無数のゾンビの群れを前に、私は久しぶりに気分が高揚しておりました。いい夜です。丑三つ時。魔力が高まるのが自分でも分かります。幸いなことに、魔法の森にいたゾンビのほとんどが私たちの周りを取り囲んでいるようでした。胸が震えます。ああ、と声すら漏れてしまいました。
いやぁ、懐かしいですねぇ。ゾンビを屠るのは千年ぶりくらいでしょうか。大した仕事ではありません。いえむしろ、準備運動と言うのが適切でしょうか。
「さて、ゾンビの皆さん。お機嫌いかがでしょうか? ああ、死んでいるので元気も何もありませんか」
おお、折角この私が話しかけてあげているのに無視ですか。中々にいい根性をしていますね。……あー、そうでしたそうでした。出来損ないのゾンビは話すことすらできないのでした。いけませんね。できもしないことを目下の存在に強制するだなんて。我が主のようなことをする訳にはいけませんね。
「まぁ、冗談はこのくらいにしておいて。私ちょっとお腹空いてるんですよね。ええ、まぁつまりはそういう事です。残念でしたね。呼ばれて早々ですけど、この世からバイバイです。ああ、もう死んでいますか」
いつもは隠している妖気を少し出してあげると、途端に静かだったゾンビ達がうなり声をあげ、私の周りをくるくると周りながら包囲網を作り始めました。なるほど、数の利を生かそうと。いい考えですが
「下策も良い所だ」
その言葉を挑発と受け取ったのか、何匹かのゾンビが襲い掛かってきました。しかし遅いですねぇ、これなら門番の方がまだ速いです。さあ、ただの捕食にならないように少しは足掻いてもらわないと困ります。面白くありませんからね。
ゾンビの動きは酷く緩慢でした。腐った足を引きずるようにのそのそと近づいてきております。円状に囲まれているためか、人間であればおそらく逃げ場はないのでしょう。ですが空を飛べるものには関係ありません。
が、こいつらの攻撃なんて避ける必要すらありません。人間の周りに魔力を使って壁を作り、そのまま受けて立ちます。遅いとはいえ、着実に足を進める彼らに取り囲まれたのはすぐのことでした。ゾンビの眼球に蠢く蛆が見えるほど肉薄します。が、私は避けません。
一体のゾンビが覆い被さってこれば、後の戦闘は一方的でした。無数のゾンビが身体に噛みついてきます。首の血管をかみ切られ、四肢の骨をへし折られ、内臓をえぐられる。腐った死体とは思えない攻撃性です。四肢を千切られ、腹に穴を空けられ、挙句の果てに首を撥ねられさえしました。動くことすらできません。
いやあ、楽しいですね。ここまで楽しいのは久しぶりです。やはり戦いはこうではなくては。では、そろそろ反撃と生きましょうか。唯一不満なのは、こういう圧倒的な展開からの逆転には、相手の絶望が付き纏うものなのですが、ゾンビにはそれがないということです。あまりに味気ない。
魔力を用いて身体を再生させ、目の前にいたゾンビの眼窩に指を入れます。腐って黄色くなった眼球をかき混ぜながら、我が主様仕込みの魔力を込めます。と、そのゾンビの、目、耳、鼻、口、毛穴、ありとあらゆる穴から真っ黒な液体が溢れ出しました。よく見るとそれはもぞもぞと蠢いております。それもそのはずで、あふれ出してきたのは液体ではなく、黒色の蛆の集合体なのですから。ゆっくりと、ですが着実にむくむくと膨らむように大きくなっていき、周りにいたゾンビどもをあっという間に巻き込んでいきます。巻き込まれたゾンビは、触れた部分から、まるで鬼に踏まれたかのようにペシャンコになっていき、悲鳴にもならない声を上げながら吸い込まれていきました。
ぐしゃぐしゃと、ゾンビが黒色に巻き込まれていきます。周りに血肉が巻き上がりますが、それもすぐに黒い蛆に巻き込まれ、消え去っていきました。
ゾンビ共の姿が完全に消え去るまで五分もかからなかったでしょうか。黒い蛆がなくなった頃にはもはや何も残っておりませんでした。ええ、何もかもです。生えていた木々も、草も、岩も石も花畑も、何もかもがなくなっております。自らの身体を確かめながら、ゆっくりと立ち上がります。傷は既に癒え、服が所々破れているだけになりました。我が主様はまた「服を汚さない戦い方をしなさい」と怒るでしょうが、知ったことではありません。
即席の結界で少年を覆っていたことを思い出したのはそれからすぐのことでした。自分の攻撃に巻き込んで護衛対象を殺してしまいました、なんて愚かなことをするほど落ちぶれた記憶はありませんが、存在を忘れていました。うっかりうっかり。
