恋花と藍が麓の町に残る一方で、一葉と千香瑠と瑤の三人は寝床としていた山小屋を引き払うべく大江山を登っていた。
道中、会話が少なく黙々と歩んでいると、山の景色が自然と頭の中に入ってくる。
直接姿は見えなくとも、鳴き声や気配で分かる森の小動物たち。
かつて「野生の動物がヒュージ化する」と真しやかに囁かれた時代があった。実際に、一部のガーデンでは敷地内の小動物を駆除している。
その論が真実であれば、この山の光景はもっと違ったものになっていただろう。そうならずに済んで本当に良かったと一葉は思う。
「一葉ちゃん」
歩く速度を緩めないまま千香瑠が話し掛けてくる。
「少し気になったことがあって。一葉ちゃんの夢の中に出てきたあのお猿さん、確か『もうじき地獄がお出迎え』って言ったのよね?」
「猿の発言と言っていいのかどうか。車内アナウンスがそう言っていました」
「その言葉、初めは列車に乗り込んだ人間を地獄送りにするって意味だと捉えていたのだけれど……」
途中で言い淀む千香瑠。
「もしかして、これからどこかに地獄が生まれるって意味だったとか?」
「はい……」
後ろを歩く瑤が続きを引き継ぐと、千香瑠はそれを肯定した。
「あの麓の町が、そうなると。しかし猿の妖怪はスイカさんが連れ帰っています。また別の妖怪なり怪異なりが現れるのでしょうか」
「私の考え過ぎなら良いんです。本当に偶然の土砂崩れなら。でも、もしもこの悪い予感が当たっているとしたら、相手はきっとただの怪異では済まないわ」
京の怪異は大物ばかり。京都到着前の千香瑠による警告は、今では痛いほど身に染みていた。橋姫もそうだし、奇妙な協力関係を持つに至ったあの小さな少女妖怪もそうである。
「急ぎましょう」
一葉の一言によって、三人は山道を登る足を速める。
マギによる跳躍は使用せず。この段階で目立つ行動は躊躇われた。
やがて仮住まいとしていた山小屋が見えてくる。
小屋の入り口から幾分か離れた木の根元に誰かが立っている。
「ちょっとばかり早いご帰宅だなあ」
子供みたいに小さな体から飛び出したのは、全てを見通しているかのような不遜な物言い。
こんな時にこんな場所にやって来る者など、一人しか思い浮かばなかった。
◇
一葉たちは山小屋からの撤収作業に入っていた。
持ち込んだ荷物を持ち帰り、使用していた設備を元に戻す。本来なら丁寧に清掃してお返しするのが一葉の流儀だが、今回は状況を鑑みて断念する。
小屋でヘルヴォルを待ち構えていたスイカとは、手を動かしながらの会話になった。恩ある相手なのでゆっくり別れの挨拶をしたいところだが、やはり状況が状況なので仕方がない。
「山を下りるってことは、修行に満足したってことかい」
小屋の広間にて、背負ってきた背嚢に荷物を詰め込む一葉に対し、傍で胡坐を掻くスイカが問い掛けてくる。
「いいえ、まだまだ不足だと思っています。それでも、今動かなければなりません」
「町がキナ臭いからか」
スイカもまた事態を把握しているらしい。当然だ。彼女は今までもヘルヴォルの戦いを影から見てきたのだから。
「こっちの世界で怪異が暴れたら、貴方も困るんでしょう? 結界に影響するから」
「ん? ああ、そうだな」
「だったら、貴方自身で退治はしないの?」
奥の部屋からやって来た瑤がスイカに尋ねた。
修行の際に幾度となく手合わせしてきたヘルヴォルには分かる。彼女が見た目に反した底の知れなさを秘めていることは。
「前にも言ったけど、これは儀式なんだよ。人間の手で怪異を討つ。怪異を克服するってな。そうして概念の結界を補強しなけりゃ、イタチごっこだ」
「そう……」
「それに私らがこっちで力を使うのには色々と制限がある。人間の悪意を利用したり、都市伝説に乗っかったり、空間を異界化させたり。あるいは橋姫みたいに縁ある土地から恩恵をうけたり、な」
「恩恵?」
「ご当地パワーってやつだ」
「何、それは……」
からからと笑うスイカを見て、一葉はどこまでが本気なのか判断しかねる。
まさしく霧のように掴み所の無い少女だった。一見すると、その言動は豪快そのものなのだが、額面通り受け取れるような状況ではなかった。
「まあ、またちょっとは助けてやるよ。手助け程度はな」
それに関しては嘘を吐いているとは思わない。実際に東京では助太刀してくれたのだから。
あくまで主体は人間ということなのだろう。一葉もその点に異論は無い。
「一葉ちゃん、こっちは終わったわ」
広間に千香瑠が戻ってきた。それは撤収の準備が完了したことを意味する。会話の最中に一葉も瑤も作業を終えていたからだ。
一葉は板床の上で正座を解いて静かに立ち上がる。
