第1話 足りない皿 一.
草木も眠る丑三つ時。虫の音さえ沈黙した夜の帳が降りた頃。
都心部にそびえる壮麗な寮の中では、薄らと微かな灯りが人気の無い廊下を照らしている。
不思議なことに、夏の夜に特有の蒸すような
しかしだからと言って、過ごし易く快適な夜というわけでもない。背中と腹の周りを撫で擦られるかの如き不快な感覚に襲われていたからだ。
パリ――――――
ふと、廊下に音が漏れ聞こえてくる。
パリン――――――
壊れ物でも落ちて砕けたのか、高く響く音。
廊下の左右に並ぶ個室からの音ではない。出どころは、廊下をもっとずっと進んだ先にあった。
不気味な事態に、今すぐ踵を返せと本能が警告する。
ところが二本の足は先に先にと進み続ける。
恐怖心と好奇心。理性と本能。それらがない交ぜとなって葛藤している内に、廊下の奥のドアの前までやって来た。
調理室。
ドアプレートの表示を確認もせずに、ドアノブへ手を掛けた。掴む時は恐る恐る、しかし掴んでからは躊躇せずにドアノブを回して引っ張った。引っ張ってしまった。
パリン――――――
より一層はっきり聞こえる破砕音。
廊下と違って真っ暗なはずの給湯室に、ぼんやりと青白い灯りが人型の輪郭を描いていた。
「……ない」
人型が声を発する。
声と呼ぶべきか音と呼ぶべきか微妙なところだが、腹の奥底から凍えさせる形容し難きものだった。
「……足りない」
曖昧だった人型の輪郭が急にはっきりしてくる。
白装束に腰より長い黒髪。その後ろ姿がゆっくりと振り返ろうとする。
立ち去るなら今だ。逃げ出すなら今だ。今しかない。
けれども両足は根を張ったかのように動かなかった。
「一枚、足りない」
振り返った
◇
「あ゛ーーーーーーっ! もうやだーーー!」
部屋の中に幼子の悲鳴が木霊する。
否、容姿と仕草こそ幼子のそれだが、身に纏っている物は高等部の制服だった。
色素が非常に薄い灰色の長髪を震わせながら、幼い少女――――佐々木藍は赤毛の少女に抱き付くように縋り付く。
「何よー、これからがいいところなのにー」
そんな藍の背中から明るい茶髪の少女が声を掛けた。台詞こそ残念そうだが、声色と表情はその限りではない。むしろ楽しんでいた。現に両手をだらりと垂れ下げて幽霊の真似事をしている。
「やだやだ! 怖いのやだぁ! 恋花の馬鹿ぁー!」
「だから怖いのはこれからだってば」
「知らない知らない! いーーーっ!」
歯を剥き出しにして威嚇する藍に対しても、飯島恋花は飄々としたまま。余計に面白がって藍の方へと近付くぐらいであった。
「恋花、そのへんにしときなよ」
「だってぇ、反応が可愛いんだもん」
「可愛いのは分かるけど、やり過ぎ」
「ちぇーっ」
恋花を嗜めたのは、藍を抱き留めているセミショートの赤毛の少女。
絨毯の上に片膝を立てて座っているが、その状態でも彼女――――初鹿野瑤の体格の良さは歴然である。ついでに言えば、顔立ちも大人びている。高校生らしからぬ幼さの藍とは何とも対照的だった。
「恋花さん、今の話って『皿屋敷』の怪談よね?」
「そうそう、その怪談を現代風の都市伝説にアレンジしたものが今流行ってるのよ」
小首を傾げて恋花に尋ねたのは芹沢千香瑠。
長い茶髪をポニーテールに纏め、黒タイツに包んだ長い脚を横に崩して座る彼女は、瑤とはまた違ったタイプの大人っぽい少女だ。
「待ってください。アレンジにしても、違和感がありませんか?」
よく通る声が会話に加わってくる。
青みがかった黒髪のショートに意志の固そうな瞳。きっちりと折り目正しい正座。相澤一葉は藍と同じく高等部一年生で、他の三人とは学年が一つ下である。
「元々『皿屋敷』は皿の枚数が足りないことで死に追いやられた悲劇の怪談のはず」
「いやまあ、そうなんだけどさ」
「なのに、その白装束の人物が幽霊だと仮定して、幽霊自ら皿を割るというのはいかがなものでしょうか。何かしらブラックジョークの類なのでは? それにあれほど何枚も割っていては、不足分は一枚どころじゃなくなるでしょう。あるいは、もしや――――」
「あーっ、もう! 都市伝説に理屈を求めるんじゃないよ!」
業を煮やした恋花が一葉に襲い掛かる。両手の指で両のほっぺを摘まみ、ぐにゅぐにゅと揉み始めた。
「これはこういう話なの。あんたはもっと柔らかくなりなさい。
「い、いひゃい……。なめこは遠慮しておきます……」