結界を解くと、そこには地べたに座り込む少年の姿がありました。視界は妨害しておりましたので、先ほどの光景は見ていないはずなのですが、少年の様子は妙でした。熱に浮かされたようにぼんやりとしており、身体を小刻みに震わせております。精神的な問題ではなく、身体的に何か異常が起きているに違いありません。いったいなぜ。いつの間に。
「これだから人間のガキは嫌いなんですよ」
上体を抱え上げ、額に手を置きます。酷い熱でした。病気の気配もなく、毒物によるものでもありません。何か膨大なエネルギーが彼の脳を襲い、その熱に耐え切れていない。いったい何が起きているのかてんで検討がつきません。何が起きているのか。
「仕方が無いですねえ」
正直に言えば、こんな子供がどうなろうと知ったことではない。が、せっかく人が気持ちよくゾンビを倒したというのに、ここで死なれてしまえば仕事にケチをつけられかねません。それこそ、このゾンビを作り出した馬鹿を殺すまでは、彼には生きてもらわなければ困る。人間の子供というものは人質にはもってこいですから。
「本来であれば私の能力はそう易々と使えるものではありませんが」
私は手に魔力を込め、自らの能力を使う準備を整えます。以前、我が主が十キロ太った時以来でしょうか。もはや懐かしさすら覚えます。
「対価は……そうですね。私の髪の毛一本でいいでしょうか」
朱色の自慢の毛をむしり手に握りこむ。力を流し込むと一瞬で髪の毛が霧散した。元々この世にはなかったかのように、後からもなく消え去り、代わりに少年に柔らかい光が覆い被さり、
そして私の右翼が爆散した。
鈍い痛みと血が飛び散る音が全身を覆う。舌打ちが溢れる。失敗した。何故? こんな人間を救うのに、私の髪の毛では足りないとでも言うのでしょうか。私にとってこの人間は、私の髪の毛以上に価値があるとでもいうのでしょうか。
「……コア、お姉ちゃん」
「私はお姉ちゃんという年じゃないですよ」
言いながらも、私は冷静になれ、と自分に言い聞かせておりました。やるべき事は単純です。発熱した人間の手当など、図書館の整理と比べれば余裕も余裕。考える必要すら無いはずでした。が、なぜでしょうか。嫌な予感がします。私では既に打つ手がない。本能的に、そう悟ってしまう何かが少年にはありました。
「その、ありがとう」
「なぜお礼を? 私がいったい何をしたというのですか」
「何もかも」
何ですかそれは、と私が訊ねるのと、少年の力が完全に消え去るのは同時でした。ぐったりとし、首がことりと落ちた彼の目は白くなり、電池が切れた人形のようにぐったりとしております。手足は私が伝える振動でふらふらと揺れ、頭は自重に従い落ち込んでおりました。
人間は脆く儚い。そんなことは分かっていたはずでした。はずだというのに、ここまで呆気ないとは思ってもおりませんでした。いったい何が起きたか分かりません。この私の頭脳をもってしても状況が理解できないなんて。異常事態に決まっておりました。
「無様ですね」私の声など聞こえていないでしょうが、それでも私は声をかけておりました。その意図は自分でも分かりません。「笑えます」
「酷いよ」
ですが、まさか返事がかえってくるとは思いもしませんでした。さすがの私も驚いてしまいます。
先ほどまでたしかに脱力していたはずの少年の身体に力が戻ってきております。私の手から離れ、そのまま当然のように立ち上がりました。その場で屈伸運動を始めだします。先ほどのあれは演技か何かだったのでしょうか。だとすればオスカーも顔を青くするでしょうが、その意図が分かりません。悪戯? それにしては迫真でした。
「お前、身体は大丈夫なのですか」
「身体? うん。今のところ大丈夫だけど」
「さっきまで死体のようになっておりましたが」
「あー、うん。ちょっとさっきまで身体の自由がきかなくて」
苦笑しながら少年は頬を掻きます。どこか胡散臭い。いえ、胡散臭いと言うより年寄り臭い仕草です。
「でももう大丈夫だから」
「だから? 大丈夫だから何だと言うのですか」
「早く人里に戻ろう。お嬢ちゃんだって、早く帰らないと皆が心配するだろう」
「お嬢ちゃん? するだろう?」
少年が固まります。なぜ急に口調を変え、なぜそれを指摘すると固まるのか。考えるまでもありません。固まったのは疚しい部分を指摘されたから。ではなぜ口調が違うことが疚しいことなのか。
「お前に一つ聞きたいことがあるのですが」