「では、これで本当にお暇させて頂きましょう」
不足を恥じて山籠もりに赴き、この小屋に泊まって鍛錬に励んできた。
時間としては大したものとは言えないだろう。だがそれでも少しは愛着が湧くし、名残もある。
とは言え、感傷に浸れたのはほんの僅か。一葉のスマートフォンが盛んに着信のアラームを鳴らしたせいで。
「はい、相澤ですが。恋花様、どうしました? …………はい、分かりました。火急的速やかに下山します」
電話でのやり取りを経て一葉の表情が強張っていく。
通話を終え耳からスマホを離すや否や、レギオンリーダーとしての顔を強く出す。
「麓で電車線が寸断され、町中に不審な生物が出没しているそうです。直ちに二人と合流しましょう!」
◇
「あーーーっ、もう! あたしの馬鹿!」
チャーム片手に駆けながら、恋花は自分自身に悪態を吐く。
「どうして、もっと早く気付かなかったんだ!」
藍が訴えていた奇妙なパズルの話。あの話を、あの時ちゃんと聞いていれば、もっと的確な対応を取れていたかもしれない。
暫く山に籠っていたせいで勘が鈍ったか。恋花の頭にそんな自虐が浮かぶ。しかし言い訳になど、なりはしない。
「恋花ぁ、あのパズルがどうかしたの?」
「いやー、パズルの都市伝説っていったら、一つヤバそうなのを思い出してね」
後を付いてくる藍が不安そうに尋ねてきたので、恋花は頭を少しばかり冷やしてから答える。
「ただ、あたしが知ってるのは、パズルを組んでる人間が悪夢を見るってことだけ。その先に何が起きるかまでは分からない。お話はそこで終わってるのよ」
恋花の知る都市伝説の内容は、夢を越えて現実で大きな異変が起きるわけではない。
だが今この町には間違いなく何かが起きようとしている。
元ネタの知識が役に立たない以上、取りあえずは対症療法で事に当たるしかなかった。
町の中を南北に走る国道、その脇を恋花と藍は走っている。
町の中でも外でも、田畑を見つけるのが容易な場所。その中で二人が向かうのは、人家からは離れた国道沿いに広がる田んぼ。その付近で熊を見たという証言が舞い込んできたのだ。
ただの熊が相手なら猟師の出番。しかし、この期に及んで楽観的になれなかった恋花は状況把握と討伐に手を挙げた。
「さてと。この辺りのはずだけど……」
徐々に走る速度を落として、やがてはゆっくりと歩いていく。
片側一車線の道路の端から周りを広く見渡すと、見事に田畑ばかりが視界の中に広がってきた。
こんな状況でさえなければ、長閑な風景だと肩の力を抜けたのだろう。
「くま、くま。くまを探せばいいんだね」
「熊が居るとは限らないよ。正直、何が出てきても驚かない」
隣できょろきょろと周囲を見回す藍に、恋花は軽く忠告をする。
もしも山籠もりの成果が出ているとするならば、事前に怪異の接近を感知できても良いのではないか。そんな虫のいいことを考えたりもした。
だが現実はそうもいかないので、恋花は異常を見逃すまいと神経を研ぎ澄ませる。
「……居る。何か居るよ」
藍の方が先に異常を発見した。
一面に稲の緑が広がる中、一部分だけ黒い箇所があった。
よく見ると、三つの黒い物体が蠢いているようだ。
「恋花、どうする? やっつける?」
「そうね。でも今すぐには撃たない。藍、ここからあっちの方に走っていって」
「川の方? 分かった」
恋花が指差す先には町中に続く小さな川が流れていた。膝すら浸からない浅い川で、川幅もリリィなら容易に飛び越えられるほど狭い。
何者かが
「あたしがチャームで撃ち始めたら、振り返ってぶっ飛ばしてやりなさい。それまではひたすら走って逃げること。いいね?」
「いいよー」
恋花の指示を背に受けつつ、藍が一目散に走り出した。道路から外れ、草地を駆け、小川の畔を目指す。
すると三つの黒い影が反応する。藍の方角に向けて動き出したのだ。四足歩行で、かなりのスピードを出して稲を掻き分けている。
その光景を恋花は息を潜めて見つめる。
藍が小川に近付くにつれ、初めは大きく開いていた影との距離がみるみる縮まっていく。
小川のすぐ手前に到達した時、飛び掛かれば届きそうなほど両者は接近していた。
「よし」
恋花は落ち着いてチャームの照準を合わせた。
隠密の
照準を定める最中に、恋花は黒い影の全貌を目の当たりにする。
それは確かに熊だった。正確には、熊のような姿をした何かと言うべきか。
ブルンツヴィークの引き金が引かれ、白光に輝くレーザーが熊の一体を貫く。
そして次の瞬間、くるりと振り向いた藍がもう一体の熊を巨大なチャームで殴り飛ばす。
「藍っ!」
最後の一体が藍に飛び掛かり馬乗りになったため、恋花は思わず叫んだ。