涙目になりかけたところで、一葉は恋花の指から解放される。
また時を同じくして、藍もようやく落ち着いたのか、ぐずぐずと鼻を啜りながらも泣き止んだ。
「ねえ、千香瑠ぅ。
「藍ちゃん、都市伝説っていうのはね。昔々の怖いお話の代わりに、今の人にも分かりやすく作ったお話なの。ビルの中やエレベーターの中の出来事だったり、機械やインターネットが出てきたり。大昔では考えつかない内容が特徴よ」
千香瑠は優しく教え諭すかのように答えた。
現代の怪談、それが都市伝説。インターネットを通じて急速に広まるという、情報化社会特有の性質を持っている。
「でね、この都市伝説版『皿屋敷』なんだけど、
わざとらしく声のトーンを落として恋花がそう語る。
流行に敏感で噂話の好きな恋花。この手のホラーも当然の如く嗜んでいるのだろう。
ところが、そこにまたしても水が差される。
「感心しませんね、恋花様。よりによって私たちのガーデンでそんな流言が流行るなんて」
「あれ、一葉は幽霊とか心霊現象とか信じないタイプ?」
「無論です。私も娯楽としての噂話を全て否定はしませんが……。ガーデン内での流布は流石に見過ごせませんね」
「でもさあ、実際に見たって子も居るんだって」
「それは恐怖による錯誤の可能性が考えられるでしょう」
食い下がる恋花に対し、一葉はきっぱり言い放つ。
「いいですか? 心霊現象というものは、プラズマの発光で説明がつくのです!」
「あっ、あかんやつだ、これ」
察した恋花はそこで言いくるめるのを諦めてしまった。
その後も暫くの間、部屋の中ではわいわいと賑やかな時間が続く。
ふと、千香瑠は壁掛け時計に目をやり立ち上がる。
「もうこんな時間。そろそろお夕飯の準備しなきゃ。余ってる食材で……何を作ろうかしら」
「らんはハンバーグがいい! ハンバーグ!」
「あらあら、どうしましょうか?」
「ハンバーグにしよう! 瑤もハンバーグがいいよね!?」
「そうだね、ハンバーグだね」
「ふふふ、じゃあご期待通りハンバーグを作るわね」
ここは東京六本木に校舎を構えるガーデン、エレンスゲ女学園。そのエレンスゲトップレギオンたるヘルヴォルのレギオン控室。
部屋の端のハンガーラックに五着仲良く掛けられた白のジャケットは、彼女らがエレンスゲのリリィであることを物語っていた。
◇
後日、ヘルヴォル控室に再び五人の姿があった。
控室の中だというのに、全員が黒のインナーの上にジャケットを羽織り、更には待機状態のチャームまで傍らに置いてある。
いざ出撃……というわけではない。一年生にしてヘルヴォルのリーダーである一葉の提案が原因だった。
「では皆様、準備はよろしいですね?」
やる気に満ちた一葉の手には、小型のビデオカメラと設置式の集音マイクが握られている。
「一葉ちゃん、本当にやるの?」
「心配無用です千香瑠様。巷を騒がす幽霊とやらの正体、必ず暴いてみせますよ」
困惑気味の千香瑠に対し、一葉は自信を滲ませる。
一葉の提案とは、自分たちの手で噂の真意を確かめて騒動を収めようというものだった。
「よくそんな機器が借りられたね」
「事情を話したら割とあっさり許可が下りました。やはりガーデンとしても、学内が浮足立つのは快く思っていないようです」
瑤が指摘した通り、一葉が持ってきたカメラもマイクもお遊びや気まぐれで使用許可が出そうな代物には見えない。
本来ならこのような案件は風紀委員の仕事だが、一葉たちが自主的に動くなら止める理由も無いということか。
勿論、ここ最近ヒュージの活動が低調でガーデンに余裕があるのも一因だろう。
「恋花はそれ、何を持ってきたの?」
「ふっふーん。十字架に銀のペンダントに塩の瓶。魔除けの定番っしょ」
「何か交ざってない? 吸血鬼じゃないんだから」
「そういう瑤は、何? そのタッパーの中身は」
「鰯の頭」
「夕飯の余りかい!」
幽霊退治だと思って彼女らが用意したのがその品々。
「らんはね! らんはね! たい焼き三つ持ってきたよ!」
「夜食にすんの?」
「たいが三つで悪霊
「うーん、上手い。座布団一枚進呈しよう」
「藍、可愛い……」
ジャケットの袖にすっぽり包まれた両手をパタパタと振ってアピールする藍。
そんな藍の主張に恋花も瑤も乗っている様子。
「三人とも、遊びじゃないんですよ。そういった物ではプラズマをどうこうはできません」