「な、何」
「最近新しく辞書に追加される予定の言葉、知ってますか。塵も積もれど」
「塵も積もれど……」
「そうです。その続きです」
「山となる、じゃない?」
言葉を失います。頭の中で何かがパンと弾けたような気がしました。どす黒い何かが身体の内側から噴き出してきます。
「あなた、吉田少年ではありませんね」確信を持って言ったその言葉は、自分で言ったにもかかわらず、酷く冷酷に聞こえました。「変身ですか? それとも憑依ですか。どんな手段を用いたのですか? 正直に答えてください」
「わ、私は」
「嘘を吐けば敵対行為と見なします。沈黙も同様です。私はたしかに我が主様が許可しなければ、自衛以外の攻撃はできません。そういう契約です。が、やりようはいくらでもあるのですよ」
一瞬、押し黙ったそいつだったが、沈黙すら許されないと悟ったのか「分かった分かった」と、今度は取り繕っていない自然な声を発します。「言うよ、全部」
「今の声であなたの正体が分かりました。まあ、おおよそ分かっておりましたが」内から溢れ出る嫌悪を必死にこらえながら「お前は」と私はそいつに指を差します。「お前は、あのかき氷屋の店長ですね」
そいつは特に何も言うことなく、こくりと頷きました。姿形こそ少年のものでしたが、彼の仕草の一つ一つは年寄り臭く、違和感が酷い。バレるのは時間の問題でしたでしょうに。隠すだけ無駄です。
あはは、とどこからか笑い声が聞こえます。いったいどこから聞こえてくるのか、と周りを見渡しますが、すぐに自分の笑い声だと気づきました。傑作です。こんなことがあるだなんて。
「あなたに一つ、面白い話をしましょう」
「え」
「実はですね、私達は妖怪の森でゾンビを生み出していた馬鹿を捜していててすね」私の言葉に対しても、そいつは返事をしなかった。おそらくできなかったのでしょう。だから? そいつのことなど、もはやどうでもよい。
「おそらく、どこかの愚か者が死体に魂を植え付けている。そこまでは分かっていたのです。が、その目的が分かりませんでした。ゾンビなんて増やしたところで、利益を得るような奴はいませんから。まあ、今なら分かりますよ。そいつの目的はゾンビを作ることではなかったのでしょう」
我が主と同じです。こういう連中は、ある目的のためには手段を選ばない。その過程で何が起きようと、その後始末まで頭が回らないのです。
「そいつは単に実験をしていたに違いない。ええ、そうですとも。そうです。私は散々この光景を見てきた。老いた人間が考えることはいつだって一つです」
「一つって」
「不老不死ですよ」何を今更言っているのでしょうか。「自分の魂を老いた身体から新しい肉体に移す。それを繰り返せば事実上の不老不死になれますからね。ありきたりです。あなたはそれを死体でやろうとして、失敗していた。だからゾンビがあんなにできていたのです」
ですので現れた死体は若い人間、もしくは子供のゾンビばかりだったのでしょう。せっかくの新しい肉体が老いていては意味がありませんから。
「けれど、お前は失敗し続けます。いくら死体に魂を入れたとしても、ゾンビしか生まれない。そう気づいたのでしょう。ですからお前は」
内側から溢れてくる笑みを必死にこらえながら、私は言葉を続けます。そうしなければ、すぐにでも手が出てしまいそうでした。
「生きている人間でそれをしようと思い立った。そうですね」
そいつは返事をしません。沈黙は敵対行為だと言ったにもかかわらず、丸い目で私を見つめてくるだけです。
「そのためには生きている子供が必要です。それでお前は身寄りの無い吉田少年に目をつけた。そういうことなのでしょう。ええ。幼い子供を自らの欲望のために躊躇無く利用する。まさしく悪魔の所業と言えますね。そこのところ、どう思っているのですか」
そいつは酷く怯えた顔だったが、それでも口元を緩めていました。酷く老獪な仕草です。とても少年がやるとは思えない仕草。酷い違和感のせいで、嫌悪感すら覚えてしまいます。
「まあ、ワシはリサイクル人間だからな」開き直ったのか、しごく自然な口調で──それはつまり、かき氷屋の店主として自然な口調で言ってきます。
「捨てられていて、どうせ朽ち果てるしかない奴を再利用して、長生きさせてやるんだ」
偉いだろ? と吉田少年の姿をした店主が言ってきます。もちろん、私は無視することしかできませんでした。
「少年はどうなったんですか」