丸太の如き黒色の巨椀が、仰向けに転がされた小さな体へ振り下ろされる。
普通なら目を背けるであろう光景。しかし恋花は見つめ続ける。
すると次の瞬間、400㎏を超えようかという熊の体が宙に舞っていた。下敷きにしていた藍に蹴り上げられたのだ。
そのまま地面に落下して地響きを鳴らした後、三体目の熊は起き上がる前にレーザーに撃ち抜かれてしまう。
「うーっ、いったーい……」
「はいはい、無事だね」
「背中が泥だらけ!」
立ち上がり膨れっ面で自身の背中を払う藍の傍へ、周辺警戒しながら恋花が近付いていった。
熊らしきモノの死骸は残っておらず、撃破から程なくして掻き消えていた。やはり怪異絡みなのは間違いない。
急かすようで藍には悪いが、あまり悠長にしていられる状況ではなかった。
「恋花、これからどうするの?」
「……今は受け身に徹するしかないよ。あたしたち二人だけじゃ大したことはできないから」
そう言いながら恋花はスマートフォンを取り出した。画面にはこの町の地図が映されている。
「町にあるシェルターは二つ。駅前と、小学校。まだ町全体に避難指示は出てないけど、小学校の方はいつでも駆け込めるよう準備してるみたい」
「らんと恋花で一つずつ守る?」
「初めはこの二か所を巡回して、いよいよヤバくなったら学校の方を守る。二人で両方カバーするのは、不可能よ」
「でも……」
「一葉にもそう伝えてあるから。急いで山を下りてくるでしょ」
突き放した判断。一葉ならば絶対に難色を示すだろう。
しかし現状、恋花には他の手段が取れるとは思えなかった。
そうして二人は再び道路に沿って移動を開始する。
町の方は未だに大きな混乱は起きていないようだった。逆にそれが、見えない存在から背筋を撫でられるかの如き不安となっていた。
この都市伝説の大本・大ボスがさっきの熊程度の怪異だとは思えない。
熊は倒せても、大ボスに対して自分たち二人が通用するのだろうか。千香瑠以外が対抗できるのだろうか。
確かに山籠もりでの修行は辛かったが、期間的には僅かなものだった。
(修行の実感もいまいちだし。出たとこ勝負じゃ危険過ぎるのよ)
端々が痛んだ道路を辿って町に戻る途中、小さな橋に差し掛かった。
橋の下には川。先程の戦闘中にも見かけた小川である。
橋を渡り切ったところで藍が川の上流の方を向く。
つられて恋花も振り向くと、遥か遠方で黒い何かが川を下っている光景を目にしたので、また熊かとチャームを構えた。
だが様子がおかしい。ソレは川を泳ぐように高速で近付いてくるが、この辺りは人の足首に水がかぶる程度の水深しかないのだ。それに対して、黒い何かは人よりも熊よりも大きく見えた。
「さかなー」
藍が呟いた。
距離がぐんぐんと縮まり、恋花もソレのシルエットを認識した。
ソレは黒い魚だった。人を軽々と丸呑みできるサイズの魚。
そんなものが、よく見れば泳ぐというよりも川の上を滑るように迫ってくる。
「確かに魚だけどさあ!」
非常識が過ぎる光景に腹を立てながら、恋花は藍と共に発砲する。
ブルンツヴィークから放たれた幾条ものレーザーが川面に突き刺さり、モンドラゴンの大口径砲が川底の土を耕す。
チャーム二機による弾幕の中、魚は全身を左右にくねらせつつ前進を続けた。
徐々に魚の顔もはっきりと見えてくる。ヤマメか何かだろうか。恋花はそこまで魚類に詳しいわけではない。
「――――っ」
レーザーを突破してきた魚を前にして、恋花は真横へ跳んだ。
案の定魚は泳いでいるのではなく超低空を飛んでいるようで、川から離れて陸上に立つ恋花たち目掛けて飛び掛かってくる。
危なげなくすれ違った恋花だが、すぐにその目は驚愕に染まる。
上下にばっくりと開かれた魚の大口に、藍の体が飲み込まれたのだ。
恋花がすかさず銃口を向け、引き金を慎重に引き絞る。尾びれを狙った一撃は命中したが、魚の動きを止めるには至らない。
遠ざかる魚の後を追う。足元に形成したマギの力場を踏み台に跳躍し、追い縋る。
だが無情にも恋花は徐々に引き離されていった。更には魚が町とは違う方向へ舵を切ったことに気付く。
足を止め、追撃を中止する。
「嘘でしょ……」
一人立ち尽くす恋花は呆然とするのもそこそこに、スマホを取り出し操作する。
ところが待ち望む声は聞こえず、代わりに電子音声の定型文が帰ってくる。
すぐに瑤や千香瑠の方にも掛けてみるが、結果は同じだった。
「……繋がらない。もしかして、外と隔離されたわけ?」
道路を塞がれ電車線を潰され、通信手段を断たれた。
この町で一体何が起きようとしているのか。
元の都市伝説を知る恋花は夏の真昼にもかかわらず、額に冷や汗を滲ませた。