「あんたはプラズマから離れなさい」
「プラズマ現象でなかったとしたら、噂話に便乗した誰かの悪戯でしょう。いずれにせよ、我々の手ではっきりさせるんです」
恋花の突っ込みを受け流し、一葉はそう宣言した。
ヘルヴォルのちょっと奇妙なオペレーション、開始である。
◇
控室のあるガーデン本校舎からやや離れたエレンスゲの学生寮。寮もまた校舎に負けず劣らず立派な造りをしている。
箱だけでなく中身も豪華だ。各学年ごとに、中々の広さと設備を備えた調理室が設けられていた。
それに加えて本校舎の方にも、上位レギオンの控室にそれぞれキッチンが付属する。
流石は都内でも有数の金満ガーデン。至れり尽くせりと言ったところか。
「各調理室の目立たない所にカメラとマイクを仕掛け、送られてくる情報をこの空き部屋でモニターします。異常が確認されたらいつでも飛び出せるよう、交代で備えましょう」
一葉が立てた作戦は至ってシンプルなものだった。シンプルが故に、堅実とも言える。しかし堅実ながら、気の長い話でもあった。
元は応接室か何かだったのだろう。そこそこの広さに、テーブルと幾つかの簡素な椅子のみ残る空間。
その部屋に仮眠用の寝袋と夜食と暇つぶし用のレクリエーション用品を持ち込んで、ヘルヴォルは長期戦の構えを見せている。
「ねえねえ、皆でトランプやろうよー」
「えぇー、藍ってルール知ってるの?」
「前に一葉に教えて貰った。七並べ」
「それよりもジェ○ガにしよう。怪談並みにスリルあるよ~」
藍と恋花は既にお泊り会モードだった。
「あまり大きな音は立てないでくださいよ?」
二人に背を向けたまま窘めた一葉は先程からせっせと機材の準備を進めている。
旧式の箱型だが、ちゃんと機能するモニター。集音マイクの受信機。そしてその二つから伸びる何本もの長いコード。
一葉はテキパキと作業を終わらせ監視体制を整えた。
「ガーデンの寮の中での犯行ですから。外部の人間による犯行は考え難いでしょう。恐らくは内部の人間による愉快犯。であるならば、そう遠くない内に尻尾を掴めるはずです」
それが一葉の分析だった。
犯人が自分たちと同じエレンスゲのリリィなら、行動やアリバイをある程度は調べられるし、必ずガーデン内に犯行の痕跡が残るはず。
今すぐには無理でも、やがては解決できる。一葉はそう考えた。
モニターに映る調理室の映像に集中しようとしたところで、一葉は機材のセッティングを瑤と共に手伝ってくれた人物の異変に気付く。
千香瑠だ。どこか浮かない顔で考え事をしているようだ。
「千香瑠様、安心してください。訓練や出撃に支障をきたさない程度にしますので」
「……えっ? ええ、そうね」
「我々リリィの本分は、ヒュージを倒して街を守ることですから」
千香瑠の懸念を慮って一葉がフォローを入れる。
それでもなお、千香瑠は何事か思案しているようだった。
一葉は敢えてそれ以上追求せず、本人の考えが纏まるまで待つことにする。
やがて遊び疲れた藍が寝袋の上に寝そべった頃、モニターに代わり映えの無い映像が流れ続ける中、千香瑠が口を開く。
「ここが空振りだったら、明日は校舎の方を当たるのはどうかしら」
「校舎といったら、レギオン控室のキッチンスペースですか? いや、しかし、わざわざそこを狙うでしょうか?」
突然の提案に、一葉は顎に手を当て熟考する。
普段からリリィたちが集う控室に侵入するなど、目立って仕方がない。夜間待機のリリィだって居るだろう。
即答できないでいると、表情を引き締めた千香瑠が改めて口を開ける。
「毎日同じ場所を見張っていても、気付かれて警戒されるかもしれないわ。だから、ね?」
「……そうですね、その可能性もあるでしょう。分かりました。明日は校舎で張り込みましょう」
熟慮した上での千香瑠の案を、一葉は最終的に受け入れた。いつも控え目な彼女がここまで主張するのだから、確信めいたものがあるのだろう。
結果的に、この時の判断は間違っていなかったと証明された。ヘルヴォル控室のキッチンが何者かに荒らされた事実によって。
予告通り、ヘルヴォル長編小説始まります。
ヘルヴォルは五人で完成され過ぎてるため、何を入れても異物にしかならないのですが、逆に言えば五人だけでも話が回せそうなのが強みの一つですね。
とは言え本作品では相変わらず独自設定が盛り沢山です。
クロスオーバー要素については追々…