そう訊ねたことに大した意味はありませんでした。なぜなら答えなど聞くまでもないからです。
「吉田は……」と一瞬だけ口をまごつかせたそいつは、「死んだよ」とあっけらかんと言い放ちました。ごく自然な言い方だったせいで、なるほどそうだったのか、とすぐに頷きたくなります。イギリスは死んだ。プロ野球は死んだ。そして吉田少年も死んだ。そういう、比喩的な意味なのかと訝しんでしまうほどでした。「ワシが肉体を貰ったからな。吉田の魂はもはやどこにもない」
「詳しく話してもらいましょうか」
「分かった。分かったからその目を止めてくれ。死にそうになる」
私の知っているかき氷屋の店主は、それこそ死にそうなくらい萎びていたのだが、今の彼は幼い吉田少年の姿だ。そう。吉田少年の身体に、かき氷屋の店主の魂が入っている。
「ワシはな、最高のかき氷を作る。ただそれだけのために生きてきたんだ」
「はあ?」
「若い頃からただそれだけを追求していたんだ。どれだけ馬鹿にされようとも、どれだけ蔑まれようとも、私はそれだけは達成しなければならない。そうじゃないと、死んだ父に顔向けできないから」
「すこぶる興味がありませんね」
「だが、ワシも寿命には勝てない。自分の死が近づいているのをひしひしと感じたよ。まだかき氷が完全じゃないのに、私はこのまま死ぬのかって」
「死ねばよかったのですよ」
「そこで、私は受け取ったのだ。あの魂を移動させる金色の宝玉を」
でしょうね、と言いたくなる。大凡予想はついておりました。そして、だからこそ私はここまで腹が立っているのです。「渡してくれたお方は言ったんだ。これを上手く使えば、お前は不老不死になれるかもしれない。魂を新しい肉体へと永遠に移し替えられれば、死を克服できるかもしれないと」
吉田少年の身体で、必死に情報を喋るかき氷屋は滑稽だった。下手くそな選挙演説のようにも、幼子の言い訳のようにも聞こえます。「でも、そのやり方は分からない。私たちではこの道具ではゾンビしか作れない。そう言っていたんだ。だから、私は必死にこの道具の研究をした」
「それで、お前はゾンビを大量に作っていたのですね」
「副産物だよ」
何度魂を移してもゾンビになるんだ。老人は己の成功した研究について話したいからか、そこにマイナスの感情はありませんでした。かき氷を作るために魂をかけた男が、不老不死のためにゾンビを作るだなんて、あまりに倒錯的です。
「でも、ようやくその方法を見つけたんだ。簡単なことだったんだよ。死んだ肉体に魂を入れても、うまく定着せずにゾンビになる。だったら」
「生きた人間を使えば良い。そんなこと、実験なんてしなくとも少し調べれば分かりますよ」
おそらく、我が主であれば即答できたであろう。本で知識を身につけたということもあるが、魔女という存在は、己の知識欲を満たせばそれを応用し、実践する妖怪です。つまりはきっと、我が主も似たようなことは行っているはずなのです。それこそ、この男と同じように『研究』として。
「それでお前はこの少年を家で飼っていたということですね」なるほど、と納得してしまいます。たしかに妙だとは思っていたのです。あんな稼ぎのない老人が、あんな年頃の孤児を好んで養うはずありませんから。「己の肉体にするために」
「そうだが」
「下らないですね。ええ、心底下らなく、人間らしくない。私のもっとも嫌いなタイプの人間です。生かしておく価値もありません」
「ちょっと、待ってくれ」
ようやく自分の置かれている現状を理解したのか、人間は慌て始めます。時既に遅しだというのに。無様ですね。
「まさか殺すつもりなのか」
「ええ。当然。むしろよく生き長らえられると思っていましたね。無茶ですよ。この私を前に、こんな無礼なことを働いて、生かしておく訳がないでしょう。いえ、別に人間に感情移入をしているわけではありませんよ。あの少年のことなどどうでもよいのです。やっと拾われたかと思えば、その主人は自分のことを利用して、あまつさえ殺す気でいただなんて、そんな境遇に同情した訳でも、シンパシーを感じた訳でもありません。ただお前が気に入らないから殺す。それだけです。私はあの出来損ないとは違って優しくは」
ありませんから。そう続けようとしましたが、咄嗟に言葉が止まります。そういえば、あの出来損ないは? あいつは何をしているのか。ゾンビを殲滅するという簡単な任務すらこなせなかったというのに、なぜ戻ってきていないのか。私のウジ虫に飲み込まれた? それはあり得ません。だとすれば私が知覚できていないはずがありませんから。では逃げた? いったいなぜ。一番ゾンビ退治に乗り気だったのはあいつだというのに。
