくりと立ち上がって普通に外に出ただけだ。決して誰かを怖がらせるような速度でも、誰かを怯えさせるような速度でもなかった。ないはずだった。

 

 ましてや、恐怖のあまりナイフで襲われるような速度ではないはずだ。

 

 そいつの反応は早かった。私が扉から出てすぐに腰付近にナイフを構え、狙い澄ましたかのように飛び込んでくる。

 

 避けられたのは本能だった。別段意識した訳ではない。あ、ナイフだ。あ、人間だ、とぼんやり考えていただけで、避けようとは思っていなかった。が、咄嗟に魔女の身体は酷く脆いことを思い出し、その場でくるりと回転するように躱すことができた。奇跡と言ってもいいだろう。

 

「いつから人里はこんなに物騒になったのよ」

「多分」と答えた魔女もどきもどきは、驚いてはいたものの比較的冷静そうだった。「元々だよ」

 

 ナイフを持った男は酷く焦燥していた。年のいった老人だ。髪がほぼ抜け落ち、豆電球のような頭はくすんでいる。顔も皺でくしゃくしゃになっており、男か女かすら分からなくなっていた。

 

「この私をナイフで誘うだなんて、随分とご挨拶ね」

「う、うるさい」

 

 老人の声は酷く嗄れていた。声というよりは声帯をただ震わせていると言った方がいいかもしれない。

 

「ワシはお前を殺さないといけないんだ」

「私、あなたに何かしたかしら?」

「ワシの妻は笑顔が素敵な人だった」

 

 言いながらも老人はナイフを持つ手に力を入れていた。目は憎しみで鋭く光り、口元は決意の証なのか血の混じった泡がこびり付いている。

 

「だが、お前らのせいで笑わない人になった」

「だから、私が何をしたかと訊ねているのだけれど」

「ある日、人里でお前らが、紅魔館の連中が散歩をしていたんだ。たまたま私と妻もそれを見かけてな。妻が呟いたんだ。『チビ蝙蝠がいるわよ』と」

「ああ」それならば覚えている。レミリアは別に気にした様子もなかったが、過保護な従者の怒りは振り切っていた。

 

「それが何か?」

「別に妻に悪気はなかったんだ。ただ以前に魔女の使い魔が、吸血鬼のことをそう読んだのを覚えていて、ただ呟いただけだった。なのにあのメイドは、ナイフでおどしてきたんだ。次はありませんよって。ニコニコ笑いながら」

「それが?」

「それ以降、妻は笑わなくなった。そのまま真顔で死んでいったのが昨日のことだ」

「だから私たちを恨んでいると?」

「筋違いなのは分かっとるわ」

 

 だがな、と目に涙を浮かべながら吠える男は熱血的で、愉快だった。「ワシももう歳だ。死も近い。だったら、最後に少しの鬱憤くらい晴らしても良いじゃないか。ワシが妖怪なんぞ殺せるとはおもっとらん。でも、挑戦くらいしてもいいじゃないか」

 

 きっと。この老人にとってこの挑戦は人生を賭けたものだったのだろう。酸いも甘いも経験した数十年の人生。その集大成のつもりだったに違いない。

 

 が、それは本人にとっての話だ。私からすれば、ただ赤子が己の命を嘆き悲しむのと同様に、老人が己の死を嘆き悲しんでいるだけにしか見えない。挑戦? 鬱憤? 馬鹿馬鹿しい。誰がお前の少ない余生のストレス解消に付き合ってやるものか。

 

 だがまあ。相手が死ぬ気できているのであれば、私とてそれ相応の対応をせざるを得ない。それがパチュリー・ノーレッジに喧嘩を売った奴の末路だと思い出させてやらなければならない。

 

「お前は挑戦と言っていたけれど、最後と言っていたけれど、それでも最後にするつもりなんてなかったんじゃない?」

「何を言って」

「人里で妖怪は人間を殺せない。あなたはそう内心では思ってんじゃないかしら」

 