そう。そうです。そうだ。そうじゃないか。あいつはなぜあんなにもゾンビ退治に乗り気だったのか。あいつはなぜ、このゾンビ大量発生をもたらしたのが『人間』だと分かっていたのでしょうか。あいつが私たちを、このかき氷屋に連れて行ったのは偶然だったのでしょうか。そもそも言っていたではありませんか。孤児である吉田少年を、かき氷屋に提供したのは他でもないニャプであると。
「おいお前、その金色の玉は誰からもらったんだ」私の声は自分でも驚くほど低くなっていた。「お前の魂をガキに移したのは誰だ。まさか自分でやっただなんて嘘は吐かないよな」
「それは」
「はやく」
「それは……」男は一瞬考え込むような仕草をしたが、私の目を見た途端「ニャプさんだ」と白状した。胸の内の黒い疑惑がますます濃くなっていく。「ニャプさんと、その同士の悪魔だ。そ、そいつらが手伝ってくれて」
「何のために」
「なんか……自分たちも使うから、その準備だとか言ってた……多分だが、あいつらの主人が死にそうだから、同じように魂を肉体に」
「主?」聞き捨てならない言葉が聞こえ、耳を疑う。同士というのは、人里で見たあの悪魔共でいいだろう。だが主というのはいったい。「あいつに主がいるのか」
「有名だ。エミさんだよ。人里の端のぼろ屋に住んでる女性だ。魔女になるってずっと言ってた優しい女性だ」
「あいつか」
ゾンビに詳しいとニャプに連れられて出会った女性。魔女にすらなれなかった哀れな死に損ない。あいつがニャプ達の主? そんな馬鹿な。だとすれば、なぜあいつは我が主の元へ来たのか。既に契約中の身で、次の契約主を探しに来た? そろそろ死にそうだからといって? あり得ない。いくら悪魔が狡猾でずる賢いといえど、今の主が生きている間にそんな愚かなことをする奴はいない。契約違反どころの騒ぎではないからだ。
じゃあなぜ。あいつはたしかにパチュリー様に「我が主になってください」と、そう言った。それはつまり。文字通りの意味であるということなのか。新しい契約主になってくれという意味ではなく、パチュリー様に、『我が主』に。エミなる人間になってくださいと、そう懇願しているのだとすれば?
『こういう時は鬼の居ぬ間に洗濯作戦にゃ』
記憶の片隅から、忌々しい出来損ないの言葉が聞こえてくる。たしかあれは、魔理沙に出来損ないが講釈を垂れている時のことだ。
『敵地に攻め込む時は、厄介な敵を追い出してから攻め込むのが鉄則にゃ。ゾンビがいる森なら、ゾンビを他の場所に誘導して、その後に攻め込むにゃ』
どこからか爆発音が響き、地面が揺れたのはその時だった。もはや見なくとも分かる。紅魔館の方向だ。
ピキリ、と何かが折れる音が響く。私の歯だと気づいたのは、口の中に血の味が充満した時だ。もしかして、私はまんまと罠に嵌まったのか? この私が? あんな奴の罠に? そんなことがあっていいのか。いいはずがない。安い挑発にまんまと乗せられ、外におびき出され、その結果我が主が危険にさらされているのか。何と言う無様な失態。
「腹立たしい」いつの間にか拳を握りすぎて血が零れている。が、そんなことはどうでもよかった。「本当に腹立たしい。上等抜かしやがってあのクソガ」
呆然と突っ立っているかき氷屋の胸ぐらを右手でつかみ、立ち上がらせる。胸がつまって苦しいのか、足をばたつかせていたが、そんなことはどうでもいい。左手を軽くあげる。吉田少年の肉体が震え、目元には涙がたまっていた。
が、そんなことはどうでもいい。
「なあお前、私の肩を叩けよ」
「え?」
「早くしろ」
怯えてはいたが、それでも店主は私の肩を叩く。それは叩くというよりは撫でるといった方が適切かもしれないが、それで十分だった。これで反撃できる。
躊躇せず、思い切り少年の顔を左手で叩く。更地になった地面を猛烈な勢いで少年の肉体が這っていく。二、三度地面を跳ねたかと思えば、全身を砂で擦りつけながら、ようやく止まった。全身が血まみれになり、左足と右腕が逆方向に折れているのが、ここからでも分かる。が、しぶといことにまだ生きているようだった。運がいいのか悪いのか。いずれにせよ、こんな場所で血塗れでいれば、どこかの妖怪に殺されてしまうだろう。
まあ、運がよければ助かるかもしれない、とぼんやり考えながら、私は急いで紅魔館へと向かった。