 私を刺そうとしたのは偶然だろう。滅多に人里に来ない紅魔館の連中。そんな中、一番ひ弱そうに見える魔女が奇跡的に姿を現したから、思わず行動に出てしまった。そんなところではないか。

 

「あなた、名前は何と言うの」

「名前……多村。多村一郎だ」

「良い名前ね」皮肉やお世辞ではなく、私は本心からそう思った。少なくとも、この男は自分の名前にこれ以上ない価値を認めている。

「あなた達人間は自覚していないかもしれないけれど、名前は大事なのよ。名は体を表す。まさしくその通りで、名前はその存在がこの世にいた証と言ってもいい。だから」

「だから?」

「その名前を失ったら、どうなるか分かるかしら」

 

 手に魔力を込めながら、私は以前、妖怪の山の現人神が話していた創作物を思い出していた。外の世界の映像作品で、そこにいるタマネギのような髪型をした老婆が主人公の名前の一部を奪ってしまうというものだ。私からすれば、タマネギのような髪型がどんな物なのか、そちらの方が気になってばかりだったが、とにかく。あの創作はそこそこ当を得ていたと言えるだろう。

 

「どうなるか、教えてあげるわ。まああなたがそれを知ることをもうないでしょうけど」

 

 魔力を込めた手を男に向ける。対価は名前、結果はまあ、5円玉くらいにしておく。

 手を握る。一瞬だけ目前が白く光り、それからいつも通りの光景が広がる。平凡な人里の風景だ。閑散としているがどこか希望に満ちている、平穏な人里の風景。長閑で一点の曇りもない、清々しい朝だ。そこに間違っても、ナイフを持って自棄を起こした老人なんて存在しなかった。存在していなかった。

 

「お、おい。何が起きたんだよ」

 

 後ろから困惑した声が聞こえる。怯えているといった方がいいかもしれない。魔理沙がこんな声を出すとは、とても信じられなかった。

 

「あの爺さんはどうした」

「爺さん? 誰の話?」

「さっきまでいただろ。ナイフを持って暴れ出した爺さんが」

「いったい誰がいたというのかしら」

「誰がって、さっき名乗って」

 

そこで彼女は言葉を止めた。え、と声を漏らしたかと思えば目を大きく見開かせる。瞳が縦長に伸び、小刻みに震えていた。

 

「パチュリー。お前、あいつの名前を消したのか」

「名前を消した? 何よそれ。そう易々と名前が消える訳ないでしょ。あなたの人望とは違うのよ」

「名前を消されるとただ死ぬだけじゃなくて、皆の記憶からも消えてしまう。そう聞いたことがある。そもそも初めから存在しなかったかのように。だから、ただですら存在が曖昧な妖怪は名前にこだわると」

「何を馬鹿なことを」

「そうっすよ、姉ちゃん」扉の奥から出てきた情報屋の男がカラカラと笑う。「何変なこと言ってるんすか。そもそも、ナイフを持って暴れ出した爺さんなんていないっすよ」

「え」

「きっと、疲れてるんすよ」

 

 後ろからまじまじと見つめられているのが分かる。そんな彼女を私は警告と敬愛の意を表しながら横目で見た。口をもごもごとさせていた彼女だったが、すぐにいつもの表情に戻る。「お前」

 

「言ったでしょう」彼女が口を開くより早く声を被せる。そうしなければいけないような気がした。「私は歩くモップと呼ばれているって」

「え」

「人の痕跡を完全に消すことだって訳ないって言ったでしょう?」

 

 なるほど、と頷く彼女の目に、もはや疑惑は浮かんでいなかった。むしろ嬉しそうでもあった。期待の目をしている。いったい彼女は何を望んで私の『前世の記憶探し』なんて茶番に付き合っているのか。そんなこと、考えるまでもなかった。間違いなく自分のためだ。

 

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